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西本幸雄

西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手)。現役時は毎日オリオンズでプレーした。引退後は大毎オリオンズや阪急ブレーブス、近鉄バファローズでコーチ・監督を務めたほか、晩年まで野球解説者、野球評論家として活動した。1988年には野球殿堂入りしている。父親は日本勧業銀行和歌山支店の支店長であり、裕福な家庭に育つ。1933年に野球の名門校だった旧制和歌山県立和歌山中学校へ進学するが、当時は野球部に入れば「勉学をあきらめる覚悟が必要」だったため入部を諦め、3年時にはラグビー部に所属していた。しかし、4年生の秋、5年生7人が引退して5人だけになった野球部に入部し、二塁手と一塁手を務め、時にはリリーフ投手としてマウンドにも立った。1937年夏の甲子園の紀和大会予選決勝では、旧制和歌山県立海草中学校と対戦。当時3年生の嶋清一の前に敗れて甲子園出場はならなかった。1938年に旧制立教大学へ進学。当時の野球部には監督がおらず、後には実質的な監督役を務めている。文部省の命令でリーグ戦が中止となった1943年5月には、自ら申し入れて旧制明治大学との対外試合をおこなった。学徒出陣により同年秋に応召。陸軍中尉にまで昇進し、温情に満ちた隊長として部下に尊敬されていた。中国で終戦を迎え、復員後は東洋金属、八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人チームを渡り歩く。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場し、チームを優勝に輝いた。1950年、毎日オリオンズに入団。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。1952年には主将となり、1954年からはコーチを兼任。1955年引退。その後も毎日・大毎に残留し、二軍監督(1956年 - 1958年)、ヘッドコーチ(1959年)を務めた。1960年に前年限りで退任した別当薫に代わって監督に就任。永田雅一オーナーは別当の後任に他球団からスターの監督を迎えようしたが上手くいかず、そんな時に相談したのが南海の監督の鶴岡一人で鶴岡は「外で探さなくとも、チーム内に適任がいるではないか」と名前を挙げたのが西本であった。永田は鶴岡の助言に渋々承諾した。1年目にしてチームをリーグ優勝に導いたが、日本シリーズ第2戦での戦術(1死満塁のチャンスにスクイズプレイを仕掛けたがダブルプレー)を巡り永田オーナーと対立し、責任を取る形で辞任した(辞任の経緯については後述)。その後は日本短波放送「プロ野球ナイトゲーム中継」解説者、スポーツニッポン評論家 (1961年)を務めた。1962年、阪急ブレーブス一軍コーチに就任。1963年からは監督に昇格。就任当時は弱小球団だったブレーブスを基本から厳しくたたき上げ、1年目のキャンプではキャッチボールから教えた。1967年に初優勝を飾ると、1973年までの11年間で5度のリーグ優勝に導き、常勝球団へと育て上げた。日本シリーズでは5度いずれも川上哲治率いるV9時代の読売ジャイアンツに敗れた。1974年より近鉄バファローズ監督を務める。ここでも弱小だったチームを一から鍛えあげ、1979年に球団初のリーグ優勝を果たした(2シーズン制時代の1975年に後期優勝)。日本シリーズでは広島東洋カープの前に敗れまたしても日本一を逃す。1980年もリーグ優勝するが再度、日本シリーズでカープに敗れた。1981年勇退。その後は関西テレビ(1982年 - 2003年)、ニッポン放送(1982年 - 1990年)の解説者、およびスポーツニッポン(1982年 - 2011年)で評論家として活動していた。1988年、野球殿堂入り。監督勇退後は長らくプロ野球ニュース(フジテレビ系)の解説者を務めたが、東京(フジテレビ)のスタジオに出向くことは比較的少なく、特に高齢となった1990年代後半からは大阪・関西テレビからの中継が多かった。この他、1984年オフに大洋、同年限りで辞任した安藤統男の後任監督として阪神から監督就任要請を受けるも、表向きは高齢であることを理由に辞退している。2003年9月15日には、阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた阪神対広島戦を最後に、高齢ということもあり同局の解説業から勇退した。晩年はめったに公の場に登場する機会はなく、兵庫県宝塚市にて隠居生活を送っていた。また2008年7月8日に夫人を亡くしたことを、2011年元日よりスポーツニッポン紙上で連載を始めた自身の回想録『我が道』にて明らかにした。2011年11月25日午後8時40分、隠棲していた兵庫県宝塚市の自邸に於いて心不全のため死去。。