筑摩(ちくま)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の2番艦。その艦名は、筑摩川(千曲川、信濃川の上流部)に因んで命名された。この名を持つ帝国海軍の艦船としては筑摩型防護巡洋艦1番艦筑摩に続いて2隻目。筑摩は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など太平洋戦争の重要な戦闘に参加し、レイテ沖海戦で沈没した。艦名は海上護衛隊の護衛艦に継承された。利根型2隻(利根、筑摩)はいずれも三菱重工業長崎造船所にて建造された。当初は15.5cm三連装砲塔を搭載予定であった。軍縮条約脱退により20cm連装砲塔4基を前甲板に集中させた航空巡洋艦となったが、書類上は二等巡洋艦(軽巡洋艦)である。筑摩は1935年(昭和10年)9月28日に命名。同時に朝潮型駆逐艦2隻(3番艦満潮、4番艦荒潮)も命名されている。3隻(筑摩、満潮、荒潮)は同日附で艦艇類別等級表に登録された。命名直後の10月1日、筑摩は起工。1938年(昭和13年)3月19日、進水。筑摩進水後の3月29日、本艦を建造した船台では大和型戦艦2番艦武蔵の建造が始まった。5月18日、日本海軍は筑摩と共に建造中の利根型1番艦利根艤装員長龍崎留吉大佐を筑摩艤装員長に任命、龍崎は利根型2隻(利根、筑摩)艤装員長を兼務する。5月19日、筑摩艤装員事務所で事務がはじまる。11月1日、龍崎大佐(利根、筑摩艤装員長)は敷島型戦艦2番艦(当時工作艦)朝日特務艦長に任命される。軍令部課長原鼎三大佐が利根艤装員長に補職。妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長友成佐市郎大佐が羽黒艦長と筑摩艤装員長を兼務することになった。11月20日、三菱長崎造船所で1番艦利根が竣工する。12月10日、友成大佐(羽黒艦長、筑摩艤装員長)は筑摩艤装員長との兼職を解かれ、西尾秀彦大佐が筑摩艤装員長に任命される。12月20日、西尾大佐は筑摩艤装員長と知床型給油艦4番艦佐多特務艦長の兼務を命じられる。1939年(昭和14年)1月28日、水上機母艦能登呂艦長来島茂雄大佐が佐多特務艦長を兼務することになり、西尾大佐の職務は筑摩艤装員長のみに戻った。5月20日、筑摩は就役した。同日附で艤装員事務所を撤去。西尾秀彦艤装員長は制式に筑摩艦長(初代)となる。横須賀鎮守府籍。筑摩竣工と同時期、最上型巡洋艦の15.5㎝三連装砲塔を20㎝連装砲塔に交換することになり、これに伴い日本海軍は最上型巡洋艦で編制されていた第七戦隊を解隊。第七戦隊司令官清水光美少将は5月20日附で、利根型2隻(利根、筑摩)で新編された第六戦隊司令官に補職される。清水司令官は第六戦隊旗艦を利根に指定した。7月下旬、第六戦隊(利根、筑摩)は舞鶴港に初入港。舞鶴に帰港するときは、艦載機を栗田水上機基地に預けることになった。10月10日、筑摩水雷長神田武夫少佐は第四艦隊副官に補職(後日、神田は駆逐艦潮艦長、野分艦長等を歴任)。10月20日、西尾(筑摩艦長)は呉鎮守府附となり(11月15日附で呉海軍工廠総務部長)、原鼎三大佐(利根艦長)が利根艦長と筑摩艦長を兼務する。11月15日、第六戦隊司令官は清水光美少将から田結穣少将に交代、第六戦隊は古鷹型重巡洋艦と青葉型重巡洋艦で再編される。軽巡洋艦で編制されていた旧第八戦隊は解散。利根型2隻(利根、筑摩)は再編された第八戦隊に移動し、第八戦隊司令官には後藤英次少将(前職第二水雷戦隊司令官)が任命される。第八戦隊旗艦は利根に指定。同日附で原大佐(利根艦長および筑摩艦長)は扶桑型戦艦2番艦山城艦長に転じ、大西新蔵大佐が利根艦長に、旅順要港部参謀長橋本信太郎大佐が筑摩艦長に、それぞれ補職。筑摩の幹部も交代し、駆逐艦白雲水雷長飛田清大尉が筑摩水雷長に(後日、駆逐艦「長波」艦長)、扶桑分隊長千早正隆大尉も筑摩分隊長に任命された。12月1日、利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴鎮守府に転籍する。利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴市民にとって親しみのある軍艦となった。1940年(昭和15年)3月下旬より中国大陸沿岸での作戦に従事。11月1日、筑摩艦長橋本信太郎大佐は伊勢型戦艦2番艦日向艦長へ転任(太平洋戦争前半の第三水雷戦隊司令官。レイテ沖海戦時の第五戦隊司令官)。