野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日 - 2010年10月30日)は、日本の声優、俳優、ナレーター、演出家。東京府(現:東京都)出身。オフィスPAC元代表。身長167cm、体重52kg。血液型はAB型。星座はやぎ座。父は作家の陸直次郎、長男は俳優の野沢聡、姪はタレントの野沢直子。本名は野沢 那智(のざわ やすとも)。数多の洋画吹替え・アニメ作品で声の出演、またラジオDJ・ナレーターなどを手がける。役者、舞台プロデュース、舞台演出でも活躍。本名は、同表記で「のざわ やすとも」。公私ともに正しい名前を呼ばれたことが無く、誤った呼び方がそのまま芸名として定着した。中学生の頃、家の近くにあった「明治座」という芝居劇場へ毎日のように通う。ただし見ていたのは役者ではなく舞台装置で、明治座から帰るとみかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んでいた。最初から役者をやりたかったわけではなく、将来は舞台美術家になりたいと思っていた。その後、國學院大學政経学部に進む。大学3年生の頃からプロ劇団に出入りするようになり、大道具などの仕事を手伝わせてもらうようになる。ところが、その劇団の舞台美術家から「お前絵が下手だな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ」と言われてしまう。野沢はそれでも芝居関係の仕事がやりたかったため、今度は舞台演出家を目指すようになる。大学を中退し、劇団七曜会に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に会った途端、「演出家希望?とりあえず役者やれ!」と言われ、いきなり舞台に出ることになる。それから3年程、七曜会で役者を続けることになった。なお、七曜会時代の先輩には肝付兼太、青野武らがいる。また、当時誕生したばかりだった洋画の吹き替えのアルバイトをこなすようになった。俳優間では「俳優として、自分のオリジナリティを捨てている」と見下されていたが、野沢は「当時はテレビドラマも生放送だから、ドラマの仕事が来ると稽古やリハーサルで一週間は拘束される。でも、それじゃ舞台のための稽古ができない。吹き替えは一定期間で終わるから、時間的に効率のいいアルバイトだった。役者を目指しているからには、稽古時間が欲しいじゃないですか。それに、一応セリフを喋る仕事だから、まったく関係ない業種のアルバイトより、吹き替えのほうが勉強になりますからね。僕は演技のデッサンとして面白いなと思ったし、実際に収入もなかった」という理由で積極的にやったという。劇団七曜会を退団後、野沢は役者仲間を集めて「劇団城」を立ち上げた。初めて演出を担当するが、難しい演目ばかりやっていたため、客は入ってこなかった。そのため、金はかかるとたちまち運営に行き詰ってしまい、劇団は分裂。製作の責任者であった野沢は3年間で370万円(現在の価値で2000万円ほど)もの借金を抱え込んでしまった。アパートを引き払い、友達の家を転々としているような生活で、15円のコッペパンで「今日は食べたぞ!」と満足していたほどの赤貧生活だった。当時の生活について野沢は「少しも辛くなかったのは、芝居が好きっていうのもあるけど、日本中が貧乏だったからでしょうね」と振り返っている。借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事がないですか」と聞いたら、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われるが、野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかった。しかし一週間後また偶然八奈見と出くわすと「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われ、四ツ谷にあるプロダクションに連れていかれるが、そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」と見てみると「東京俳優生活協同組合」だったという。このような経緯から事務所の熱心な売り込みもあって、野沢は声の仕事を始めた。テレビ普及が本格化した高度経済成長時代のテレビドラマ黎明期に、人手不足からテレビの仕事に手伝いで呼ばれ参加したところ、その仕事は演出などのスタッフではなく演じる方=俳優の端役(性犯罪者役)であった。