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ポーランド

ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合 (EU) 、北大西洋条約機構 (NATO) の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけヨーロッパで広大な国の1つであったポーランド・リトアニア共和国を形成。18世紀、4度にわたり国土が隣国によって分割され消滅。第一次世界大戦後、1918年に独立したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活、1989年、民主化により共和国となった。冷戦時代は、ソ連の影響下に傀儡政権の共産主義国とし最大で最も重要なソ連の衛星国の一国となり、政治的にも東側諸国の一員となった。国内及び東側諸国の民主化とソ連の崩壊と東欧革命を経て、中欧または中欧のうち過去に東欧であった地域の中東欧として再び分類されるようになっている。正式名称はポーランド語で 。通称 。略称 。日本語の正式表記はポーランド共和国、通称はポーランド。また、漢字表記は波蘭で、波と略記される。ポーランドの国名の「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ族」「レック族」()といい、また同時に「ポラン族」とも称した。「レフ」「レック」は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわちポルスカはこの「ポラン族の国」というのが元来の意味となる。「共和国」に相当する「ジェチュポスポリタ」は、「公共のもの」を意味するラテン語の「レス・プブリカ」の翻訳借用である。レスには「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため先史時代から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されていることや、インド・ヨーロッパ語族の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化やそれを継承した縄目文土器文化、ルサチア文化(ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実、などが挙げられる。ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はその一つではないか、とされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィスワ川東岸付近一帯のヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった原スラヴ人の「ザルビンツィ文化」と似通っていることが考古学調査で判明しているため、原スラヴ系の文化の一つといえる(詳しくは、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、ヴィェルバルク文化の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元は一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族のサルマタイ人やスキタイ人が定住していた。バルト人、トルコ人もこの地域に住んでいた。4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、西のオドラ川(オーデル川)と東のヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化 ()」を持つ他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族 (Lechici) あるいはポラン族 (Polanie) としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク」と「ポーレ」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ (Lyakhi) と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ (Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク (Lengyelek) と呼ぶ。6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。8世紀、それまでレフ族/ポラン族 (Lech/Polanie) とゴプラン族 (Goplanie) を治めていた、後に「ポピェリド朝」(Popielidzi) と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド (Popielid) が没し、「車大工のピャスト (Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく荷車や馬車などを製造する原初的マニュファクチュアを経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」(Piastowie) を創始した。966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族 (Wiślanie)、ポモージェ諸部族 (Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族 (Mazowszanie) などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ2世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和 () によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めて全てを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにした上シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は隣国の異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年クルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認め騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを東方殖民として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、やクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している。教皇にプロイセンのドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、レグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(レグニツァの戦い)。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北しヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破った事は、東欧史上の大事件であった。まもなくモンゴル軍はアジア撤退するがクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法のマクデブルク法、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった、他の事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した)彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった)。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの都市法であるマクデブルク法が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。ドイツ騎士団の支配と共にドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌と元々恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、後にそれがポーランド文学の発展に役立った。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった。ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動がおこったりした。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動もまた起きて、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが彼らかを統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも元々のポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。後にポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。14世紀にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族(ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(西部ウクライナ)を占領し領土を広めていった。また、後には反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこの頃に土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志の元、結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。1414年、コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)は全く正当である」。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされるようである。1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成する全ての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。を起こした。ヴァルミア司教の叙任を巡って、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して意義を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教にとし、今後グニェズノ大司教が主権を握る事で和解した。