河内型戦艦2番艦摂津特務艦長小暮軍治大佐が筑摩艦長に補職され、伊崎俊二大佐(重巡最上艦長)が最上艦長と摂津特務艦長を兼務する。10月11日、新鋭の最上型重巡3隻と利根型2隻(熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した。11月29日、第八戦隊司令官後藤英次少将は横須賀鎮守府附となり、海軍省人事局長伊藤整一少将が第八戦隊司令官となる。1941年(昭和16年)4月10日、海軍大学校長南雲忠一中将が第一航空艦隊司令長官に補職。伊藤整一少将は第八戦隊司令官から連合艦隊参謀長(第一艦隊参謀長兼務)へ転任(当時の連合艦隊司令長官は山本五十六大将)。軍令部第一部長宇垣纏少将が伊藤の後任として第八戦隊司令官となった。8月1日附で伊藤整一中将は連合艦隊参謀長を免じられ、第八戦隊司令官宇垣纏少将は連合艦隊参謀長に転出。後任の第八戦隊司令官は阿部弘毅少将となる。8月11日、小暮軍治大佐(筑摩艦長)は長門型戦艦2番艦陸奥艦長へ転じ、海軍省教育局第二課長古村啓蔵大佐が筑摩艦長(五代目)として着任され、筑摩は古村艦長の元で太平洋戦争に突入した。計画上は水上偵察機6機搭載可能だったが(筑摩での実験では三座水偵4機、複座水偵4機、計8機搭載)、搭乗員の不足と機数の不足から、水上偵察機4隻(二座2機、三座2機)に制限された。太平洋戦争初期は第一航空艦隊(通称:南雲機動部隊)に属し、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃に参加。第一次攻撃隊に先駆けて筑摩から零式水上偵察機(岡政治飛行兵曹長)が発進してオアフ島周辺を偵察、午前3時8分「敵艦隊真珠湾ニ在リ、真珠湾上空雲高1700米、雲量七、0308」「真珠湾在泊艦ハ戦艦10、甲巡1、乙巡1」「真珠湾上空、風向80度、風速14米」を発信した。日本への帰途中、第八戦隊(利根、筑摩)、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)は南雲機動部隊本隊から分離、南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦鹿島)の指揮下に入り、ウェーク島第二次攻略戦に参加する。筑摩艦載機は敵情偵察、対潜警戒に活躍したが、1機が大破した。12月29日、日本本土の柱島泊地に帰投した。1942年(昭和17年)1月10日、第二航空戦隊と共に日本を出撃し15日にトラック泊地に着いた。同月24日のアンボン空襲や2月19日のポートダーウィン空襲を支援した。3月1日、クリスマス島付近で米駆逐艦エドサル("DD-219 Edsall")と遭遇する。姉妹艦利根や第三戦隊の金剛型戦艦2隻(比叡、霧島)と共にエドサルを撃沈したが、約1時間半の砲戦で36cm砲弾297発、20cm砲弾844発を消費している。霧島・利根はエドサルを米軽巡マーブルヘッドと錯覚し、また比叡・筑摩は敵艦が駆逐艦であると見抜いたものの、回避行動を行う相手に命中弾を得られなかった。4隻がエドサルを撃沈できたのは、空母赤城・蒼龍から発進した九九式艦上爆撃機計17機が命中弾と至近弾を与え、エドサル撃沈のお膳立てをしたからである。また同日にはジャワ島南南西200浬地点でオランダの貨物船メイモットヨート(8,000t)と遭遇した。まず第27駆逐隊の駆逐艦2隻(有明、夕暮)が砲撃を行ったがなかなか撃沈できなかった。さらに陽炎型駆逐艦複数隻(不知火、磯風)も砲撃に加わった。すると旗艦赤城の左舷後方にいた筑摩は独断で砲撃を開始し、20cm砲弾が赤城の頭上を飛び越えていった。南雲長官は直ちに射撃中止命令をおくったが、筑摩は射撃停止までに数斉射を放ち、メイモットヨート(モッドヨカード)を撃沈している。3月4日、ジャバ島南岸チラチャップに接近、オランダの商船エンガノ(1万5000t)を駆逐艦浦風(第17駆逐隊)と共に撃沈した。当初筑摩は主砲の砲撃でエンガノを沈めようとしたが、徹甲弾を使用したため船体に穴をあけるのみであり、魚雷を使用せざるを得なくなった。発射雷数1本。その後も筑摩は機動部隊の構成艦として転戦し、4月にはインド洋に進出し4月5-9日のセイロン沖海戦に参加、4月23日に舞鶴着。舞鶴海軍工廠で各部の修理を行う。5月16日、舞鶴出港。柱島泊地へ移動する。1942年(昭和17年)5月27日、柱島泊地を出撃した。