「こんなの親に見せられない」と困惑した野沢が、「人目に触れず出来る仕事はないか」と職を探しながらも「そんなコソドロみたいな仕事はない」と返され、渋々いくつかの映像出演や舞台出演を重ねた後、次に引き込まれていったもう1つの人手不足の現場がアフレコの世界であった。野沢によれば「アテレコで若い男の役といえば野沢那智」という感じで、次々と仕事が回ってきて、1日3本こなしたこともあったとのこと。1年半アフレコの仕事をこなし、借金が半分になったため、そろそろ役者を辞めようと思い始めた。その時、「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった。気楽にオーディションを受けたが、既にイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役は愛川欽也に決まっていたのが、何故か配役を野沢に変更された。野沢が知人から聞いたところによれば、ディレクターが野沢の出演している番組を偶然見て「誰だ?この女みたいな芝居する奴は」と注目し、配役を決定したという。また、『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%くらいを取る大当たりになったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと。このような経緯で劇団の借金を返済するため声優業を開始して、次第に人気を獲得していった野沢だが、最終的には自分の劇団を復活させ演出家としても活動する。また数多くの吹き替えやアニメに多く出演したり、バラエティなどでナレーションを担当した。TBSラジオの深夜ラジオ番組『パックインミュージック』でパーソナリティとして白石冬美とコンビを組み、文化放送など局を移しても2人で「那智チャコ」の愛称でラジオ番組のパーソナリティ・コンビを務めた。1963年に、劇団薔薇座を設立し、プロデュースと演出を担当。ストレートプレイ、ミュージカルの上演に力を注いだ。1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞している。2003年にオフィスPACを設立し、付属養成所のパフォーミング・アート・センターにおいて声優・ミュージカルタレント・俳優を目指す人材を育成。この学校は略称、PAC(パック)と呼ばれる。設立当初は代表取締役として在籍し、声優としては賢プロダクションに所属を続けていたが、2008年5月頃に賢プロダクションを退所し、事実上オフィスPACへ移籍した。2008年第2回声優アワード功労賞を受賞。2008年、『コブラ』がOVAとして復活。TVアニメ『スペースコブラ』でコブラを演じた野沢が再びコブラ役に起用された。野沢本人も声優アワードにまつわるインタビューなどにおいて「今年はコブラだ!」と気合と意気込みをアピールしている。2009年、この頃から次第に体調を崩し始める。2010年、7月頃までは指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺がんを患っていた事が判明し、8月から入院。抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒達に囲まれながら、10月30日午後3時36分、肺がんのため死去。。2011年2月14日にお別れの会が行われ、声優仲間の山寺宏一や羽佐間道夫をはじめとした580人が参列した。祭壇には野沢が愛用していた物や舞台演出した台本、息子の贈り物などが飾られた。弔辞を読んだのは野沢とTBSラジオで15年間(在京3局でのべ25年間)コンビを組んだ白石冬美で「どこも痛くなくなった今、空の上から見守ってください」と別れを惜しんだ。2011年3月5日に行われた、第五回声優アワードで特別功労賞が贈られた。声優アワードの生前、没後双方での受賞は初となる。『スター・ツアーズ』のC-3POの声は、野沢の没後も生前に収録した音声が使用されていたが、に伴い岩崎ひろしに交替した。主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じる。声質からアニメやゲーム作品においては、『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』(ヴィクセン)や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(ジョン・クローズ)のような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』(ナレーター(実況))のような熱血漢、洋画吹替ではアラン・ドロンなどの二枚目役、また雰囲気を変えた三枚目もこなす。