その葬儀は同29日に自らが采配を揮った阪急西宮スタジアムの跡地(現在の阪急西宮ガーデンズ)にほど近いエテルノ西宮にて執り行われた。法名は「慈徳院釋将幸」(じとくいんしゃくしょうこう)。弔辞は梨田昌孝が読んだ。20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「もし、私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してからも野球に再会できたり、大毎・阪急・ここ(近鉄)の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。“悲運の名将”なんておこがましい。敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」と語っている。3つのチームを優勝に導いた監督は、プロ野球史上で西本、三原脩、星野仙一のみである(2015年現在)。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)、星野がセ・リーグの中日・阪神とパ・リーグの楽天だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は極めて稀である(他には巨人・東映を率いた水原茂、ヤクルト・西武を率いた広岡達朗、近鉄・オリックスを率いた仰木彬など)。1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。選手にこれほど慕われた監督は珍しく、勇退表明後、最後の試合となった1981年の近鉄対阪急最終戦(日生球場)では両チームの選手から胴上げされた。阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急の森薫オーナーに対して近鉄の監督に迎えたいという要請があり、森オーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾した。近鉄との契約の席には森と近鉄社長の今里英三が同席する異例の形となった。このため、後に野村克也や星野が阪神の監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。西本は戦前・戦後の野球界の実情を知る数少ない人物でもあっただけでなく、鶴岡一人、千葉茂亡き後、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮として多大な影響力を持っていた人物であった。西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤英司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊などが挙げられる。指導者について厳しい評価をすることで知られている広岡達朗は自著『意識革命のすすめ』で、西本をその育成能力の高さから、「プロ野球史上最高の監督」として評価している。野村克也も「西本さんを大監督として深く尊敬している。自分が南海監督を解任されたときにただ一人、お前は間違っていないと励ましの手紙をくれた。人間的にも大人物だった」といい、吉田義男は「西本さんは名将であり、名コーチでありました」と話している。上田利治は「阪急では改めて西本さんのすごさを感じました。本当に野球が好きで、チームを強くしたいという熱い気持ちがある。その分、選手にもなかなか妥協しない。でも、ただ怒るんじゃなくて、俺がここまでやるんだからお前もと引っ張る感じですね。厳しさと優しさがあった」、「あの情熱と責任感、忍耐力。決して自分が表に出るわけじゃなく、しゃべる人でもなかったけど、ひとつひとつの言葉が重かった。戦争体験も大きく関係してると思うけど、もうああいう監督、リーダーは出てこんでしょうね」と西本について語っている。西本の近鉄監督時にコーチを務めていた仰木彬は、近鉄監督就任時の会見で「目標は将来につなぐ為に若い選手を育成し、勝つこと。私は三原さんから知を学び、西本さんから情熱を学んだ。お二人の足したような野球がやりたい」と抱負を語っていた。阪急監督時代、「良い外野手を作るには良いノッカーを作らなければならない」という考えから、当時打撃コーチだった中田昌宏に速く伸びる打球を打つように練習させた。福本豊は「ノックを受けた阪急の外野手は、そりゃうまくなりましたね」と振り返っている。佐々木信也(スポーツ評論家)がNHK教育テレビジョン「知るを楽しむ」で語ったところによると、1960年の日本シリーズ開幕を翌日に控え、西本と大洋ホエールズの三原脩監督の直前対談(佐々木司会)が日本教育テレビ(NETテレビ。現・テレビ朝日)の生放送で行われることになっていた。