第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊〔旗艦《長良》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲、秋雲》〔秋雲は燃料補給部隊護衛〕 、第4駆逐隊《嵐、野分、萩風、舞風》〕)としてミッドウェー海戦に参加する。6月5日、南雲機動部隊からは計7機の偵察機が発進予定であった(筑摩水偵2機、利根水偵2機、榛名水偵1機、赤城艦攻1機、加賀艦攻1機)。筑摩1号機は午前1時35分に、筑摩4号機は午前1時38分に発進して機動部隊北北東方面を索敵、このうち筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長。旧姓都間。海兵66期)はアメリカ軍機動部隊の上空を通過したが、雲のため見逃している。またアメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかったこともアメリカ艦隊発見の遅れに直結し、敗因の一つになったと言われる。午前5時30分、利根4号機がアメリカ軍機動部隊の存在を報告、午前6時38分に筑摩5号機が利根4号機と交代するため発進した。空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)がアメリカ軍機動部隊から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲攻撃で被弾炎上すると、筑摩5号機は空母飛龍の攻撃隊を誘導。米空母ヨークタウン ("USS Yorktown, CV-5")の撃破に貢献したが、5号機は帰投せず行方不明となった。また筑摩は蒼龍の被弾炎上を目撃し、古村(筑摩艦長)は親交のあった柳本柳作大佐(蒼龍艦長。柳本は古村の後任の駐英武官)を気遣い、筑摩のカッターボートを救援に派遣している。蒼龍沈没時、第17駆逐隊第2小隊(浜風、磯風)が乗組員の救助を実施。筑摩が残したカッターボートは放棄されたが、艇員8名は磯風に収容された。6月24日、第八戦隊は内地(大湊)に帰投。北方作戦を支援後するて。7月14日、南雲忠一中将は第三艦隊司令長官に補職、三川軍一中将は第八艦隊司令長官に、第八戦隊司令官阿部弘毅少将は第十一戦隊司令官へ転任。解隊された第五航空戦隊司令官原忠一少将が第八戦隊司令官となる。また搭載水上偵察機も三座水偵に統一した。北方作戦支援を終えた第八戦隊(利根、筑摩)は桂島泊地を経て、7月16日に舞鶴へ帰港。同地では軽巡那珂や駆逐艦複数隻(大潮、薄雲)等と共に、修理と整備に従事する。8月6日、第八戦隊(利根、筑摩)は舞鶴を出発。新司令官を迎えた第八戦隊(利根、筑摩)は、ガダルカナル島の戦いにともなう第二次ソロモン海戦(1942年8月)、南太平洋海戦(1942年10月)に参加した。10月22日、筑摩は秋月型駆逐艦2番艦照月(第61駆逐隊司令則満宰次大佐)と共に機動部隊から分離し南方で索敵を行うがアメリカ艦隊を発見できず、本隊と合流した。南太平洋海戦では前衛艦隊に所属し、機動部隊本隊の前方を進んだ。10月26日午前6時30分、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦比叡)を指揮官とする機動部隊前衛は、(戦艦《比叡、霧島》、重巡《筑摩、利根、鈴谷》、軽巡《長良》、駆逐艦《谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲》)として行動。同隊は筑摩を先頭とした単縦陣となり、針路90度、速力30ノット、各艦距離1万3000mで東方に進撃していた。午前7時にアメリカ軍偵察機が出現した。それ以降断続的に空襲を受け、午前7時26分以降、空母エンタープライズ ("USS Enterprise, CV-6")のSBDドーントレスの急降下爆撃により、艦橋左舷、主砲指揮所、艦橋右舷に爆弾が命中。広瀬貞年中佐(筑摩副長)、砲術長北山勝男少佐(砲術長)、山口栄治大尉(水雷長)、飛行長斎藤仁大尉等幹部多数が戦死、古村啓蔵大佐(艦長)と沖原秀也中佐(航海長)も負傷。さらに至近弾により右舷缶室に浸水して右舷に傾斜、速力23ノットとなる。僚艦利根はスコールに隠されたためアメリカ軍機の攻撃を受けず、重傷を負った古村(艦長)は「爆弾の配給も、少しは公平にして貰いたい」と回想している。筑摩の古村艦長は午前7時47分に酸素魚雷を投棄させたが、3分後、魚雷発射管付近に直撃弾があった。酸素魚雷の誘爆という致命的事態は免れるも艦載機が炎上、戦闘不能状態となる。