本人によれば「狂人が得意分野」とのことで、「キレるのはそう難しくないんです」と語ったこともある。『悟空の大冒険』で担当した三蔵法師がいわゆる「おかま」になったのはアドリブからである。クリストファー・ウォーケンやデニス・ホッパーといった狂気がかった役の吹替えが多いが、本人はジェラール・フィリップとトム・ハンクス全出演作を吹替えるという夢を持っていた。前者はナレーションを担当した『星の王子さま(CD-ROM版)』で一部実現したが後者は一本も担当したことがなかった。笑いの要素が好きで演技にも感動させられると語っていた。1969年頃、アラン・ドロンの吹替を初めて担当。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。野沢がドロン担当声優として有名なため、演劇・映画の関係者や評論家、役者達のコラムや寄稿において「アラン・ドロンから連絡を貰った」「稽古場でアラン・ドロンがソバを食べていた」等、冗談でアラン・ドロン扱いされることも多い。また、ドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にも参加している。アラン・ドロン自身の声は、野沢が演じるものより低い声である。ディレクターも交えて(冗談まじりに)ドロンに似せた低音で演じてみた時、その声で日本語を話すと重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わないことがわかった。そこで「ドロンの顔つきや体つきからイメージされる、甘さのある柔らかい雰囲気で」との方向性で声のトーンを決めていったという。「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う」と、日本語とフランス語の聴感の違いも感じさせる回答を野沢は述べている。また、ドロンの顔と体のイメージから、演技としても大芝居を避けて「さらりと、さざ波のような感じで声を出そう」という演技方針を固めていったが、「さざ波って言っても難しいんです」とも述べて、二枚目を吹き替える難しさを振り返った。野沢は「二枚目という端正な魅力を生かすには、汚い日本語では絶対に成立しない。正確にいうと、アラン・ドロンを演じているわけじゃない。彼が映画の中で役を通して表現したかったことを、日本語で表現している」とインタビューで話している。役作りについては「3日前からドロンになれてないと収録できない」と話しており、ドロンが演じた多くの役のような孤独で人間関係には器用でない役を吹き替える際は、当日できるだけ収録本番まで人に会わないように現場に入り、挨拶もほとんどしないという。いわば担当する人物の人間関係そのままに振る舞うという行動で「孤独な役をやるんなら、世間話してると物語に入れないんです」と話している。野沢によると、オードリー・ヘプバーンの吹替で知られる池田昌子も同様の役作りをしており、特に野沢と池田が会話の少ない役で共演する時は、本番以外ではほとんど会話しないという。野沢にとっては、収録の際のマイクに対する立ち方も役作りのひとつになっており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録するという。その位置は「人と関わらない立ち位置」だといい、「いわば壁を作ってる感じで…相手役の台詞は聞きますが、相手役は見ないし、体も寄せてません。見ながらやると関わってしまうので…」という状態で演技することが多い。作品映像を見ながら演技する吹替現場において「その位置だと、映像がいちばん遠くなるので合理的じゃないです。でも、そういう他人と関わらない位置でやらないと、やり辛い」と孤独な役を吹き替える際の野沢流の“作法”を明かしている。ドロン若き日の代表作『太陽がいっぱい』について、野沢は作品自体、またドロンの演技についても高く評価している。この作品はテレビ放映の機会も多く、テレビ放映用に現在まで少なくとも5ヴァージョンの吹替が製作され、そのうち野沢は3度ドロンを吹き替えている。2008年にこの映画のスペシャル・エディションDVDが製作され、音声特典として“野沢ドロン”の吹替収録が決定、野沢は収録の候補になった1972年収録版と1984年収録版を久々に見直した。1972年版について野沢は「出だしのころの台詞なんて、気恥ずかしい出来です」と当時30代だった自分の演技の未熟さを評し、十年以上を経た84年版での演技のほうが納得できると振り返ったが、72年版で共演のモーリス・ロネを担当した堀勝之祐の芝居の見事さや、同版での自分の演技についても「“一攫千金を狙う貧乏な青年”の雰囲気は、下手なりに出ていたのかなあ」と感じた点を含めて、「サスペンスの雰囲気も出ていて、作品全体としては72年版の方が出来が良い」と最終的に72年版のDVDへの収録に同意したという。