日比谷公園(ひびやこうえん)は、東京都千代田区に所在する公園、および同公園を町域とする千代田区の町名である。郵便番号は、100-0012。公園の土地の一部は国有地である。東京都建設局が所管する都立公園であり、東京都公園協会に管理を委託している。都市計画法第11条(都市施設)に基づく名称は、北の丸公園、皇居外苑の一部と合わせて「東京都市計画公園第5・8・23号中央公園」である。霞が関、有楽町などと隣接し都心部に位置する都立公園で、公園面積は161,636.66平方メートル。 後楽園球場、東京ドームと並んで、かつては「日比谷公園何個分」など、敷地面積の尺度とされることが多かった。園内の主要な施設として、市政会館および日比谷公会堂、大小の野外音楽堂、日比谷図書文化館(旧・東京都立日比谷図書館)、「緑と水の市民カレッジ」、日比谷グリーンサロン、フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼などがある。また園内には大小の花壇があり、四季折々の花と緑が都市生活者の目を楽しませている。また、ホセ・リサール像、ルーパ・ロマーナ(ローマの狼、ロムルスとレムス)、ルーン石碑に模した「古代スカンジナビア碑」、南極の石など各種の記念碑・物が寄贈され、園内各所に設置されている。テレビドラマの撮影地として使用されることも多い。東京地方裁判所の公判傍聴希望者殺到が予想される場合、傍聴席の抽選は庁舎近くの日比谷公園で実施されている。公園内には災害用給水槽(有効水量1,500立方メートル)が設置されている。定水位弁による引き入れと循環ポンプによる引き出しで、給水槽内の水は常に新鮮な状態に保たれている。応急給水口が用意され、震災時は清廉な水道水を無償で給水する。江戸城日比谷御門のすぐ外に位置し、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれた。当時は現在の霞門を直進する道路で南北に別れており、幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在した。明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれた。住所上では北側が西日比谷町の一部、南側が内山下町二丁目とされた。明治4年(1871年)、日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、明治18年(1885年)日比谷練兵場と改称された。その後、練兵場は明治21年(1888年)青山火薬庫跡、現在の明治神宮外苑に移された。周囲に官庁街が整備され手狭になったためと説明されることが多いが、竹橋事件が影響したとする説もある。官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断された。同年11月、内務省東京市区改正委員会において古市公威・芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示された。日本の公園制度は明治6年(1873年)の太政官布告に遡るが、上野公園・芝公園など寺社境内の公園化が中心で、一から新しく公園を造るのは全く初めての試みだった。明治26年(1893年)に東京市が軍から払下げを受け、告示第六号により跡地は正式に日比谷公園と命名された。同年に東京市により設計案が出されたが内部検討に終わり、更に明治27年(1894年)6月の日本園芸会が小平義近による甲乙案、田中芳男による丙案という三案を提出したが採用されなかった。明治30年(1897年)公園改良取調委員会が設置され、明治31年(1898年)の長岡安平による案が、明治32年(1899年)8月の辰野金吾による案が検討されたが、いずれも採用されなかった。明治33年(1900年)本多静六・石黒忠悳・福羽逸人・小沢圭次郎等により日比谷公園造園委員会が設置され、東京市吏員5名が案を提出するが、またしても不採用だった。明治34年(1901年)、結局、造園委員でもありドイツ留学を終えたばかりの本多を中心として立案することとなった。本多は留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指した一方で、江戸城に連なっていた堀を埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残した。心字池ではかつての石垣の一部を今でも見ることができる。ついにこの案が採用となり、本郷高徳により図面が起こされ、明治35年(1902年)4月着工、翌年6月1日に仮開園を迎えた。早くも開園と同年に洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(現パークセンター)、結婚式場高柳亭(現日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現レストランなんぶ)、植木屋などが出店し、現在もある店舗の多くが出揃っている。日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実した。明治38年(1905年)8月、野外音楽堂(現在の野外小音楽堂)が竣工、大正12年(1923年)に野外大音楽堂が完成した。開園後には、日露戦争祝賀会やほとんどの国葬などの開催場所として政府に積極的に活用された一方で、大正デモクラシーの中、東京市電賃上げ反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなった。ポーツマス条約に対する日比谷焼打事件など、暴動に発展する事件も多々起こった。大正12年(1923年)関東大震災が起こると、日比谷公園も被災し、小音楽堂が倒壊、松本楼が焼失した。一方で、直前に建てられた大音楽堂は倒壊を免れた。運動場には被災民が仮設住宅144軒に身を寄せた。被災者遺体の仮埋葬も行われた。仮設住宅は翌年に撤去された。昭和17年(1942年)太平洋戦争が開始すると、日比谷公園は軍用地となった。真鍮製の外柵は金属供出に出され、松本楼は海軍省将校宿舎として利用された。食糧難のため、花壇ではジャガイモが栽培された。戦後、日比谷第一生命ビルの近くで軍用地でもあった日比谷公園は、GHQの接収を受け、松本楼は米軍宿舎として利用された。昭和26年(1951年)接収が解け、再整備が始まった。昭和25年(1950年)、東京都知事・安井誠一郎の要請により帝国ホテル内の植木屋芳梅園が日比谷公園に出店し、日比谷花壇となった。昭和29年(1954年)に大音楽堂、昭和32年(1957年に)日比谷図書館が再建された。昭和36年(1961年)大噴水が完成した。昭和46年(1971年)沖縄返還運動により松本楼が全焼、昭和48年(1973年)再建された。昭和57年(1982年)児童園とプールが廃止されて健康運動広場となり、昭和58年(1983年)、大・小音楽堂が建替えられた。平成23年(2011年)7月1日:東京都から千代田区へ移管された日比谷図書館が、「日比谷図書文化館」として開館した。日比谷公園の区域には、1967年(昭和42年)4月、住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施され、「千代田区日比谷公園」が正式の町名となっている。「丁目」の設定はなく、全域が日比谷公園1番街区である。主な施設の住所は、日比谷公会堂と市政会館が日比谷公園1番3号、日比谷図書文化館が同1番4号、公園事務所が同1番6号である。1番1号、1番2号、1番5号は公園内に所在するレストラン、結婚式場等の住所になっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。