午前8時35分、原忠一第八戦隊司令官は第17駆逐隊(谷風、浦風)を護衛につけトラック回航を命令、3隻(筑摩、浦風、谷風)は午前9時20分頃に前衛艦隊と分離して退避した。戦闘配食にコーンビーフが出たが、戦死者の肉片が散乱し食事どころではなかったという。正午すぎ、B-17爆撃機数機の水平爆撃を受けるも、アメリカ軍が筑摩の速力を過大に見積もったため命中しなかった。29日午前、トラック泊地に到着。山本五十六海軍大将(連合艦隊司令長官)が視察に訪れ、乗組員の労を労っている。この海戦で乗組員937名の筑摩は副長・砲術長・主計長を含む162名(883名中151名。また戦死192名・重軽傷95名とも)の戦死者を出した。この後、南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(熊野、筑摩)は駆逐艦8隻(第4駆逐隊《嵐、野分》、第61駆逐隊《秋月》、第10駆逐隊《秋雲》、第17駆逐隊《浦風、谷風、磯風、浜風》)に護衛されて内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した。11月10日、古村啓蔵大佐(筑摩艦長)は横須賀鎮守府附となり退艦(12月5日より戦艦扶桑艦長。翌年6月9日、戦艦武蔵艦長)。またサボ島沖海戦で大破した青葉型重巡洋艦1番艦青葉艦長久宗米次郎大佐が長門型1番艦長門艦長へ転じ、同海戦で沈没した古鷹型重巡洋艦1番艦古鷹艦長荒木伝大佐が筑摩艦長と青葉艦長を兼務する。12月31日、田原吉與大佐が青葉艦長および軽巡大淀艤装員長に補職、荒木大佐の職務は筑摩艦長のみとなる。1943年(昭和18年)1月20日、重永主計大佐が筑摩艦長に任命される。荒木大佐(前筑摩艦長)は佐世保海軍港務部長へ転任した(後日、ラバウル空襲で戦死した中岡大佐の後任として重巡愛宕艦長)。2月末に修理を完了し、利根に先駆けてレーダーを装備し下甲板舷窓を閉鎖する不沈対策を行った。同時期、僚艦利根も内地に戻り、呉や舞鶴で修理に従事する。3月15日、第八戦隊司令官は原忠一中将から岸福治少将(第九戦隊司令官)に交代。3月22日、第二航空戦隊司令官角田覚治少将指揮のもと、空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻(夕暮、陽炎、初月、涼月)は内地を出発、3月27日にトラックへ到着した。4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、宇垣纏連合艦隊参謀長(元第八戦隊司令官)が負傷する海軍甲事件が起こった。後任の連合艦隊長官古賀峯一大将の指揮下、山本の遺骨を乗せた大和型戦艦2番艦武蔵が内地に帰投する。5月17日、戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《有明、時雨》、第61駆逐隊《初月、涼月》)はトラック泊地を出発。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)。5月24日附で筑摩水雷長は高橋達彦大尉(後日、吹雪型12番艦「敷波」艦長。同艦沈没時に戦死)から、陽炎型駆逐艦16番艦嵐水雷長等を歴任した田中一郎大尉に交代した。25日は木更津沖に移動した。アッツ島の戦いにより北方作戦に備えたが、同島守備隊は5月29日に玉砕した。6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始する。つづいてニュージョージア島にも上陸を敢行し、ニュージョージア島の戦いが始まった。7月8日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将指揮下の空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、沖鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型《玉波》)は内地を出撃。7月15日、トラック泊地に到着。続いて第八戦隊司令官岸福治少将指揮下の巡洋艦部隊(利根、筑摩、最上、大淀)及び第十戦隊(阿賀野、磯風、嵐、萩風、初月、涼月)はラバウルに進出。利根は嵐、筑摩は萩風、大淀は磯風に接舷しそれぞれ補給を実施。準備完了後、第十戦隊司令官大杉守一少将(萩風座乗)指揮下の4隻(水上機母艦《日進》、不知火型3隻《萩風、嵐、磯風》)はラバウルを出撃、ブーゲンビル島のブインへと向かうが、ブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け日進が沈没した。