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新庄剛志

新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家など)、地方競馬馬主。愛称は「プリンス」など。元妻はタレントの大河内志保。紺綬褒章受章(2007年)。メジャーリーグベースボール(以下:MLB)のワールドシリーズに初めて出場した日本人選手である(2002年)。2004年よりの北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」であり、表記法をイニシャル以外でのアルファベットとしたのは日本プロ野球(以下:NPB)において初めてである。2001年より2009年までは個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し、アワーソングスクリエイティブ(ケイダッシュグループ)と業務提携してタレント活動等を行う。2008年に株式会社レハサフを設立して2013年の会社閉鎖まで経営する。タレント活動等のマネジメントをレハサフが行っていた期間を経て、2012年はプラファーと、2013年よりはエージェントオフィスタクトとマネジメント契約を結んでいる。2010年頃よりインドネシア・バリ島へ居を移している。福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として長崎県の母親の実家にて誕生。体重は3680グラムあり生後10か月で歩きだす。小学時代に8回も交通事故に遭うが、幸い大怪我は負わずにすむ。しかし中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手であったなら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている。小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属。後にソフトボールを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『キャプテン』との出会いでもある。新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられるほどであった。やがて父親から野球を教わり始める。小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。小学高学年時には家業を手伝い、重い石碑等を持つ作業で体力をつける。小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会でのサヨナラ負けが決定するプレーの判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見たことがないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから少年野球チーム(軟式の学童野球)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生する(5月)。同チームへは後年に、さらに後にプロ入りする古本武尊、当時には既に現役俳優の池松壮亮の二人が同学年として在籍する。キャプテンでエースで4番打者の新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語ったほどである。チームは結成後1か月余りで福岡県大会第3位入賞(出場64チーム)を成しとげる。福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属。当時の監督も新庄の小学時から走力・肩力が桁外れと評すなど実力を認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外す。大会遠征から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている。、高校は父親からの薦めもあり西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し、硬式野球部員として寮生活を送る。同部には2学年先輩として後にプロ入りする石貫宏臣・柴原浩が、2学年後輩として後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍。3年時の、1番・中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会の4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)でサヨナラ安打を記録。