ジャッキー・チェン(成龍、、広東語発音:センロン、英語名:Jackie Chan Kong Sang、1954年4月7日 - )は、香港出身の映画俳優。恵まれた身体能力を活かして、暗い復讐劇が多かったカンフー・アクション映画の世界に、ハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主役として出演。60歳を越えた2015年現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。愛称は「大哥」(ダイゴー、兄貴の意)。身長174cm。妻は台湾の元女優ジョアン・リン。息子は俳優のジェイシー・チャン。ジャッキー・チェンは、1954年に香港のヴィクトリア・ピークにて「陳港生(チャン・ゴンサン)」として生まれた。父親は陳志平(チャールズ・チャン、家系図上では房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)。陳志平は、国共内戦を避け、中国大陸から香港に逃れた。ジャッキー・チェンは、2012年、9月22日にCBCのGeorge Stroumboulopoulos Tonightに出演した時に「父は、元スパイだった。ある日、オフィスに戻るために、運転をしていたら、80歳近くになる父親が急に、話しておきたい秘密があるというのでカメラと照明を設定し、そしてカメラの前でその告白をしてもらった。私は、40年以上ジャッキー・チェンとして生きてきたが本名は房(ファン)であると父から伝えられた。父には、他に息子が2人、母には娘が2人いると言われ、自分には兄弟がいることがこの時分かった。」とインタビューに答えている。このインタビューで2人の兄に会った事はないが、姉達には会ったと答えている。7歳から約10年間、中国戯劇学院にて京劇や中国武術を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた。無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでリーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではリーに首を折られるエキストラ役としても出演した。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いたが、1976年にリー作品の監督であるロー・ウェイの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイ・プロと専属契約し、芸名を「陳元龍」から「成龍」と改名し、『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』で再デビューを果たした。1970年代後半、ブルースの後継者として期待され、復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが成功には至らず、そうした反省も踏まえ、ジャッキーは製作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。これが『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)、『ドランクモンキー 酔拳』(1978年)といったヒット作の誕生につながった。『クレージーモンキー 笑拳』(1979年)では監督業にも進出。1979年にはゴールデン・ハーベスト社に移籍し、監督・主演作の『ヤングマスター 師弟出馬』(1980年)をヒットさせた。1980年代に入ると、『プロジェクトA』(1984年)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985年)に代表される、自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒット。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなった。一時期、批評家からの声に刺激され『奇蹟/ミラクル』(1989年)のような文芸路線を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。『プロジェクト・イーグル』(1991年)以後は一時監督業からは退き俳優業に専念する一方、製作者として『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1992年)などの文芸作品も世に送り出した。そんな華々しい活躍の中で『サンダーアーム/龍兄虎弟』(1986年)の撮影中に大怪我を負ってしまい、その後遺症で左耳がほとんど聞こえなくなってしまっている。元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』(1980年)、『プロテクター』(1985年)など米国作品に出演したが、評価は高まらなかった。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築き、続編『ラッシュアワー2』(2001年)は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後、立て続けにアメリカ映画作品に出演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループと提携して、自らの映画制作会社、JCEムービーズを設立し、その第1回作品として『香港国際警察/NEW POLICE STORY』を製作・主演。以後、香港・中国映画とアメリカ映画に並行して出演するようになる。2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなり、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。2009年、アクションを封印したシリアスなバイオレンス映画『新宿インシデント』に主演。主人公の師匠役を演じた2010年の『ベスト・キッド』は2000年代に入ってからの出演作では最大のヒット作となった。2011年、出演作100本目記念作品とされる歴史映画『1911』が公開。2012年の『ライジング・ドラゴン』で「体を張った本格アクションからは今作限りで引退」と宣言した。2014年4月、上海市普陀区に世界で初めてとなるジャッキー・チェンの博物館、成龍電影芸術館が開館した。芸術館を始め3つの建物がメインとなり、映画資料や小道具、衣装等が展示されている。2015年に公開された主演・製作映画『ドラゴン・ブレイド』が大ヒットを記録し、2010年代最大の成功作となった。