2007年、テレビ東京にて『太陽がいっぱい』を“野沢ドロン”で改めて収録・放映する企画が決まり、局側から打診を受けた野沢は「(オリジナルの製作当時20代だった)あの頃のドロンに見合った声と気持ちで演じるのはもう無理」と70歳を翌年に控えた自分の年齢などから断ったが、「今電話でお聞きしてる声なら大丈夫、気持ちもやってみたらきっといけます、また新しくこの作品を作りましょう」と局側から口説かれ、収録に応じたと2008年6月のインタビューで語った。インタビュー当時野沢は自身3度めの『太陽がいっぱい』の仕上がりをまだ見ておらず「見るのが怖い」と明かしていたが、映画は08年7月に放映されている。幼い頃父を亡くしたという経験がドロンと野沢には共通しており、野沢が生い立ちに言及した際は「共通点があるから、彼の作品を理解しやすいのかもしれない」と振り返っていた。ドロンが日本で本国フランス以上ともいえる人気を博した理由についても野沢なりの分析を述べている。「(ドロンの映画には)泣かせ方というのか、物語に日本的情緒があって、彼は“信義や友情を大事にする熱い男”という役をずっと演じていた」と、当時の日本人に訴えかける男性像だったことを人気の要因として挙げた。また「彼の顔立ちも、本当に外国人という感じじゃなくて、日本人にもいそうな顔立ちだった」ことも観客には親近感があったのでは、と述べている。加えて1980年代のインタビューでは、「最近はアラン・ドロンが映画を撮っても、日本の劇場ではやらないです。お客が入らないらしくてね、今のお客さんとちょっとズレちゃった」とドロンの人気の衰えについても言及し、やや野沢自身の寂しさや長くつきあっているドロンへの愛着を感じさせる回答を残している(『映画はブラウン管の指定席で』より)。以上のように苦労もありながらも、ドロンの作品に多く共感できることや、30年にもわたって関わり続けてきたことなどから「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが一番やりやすいです」と野沢は答えている。担当したドロン作品の中で印象に残っている作品として、冒険活劇としての面白さから『黒いチューリップ』、『アラン・ドロンのゾロ』の2作、また作品の出来栄えに感銘を受けたとして『地下室のメロディ』を挙げ、また「演じていて面白かった」と『ブーメランのように』を、また『高校教師』も印象に残る作品として選んでいる。アル・パチーノも長年吹き替えてきた俳優の一人。彼の演技力について野沢は「僕が考える演技の枠を飛び越えてる存在」と語って感嘆している。パチーノの出世作・代表作となった『ゴッドファーザー』3部作ではすべて担当、その際パチーノの緻密な表現に接したことを「彼のひとつひとつの演技すべてにはっきりした解釈を要求されて、『お前に演れるか?』と挑まれた思いだった。俳優として、人間としての洞察力まで試された経験」と画面の中のパチーノとの真剣勝負を振り返り、パチーノの演技水準が高いこともあって「芝居が読み取れなくて本当に大変。難しいんだけど、あの芝居に触れられたのはすごい刺激」と語っており、当3部作を一際思い入れの深い仕事に挙げている。男性的で先頭に立つ役柄も多いパチーノの吹替の際は堂々たる雰囲気を心がけ「真ん中のマイクの前に立って、周りを睨みまわすぐらいの気持ちでやらないと、雰囲気が出ない」という。パチーノ同様演技派として名高いダスティン・ホフマンの吹替も数多く経験、彼の吹替の時も「周りを見ながら」演じられる位置に立って収録すると野沢は語っている。パチーノやホフマンなどの吹替の際は「疲れるけど、大声を出しても大丈夫」もしくは「声がどう出ようが平気な感じがある」とも話して、彼らの芝居を把握したうえであれば思い切った表現を用いても違和感がないと述べており、ドロンなど二枚目を吹き替える場合との違いを明かしている。ブルース・ウィリスを吹替がやりやすい担当俳優のひとりとして挙げている。ウィリスの代表作『ダイ・ハード』(「日曜洋画劇場」で1990年初放映)の吹替においては、そのほとんどがアドリブである。細身な野沢がアクションを演じていたところ、酸欠を起こし、酸素ボンベ常用で演技したという。『ダイ・ハード』は野沢にとって印象的な仕事になり、野沢はいまだに台本を保存していると語った。『ダイ・ハード』でのウィリス演じる刑事ジョン・マクレーンは「人間臭くてユーモアを忘れないところが良い」と野沢お気に入りのキャラクターのひとりで、野沢が亡くなるまでに製作された『ダイ・ハード』シリーズ4作でウィリス=マクレーンを吹き替えている。