決勝の福岡大大濠戦(久留米)ではサイクル安打を達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す。高校時代に全国大会出場はかなわず。同年秋のドラフト会議にて阪神タイガースから5位指名を受ける(外野手として)。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである。新庄がファンであった読売ジャイアンツ(以下:巨人)のスカウトからは「3位までには指名できる」という話をもらっていたこともあり、新庄父子ともに高卒でプロ入りするかどうかを迷い、しばらく検討する(ドラフト指名を受けられなかった場合は、九州産業大学への推薦入学が決定していた)。そして最終的に父親から「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けたことにより決意して入団する。なお新庄を担当した阪神のスカウトは渡辺省三であり、こちらのエピソードも参照。背番号は「63」、守備位置登録は外野手登録と決まる。※ 以降の外国での出来事の日付は現地時間。2006年4月18日、恩師である中村勝広監督が率いるオリックス戦(東京ドーム)2回裏にダン・セラフィニからソロ本塁打しホームインすると、普段とは異なり外野応援席方向へ向かい、脱帽して深々と一礼した。攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。しばらくすると、恒例の本塁打の打法名が「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と発表され、開幕直後にもかかわらず当シーズン限りでの現役引退表明がなされた。7回裏に金子千尋から満塁本塁打すると三たびファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。チームが勝利して受けたヒーローインタビューでは、冒頭からしばし沈黙した後に自らマイクを握り「ええ……今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年……。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」と観衆に改めて宣言した。引退を決意した決め手は開幕戦で観客満員を達成したことであり、早ければその翌日にでも表明するつもりで荒井修光専属広報など一部の球団関係者には事情説明がなされていた。またこの日の表明に踏みきった理由として、東京ドームが球団の前本拠地であり、自身の一軍初出場時の球場でもあることも明かした。翌19日の試合前には、この早い時期に引退表明を行い驚かせた件、また決意を一部にしか伝えていなかった件を現場の人間へ詫びており、トレイ・ヒルマン監督へは「1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」と説明。これに対しチームメイトも理解を示した。概ね以下のような理由を挙げている。動体視力の低下に関しては、2006年の開幕後1週間ほど経った試合から急に投球がかすんで見えだし、特に右投手のカーブと左サイドスロー投手の投球が見えなかったとのこと。この視力低下の件は現役中はチーム関係者へも明かしていなかった。なお2002年頃に原因不明の目の痛みを抱えていたことも、引退後に判明する。当時CM出演契約中であるダイドードリンコ・D-1 COFFEEの「SHINJO引退記念缶」が2006年10月2日より同年12月まで限定発売され、同時に「SHINJO引退記念キャンペーン」も展開される。またゼイヴェルと新庄の所属事務所(当時:剛ゴーエンタープライズ)が業務提携して開いた引退記念グッズショップが同年10月3日より全国数か所を行脚して設置される。現役引退後よりエアブラシアート(エアブラシを使用する絵画制作及びメイクアップ)に取り組み、特に引退後すぐに始めた絵画制作には没頭している。作品数は2009年2月時点で30作を越え、数作品を公式ブログにて公開中で、個展の開催経験もある(#個展を参照)。作品の売却収入もあり、代々の自宅にはアトリエを設置している。2008年11月23日放送の日本テレビ『行列のできる法律相談所 ~有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト~』の主旨に賛同して制作した作品をチャリティーオークションへ出品。賛同理由として、前年に出演した日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の企画にてカンボジアへ行き、現地住民の厳しい生活状況を目の当たりにする経験があった。