1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について (De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くした後は母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキは月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州の広大な国の1つとして君臨した。ジグムント2世アウグストの死後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。1573年、全てのシュラフタが一人一票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、後のフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性癖がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気がさしたヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。ヤン・ザモイスキは1578年に大法官(内閣総理大臣)に就任し、1580年にはクラクフ城代を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン(大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制の国家の首相に相当する強大な行政権を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義(穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタたちからは圧倒的支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制を禁止し、全ての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネッサンス思想にも同調し、イタリアから建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事の全ての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度はその後もザモイスキ家を始めとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国とクリミア・タタール人のクリミア・ハン国と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家の一つであったリトアニア大公国は自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった、国は封建制となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタが発展した。1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちで最も熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国、バルト海沿岸地域、ルーシ諸国、といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワに遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ)たちの求めに応じて東方へと侵攻しモスクワ市を占領した(ロシア・ポーランド戦争)。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドを1772年、1793年、1795年、1815年の4度に渡ってポーランド分割を行った。18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制(選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会 (Komisja Edukacji Narodowej, KEN) が設立された。立憲君主制、民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした()。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された()。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子と共に半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下におかれた。ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかしその後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒで敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。ナポレオンが失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧されエミリア・プラテルはシュラフタ(士族、ポーランド貴族)1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった。プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内の全てのカトリック教徒を対象としポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツに住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる。1795年にロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国によって第三次ポーランド分割が行われてから1918年にポーランド共和国が復活するまで、ポーランドの人々は全くの外国人の国家に支配され、政治的に差別されていた。この間、ポーランドの人々は数々の蜂起や社会発展運動(「有機的労働運動」や「ポーランド実証主義運動」と呼ばれる一連の運動)など様々な方法で独立運動を行ってきた。また、多くのポーランド人は抑圧された祖国を離れて外国へ移民し、そこで懸命に働き勉強して社会進出を図った。この2つの要素は支配者たる外国人のポーランド人への政治的敵意(独立運動のため)と民族的嫉妬(ポーランド人たちが自分たちを追い越して社会に適応するため)を掻き立て、非常に陰湿な「反ポーランド主義の運動」を形成するに至った。ポーランド人にとっての近代や現代は、見方を変えれば、外国人による反ポーランド主義運動と、その屈辱に耐え続けた歴史ともいえる。反ポーランド主義運動の流れは、つぎの4つに大別され、これらは互いに深く絡み合って、複雑な構造を呈している:反ポーランド主義はそれを熱心に行う人々自身の内に隠れている極右思想・排外思想と密接な関係がある。彼らが反ポーランド主義の運動を行う際に、作り上げ、利用しているのが、「ポーランド人の恩知らず」、「ポーランドの極右思想」、「ポーランド人の暴力性」、「ポーランドによる自国の侵略」、「ポーランド人の不潔さ」、「ポーランド人の性的なだらしなさ」、「ポーランド人の知能的欠陥」などといった、彼らが作り上げる、現実とかけ離れた恐ろしい「異種(エイリアン)」のイメージなのである。1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。、1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしユゼフ・ピウスツキ将軍の採った思い切った機動作戦が成功してポーランド軍がソ連軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーのソ連軍は一斉退却を開始、ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、これは「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。この戦いで、ソビエト各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子供達だけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した。同時期に、シベリアやソ連に居たユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」全世界に向け救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソビエト連邦につけ込まれるようになった。独ソには蹂躙されるだけに見えて、1926年までポーランドの暗号解読者は両国の傍受に完全に成功していた。エニグマ (暗号機) のレプリカ15台を作製して用い、1938年まではドイツから傍受した通信の3/4を解読していた。ポーランドは解読器を開発のうえ、設計図を英仏に提供した。ポーランドはエニグマに対する暗号文単独攻撃に成功していた。1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、ポーランドは消滅することになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内からヴィリニュス地域を譲られたリトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。独ソ戦でソ連が反撃に転ずるとドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月にソ連軍の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったためにソ連軍が救援せず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。ポツダム会談の決定によりポーランド人民共和国に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は、マルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(PZPR)が寡頭政治を敷くポーランド人民共和国の共産主義時代であった。1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形は米・英・ソのヤルタ会談によって定められた。カティンの森事件でポーランド亡命政府は、ソ連の発表の受け入れを拒否。スターリンは亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失なった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。1952年、ポーランド人民共和国はPZPRの一党独裁制の政党となり、ソ連の最大で最も重要な衛星国となった。恐怖を伴ったポーランドのソ連型化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに構造改革された。政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰をまねき、食料・物資不足が長く続いた。