LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

国鉄キハ20系気動車

国鉄キハ20系気動車(こくてつキハ20けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1957年に開発した一般形気動車であるキハ20形と、同一の設計思想で製造された形式群の総称である。1966年までに系列合計で1,100両以上が製造され、日本各地で広く使用された。なお、「キハ20系」という呼び方は国鉄の正式な系列名ではなく、鉄道ファンなどが便宜的に使用しているものである。本系列が開発された1950年代中期の時点では、国鉄では普通列車用気動車としてキハ10系(当時はキハ45000形一族、その後の通称はキハ17系)が製造されていたが、これらは当時の一般的な20m級客車と比較して車体断面が小さいために居住性が犠牲となっており、乗り心地の点でも問題があった。これは、当時国鉄で気動車用として利用可能であった最大のディーゼル機関であるDMH17形の出力では、通常車体断面の20m級車体とした場合、重量過大に伴う出力不足で十分な走行性能が得られなかったがゆえの苦肉の策であり、そればかりか当時の車体設計手法では小車体断面化だけでは出力不足を補いきれず、客室内の各座席の座り心地を犠牲にした軽量化、あるいは乗り心地が悪いことを承知の上での軽量設計台車の採用など、ありとあらゆる手段を講じてようやく実用性能が得られている状況であった。しかし、1955年のナハ10形軽量客車の完成で状況は一変する。スイス国鉄流の準モノコック構造車体と、プレス鋼板による溶接組立台車の導入により、十分な強度を維持したまま、従来比3/4程度の大幅な軽量化が可能となり、これにより、非力な既存エンジンのままでも大型車体を備える気動車の製造に目処が立った。こうして、10系客車の設計ノウハウを有効活用する形で、翌1956年に大断面車体を備える20m級気動車の第1陣として、準急形気動車であるキハ55形(当時はキハ44800形)が製造され、ここに初めて電車・客車と同等の車体(車内設備)を備える気動車が実現した。その後、キハ55形の成功を受ける形で、普通列車に用いる一般形気動車についても大型車体へ移行することが決定され、同形式に準じた設計で新たに開発されたのが本系列である。当初は、キハ10系と同様に機関としてDMH17B形ディーゼルエンジンを搭載し、防振ゴムブロックを枕バネに使用するDT19C(駆動台車)・TR49A(付随台車)ウィングバネ式台車を装着した。車体は先行するキハ55形の設計が踏襲され、柱や梁だけではなく側板なども強度を分担する準張殻構造となり、キハ10系より大型化され、客車並みの大断面となった。また、従来の反省から、客ドア位置も車体中央寄りに配置され、ラッシュ時の客扱いに配慮している。座席も車体幅拡幅を受けて準急形に準じたゆとりのあるものとなった。客室内を通る排気管のキセはキハ55 1 - 46などと同様に大型のタイプである。暖房装置は燃焼式の温気暖房である。客室窓はキハ10系のそれを踏襲して、上段がH断面ゴムによる構体直接固定、下段が上昇式の俗にいう「バス窓」である。しかし、キハ10系とは異なり、窓下のウィンドウシル(補強帯)は廃され、平滑な外観となった。初期車竣工当初の車体塗色は、当時の気動車標準色である濃い青(青3号)+窓周りが黄褐色(黄かっ色2号)のツートーンであった。また当系列においては前面幕板部の塗色が前照灯部分に回り込むように塗装されていることが他系列には見られない特徴となっている。1958年からは機関を180psのDMH17Cに変更して走行性能を改善し、台車は従来のDT19で使用されていた硬い防振ゴムブロックに代えて複列コイルばねを枕ばねに使用して揺動特性を改善したDT22A(駆動台車)・TR51A(付随台車)に変更することで大幅な乗り心地の向上が実現した。