これにより、アメリカのフォーブス誌の高額俳優ランキング(2014年6月1日~2015年6月1日)で5000万ドルを記録し、ロバート・ダウニーJr.に次ぐ世界2位となった。2016年、アカデミー名誉賞を受賞予定。英語名を日本、欧米での芸名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、日本のみ諸事情(親しみを込めて相手を呼ぶ際の「〜ちゃん」と被るため)により「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。だが息子は「ジェイシー・チャン」になっている。ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンで構成された『成家班(ジャッキーズ・アクション・チーム)』(ケネス・ロー・ワイコン、マース、ブラッドリー・ジェームズ・アラン、ロッキー・ライ、ダニー・チュウ、ベニー・ライ、タイ・ポー、ポール・ウォンなど)の仲間に支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。ヘリコプターを使ったアクションとして『ポリス・ストーリー3』(1992年)と『ファイナル・プロジェクト』(1996年)が有名だが、『ポリス・ストーリー3』の時は機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我、『ファイナル・プロジェクト』ではプロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2cm)し、間一髪大怪我を免れている。その後ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションはやらなくなった。「自身の作品で一番好きなのは?」の問いに対し、「アクションなら『ポリス・ストーリー/香港国際警察』、監督なら『奇蹟/ミラクル』」と答えている。また「思い出に残る作品は?」の問いに対し、笑いながら「沢山ありますよ」と前置きした後、悩みながら、第3位は『酔拳2』、第2位は『レッド・ブロンクス』、第1位は『プロジェクトA』と答えている。自身がプロデュースした作品には1シーンのみのカメオ出演をする場合が多い(1986年『クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド』、 1999年『ジェネックス・コップ』、2004年『エンター・ザ・フェニックス』など)。以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。また事あるごとに引退を示唆する発言をしている。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌はロックレコードの李宗盛から学んだ。陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏でよく知られ、今でもデュエット・ソングとして人気がある。1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。 日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤングマスター 師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。『ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(チャイナブルー、東京サタデーナイト)を本人が歌った。「東京サタデーナイト」に関してはジャッキーもかなりのお気に入りで公の場でも口ずさむ時がある。トム・クルーズやジョニー・デップと並び、ファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接している。 千葉真一の熱狂的なファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった。テレビドラマ『キイハンター』でスタントマンに頼らず、千葉が演ずるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に東映京都撮影所へ千葉を表敬訪問している。1994年に読字障害であることを告白したが、2012年現在は克服している。広東語、北京語、英語、韓国語に堪能で、日本語も少し話せる。ブルース・リーとの逸話。ジャッキーが無名時代、休日に一人でボウリングに行こうと道を歩いていると、偶然ブルース・リーと遭遇。二人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、ブルース・リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで」と言い残し帰って行ったということがあった。また撮影の合間には、彼の作品でスタントを演じていたジャッキーに対して、特に優しく接してくれていたとのこと。
『七小福』時代から同じ釜の飯を食って育ったサモ・ハン・キンポーは先輩でありユン・ピョウは後輩である。三人はジャッキーと共に1983年から1988年に多くの共演作品が日本でも公開され、社会現象を起こし香港ビッグ3と呼ばれている。
三人が幼い頃ユン・ピョウの20セントを巡って二人が殴り合いの喧嘩をし、サモ・ハンが勝利したことがあるとユンピョウがインタビューしている。
ジャッキーが無名時代には先に映画業界で名を馳せていたサモ・ハンが色々面倒を見ていたこともある。
ジャッキーとサモハンは両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション、特に美しさに対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより『サイクロンZ』以降疎遠であったがその後、1995年の『デッドヒート』と1997年の『ナイスガイ』で再タッグを組み、2008年の 『拳師〜The Next Dragon〜』ではジャッキーがエグゼクティブ・プロデューサーを務めサモが主演。香港電影金像奨での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復している。