出品作品は「青空・夕空・夜空」を描いたものでタイトル「Shinjo is Shinjo」と名付け、北海道在住の日本ハムファンの人物により300万円で落札された。エアブラシをメイクアップに応用した新技法(エアブラシメイク、こちらを参照)にも取り組んでおり、アメリカ・ハリウッドで生まれた同技法の日本での普及を目指す活動のプロデュースを手掛けている。エアブラシメイクの複合ビル「HOLLYWOOD AIR TOKYO」(東京都渋谷区)の2009年のオープニングセレモニーではエアブラシによるテープカットを行った。前述の絵画制作に加え、2011年より移住先のバリ島でモトクロス競技の練習を開始してプロレーサーを目指している。郊外の自宅近所に練習場(日本円にして1000万円規模)を開設して、地元住民へも無料開放している。2012年には日本のスポーツランドSUGOで成田亮と共に走行練習を実施した。阪神で同僚時のマーク・ジョンソンは新庄について「No.5にはカリスマがある。彼が打つと甲子園は世界一熱狂的なボールパークになる」と評した(No.5は当時の背番号)。MLB時代頃から「野球を楽しむ」といった発言が目立ちはじめ、日本ハム移籍以降は同僚へも「楽しもう」と声をかけ、試合中でさえ笑顔をみせることがあった。渡米した2001年以降には、その楽しそうにプレーする姿を指した愛称「SHINJOY(シンジョイ)」が浸透した。マスコミに対しては、自身から取材陣の方へ出向いて朗らかに話すとストレスはたまらないということをアメリカで学び、その独特の喋り口は「新庄節」と称され、2004年のユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた。また現役引退宣言で沸いた2006年の同賞には「SHINJO」「新庄劇場」がそれぞれノミネートされた。開幕早々に引退宣言して日本一を経験できたラストシーズンについて自身は「(強運を)もってるわ、俺。本当にこの漫画みたいなストーリー、出来すぎてません、これ? 今後俺、体に気をつけたいと思います」と総括した。ジャイアンツに所属した2002年の契約には400打席達成で数十万ドルのインセンティブがあったが、達成まで残り6打席となっていたシーズン最終戦試合前の打順6番でのスタメン出場が決定後の時間帯にダスティ・ベイカー監督より詰め寄られ「なぜインセンティブの件を黙っていたのか。申告していれば達成のための配慮をし、今日だって打順1番に入れたのに」との旨を問われたことがある。これに対し新庄は「チームがプレーオフ進出を争っていたので、個人的なことで迷惑をかけたくはなかった」との旨で返答した。この年のプレーオフ進出は前試合で決まったため、消化試合となるのはこの最終戦のみであり、最終的にインセンティブ達成には2打席およばなかった。日本ハム時代の新庄について当時のヘッドコーチ・白井一幸は「チームの勝利最優先の精神を徹底して貫き、自分が三振してもチームが勝てば素直に喜べる選手だった。当初は単なる目立ちたがり屋なのではないかと思っていたが実際は全く違い、常にチームの勝利、ファンに喜んでもらえることを最優先にしていた」と評している。独自に考案したファンサービスも積極的に行った。ヒーローインタビューなどでの質問に対して「そうですね」などと前置きしてから返答すると話が間延びしてしまうという持論から、自身は即答を心掛け、日本ハムでは一部の同僚へも即答を奨めた。また「観客」という言葉は球場以外で観ている人間のことは指さないため「ファン」という言葉を使うこと、日本ハム時代には本拠地を札幌ではなく「北海道」と言うことに拘り、マスコミに対してもそうするよう指導していた。日本ハム時代には試合で活躍してお立ち台の依頼を受けても、他に活躍をした後輩へ譲ることが幾度かあった。また自身が赤色をトレードカラー(後述)とするように、後輩たちへも各自の色を持つよう奨めたり、かぶりものパフォーマンスに同僚も誘って実行した。同僚も巻き込んでファンサービスに力を注ぐ狙いは、自身以外へも興味を持ってもらい新たなファン層を開拓するきっかけづくりにあり、後輩の森本稀哲は新庄の引退後もその役割を引き継いでいる。同じく後輩の稲葉篤紀も新庄の姿勢に学び、プレーとファンサービスの切り替えができるようになったと語る。選手生活晩年には選手としてのファッションに関する話題が多く報じられたが、それ以前からファッション的なことに限らず、球界に前例のない行動が目立った。引退を前にした現役最終年には「ファンのために選手個々がいろいろなことを最初にやる勇気を持ってほしい」と球界全体に訴え、これからは選手のファッション性も向上しないと集客できなくなってしまうと危惧した(「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。