車体の部材を専用のプレス品から市販の形鋼に変更し、調達コストの低減が図られた。また、客室窓が2段上昇式(上下段共に上昇式)に変更され、より近代的な外観となり、客室内の採光や換気も改善されたほか、排気管キセが小型化されて見通しがよくなった。この際、派生形式として寒冷地向け仕様のキハ22形、郵便荷物合造車のキハユニ26形、そしてエンジンを2基装架する勾配線区向け強力形のキハ52形などが新たに設計された。なお、このグループの初期車は室内灯として白熱灯を装備し扇風機無しで製造されたが、バス窓の初期形を含むその多くが後年に環形蛍光灯仕様に改造し扇風機の取付もされている。1959年9月から一般形気動車は、外板色をそれまでの青系から、朱色4号の地色に、窓周りをクリーム4号の塗り分けとした新塗色へ移行した。1978年度から、朱色(朱色5号)単色塗装のいわゆる首都圏色への塗り替えが行なわれている。両数・番台区分は上記「形式一覧」を参照。本系列の基本形式。暖地向けの両運転台、1基エンジン形で、4位側の乗務員室にやや食い込むかたちで便所を備える。1957年から1965年に製造された。298・299のように北海道に新製配置されたものや、多客期に渡道したものもあり日本全国で用いられた。戦前形の機械式気動車キハ04形・キハ05形・キハ06形、キハ07形の取替時期に丁度当たっていたこともあり、大量に製造された。0番台は初期形のバス窓車、200番台以降は改良形の2段窓となった。最終期に製造された500番台では室内灯が蛍光灯になり、暖房装置も温水式となり、台車もDT22C・TR51Bに変更されている。ローカル線向けの簡易郵便荷物車として0番台を改造した600番台が2両、200番台を改造した650番台が1両存在した。これらは客室の一部分が郵便荷物室兼用となっており、その部分はロングシートとなっていて、仕切り用のアコーディオンカーテンが取り付けられていた。キハ20形に耐寒装備を盛り込み、寒地向けとして1957年に製造された形式。主に北海道および東北地方で運用され、キハ22形も含めて急行列車にも投入された。キハ20形0番台とは外観上は客用扉下部の明かり窓がないこと以外相似する。寒冷地向けの装備として、客室窓の二重窓化・運転台にデフロスタ設置・床下機器耐寒・耐雪装備を施工した。しかしドア位置はキハ20形と同じでデッキがなく、冬期の客室内温度維持に問題があることが指摘された。そのため1957年に84両が製造されたのみで、翌1958年からは耐寒・耐雪性能が強化された酷寒地向けキハ22形に製造が移行された。1968年に苗穂工場で3両が荷物車兼用(新聞輸送)としてロングシート化され100番台区分へ、1969年に旭川工場で2両がキユニ21形へ改造された。当初は主に道内各地のほか東北地方などに配置されたが、キハ22形の増備が進むにつれ釧路客貨車区(現・釧路運輸車両所)・苗穂機関区(現・苗穂運転所)・苫小牧機関区(現・苫小牧運転所)・長万部機関区(1993年函館運輸区に統合)・函館機関区(現・函館運輸所)・一ノ関機関区(現・一ノ関運輸区)に集約配置された。キハ40形の増備と共に1982年までに運用を離れ、1983年に全車廃車となった。キハ21形は北海道の酷寒地での防寒性能が不満足であったことから、酷寒地向けの耐寒仕様車として完全に新設計されたものである。1958年から製造開始され、北海道および東北地方に配置されていた。製造会社はキハ21形の帝車と新潟に加え、富士重工業と日本車輌製造が加わっている。乗降口を車体両端へ配置して、客室との仕切り扉を備えたデッキ付きとし、側窓を小型の一段上昇式二重窓として保温性を高めている。暖房装置はエンジン冷却水利用の温水暖房として強化し、かつ放熱フィンを大型化して効率を良くした。