2015年一月にはユン・ピョウの娘の結婚式にサモ・ハンがジャッキーを呼び寄せ、久しぶりに三人が揃ったと場を大いに盛り上げた。2003年、『80デイズ』の撮影のためにベルリンに滞在した時、バディーベアに出会い、翌2004年に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、ユニセフと2つの恵まれない子供たちのための団体が414万香港ドル(約5700万円)を手にした。チベット自治区に監視を行う中国に対して一部で抗議がある中、北京五輪に反対することは不公平であるとした。2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。2011年1月20日、アメリカ・ホワイトハウスで行われた公式訪問中の胡錦濤国家主席を歓迎する「オバマ米大統領夫妻主催の晩餐会」にジャッキーも政財界の大物や著名人など計225人の招待客と共に出席し、ジャッキーと対面したオバマ米大統領は握手しながら、「私も君のファンだよ」と話しかけたばかりか、ヒラリー・クリントン米国務長官も、夫のビル・クリントン元米大統領もジャッキーのファンだと話した。 また胡主席とも話す機会に恵まれ、ちょうどジャッキーと胡主席が話し始めようとかという時にオバマ米大統領がやってきて、「知っていますか。アメリカでジャッキーはとてもとても有名なんですよ」と話しかけた。すると胡主席は「中国ではもっと有名ですよ」と笑顔で返答した。この公式晩餐会を振り返ったジャッキーは、「本当に光栄に思う」と興奮ぎみにメディアに語った。2012年現在、香港政府観光局の観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行っている。近年、ジャッキー・チェンの政治的発言は、中国共産党寄りのものが多くなっていると指摘されている。2012年12月11日、南方報業伝媒集団発行の南方人物週刊という雑誌のインタビューで「香港では中国政府批判のデモが多すぎる。規制すべきだ」などと中国共産党政権を擁護する発言を行ない、香港市民から反発を買っている。慈善家でも知られており、幼少期にジャッキー自身が貧しくても「悪人とは付き合うな、麻薬には手を出すな」などの親の教えには感謝している。かつてジャッキー・チェンは若い頃、テレサ・テンと恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。その後、ジャッキーは台湾女優の林鳳嬌(ジョアン・リン)と結婚。テレサは1995年に気管支喘息の発作のため亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した。自伝『愛してポーポー』では、一時期ギャンブル中毒で身を持ち崩し、婚姻を解消したことを告白している。1999年に香港女優の呉綺莉(エレイン・ン)との間に娘の呉卓林(エッタ・ン)が生まれており、この騒動の時「世界中の男性が誰でも犯す過ちを犯してしまった」と語ったことが話題になった。ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐しており、その内容を以下に要約する。1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』、『ドランクモンキー 酔拳』や、続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットし、ジャッキーとウィリー・チェンは、ローがレンタル出向前に製作し完成していた『拳精』と『龍拳』を、過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗していたために配給会社が警戒して買わなくなっていたこともあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『ジャッキー・チェンの醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう(『醒拳』は結果的にローが1983年に、ジャッキー似の俳優を使った追加撮影シーンと『笑拳』のNGフィルムなどを使用し無理やり完成させ、ジャッキー最新作として公開したため、ジャッキーは裁判沙汰にしようと考えるくらい激怒した)。ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、黒社会を利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。ジャッキーは拉致されローの面前へ引き出され、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも黒社会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても黒社会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な黒社会の件は、その世界と繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは黒社会に狙われることはなくなり、ローもまた黒社会と手を切ることができた。これにてジャッキーはことなきを得ている。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』、『炎の大捜査線』に準主演級で出演しており、これらの作品にノーギャラで出演したことについてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本においては、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家の日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及しているが、この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」といった内容となっている。また当時、日本の旅行会社がジャッキーに会うためのツアーを企画したが、1979年末に『ヤングマスター 師弟出馬』完成後、極秘にゴールデン・ハーベスト社が次回作『バトルクリーク・ブロー』(ジャッキー初のハリウッド作品)の撮影のためにジャッキーをアメリカへ逃がした後だったので会えなかった。なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と語っていた。ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智行政院新聞局局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』(台北市1014万台湾元)、『THE MYTH/神話』(台北市1100万台湾元)『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(台北市900万台湾元))。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。