郵政省(ゆうせいしょう)は、2001年(平成13年)1月5日まで存在した郵便事業・郵便貯金事業・郵便為替事業・郵便振替事業・簡易保険(簡易生命保険事業)及び電気通信・無線・放送行政を取扱う中央省庁である。長は郵政大臣。設置当初は港区飯倉町(現在の麻布台)に所在した逓信省貯金局庁舎(1930年竣工)を引き続き郵政本省庁舎として使用した。なお、設置以前の1945年、空襲で被災した麻布郵便局がこの庁舎に仮住まいの後、正式に入居している。 俗称についてはなぜか外苑東通を介した反対側のロシア大使館一帯の地名である「狸穴(まみあな)」と呼ばれ、他の省庁が集積している霞が関から遠く離れていたこと、三公社五現業のひとつである郵政三事業を取扱う「現業官庁」であったが故、「三流(もしくは四流)官庁」「狸穴の田舎者」と揶揄され格下に見られていた不遇な時代が長く続いていた。しかし、後に内閣総理大臣にまで上り詰めた田中角栄が郵政大臣に就任したことを契機として、本省は1969年7月に霞が関(現在の日本郵政ビル)へ移転した。1984年7月、電気通信政策局・電波監理局の二つだった政策担当局を、情報化社会の到来とともに、通信政策局・電気通信局・放送行政局のマルチメディア三局に拡充させ、電気通信・放送行政を担う省庁として、「現業官庁」から「政策官庁」への脱皮として注目されるようになった。これにより、産業の育成を目的とする通産省と、情報通信分野における主導権争いを演じた。本省が霞が関へ移転した後も、飯倉の旧本省庁舎は長きにわたり「飯倉分館」として本省(後の郵政事業庁本庁、日本郵政公社本社)の一部部局、地方支分部局(関東郵政監察局)及び施設等機関(郵政研究所)の執務場所として使用され続けたほか、一時は発足間もない国土庁や総務省関東総合通信局の一部部局が入居していた時期もあった。 しかし、千代田区大手町にあった日本郵政公社東京支社(旧東京郵政局)が2005年5月に飯倉分館に移転、この建物を東京支社社屋として使用することとなったため、飯倉分館としての役目は終えたが、建物自体は民営化された2007年10月現在もなお「日本郵政グループ飯倉ビル」として使用され続けているほか、麻布郵便局も引き続き入居している。 かつて郵政省の管轄だったが現在は下記の関連病院となっている。大阪逓信病院は、旧逓信省が設置した後、電気通信省(後の日本電信電話公社)発足に伴い、同省に移管された。関東逓信病院(現・NTT東日本関東病院)は、日本電信電話公社発足後に同公社が設立したものであり、逓信省および郵政省に属したことがない。東北逓信病院(現・東北医科薬科大学若林病院)は、日本電信電話公社発足後に同公社が設立したものであり、逓信省および郵政省に属したことがない。その後、NTT東北逓信病院、NTT東日本東北病院を経て、学校法人東北医科薬科大学発足(医学部開設と同時に、学校法人東北薬科大学から改組)と同時に、同法人に移管され、現在の東北医科薬科大学若林病院に改称、現在に至る。 ただし、3病院とも、電電公社およびNTTグループの職域病院の時代から、郵政省職員の利用が可能であった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。