床は雪が融けて濡れた時の滑りにくさや、雪靴・雪下駄の滑り止め金具(スパイクなど)への対策から木張りとされ、さらに断熱材の厚さを増したため、暖地向けの標準車に比べ、レール面基準で50mm高くなった。そのため、客室窓、乗務員用扉、運転台窓、貫通路扉(幌枠高さは標準車と同じ)、尾灯の位置もキハユニ25 7を除くキハ20系他車よりも高い。また、警笛は前照灯脇から、温水管の取り回しが楽な乗務員室床上(助手席足元)に変更された。室内色も暖色系の薄茶色4号とされ、車端部がロングシートであること、窓側に肘掛けがないことを除けば、準急形のキハ55系に遜色ない水準であり、急行列車にも用いられた。床下機器のカバーリングや冷却水による保温をはじめ、補器類に至るまで徹底した耐寒・耐雪措備が施され、北海道の酷寒地での実用上も十分な能力が確保された。これら本形式の耐寒・耐雪スペックは、キハ56形一族、711系交流電車、キハ40 100番台、キハ54 500番台など、以後の北海道における一般・近郊形車両における耐寒設計の基準となったばかりでなく、羽幌炭礦鉄道や留萠鉄道など、道内の私鉄においても本形式とほぼ同一設計のコピー車が導入されることになった。便所はキハ20形同様4位側にあるが、その向かいがロングシートであるため出入口はデッキ側に変更され、立ち客や乗降の妨げとならないよう扉を内開きとしたことから前後方向の寸法も拡大されている。他のキハ20系中期車と同様、座席や室内灯などが製造途中で改良された。初期車の白熱灯は後に多数が20W環形蛍光灯に改造され、新製時から蛍光灯となった車両も、20Wの直管から40Wの直管へ設計変更されている。屋根上の通風器は初期の1 - 170では6個であったが、後の201 - 245では7個、246 - 343では9個へと変更されており、一部には客車用のガーランド形通風器を装備した車両も存在する。最終の設計変更では外ハメ式の尾灯やハニカムコア構造の客用ドアも採用されたが、同じく遅くまで増備され、すでにキハ52形100番台で採用されていた横形機関(水平シリンダーエンジン)は本形式では採用されなかった。また、同等の耐寒・耐雪装備を持つ2基エンジン車は製造されず、ローカル線では旅客需要がないにも関わらず、排雪(ラッセル)抵抗による運行障害(1軸駆動のため空転しやすかった)を防ぐため、冬季は2両編成で運転せざるを得なかった。しかし、本形式に対する現場の信頼は厚く、酷寒地向け次世代車のキハ24形・キハ46形の仕様が具体化していた1960年代中期でも新形の採用には消極的で、本形式の駆け込み増備が図られたという。1960年代から1970年代に北海道のローカル列車の多くは本形式が投入されていた。また、循環急行「いぶり」、函館本線の「らいでん」、「せたな」や羽幌線の「はぼろ」など道内のローカル急行にも数多く使用され、これらは「遜色急行」として鉄道ファンに注目された。1980年(昭和55年)に、200番台のうちの5両が苗穂工場と釧路車両管理所で簡易郵便荷物車に改造され、600番台となった。車内の排気管立ち上がり部付近に完全なる仕切りが設けられ、郵便荷物室として使用される前位側(便所と反対側)の室内はロングシートとなった。室内には郵便区分棚が設置され、窓には保護棒が追加された。改番はされていないが、1も600番台とほぼ同じ仕様に改造されている。本形式は北海道内での使用を前提に設計された車両であるが、キハ21形共々、一部は東北北部でも使用されていた(国鉄分割民営化後、JR東日本に引き継がれた車両もあった)。これらの中には、地方私鉄や第三セクター鉄道へ譲渡、または貸し出された車両も存在する(詳細は後述の「#譲渡車・同形車」節を参照)。キハ20形を片運転台にした形式である。キハ20形0番台に相当する0番台、同200番台に相当する200番台、同500番台に相当する300番台がある。片運転台となったことで、キハ20形より客席が2区画(8名分)多い。後位(運転台のない側)の車端に便所を持つが、位置はキハ20形と異なり、3位側となった。