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武功夜話

『武功夜話』(ぶこうやわ)は、戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。ただし、成立年代や史料的価値には問題が指摘されている。『武功夜話』は、前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。3巻本、21巻本などいくつかの異本が存在している。前野家文書は、愛知県江南市の旧家(旧庄屋)吉田家に、先祖であると称する前野氏の歴史をまとめた書物として伝わっているもので、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で蔵中に入水し、中が露見して見つかったと称する。縁者の前野長康(本名は坪内光景)が豊臣秀次謀反によって切腹したこと、長康や編者の千代ら前野一族がキリシタンだったことから、人目につかないよう伝えられたという。前野家の縁者で豊臣秀吉に仕えて大名にのぼった前野長康(坪内光景)や、前野家と関係の深かったという蜂須賀氏、生駒氏などののちの大名家、そして生駒屋敷に出入りしていたという織田信長や豊臣秀吉の青年時代、桶狭間の戦いや墨俣一夜城の築城といった織田氏に関連する重要な事件について、類書には見えない情報を伝える。1987年に吉田蒼生雄によって「武功夜話21巻本」などが『武功夜話』として新人物往来社から刊行され、戦国史を覆す資料として注目されるようになった。この際、『永禄洲俣記』などの前野家文書も活字化されている。現在、一般に『武功夜話』といえば前野家文書のうち刊行された史料群を指すことが多い。なお、前野家文書は非公開である。享保期に尾張藩の内藤東甫が『張州雑志』執筆に関して吉田家に滞留1ヶ月して古文書を見たという説があるが、内藤東甫は享保8年(1723年)に誕生しており、享保年間に彼が執筆することは不可能である。『張州雑志』執筆は九代藩主徳川宗睦の命であり、『前野家文書』の記述と矛盾する。内藤東甫が丹羽・葉栗郡の執筆前に死去したため、結局、世に出なかったと記されるが、もし、完成したとしても藩蔵のため、明治期まで非公開であったとされる。上述の書籍化時にも一般には公開されていない。ただし、2000年には一部の学者により原本の成立時期などの調査が行われたほか、2005年の家系研究協議会記念大会時には、膨大な量の原本文書コピーや一部写真が研究家に公表されたが、原本が公表されることはなかった。吉田家は、東京大学史料編纂所の調査依頼に一度は応ずるが、結局約束を反故にしてその場に現れず、内容に関しても現代において作られたと考えられるものが多数含まれているにも関わらず、今に至っても原本の公表はおこなわれていない。現在明らかにされている原本『武功夜話』の系統は表題が若干異なるが、巻数の違うものが多種存在する。代表的なものは以下の通りである。刊行書籍は「21巻本」を書き下したものであり、これが後述の議論の元となっている。なお、吉田雄翟や千代によって著された原本は状態の悪化や散逸により残っておらず、写本も書写時期は明らかではない。2000年の原本調査では(調査は一部のみであるが)「江戸時代末期」とされており、それ以前の写本や明治以降に加筆されたものはないという。三鬼清一郎が『永禄州俣記』に「偽文書」が含まれているとして上記の3の刊行書籍を典拠に論文を発表し、その後を受けて偽書・偽文書説が巻き起こることとなる。研究家間では前野家文書の史料性について数々の疑問が提示されている。以前から服部英雄らは記述の史実との相違や合成地名が記述されている問題など疑問点を取り上げていた。これが事実であるならば、なぜ「存在しない土蔵から見つかったという出自から作る必要があったか」疑問が生ずる。

出典:wikipedia

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