死去後2013年に公開された5作目では、弟子に当たる中村秀利が新たにマクレーンを担当し、その息子役には野沢の実子である野沢聡が起用された。ルパン三世役で知られる山田康雄が1995年に逝去して以降、山田が吹替を担当していたクリント・イーストウッドを引き継いでいる。イーストウッド作品で最初に吹き替えたのは「ザ・シークレット・サービス」(1996年「日曜洋画劇場」で放映)。この作品の依頼の際、山田に似せて演技してほしいとスタッフから促され引き受けたものの、自分の芝居ができないことに悩み、結局録音は、山田に似せた演技と、“野沢イーストウッド”がそれぞれ含まれる仕上がりになった模様で、野沢は「半端な出来」と仕上がりを評し、この作品に関してやや後悔も感じられる回答を述べた。また、「結局演出の希望通りにすると、ヤスベエ(山田)の芝居を姑息に真似する結果になっちゃうし、意識しないように心がけてもやはり当人の芸を見てきてしまっただけに苦しい。それにイーストウッドの芝居はその感覚がつかみ難い」と難色を示している。ただ、その後もイーストウッドの吹替には関わっていた。なお、1969年頃に製作された『ルパン三世 パイロットフィルム』においては、野沢がルパン三世を演じている。これは後に山田がルパン三世の声優を担当する一連のTVシリーズ開始以前のことであった。野沢は後に、「おれがルパンやっていたらこんなロングランにならなかったと思う。潰れただろうね。ヤスベエでホント良かったよね」と語っている。なお、後に野沢と山田は『ルパン三世 ルパン暗殺指令』で対決している。また、フランス映画の『ボルサリーノ』の吹替では野沢がアラン・ドロン、山田がジャン・ポール・ベルモンドをそれぞれ担当して共演している。マカロニ・ウェスタンで活躍した二枚目俳優ジュリアーノ・ジェンマも持ち役にしており、山田康雄、納谷悟朗、大塚周夫、小林清志などと共に、テレビ洋画劇場でのマカロニ・ウェスタン放映を支えた吹替役者のひとりでもある。野沢は声の基礎トレーニングを受けたことがない。困ると思って考えたのが、クラシック音楽を口で歌うことであった。トランペットならトランペットの音、チェロが鳴ったらチェロの音など、全部を口真似して一曲丸ごと歌うという。発音だけでなく、発声のトレーニングもでき、音を真似するために、口はどう開け、舌はどう使うかを考えるという。喉が苦しくなったら、それは発声が悪いとのこと。雑誌『レコード芸術』でのインタビューで、トレーニングに用いたクラシック音楽のレコードコレクションを披露し「これだけレコード買ってなかったら、今頃はプールつきの家に住んでられたんですが」と茶目っ気あるコメントを残したこともある(また同じインタビューで本業が舞台演出家として紹介されており、彼の舞台への愛着も垣間見られる)。体の大きなマッチョ体形の男を初めて演じる際、「どうやってこの声を出したらいいんだ」と真剣に悩んだことがあった。そこで考えたのが、収録の前日にウィスキーを飲むことであった。すると声がしゃがれて野太くなるが、3時間も喋っていると、嗄れすぎてカサカサになるという。声優と呼ばれることに難色はないが、吹替を長く牽引してきた多くの名優たちと同様に「声優である前に俳優である」との考えから、声優という言葉はあまり使わないようにしている。声優を目指す若人には「自分の体で表現できる心をとらえられる役者になれ」と言っており、その結果、声の仕事が主になってもいいとのこと。インタビューなどにおいて、声優になれない声優志望者に対して「そういう人たちには俳優になろうという気がない(声優とは俳優の仕事の一部だという事を理解していない)からだ」と苦言を呈したことがある。『スピード』で共演した宮本充は、「怒ったところを見たことがないというぐらい、陽気で優しい方でした。反面、御自身の仕事に関してはストイックな方なんだろうな。という印象です。」「ダンディで、周りにすごく気を遣う方でした。いつもお洒落な服を着ていらして、アランドロンのイメージがぴったり一致しました。常にセリフの練習をしていて、本番前にディレクターが「野沢さん、静かにしてください」と言われてました(笑)。」と語っている(吹替の帝王『スピード』インタビューより)。生前の野沢は日本中央競馬会(JRA)に馬主登録をしており、シンジュサンゴという名前の競走馬を所有していた。このシンジュサンゴという名前は、姪の直子の2人の娘の名前に由来する。また、その直子の父(那智の実兄)も馬主であり、ユーワジェームス(1987年の第32回有馬記念2着)を実兄自身が創立した友和競走馬株式会社(その後2度の社名変更を経て現・東京ホースレーシング)名義で所有していた人物でもあった。