真岡線での運用を最後に1987年2月までに全車廃車された。寒冷地・極寒地向けの郵便荷物合造車で、7両が製造された。1 - 6はキハ21形の仕様に基づいて製造された寒冷地向けで、室内配置は前位から運転室・荷物室・郵便室・客室となっている。客室窓は上段固定の「バス窓」で、客用扉はキハ25形の後位扉と同位置にある。便所はない。7はグロープラグの不具合によって焼失し、廃車となった6の代替として製造された車両で、車体はキハ22形に準じた極寒地仕様に設計変更された。客室窓は1段上昇の二重窓で、デッキを設けたため客用扉は車端部に移されている。暖地向けの郵便荷物合造車。キハユニ25形と同様に室内配置は前位から運転室・荷物室・郵便室・客室となっている。客室窓は上・下段とも上昇式で、客用扉はキハ25形の後位扉と同位置にある。便所はない。番台の区分はないが、構造は1 - 41がキハ20形200番台に、42 - 59は同500番台に準ずる。キハ21形を改造して郵便荷物合造車としたもので、1969年に2両が旭川工場で改造された。キハ20系の中で唯一形式変更を伴う改造が行われた車両でもある。極力、種車の車体構造を生かすような改造がなされており、車体中央部の排気管立ち上げ部付近に仕切りを設け、前位側(1・2位、車体中央から見て便所と反対側)に郵便室、後位側(3・4位、同便所側)に荷物室を設けた。便所はキハ21形時代からのものをそのまま再用した。郵便室には郵袋室と区分室が設けられ、区分室部分にあった4枚の一段上昇式の窓は埋められた。荷扱い扉は旧客用扉をそのまま利用している。荷物室部分には、便所付近(ボックスシート3組分)のスペースに荷扱い車掌室と貴重品箱が設けられ、客用扉と窓6枚(戸袋窓2枚、一段上昇式窓4枚)を埋めた上、新たに1,800ミリ幅の両開き式の荷扱い扉が設けられた。荷扱い扉の材質は各車で異なり、1は鉄製、2は木製のものが使われていた。当初は遠軽機関区に配置されたが、後に深川機関区に転属となった。1は深川機関区配置のまま1984年3月10日付で、2は旭川機関区配置を最後に1986年3月31日付で廃車となっている。勾配区間用の一般形気動車で、キハ20形の2基エンジン搭載形である。国鉄の2基エンジン気動車としては最初の両運転台車であり、急勾配のローカル線用車両として本州・四国・九州各地で重用された。キハ20形に準じた両運転台、片開き2ドア、2段窓であるが、エンジン、変速機、放熱器をそれぞれ2基搭載する必要から、床下スペースの確保目的で、全長が1.3m長い車両限界一杯の21.3mとなり、それに伴い、ドア間の2段窓の数もキハ20形の5個から6個に増えている。それでもなお床下は手狭なため、水タンクは床上(通路を挟んだ便所の反対側)に置かれた。キハ20形は一般型気動車であり、キハ22形を除いて定期の急行運用に就くことはまずなかったが、本形式については、2基エンジンで強力なこと、単行運転が可能なことから、只見線および会津線の急行「いなわしろ」として、1982年6月23日の東北新幹線開業による列車自体の廃止時まで、長らく使用された。この列車は気動車単行の急行で、なおかつ遜色急行であるとともに、急行「あがの」「いわき」と併結する多層建て列車として異色の存在であった。なお、この列車に専ら用いられたキハ52 128は首都圏色化されず、同列車廃止後小牛田から、盛岡、米子と転属した後も1999年の廃車時まで国鉄一般色で残った。キハ21形、キハ25形、キハユニ25形、キハユニ26形は国鉄分割民営化以前に全廃され、新会社に承継された内訳はキハ20形53両、キハ22形157両、キハ52形73両の計283両であった。東海旅客鉄道(JR東海)を除く旅客5社に承継された。JR移行後は各旅客会社とも残った特定地方交通線の転換や新形式気動車への取替えにより廃車が進行し、キハ20形は1993年までに、キハ22形は1995年までに全車が廃車された。