1973-74年のオイルショックもかさなり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補う為、更なる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債をかかえる。この様な状況により、闇市が盛んになり欠乏経済(英語版)を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上で酷い悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し力の無さを感じた。1981年-1983年、の期間に政府は反政府を潰す為に戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、他100人ほど抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した。戒厳令後も、市民の自由権は酷く制限された。軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。経済危機は、主な食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した。共産主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民全てを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ソ連、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリーなどの同じ東側諸国の様に集団農場と個人農地は国有化された。小規模個人農家や多品種少量生産を主とする農業も定着していたため現在もほぼこの構造は変わっていない。しかしEU加盟後、ポーランド政府により個人農家の縮小と廃業化が行われている。一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた()。冷戦中、ワルシャワ条約機構や、1949年1月、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの時期拡大していった。1979年6月にポーランド人ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙(下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは、「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である640,000人が1981年-1989年の間に難民となり他国へ移民した。共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化、政治を不安定化させた。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった、ヤルゼルスキの下、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった。ポーランド政府は、西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。1999年、NATOに加盟した。2004年5月1日、欧州連合 (EU) に加盟した。2005年、欧州連合 (EU) の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義のカトリック系保守主義政党「法と正義」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。しかし、ヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線を巡ってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合やロシアと軋轢を起こした。その後連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合 (EU) との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市型中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。一方で、大きく議席数が変化することが少ないと言われるドント方式の比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失ってしまう。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義・大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。この選挙の結果、ポーランド議会(セイム)の会派は議席の多い順に、と、整理された。最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド農民党」と連立政権を発足。首相は「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任。2009年9月1日には、二次大戦勃発70周年式典が開かれ、ポーランドからはドナルド・トゥスク首相が出席した。同じ2009年11月27日には、「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ党首が提案した、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決された。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり、民間では制限されておらず、自由に使える。たとえば観光都市クラクフでは共産主義的な雰囲気の残っているところを観光客が楽しむための旅行会社さえあり、共産主義のマークを問題なく使用している。2010年4月10日、カティンの森事件70周年の追悼式典に出席するため向かったレフ・カチンスキ大統領夫妻、それに94人の政府高官の代表団は、ロシア西部のスモレンスク郊外で発生した政府専用機墜落事故で死亡した。この事故を受けて、ポーランド下院(セイム)議長で「市民プラットフォーム」所属のブロニスワフ・コモロフスキが憲法に従い大統領代行に就任。大統領選挙が6月に急遽行われることになった。2004年5月1日、ポーランドは欧州連合 (EU) に加盟した。2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での全ての国境審査が撤廃されたことになる。現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。2014年12月1日、ドナルド・トゥスクがEU大統領に就任。政治体制は共和制。国家元首は大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。行政は、1997年制定の憲法では閣僚評議会(内閣)が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する。」(第146条3項)となっているため、閣僚評議会議長(首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う議院内閣制になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の下院に当たるセイム (sejm) の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相はベアタ・シドゥウォ。立法はセイム(議会)とセナト(元老院)の二院制議会 (Zgromadzenie Narodowe) によって行われる。カチンスキ大統領の飛行機事故死で大統領選挙の決選投票が2010年7月4日行われた。中道右派「市民プラットフォーム」のブロニスワフ・コモロフスキ下院議長が、故大統領の兄で保守政党「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ前首相を破り当選した。就任する8月11日までは後任の下院議長のグジェゴシュ・スヘティナが大統領代行を務めた。国際連合 (UN)、欧州連合 (EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム (SIS)、北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO)、欧州安全保障協力機構 (OSCE)、欧州電気標準化委員会 (CENELEC) に加盟している。中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合 (Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ (V4)、 (CBSS)、 (CEI) 、 といった地域国際機関にも加盟している。中世から、侵略し侵略されるという関係。何度もポーランド・ロシア戦争が起こり、ポーランドは1度モスクワを占拠した。20世紀にはソ連の衛星国としソビエト化された共産主義時代を経て、年代により反ロシア主義的な風潮もあった。しかし、2014年のウクライナ危機以降、ロシア連邦の強大な軍事力に対する虞が高まっている。1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科と共に学科は維持され、日本語が教えられている。2002年には、同学科は天皇皇后の行幸啓を受けたほか、2008年には日本テレビ放送網の「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の「世界日本語学校の旅で」でポズナン大学日本語学科とともに、日本語を学ぶ大学生たちが紹介された。また、ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄ブロニスワフ・ピウスツキは、樺太に流刑になったことを契機に、樺太から北海道へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、アイヌの研究に業績を残した。日本は戦間期、765人のポーランド人の孤児をシベリアから助けたことがある。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。また、カトリック教会聖職者のマキシミリアノ・コルベは、日本で布教活動を行い「けがれなき聖母の騎士会」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、聖母の騎士高等学校は21世紀を迎えた現在も存続している。コルベと共に、布教のために訪日したゼノ・ゼブロフスキー修道士は、長崎で原爆に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はポーランド人であり、東京では「世界最初の原子爆弾の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』と言うキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは

出典:wikipedia

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