2009年4月18日、海南島で行われたボアオ・アジア・フォーラムの会見上で、中国国外メディアから文化活動の自由について聞かれ、「自由すぎると、香港のように混乱する。台湾も混乱している。中国人は管理される必要がある」と発言した。また「テレビは日本製を買う。中国製のテレビは爆発するかもしれない」と発言し物議をかもした。2012年10月1日、台湾で自身の映画の謝恩イベントの際、尖閣諸島問題について、歴史的に見ても、島は中国のものだとし、僕がジャッジする立場にいるならば、人の物を横取りした国に還すよう求めたい。さらに、僕がスーパーマンならば、島を近くに引き寄せたいなどと主張した。一方でウラジオストクは中国に、北方領土は日本に還すべきだとも主張している。2006年の日本のテレビ番組『SMAP×SMAP』では、中華料理をよく食べるわけではなく、魚卵が苦手で、また、食事は量を少なく注文すると語った。中国では、「食べきれないほどたくさんの料理をありがとう」という気持ちを込めて、完食ではなく残す程度が礼儀とされているが、ジャッキー個人の価値観はそれとは違い「最近の人はたくさん注文して残す。良くない」と述べた。嫌いな食べ物にはほかにアサリがある。ファストフード系の中華料理店「ジャッキーズ・キッチン」を展開しており、トイレに行くとジャッキー自らトイレの作法についてレクチャーするというサービスがある。ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。特にランサー、ミラージュ、パジェロ、ギャランが多い。ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードやプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている。香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心で、1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との2本立てで公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』『クレージーモンキー 笑拳』『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』『龍拳』『蛇鶴八拳』『カンニング・モンキー 天中拳』『成龍拳』『ジャッキー・チェンの醒拳』が公開され話題を集めた。その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した。1980年代にはジャッキーがそれ以前からファンであった西城秀樹と親友の間柄になり、1987年の滋賀県烏丸半島で行われた「アジア・ポップス'87〜第5回びわ湖水の祭典〜」コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」、「琵琶湖周航の歌」等を一緒に熱唱した。訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。近年では、日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたり様々なゲームで対決をしている。2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC(大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。2013年には、キリンビールの「のどごし生」CM「夢のドリーム」企画において、一般公募で選ばれた「カンフースターになりたい」という会社員の夢を実現する形で、会社員、中川翔子、会社員の後輩のアクション俳優らと共演した。1980年代から1990年代にかけて、日本のファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「ポーポークラブ」、「CHANS CLUB(Jackie and Willie,成家班のファンクラブ)」、「不死鳥成龍会」、「MIRACLES」、「無問題倶楽部」、「チャイニーズドラゴン」などが存在し、それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影など)で訪れた際は、喜んで対応していた。1980年代当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」、「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。2011年には、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれ、先に大阪と名古屋が終了。最後となる東京は11月に幕を閉じた。このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。日本のお笑い芸人内村光良(ウッチャンナンチャン)とは親交が深い。ウッチャンナンチャンの冠番組「ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば」「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」では、ジャッキーの映画のパロディコントを披露している。当時は人気映画をパロディする事は多かったが、ほとんどはコメディタッチに改良されている場合が多かった。ところが内村のコントは、映画のセットからアクション・特殊効果・エキストラの配置まで、忠実に再現されている(もちろんコメディ要素も多数含まれている)。その結果ジャッキー本人からお墨付きを戴き、ジャッキーの映画公開時には、番組にゲスト出演し内村とアクション対決という夢の競演を果たす。更に、『ツイン・ドラゴン』では、内村光良がジャッキーとそっくりだったことから、日本の雑誌広告ではジャッキーが二役で双子を演じるポスターの片方を内村の顔写真に変え「ジャッキーは、ウッチャンを見てこの映画を思いついた」というコピーが使用されている。その後も交友は続き、「内村プロデュース」では「第3のジャッキーチェンをプロデュース」という回でゲスト出演している。ちなみこの日のアシスタントはジャッキーファンの中川翔子であった。ちなみに内村は、映画学校からの親友であるお笑い芸人の出川哲朗から「チェン」と、呼ばれているが、それはデビュー前から顔が似ているからである。タイトルは日本語題・原題の順 ※は監督兼任
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。