その後もキハ52形のみは残ったが、JR九州、JR東日本の順に運用を離れ、2010年3月をもってJR西日本でも定期運用を終了した。引き継がれたのはキハ22形のみで、経年が浅く状態のよい103両が残った。キハ40形のワンマン化にさきがけ、1990年に苗穂工場でキハ22 321・314がワンマン化改造され、キハ22 701・702となり、1月に出場した。同年3月より函館本線上砂川支線でJR北海道の鉄道線では初となるワンマン運転を開始した。次いで同年内にキハ22 311・312・330・334が五稜郭車両所でワンマン化改造されてキハ22 703 - 706となり、江差線・函館本線の長万部以南の順に投入された。これらは白地に青の細帯とコーポレートカラーの萌黄色の帯を巻いた新塗装で出場した。ワンマン化改造された車両も含め1995年までに全車廃車された。キハ20形11両、キハ22形54両、キハ52形30両が承継された。キハ20形は足尾線用として高崎運転所に配置されていた車両と真岡線用として水戸運転所真岡支所に配置されていた車両で、両線の第三セクター転換により全廃された。キハ22形は東北地方の各区に配置されていたが、1992年までに全廃されている。キハ52形は一部が新型エンジンへの換装と内装の更新改造を施され、2000年代後半まで使用された。盛岡車両センター所属の車両については新潟鐵工所製またはコマツ製エンジンへの換装・客用窓の一段上昇式化改造が実施されたほか、外部塗色は白+赤帯の塗り分けとし、正面上半部を赤色とした「盛岡赤鬼色」と俗称される配色で使用された。また、2001年頃に一部の車両が国鉄時代の朱色4号+クリーム4号の配色に復元された。2007年11月まで17両が配置され、花輪線、山田線、岩泉線で使用されていたが、キハE130形の導入で余剰となった水郡線のキハ110系が順次転用され、花輪線からは同年3月18日改正で撤退、他2線区からも同年11月25日に撤退した。使用を終了した本形式は同年12月に全車がミャンマーへ輸出・譲渡のため、川崎貨物ターミナル経由で搬出された。新津運輸区配置の車両についてはカミンズ製エンジンに換装された。外部塗色は全車「新潟一次色」(上の写真を参考)で活躍していたが、2006年に一部の車両が国鉄時代の朱色4号+クリーム4号の配色に復元された。最終的に7両が配置され米坂線・羽越本線・磐越西線で使用されていたが、キハE120形の導入により置き換えが実施され、2009年3月14日改正で定期運用から離脱した。このうち国鉄色を纏った車両はその後も磐越西線・米坂線等で団体・臨時列車に使用され、特に同年10月から12月にかけて開催された新潟デスティネーションキャンペーンにおいて、同じ国鉄色に復元されていたキハ28形・キハ58形とともに多数の臨時列車に充当し、2009年12月26・27日の「ありがとう磐越西線国鉄色号」を最後に引退した。長らく同区に留置された後、2011年8月3日付で7両とも廃車され、これをもってキハ20系は廃系列となった。同日中に全車がフィリピンへ輸出・譲渡のため、新潟東港経由で搬出された。キハ20形8両、キハ52形13両が承継された。キハ20形は加古川線・鍛冶屋線用として姫路運転区に配置されたものと、芸備線用として広島運転所に配置されたものが承継された。加古川・鍛冶屋線用の車両は1989年までに全廃された。芸備線ではキハ20形が最後まで残ったが、1993年までに全廃された。キハ52形は高山本線(富山 - 猪谷)用として富山運転所に配置されたもの、越美北線用として敦賀運転所に配置されたもの、山陰本線・木次線用として米子運転所に配置されたもの(うちキハ52 128は1999年の廃車時まで国鉄一般色で残る)が承継された。