このあと、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の第4駆逐隊(萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった(2隻は8月6日のベラ湾夜戦で沈没)。他艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投した。以後は主に中部太平洋で行動した。10月16日、利根がタービンの機関故障で3軸運転となり、これに伴い第八戦隊旗艦となる。利根は本格的修理のため内地に向かった。11月1日、アメリカ軍がタロキナ岬(ブーゲンビル島)に上陸したことでブーゲンビル島の戦いが生起。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、第一航空戦隊航空兵力(ろ号作戦参加)に続いてトラック泊地所在の水上兵力主力を南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将)に編入する。11月3日午前7時45分、遊撃部隊指揮官(第二艦隊司令長官栗田健男中将、愛宕座乗)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《鈴谷、最上》、第八戦隊《筑摩》)、第二水雷戦隊(軽巡《能代》、第32駆逐隊《玉波、涼波、藤波、早波》)としてトラック泊地を出撃。栗田艦隊は11月4日午前10時頃より、連合軍機による触接を受ける。また駆逐艦島風等が護衛していたタンカー日章丸がカビエン(ニューアイルランド島)北方で空襲を受け損傷したため、栗田中将は艦隊より2隻(鳥海、涼波)を日章丸救援に派遣した。夜、夜間攻撃を受けるが被害なし。11月5日朝6時、栗田艦隊(遊撃部隊)はラバウル(ニューブリテン島)に到着。約2時間後の午前9時以降、米機動部隊による空襲を受け、栗田艦隊は摩耶大破航行不能等の損害を受けた。筑摩は9時31分、右舷カタパルト付近に至近弾を受けた。軽傷3名、一番魚雷発射管が使用不能、若干の浸水という被害が発生したが、他の艦に比べて損害は軽かった。南東方面部隊はラバウル進出中の2隻(鳥海、涼波)を含めて遊撃部隊のトラック泊地帰投を命令。11月7日、筑摩以下重巡部隊はトラックに帰投した。その後、内南洋方面諸島を行動していた。12月7日、駆逐艦3隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第17駆逐隊《谷風》)に護衛された呉回航部隊(重巡《筑摩》、空母《瑞鶴》)はトラック泊地を出発(谷風は途中で反転)、筑摩以下各艦は12月12日に呉へ到着した。損傷の修理と並行して利根で問題となったタービンの修理を行った。1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解隊(八戦隊司令官岸福治中将は軍令部出仕)。この再編により利根型重巡洋2隻(利根、筑摩)は最上型重巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、最上)で編制された第七戦隊に編入される。当時の第七戦隊司令官は西村祥治中将。1月10日、筑摩艦長は重永主計大佐から則満宰次大佐(海軍機雷学校教頭)に交代。則満は南太平洋海戦時の第61駆逐隊司令である。2月6日、翔鶴型空母2隻(翔鶴、瑞鶴)は巡洋艦2隻(筑摩、矢矧)および駆逐艦5隻(第61駆逐隊《初月、若月》、第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》)は内地を出発。2月13日、シンガポール(リンガ泊地)に進出。3月上旬、利根型重巡2隻(利根、筑摩)は南西方面艦隊所属の第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)の指揮下に入り、重巡3隻(青葉、利根、筑摩)でインド洋における通商破壊活動を実施する。この時、撃沈した商船ビハール号捕虜の処遇に関し、戦後になり問題が発生した(ビハール号事件)。3月25日、第七戦隊司令官は西村祥治中将から白石萬隆少将に交代(西村中将は9月10日より第二戦隊司令官)。本艦は3月から5月までインド洋で通商破壊戦に従事した後(前述)、機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。