こういった派手で破天荒な言動が日本ハム移籍後には「新庄劇場」と称されて目立ったが、試合前パフォーマンスなどの事前に各方面へ了解を取りつけるなど、周囲に対する配慮もあった。漫画家の水島新司は「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している。幼少期から努力している姿を人には見せなかったと新庄の父親は語り、プロ入り後も同僚からの「個人練習している姿を見つかるとやめてしまう」といった証言がある。走塁時の瞬発的なスピードを維持するため、あえて長距離走の訓練は避けていた。「ジーンズがはけなくなるから」と阪神時代途中までは下半身強化をしていなかったが、怪我防止のために考えを改め鍛えてみると、下半身は太らない体質であると判ったという。MLBで太股に肉離れを起こして以降は、故障箇所をカバーする筋肉をつけるため、ジーンズの着用も止めてハードな筋力トレーニングを続けており、日本ハム時代の同僚の岩本勉は、新庄が鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける姿を目撃した時には、圧倒されて声をかけられなかったと語る。幼い頃から相撲大会で負けて泣いた翌日には再挑戦し優勝するなど負けん気の強さを持っており、阪神時代晩年以降は敗戦後のコメントを例え自身が活躍していても控えていた。反面、幼少時の得意のかけっこでは足の遅い友達を待ってゴールし、先生に「この子はタイムが計れない」と言わしめたというなどのエピソードがあり、現役時代には幾度か自身の代わりに若手選手の抜擢を監督へ進言したことがある(2003年オープン戦にメッツ同僚を、2006年リーグ戦に森本稀哲を〈「」参照〉、2006年日本シリーズに紺田敏正をなど)。裕福ではない家庭に育ち、高校時代に冬場の練習での寒さにたまりかねて革製手袋が欲しいと言い、初めて親に物をねだると、父親は自分の手が荒れるのも構わず仕事用の軍手を買うための予算を使い購入してくれた。新庄は幼い頃から将来の親孝行を誓っていたという。幼い頃から父親より「不言実行」の教えを受けてきたが、自身は目標ごとについては「有言実行」を目指す考えである。阪神時代から時々の目標を積極的に公言し、MLB初打席初安打や2004年のオールスターゲームMVP獲得も事前のインタビューで予告していた。その動機は、目標を公言する事で実現できなければ恥ずかしいという感情をモチベーションにすると頑張れる性格であると自己分析するからである。現役引退後も目標を掲げる発言は目立つ。好きな色は「赤」。一軍定着と共にトレードカラーとして定着し、NPB在籍時はリストバンドなどで主に赤色のものを着用した。「赤=新庄剛志」で覚えてもらおうとプロ入り時から決めていて、一軍デビュー時には周囲からの「赤は派手すぎる」という声もあったが、活躍出来ないことには恥ずかしい派手な色を着用して自身を追い込みたかったという。好きな数字は「1」。シンプルで格好いいからという。1992年オフに球団より背番号63からの変更を打診された際には「1」、もしくは憧れを抱くダリル・ストロベリーや目標とするランディ・バースが着用した「44」を希望したが、両方とも空き番ではなかった。変更となった新背番号5に愛着を持ち、以降三度の移籍の際にも同番を背負い、その後 日本ハム移籍時に念願の「1」へ変更した。また同時に登録名はNPB初となるイニシャル以外でのアルファベット表記「SHINJO」とした。スコアボードの選手名表記が縦書きの球場ではアルファベットが縦に綴られて表記された。既に従来の漢字表記での知名度が高かったため、新聞などで漢字表記をする例が多かったほか、「SHINJO効果」や「新庄劇場」などのフレーズでもアルファベット・漢字の表記が混在した。引退した翌2007年に、名前の読みが同じ「ツヨシ」であり親交も深い西岡剛が登録名を「TSUYOSHI」へ変更した際には事前に相談を受けた。MLB在籍時には自身の時間や精神的余裕を確保するためにも専属通訳を通して取材を受け、チームメイト等とは大きなジェスチャーを交えコミュニケーションをとっていた。また「」の黒人選手とのエピソードも参照。1992年の「亀新フィーバー」の際の状況については、経歴の節のこちらを参照。特に2003年オフの日本ハム入団以降に、新庄が地元・北海道や一軍春季キャンプ地・沖縄県名護市をはじめとする各地へもたらした経済効果についてが頻繁に報じられ、「SHINJO効果」(「SHINJOフィーバー」とも)と称された。2006年のシーズン限りでの現役引退を表明後の9月15日に、引退後の2007年夏の参院選への出馬要請を自民党と民主党より受けていることが判明するが、出馬はしなかった。