最後には大糸線非電化区間(糸魚川 - 南小谷)用として越美北線から転じた3両が残ったが、車両の老朽化を理由に、2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正でキハ120形に置き換えられた。なお、最後まで在籍していた3両は次の通り。なお、3両ともエンジンは製造当時のDMH17系のままであったが、越美北線時代に冷房設置の取り付け・便所撤去・ワンマン化改造工事がなされていた。当初の外部塗色は越美北線時代の白を基調に緑のストライプを配したものであったが、後に全車が歴代の国鉄標準塗色に復元された。キハ20形20両、キハ52形3両が承継された。キハ52形は松山気動車区に配置されていたが、1989年までに廃車となっている。キハ20形は松山気動車区・徳島気動車区・高知気動車区に配置されて普通列車で使用された。一部の車両は延命工事を実施され客室窓が上段固定下段上昇式のユニット窓となったが、1990年の予讃線伊予北条駅 - 伊予市駅間電化に伴い、同年度内に全廃された。キハ20形14両、キハ52形27両が承継された。キハ20形は高千穂線用として南延岡運転区に配置されていた11両と、都城運転区の1両、鹿児島運転所の2両が承継された。南延岡運転区には全国で唯一JRに承継された0番台(キハ20 41)が配置されていた。高千穂線の第3セクター化などに伴い、1990年までに全廃されている。キハ52形は承継当初は長崎運転所に1両、大分運転所に7両、熊本運転所に2両、人吉運転区に4両、鹿児島運転所に13両配置された。その後転属や廃車が進み、最終的には筑豊篠栗鉄道事業部に2両(キハ52 132・134)が保留車として残っていたが、2002年に廃車となり消滅した。本系列の中には他社に払い下げられたり貸し出された車両があるほか、同仕様で製造した同型・類似車両が多数存在している。鹿島臨海鉄道に4両、水島臨海鉄道に12両、島原鉄道に13両譲渡されている。鹿島臨海鉄道では2000形(2001 - 2004)、水島臨海鉄道ではキハ201 - 212、島原鉄道ではキハ2005 - 2017となった。2015年2月現在ではひたちなか海浜鉄道に1両、水島臨海鉄道に1両在籍している。津軽鉄道・弘南鉄道(黒石線(旧国鉄黒石線))・下北交通(大畑線)に各3両譲渡されている。津軽鉄道ではキハ22027 - 22029、弘南鉄道ではキハ2210・2220・2230、下北交通ではキハ85 1 - 3となった。いずれも老朽化や使用路線の廃線により廃車となっている。また国鉄時代の1986年に阿武隈急行に5両、秋田内陸縦貫鉄道に9両が貸し出されている。ともに番号はそのままで塗色のみ塗り替えられた。いずれも1988年まで使用され、電化や新車両への置き換えによりJR東日本に返還された。1987年に南阿蘇鉄道へ、2010年にいすみ鉄道に1両ずつ譲渡されている。南阿蘇鉄道に譲渡されたキハ52 35はMT2105に改番され当時のMT-2000形と同じカラーリングに塗り替えられたが、あくまで予備車の位置づけのためワンマン化改造されず、あまり使われないまま1993年に廃車となっている。大糸線で最後までイベント用に運用されていたキハ52 125は黄褐色2号+青3号の塗色のままいすみ鉄道に譲渡され、2010年12月に行われたお披露目を兼ねた撮影会で展示された後、整備とクリーム4号+朱色4号への塗色変更を受け2011年4月29日から営業に入っている。2014年3月からカラーリングが首都圏色に再び変更されている。下北交通大畑線に譲渡され、同線のキハ85形として使用されていたキハ22 149 - 151の3両は、同線廃止後の旧大畑駅構内で、保存団体「大畑線キハ85動態保存会」の手によって定期的にエンジンを稼動させ、動態保存されている。このうち、旧キハ22 150は国鉄時代の塗装(クリーム色+朱色)に戻されている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。