ラジオ番組『野沢那智のハローモーニング』においては、毎回電話を通して実兄に競馬の話を聞いていた。かつては声優業のギャランティが法外に安く、デヴィッド・マッカラムの来日に合わせたイベントに際してテレビ局のハイヤーで移動中、追っかけのファンがタクシーで後を追ってくる様子を見て「俺はギャラ3700円のスターだ」と腹立たしくなったという。あまりにも安いギャランティに腹を立て、収録が終わったページを次々に破り捨てたこともあると語っている。だが、野沢いわく大先輩の俳優もやっていた行為で単に真似していただけという。賢プロや劇団関係のゲスト等のイベントや舞台で、よく「ギャラの安さに怒りを覚え、日本一高い役者になってやると決意し、見事なった結果、仕事がなくなりました」と自らのギャランティのトップ水準を自虐的に語り笑いを誘うことがある。山寺宏一の豪邸を見た野沢は「俺もギャラを片っ端から飲んでなければ山寺くらいの家が持てた」と発言している。『スター・ウォーズ・シリーズ』のC-3PO役は、英米の声優らが「野沢が適任」と語るほど特徴あるはまり役だった。日本語版製作にあたって、テレビ版とビデオ版とではキャストが代わることが多いが、このキャラクターはいずれも野沢が吹き替えている。関連イベントのプロモーションの音声も彼が手がけている。日本における『スター・ウォーズ』のイベントで野沢はC-3PO役のアンソニー・ダニエルズと対面したが、ダニエルズは通訳を無視して延々と自分の話を続けたため、野沢は「変な奴だった」と語っている。新『スター・ウォーズ』三部作が製作された際は担当声優が変更された。本国側のFOX・ルーカスフィルム担当者は旧作製作当時を知らない若手社員に交代しており、吹替版製作を役者の実力や芝居のフィットよりも、声質の近さを最優先事項とした。日本FOX及び音声製作会社側は当初配役変更に猛反対し、日本における旧作公開の歴史や「野沢C-3PO」の知名度を説明したが、これが逆に本国側を硬化させることになったとされる。野沢本人も本件はショックであったらしく、インタビュー等において外国映画日本語吹替版の質の低下を憂いている。ただし、現在DVD、ブルーレイに収録されている旧三部作最新版では再び野沢の声に戻っている。『ベルサイユのばら』では、フェルゼン役に決まった直後に病気で倒れて入院し、初登場から数話だけ堀勝之祐が代役を務めた。初登場が代役というのは、きわめて異例である。また『Dr.スランプ アラレちゃん』のDr.マシリト役や『ガラスの仮面』の速水真澄役など、途中で変更になる場合もあった(代役はそれぞれマシリト:野田圭一、速水真澄:森功至)。『HELLSING』のアンデルセン神父役も、OVAで作り直された際には若本規夫に変更された。吹き替え草創期の頃は納谷悟朗や田中信夫のように低音が売りの役者が多かったために、本人曰く「低音ブーム」と呼ばれていたという。しかし、『0011ナポレオン・ソロ』でイリヤ・クリヤキンに抜擢されたとき、本人はその俳優を見た瞬間「これは低音じゃ出来ないよな」と思ったという。どうしたらこれを吹き替えられるか考えたところ、低音の役者と比較的高めの声でとっさに思いついた「あわわ〜」という台詞で音響監督には「よし、それで行こう。それで決まり」とこの声が認められるが、野沢自身は「こんな高めの声、毎週でませんよ」とこの声を出すことの苦悩を語っている。しかし、この声で吹き替えたことにより野沢は今までの吹き替えにおいての低音のイメージを覆した。白石冬美とともにパーソナリティを務めた「パックインミュージック」は、「ナチチャコ(ナッチャコ)パック」「金パ(金曜パックインミュージック)」などの愛称で親しまれ、1967年の放送開始以来15年間続いた人気番組であったが、放送開始当初の契約は「3ヶ月」であった。野沢の第一回放送での第一声は、コールランプを非常サインと勘違いした「故障ですか、故障ですか」の大騒ぎ。NGを以てのスタートとなった。その酷過ぎる放送内容で自己嫌悪に陥った野沢は、とても3ヶ月も続かないと思いながら、TBSの前に来るラーメン屋台で泥酔して帰宅したという話がある。その頃の野沢は、吹き替えも収録スタジオでもみんなの雑談に入れなかったくらいの恥ずかしがり屋で、自分でも何をしゃべったのか覚えていない、気がついたらCMになっていて、自分が無口だということを初めて知ったという。DJに不馴れな最初期はCM中もサインに気付かず話し続ける等NGを連発したが、番組自体は野沢の独特の言い回しなどから徐々に人気となる。