1995年に所属する阪神の地元で起きた阪神・淡路大震災の際に、球団選手会副会長として同僚と共にの支援募金活動などを行った。2001年に所属するメッツの地元をはじめとする地域で起きたアメリカ同時多発テロ事件の際には、同僚と共にの支援物資運搬などを行った。2004年に起きた新潟県中越地震の際には、出演したラジオ番組イベントや自身の写真展での支援募金活動で集まった寄付金とポケットマネーを合わせた義援金と、クリスマスイヴ前には小型ケーキ約2000個を被災地へ贈るなどした。同じく2004年に起きたインドネシア・スマトラ島沖地震の被災地へは、翌年の自身の本塁打数に応じた義援金を贈るなどした。日本ハムに入団した2004年より引退した2006年まで自費で、本拠地・札幌ドームでの主催試合の外野左翼席に野球少年達などを無料招待する「SHINJOシート」を毎試合126席ずつ用意し、バックスクリーン上方の看板スペースの右翼側2枚分に個人広告看板を連ねて掲示していた。この看板はSHINJOシートから見えやすい位置にあり、2枚共に同じデザイン(向かって右側は拡大されたもの)で、自身の個人マークなどが描かれていた。なお現役最終の2006年のみ向かって右側の1枚のデザインを、自身のイラスト(#登場する作品を参照)が喋る余白のふきだしが描かれたものに新調し、観客満員達成時には余白部分へメッセージを入れると宣言。そして満員となった開幕戦の翌日以降は「札幌ドーム43,000ファン ヤバい 感動だぜっ!!」と書き入れられていた。また2005年より2006年までは準本拠地・東京ドームでの主催試合にもSHINJOシートを用意していた。2005年8月、母校の西日本短期大学附属高等学校野球部が前年の夏の甲子園に出場したことを称えマイクロバス(車種はトヨタ・コースター)を寄贈し、「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった。2006年6月に達成したNPB通算200本塁打を記念してメモリアルバットが製作され、その販売収益金1000万円を「北海道の青少年のスポーツ振興のため」として道へ寄付した。寄付金は道内スポーツ少年団の競技用具購入のために活用され、この件について道内の子供達から感謝の手紙を、高橋はるみ知事から感謝状を受け取り、翌年に紺綬褒章を受章した。阪神時代の一軍デビュー後に、山形県新庄市・奈良県北葛城郡新庄町(当時)・岡山県真庭郡新庄村が、新庄剛志の人気にあやかり村おこしの一環として友好自治体共同事業協議会「新庄会」を創設。その後、剛志を1993年11月より現役引退まで公式に応援した。同会は1994年に創設記念の阪神公式戦「新庄ナイター」(甲子園)を開催し(参照)、以降も球場での応援活動も行った。剛志も現地への訪問歴があり、新庄村は1998年に剛志が訪村してクリスマスイベントなどへ参加した12月13日を「SHINJYO DAY」と称して、翌年以降約10年間続ける村役場などでのクリスマスイルミネーションの点灯日を同日としていた。プロ入り時の二軍打撃コーチであり、阪神で長年に渡り指導を受けた柏原純一を師匠と慕う。二軍時代には夜遅くまでの指導など、強く後押しを受ける。一軍での初本塁打やMLB移籍の際にも真っ先に報告したという。新庄の父親は著書で柏原の指導法について「見守り続けた上で、わかりやすい言葉で端的に伝える」やり方が、自身の教育方針とも合致して息子と相性良かったとの旨の記述をしている。新庄は1995年オフに柏原が阪神から退団したことをきっかけに、自身もトレードを希望した(詳細)。阪神で最後に仕えた野村克也監督は新庄の守備・走塁に関しては、敵将の時代から一流と評していた。打撃に関しても潜在能力は認めていて、就任1年目から度々スタメン4番に据え、初抜擢の際には「地位が人を育てる」と理由を説明した。翌2000年に新庄は打撃の主要三部門などで過去最高の成績を残し、著書に「ウマが合った。選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」「監督の言葉で力を出すことができた」などと記した。また「」および「」のエピソードも参照。阪神でのプロ生活最初の監督であった中村勝広は、当時の新庄を褒めること主体で指導していたと振り返る。また中村は新庄のMLB1年目(2001年)の活躍の要因について、当時のメッツ・ボビー・バレンタイン監督の「褒めちぎって、乗せて、力を発揮させる」指導法が大きかったと想像すると語った。2003年オフの新庄のNPB復帰の際に、オリックス・ゼネラルマネージャーの中村と、実際にオファーを出したロッテの新監督バレンタインは、獲得に興味があったと語っている。また移籍先となった日本ハムのトレイ・ヒルマン監督は、新庄と前所属メッツ時代(2003年)のアート・ハウ監督との確執が報道されていた件について独自に情報収集を行い、新庄の個性を尊重した上での指導法で接した。