本海戦で前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)所属の各艦(第四戦隊《愛宕、高雄、鳥海、摩耶》、第一戦隊《司令官宇垣纏中将:大和、武蔵》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》、第七戦隊、第二水雷戦隊等)が小沢機動部隊本隊の攻撃隊を誤射する中、則満(筑摩艦長)は射撃命令を出さず筑摩は発砲しなかった。内地帰投後、7月9日に出撃し、リンガ泊地へ向かう。1944年(昭和19年)9月10日、筑摩水雷長は田中一郎大尉から、駆逐艦子日水雷長や長波水雷長等を歴任した西村正直大尉に交代。後日、田中大尉(少佐)は松型駆逐艦15番艦「椿」艤装員長および初代駆逐艦長となった。10月15日、第七戦隊司令官白石萬隆少将は海軍中将に昇進。10月下旬、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)は栗田艦隊(第一遊撃部隊)に所属してレイテ沖海戦に参加。黛治夫(利根艦長)によれば、則満(筑摩艦長)は作戦の失敗を予見して「だいたい沈められることになる」と語ったという。筑摩は水上偵察機5機を搭載し、索敵任務に投入した。空襲直前には、搭載していた1号機と2号機を発進させている。10月25日、サマール島沖海戦に於いて第七戦隊各艦は、戦艦金剛、重巡羽黒(第五戦隊司令官橋本信太郎少将旗艦)と共に米護衛空母ガンビア・ベイ ("USS Gambier Bay, CVE-73")等 を砲撃した。海戦序盤、第七戦隊旗艦熊野が被雷して落伍すると、則満筑摩艦長が臨時に第七戦隊の指揮をとった。七戦隊司令官白石中将は熊野から「鈴谷」に移動するが、同艦も被弾して速力低下をきたす。このあと「鈴谷」は酸素魚雷の誘爆により沈没した。ガンビア・ベイの艦長の証言によると最初の着弾があったのが0820頃、0850頃にガンビアベイの破棄を決定、0910頃にガンビア・ベイは沈没した。またガンビア・ベイのベテラン乗組員の証言によるとガンビアベイは最後尾に置かれ戦艦及び重巡からの直撃弾を繰り返し浴び0907に沈没したと述べられている。ガンビアベイは戦艦及び重巡の砲撃によって前部機関室に浸水が発生しエンジン1機を失い、最終的に、6隻の重巡洋艦が距離2000ヤード(約1.8288Km)まで接近し8インチ銃からの約20発の砲撃を浴びせガンビア・ベイは沈没したとされている。だが追撃戦中の8時53分頃、筑摩はアメリカ艦載機により魚雷1本を艦尾に受けて火災が発生した。艦艇研究家木俣滋郎によれば、護衛空母ナトマ・ベイから発進したTBF アヴェンジャーによる雷撃である本艦は舵故障と速力低下のため艦隊より取り残されて落伍、応急修理を実施した(利根は羽黒に続行)。10時20分頃から再びアメリカ軍機の空襲を受ける。生存者の証言によれば、弾薬が尽きて演習弾で応戦するものの、午後4時頃に艦中央部に複数の命中弾を受ける。左舷に傾斜し、総員退艦が発令された。筑摩はその後、警戒艦に指定された駆逐艦野分(第4駆逐隊)により雷撃処分された。海面を漂っていた筑摩生存者は120名余が野分に救助されたが、野分もその晩にアメリカ艦隊に捕捉され撃沈された。野分に救助されなかった短期現役士官のみ、3日間の漂流ののちにアメリカ海軍に救助され、戦後日本に帰還した。筑摩・野分の生存者は、筑摩航空機搭乗員を除けば1名のみであった。筑摩搭載偵察機は2機が未帰還機となり、2機が不時着して失われ、1機が稼動状態にあった。また重巡鳥海も航行不能となったあと夕雲型11番艦藤波(第32駆逐隊)に処分された。だが藤波も戦場離脱中に撃沈され、鳥海乗組員ごと全滅した。11月21日、第七戦隊は解隊された(白石司令官は軍令部出仕)。残存していた重巡2隻(熊野、利根)は第五戦隊(妙高、羽黒)に編入された。筑摩が所属していた舞鶴鎮守府(舞鶴海軍工廠)では、単艦で帰投した利根を見て筑摩の沈没を覚ったという。1945年(昭和20年)4月20日、筑摩は海軍から除籍された。利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意されたいところ。レイテ沖海戦時(最終時)の筑摩の機銃とレーダー(電探)は、と推定される。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。