初期は野沢が迷走的に話し続ける内容で作り手も苦しい状況だったが、リスナーに対して話題を求めるという当時としては画期的なシステムを編み出し、これによって番組は爆発的な人気を得る。また、番組に投書されるハガキの内容も独特なものが寄せられ話題を呼んだ。猥談から食事、趣味、思想と話題が多岐にわたり、「手紙に手紙が繋がっていく」(白石談)という状況も生み、15年間という異例のロングランとなった。番組内で白石とのデュエット曲「テレホン・ラブ」と「青山レイニーナイト」をリリースした。野沢は徹底した平和主義者として知られ、戦争・紛争、武力、暴力またはそれに関わる組織を嫌う。反戦活動をする作家や芸術家、芸能人らとも交流があり、それが番組の話題にもなった。そうした野沢の姿勢・発言から、一部からは「若者に有害な左翼放送である」とクレームが来たこともあるらしいが、投稿の内容にはあまり深くは立ち入りしない方針。過去に自殺をほのめかす投稿があり、それに対して行動を起こしたことで幻滅する結果を経験したからとのこと。熱狂的なファンも多く、番組終了決定の際にはファンがTBSへ抗議のデモをかけるほどだったという。「人気は未だ上り坂で決して低迷はしておらず、局内の人事の都合で打ち切られた」と主張するファンも居たとされる。こういった声がある一方で、番組の初代ディレクターで番組終了決定時にはラジオ編成部で番組編成を担当していた熊沢敦は、「(パックインミュージック終了に至ったのは)比較的年齢の高いヤング層のラジオ離れがあり、他局と同じことをしていたのでは今後ジリ貧になる恐れがあったため、あえて終了という決断をした」と、番組終了の経緯を説明している。劇団薔薇座には数多くの俳優・声優が在籍した。その後のメンバーの活躍分野は多岐に渡り、安崎求のようにミュージカル分野で活躍する者から、岸野幸正の様に自らの劇団を持ち舞台で活躍する者、玄田哲章や高島雅羅のように洋画・アニメーションで売れていった者、菅谷勇のようにナレーションを得意分野とする者、戸田恵子のようなマルチタレントに位置する者など、多様な人材が育った。他には、有本欽隆、石塚運昇、いまむらのりお、江森浩子、椎橋重、志賀克也、鈴置洋孝、鈴木清信、竹村拓、津久井教生、鉄炮塚葉子、田中完、富本牧子、豊田真治、中村秀利、難波圭一、筈見純など。当時、野沢の指導の厳しさは「演劇界の修羅」とまで評され、ダメ出しの際に飛ぶ「馬鹿」「死ね」等の罵倒や雑言、アルミ灰皿やパイプ椅子を投げつけられる等の凄まじさから劇団も「ナチ収容所」等様々なあだ名が付けられた。玄田哲章によれば、野沢は稽古中サングラスを掛けサーベルを振り回していたこともあったという。また、野沢が演出する舞台に出演した井上和彦は、ダメ出しにピーナッツを投げつけられ、戸田は「『人に聞くな。自分で恥をかけ』という言葉が口癖の、厳しい信条の持ち主だった」と語っている。公演中やリハーサル中に、劇場ロビーで玄田が倒れていた等の話もある。鈴置洋孝は「ここを経験していたから頑張れた」と語り、石塚運昇も当時の感想を「ハードすぎて生活できなかった」とコメントしている。野沢がパーソナリティを務めるラジオ番組では薔薇座の紹介もされており、それを参考に入団した者は「パーソナリティ・ナッちゃん」と「演出家・野沢那智」のギャップに圧倒され、「こりゃ詐欺だ」と嘆いていた。晩年でも野沢の演技指導に対する厳しさは健在で、パフォーミング・アート・センターにおける講義の際、竹刀を持って指導していたという。ただし、薔薇座時代のメンバー曰く、薔薇座の座長の頃と比べて丁寧に指導していたとのこと。野沢の体調不良による降板、死後に持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。※太字は主役・メインキャラクター。1963年1964年1965年1967年1968年1969年1972年1978年1979年1980年1981年1982年1984年1992年1993年1994年1996年1998年1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年2009年1968年1969年1986年1988年1989年1992年1997年1998年1999年2002年2005年2008年1970年1979年1980年1982年1983年1984年1987年1993年1996年1997年2000年2003年2005年2007年2009年1996年1997年1998年1999年2000年2001年2003年2005年2006年2007年2008年2009年2010年2013年2014年
出典:wikipedia
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