阪神時代の同学年の広沢好輝とは親友で、阪神時代から日本ハム時代まで自主トレーニング等も共にした。広沢は引退後に『週刊ベースボール』よりMLB1年目の新庄付特派員として派遣された。後輩の坪井智哉とは2球団で同僚となり、日本ハム移籍を決断するにあたり、先に阪神から移籍していた坪井の存在が大きかったと語る。移籍後はかぶりものパフォーマンスも共に行った。阪神時代のマーク・ジョンソンやトニー・タラスコ、日本ハムではフェルナンド・セギノールなど、来日する外国人選手とすぐに打ち解けあい、来日後の早い段階で放出される阪神の外国人選手を擁護する発言もしている。ジョンソン、タラスコとは2001年メッツのスプリングトレーニングで再会した。なおジョンソンとは同年シーズンを共に戦い、NPB/MLB両方でクリーンナップを組んだ経験のある間柄となる。また同年の背番号5は前年のジョンソンより譲られた番号であり、翌年以降も互いの移籍や引退により、二人は2000年 - 2003年の期間に一年交代でメッツの「5」を背負っている。ジャイアンツへの入団時、中堅を守る予定の新庄は左翼手のバリー・ボンズから「オレはホームランを打つから、守備はおまえに任せるよ」と伝えられた。誰もが一歩距離をとってしまう存在であったボンズとの親交を深め、日本ハムでの3年間のホームゲーム打席登場曲として、同僚時のボンズが起用していた『』(ドクター・ドレー)を起用している。日本ハム時代の後輩の森本稀哲と師弟関係を築いている。新庄の日本ハム入団が決まった頃の森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩み、同じ外野のスター選手の加入を快く思っていなかったが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わるうちに「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたと語る。また、かぶりものパフォーマンスも共に行った。新庄は現役最後の日に自身の背番号1の森本への継承を希望し、現実となった。また「」および2006年の日本一決定時のエピソードも参照。日本ハム時代の同学年の岩本勉とは、チームを北海道に定着させるという方向性が一致したこともあり意気投合。タッグを組んでキャンペーンに精を出すなど友好を深めた。日本ハム時代の後輩の小笠原道大とは「ウマが合わない」などと報じられがちであったが、2006年のリーグ優勝決定後の合同記者会見にて、小笠原は「日本シリーズを制覇して監督はもちろん、ツーさんを胴上げしたい」と発言。これを聞いた新庄は「感無量」と語った。ドラフト時に九州地区を担当した渡辺省三スカウトは新庄の気持ちが前へ出る性格も高く評価していたが、当初阪神としては上位指名を投手中心と決めていたため、他球団から上位指名されると予想する新庄の指名をほぼ諦めていた。このためヤクルトを除く11球団スカウトが新庄家を訪問した中で、渡辺は比較的簡略に挨拶を済ませていて、しかも新庄本人と父親は留守であった。よって新庄は渡辺と指名後に初めて対面したが好印象を抱いたという。入団後も渡辺は病気がちだった新庄の父親のことを気に掛け、新庄は1995年の引退騒動の際にも渡辺から電話をうけ「親父さんは元気か。心配掛けるなよ」とだけ告げられて感激したという。1998年8月31日に渡辺が神戸市内のビル屋上から謎の転落死を遂げた直後の試合となる翌9月1日・ヤクルト戦(甲子園)7回裏の2点を追い掛ける攻撃で、新庄は川崎憲次郎から1点差と迫る本塁打を放った。善戦するも敗戦の試合後に新庄は「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。どうしても勝ちたかった」と悔やんだ。1992年に新庄から得意としていたパームボールを甲子園左翼席へサヨナラ本塁打(参照)された広島・大野豊は、その打たれ方のタイミングや飛距離を受けて、それを機にパームを投げるのを封印した。新庄は1997年のオールスターゲームにて応援ボイコットなどを受けた試合後にベンチで落ち込んでいた際、大野から「若いもんが、そんな暗い顔をしとったらいかん」と励まされたことに感激し、後に「他のチームの人から、あんな優しい言葉を掛けてもらったのは初めてでした」と振り返った。佐々木主浩とは阪神時代のオフに佐々木のラジオ番組へゲスト出演するなど親交があり、1995年の対戦にて放った本塁打性の打球が応援旗により阻まれた件について、もし妨害がなければ本塁打であったか否かを言い合うという。2006年限りでの引退を発表後の9月10日・オリックス戦(京セラドーム大阪)で、相手チームの清原和博から贈られた労いのメッセージ入りのバッティンググローブを着用し、現役最後となる本塁打を放った。その後2008年に引退試合を迎える清原に対して、自身が現役最後のオールスターゲームで着用したバッティンググローブを贈った。2006年の日本シリーズ(参照)での現役最後の打席は、全3球ストレート勝負を受けての空振り三振であった。この時 涙を流しながら打席に立つ自身に対して、阪神時代から長年に渡り対戦してきた中日・谷繁元信捕手が1球目の見逃し後に「泣くな、真っ直ぐいくぞ」と言ってくれたように思ったという。2000年に自身初のホームゲーム打席登場曲として福山雅治の曲を起用し、これに対して福山は自身のコンサートでステージのバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し感謝の意を表した。そして新庄がこの年のコンサート前の楽屋に福山を訪ねたのを機に親しい間柄となった。また日本ハム時代の登場曲にも福山の曲を起用した(#登場曲を参照)。阪神時代初期にヴェルサーチの服などを愛用。幼い頃から西崎幸広(当時:日本ハム)のスーツ姿をテレビで観て同ブランドに憧れていたという。MLB - 日本ハム時代にはドルチェ&ガッバーナの服などを愛用した。下半身の下着は着用済みのものを再び着用することは少ないという。球場においてもベンチの汗臭さにたまりかねて、タオルやリストバンドに香水をつけていた。引退後には香水の類の商品開発にも携わった(#プロデュース商品を参照)。染髪を好み、緑色や金色に染めたことも。帽子を被って乱れた髪型は見せたくないとの理由から、球場ではベンチにおいても常に帽子を着用している。日本ハムが移転した2004年に北海道内の理髪店で新庄のような髪型への注文が頻発したのを機に、理容組合北海道日本ハムファイターズ後援会が球団とコラボして、2007年より毎年の最新ヘアデザイン「ファイターズスタイル」のモデルを若手選手の中より選出する企画が始まった。引退後にアデランスのCMに出演する際には「出演者3人の中でアデランスをしているのは誰?」というクイズ形式のCM内容の正解役となるため丸坊主にした。阪神時代の打撃時に食いしばり欠けた歯が痛くて集中力が低下し、食事も満足に出来ない時もあったため、また歯の黒ずみを嫌い、約500万円かけて真っ白い歯(歯冠補綴物)に総入れ替えした。歯に関する一般アンケート調査において、オリコン調査「歯がキレイだと思う有名人」男性部門で初回2006年より3年連続第1位に選ばれるなどした。自動車好きであり、阪神時代の契約更改へ訪れる際に運転してくる車種を頻繁に替えるため、自動車専門誌記者までが取材するほど知られるところとなった。1993年:ランボルギーニ・カウンタック、1994年:ポルシェ、1995年:ランボルギーニ・チータ、1996年:メルセデス・ベンツなどである。MLB移籍決定後には所有するフェラーリをオークションにかけ、「僕のフェラーリ売ります」というCMにも出演した。ひどい甲殻類アレルギーのため、エビやカニが全く食べられず、エビを主原料とするスナック菓子でも無理だという。少年時代から少食である。大の甘党で一番の好物は母親手製の黄粉餅であり、市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べるという。フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした「新・食わず嫌い王決定戦」』に過去2回出演した際に告白した嫌いな料理は、桃の缶詰(果物の缶詰が苦手で桃自体は好む)、おはぎ(粒餡が大の苦手)。2004年1月2日放送のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』に解答者として出演。スタジオでの応援として坪井智哉、ライフライン(テレフォン)の待機として山田勝彦・岩本勉・伊達昌司・木元邦之の同僚5名も出演した。ライフラインを使い果たし解答に迷った際には、鉛筆(各面に選択肢を記入した)を転がして上となった面の選択肢を選ぶという方法をとり、全15問正解し賞金1000万円を獲得。この賞金を2004年分の札幌ドーム・個人広告看板設置費用の一部に使用した。2009年11月1日、フジテレビ『BASEBALL SPECIAL 2009〜野球道〜 日本シリーズ 北海道日本ハムVS巨人第2戦』(札幌ドーム)の中継にて、自身初の野球解説を清原和博と共に担当。冒頭の挨拶にて、清原と一緒だから解説依頼を受けたこと、今回が自身最初で最後の解説であることを告白した。試合中は「(自身の引退後にプロ入りした)巨人・坂本勇人を知らない」「いくら言っても生で観ないと分からない」と、解説よりも日本ハム選手との交流エピソードを主に話した。新庄という姓を文字ったキャッチコピーが使われたことがあり、“新庄式 = 新常識”(日本ハム「モーニングサーブ」)、現役引退した翌年明けに"イッシンジョーの都合でデューダしました”(一身上。インテリジェンス「デューダ」)である。大塚製薬「オロナミンCドリンク」CMの2004年からの上戸彩主演バージョンの初代相手役として出演。キャッチコピーのセリフは、上戸「元気ハツラツぅ?」に対し、新庄「OF COURSE!」。新庄が2004年のオールスターゲームでのヒーローインタビューにて最後を締めたセリフは、上戸の「元気ハツラツぅ?」であった(当時は既にこの二人のバージョンは放送終了していた)。この共演に関連する翌年のエピソードとして「新庄劇場#始球式」を参照。アメリカ映画2作品の日本公開のCM出演経験もあり、後述する。2004年11月、『ナショナル・トレジャー』のロサンゼルスでのプレミア試写会にて、プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーや主演のニコラス・ケイジらと親交を深めた。その縁で同作品の日本公開(翌年5月)の宣伝プロデューサーを務め、テレビCM企画および出演、新聞広告用のキャッチコピー製作、イベント参加など宣伝部門全般を担当した。2007年にはブラッカイマー制作3作品『デジャヴ』(CM出演)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』、『ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記』の日本公開応援プロジェクトの総合プロデューサーを務めた。他には2003年11月のブラッカイマー作品『バッドボーイズ2バッド』の日本公開特別試写会トークショーにて、日本ハム入団を非公式に発表した。またブラッカイマー作品以外では、2005年の『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』日本公開記念イベントの一環として、5月の公式戦始球式に現役選手として登板した(「新庄劇場#始球式」を参照)。出典:1993年、2001年 ※掲載されていない情報については個別に出典を付けている。守備において、NPB・リーグ外野手のレンジファクター(RF/G)年間1位を3回(1993年、1998年、2004年)、2位を4回(1994年、1996年、2000年、2006年)記録。MLBでは2002年にリーグ外野手および中堅手の同指標(RF/9)1位を、リーグ中堅手のTotal Zone Runs(TZR)2位を記録。外野守備機会でNPB/MLB通算100補殺以上を記録している。受賞歴としては、NPBのゴールデングラブ賞を受賞資格(チーム試合数の2分の1以上を同じ守備位置で出場)を得た年は、1995年以外の全ての年に受賞している(外野手部門を10回)。外野守備に関して本人が引退後のバラエティテレビ番組出演時に証言したところによると、1997年9月27日ヤクルト戦(神宮)と推定される試合において、飛球に対し故意にスタートを遅らせて刺殺しなかった経験がある。その動機は、早く負けて帰り遊びたかったからであるという。打撃において、年間での打率3割や30本塁打に到達した経験はない。生涯成績ではNPB通算200本塁打、NPB/MLB通算1500本安打といった節目の記録に到達している。タイトル争いの経験としては、阪神時代2000年の最多勝利打点(特別賞)を1回差で逃している。走塁において、阪神時代に年間のリーグ最多三塁打数を2回(1994年、1999年)記録している。年間盗塁数は一桁台の年が殆どであるが、阪神時代に年間のチーム最多盗塁数を3回(1993年、1997年、2000年)記録している。プロ入り前より外野手であったが、1年目の1990年シーズン中に内野の遊撃手へ転向し、一軍デビュー後のコンバート歴は、1991年・遊撃手→1992年・三塁手→遊撃手→中堅手定着である(1993年の開幕前の一時期にのみ再び遊撃へ移る〈後述〉)。なお守備位置登録は1992年 - 1993年が内野手登録であり、それ以外の年は外野手登録である。他多数※ 以下は日本人選手歴代初記録。他阪神時代のユニフォームの背ネームの綴りは「SHINJYO」であったが、渡米以降「SHINJO」に修正された。他他出典:他多数出典:他「亀新フィーバー」と称された1992年に15件以上の新庄への出演依頼を阪神球団は受けるも、全ての依頼のうちのほとんどを占める民間企業からの依頼については亀山努へのものと共に「野球への専念」を理由に辞退する。他出典:※ CM出演(上記)していないものを記載。他他他他他他

出典:wikipedia

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