ところが生放送のスタジオに三原がなかなか現れず、18時の放送開始当初から佐々木と西本による2人での座談会に終始した。これに西本は激昂し退席しようとしたが、佐々木が引き止めて何とか30分の対談は行われた。しかし三原はとうとう出演せず、本番終了後も西本の怒りは収まらず、NETからの出演ギャラも受け取らずに早々に自宅に引き上げた。チームをリーグ優勝に導いた1960年の日本シリーズ終了後、在任わずか1年で西本は大毎監督を辞任する。その原因は、日本シリーズの采配にあった。三原脩監督率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。さらにこの試合で本塁打を放っていた榎本喜八にバントを命じてランナーを送らせ、1死二・三塁のチャンスを作った。ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ、次の谷本稔と勝負する作戦に出た。谷本の第1打のファウルの後、西本はスクイズプレイのサインを送った。第2打で、谷本はサイン通りスクイズを仕掛けたが、打球はグラウンドでバウンドして捕手・土井の方向に転がった。土井は即座にボールをつかむと、本塁に駆け込んできた坂本にタッチした後、一塁に送球して打者走者の谷本を刺しダブルプレーとした。結局大毎はこの試合を落とし、2連敗を喫した。大毎のオーナー・永田雅一は試合をプロ野球関係者と一緒に観戦していたが、このスクイズを「今のはどうなの?」と聞くと、その関係者は今の場面でスクイズはありえない、と説明したため、試合後、永田は西本に電話を入れ、「ミサイル打線を誇る大毎が、好機にバントなどというアホらしい作戦を採るとは何事か!!」とスクイズの件を非難した。しかし西本も「打線の状態は私が一番熟知しているので、ご安心下さい」と主張して退かなかった。このシーズン、大毎は18連勝(1引き分け挟む)するなど快調に飛ばしていたが、終盤失速し、優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。その後、永田の「あのバントはない。評論家もみなそう言っている」という言葉に、西本が「作戦は監督が決めるものです。だからこそ責任もとる。しかし、無責任な評論家が事後にいうことによって何かを言われるのは心外です」と反論したため、永田は激怒。「馬鹿野郎!!」と西本を罵り、西本は「馬鹿野郎とはなんですか、撤回していただきたい」と取り消しを求めた。しかし永田は応じず、そのまま電話を切ってしまい、会話は終わった。結局、日本シリーズは大毎のストレート負けで終わり、西本は現役時代から所属した大毎を実質的な解任で去った。伊集院光によると、TBSに入社した永田の孫の守は「もし横浜(TBSは大洋の後身である横浜を2002年に買収)が優勝を狙えるチームになったら、西本さんを監督に招いて、『これで亡き祖父を許してくれないか』と伝えたい」と語ったという。当時大毎のスカウトを務め、永田雅一のもとにいた青木一三は、西本の監督退任について以下のように記している(要約)。「永田はシリーズ終了後に一応西本が挨拶に来るのを待っていたが、毎日新聞系の球団幹部が西本を温泉に「隔離」して会わせなかった。これを大映と毎日の「二頭政治」の弊害だと考えた永田は経営を大映に一本化して毎日側の役員を退任させ、同時に毎日側の役員が就任させた西本も合わせて退任した。」これに対して西本は1967年の座談会で、シリーズ終了後2日ほど自宅に帰る気になれず「雲隠れ」したものの、青木が言うようなことはなかったと発言。戻ったあとに後援者などによる「残念会」の席で「4連敗についてはおわびせにゃいかんな」と電話のダイヤルを回しかけたが、「もうやめたらどうか」という声が参加者からあがったため、かけずにそのままになり、足を運んでお詫びをする気にもならないでいたところ、監督やスタッフが決まっていたと述べている。西本はその後永田のもとに出向いて「お世話になりました」とだけ挨拶したという。西本は2001年のインタビューでは「解任されたのか自分から辞めたのか、どちらかよくわからない」と語っている。沢木耕太郎は、西本が監督を辞めたことにより、「(永田は)オリオンズの黄金時代を築ける芽を潰してしまった」と指摘している。西本の次になった監督は、同年にセ・リーグで国鉄を最下位にしてクビになっていた宇野光雄であり、永田が宇野を選んだ理由は「元巨人の選手(知名度がある)」だったからであった。1960年オフの西本辞任以降、オリオンズは低迷するようになり、永田は監督に苦労し、後の山内一弘のトレード放出などによる「ミサイル打線」の解体に繋がった。西本は後年に「公平に見て、本来なら3・4年はミサイル打線をもつオリオンズの天下が続いたはずや」と述べている。第2戦のスクイズの采配は波紋を呼び、更に大毎は第3戦・第4戦と続けて1点差で敗れた。これによって敵将の三原監督は、このシリーズを観戦していた石原慎太郎に「三原はおそらく当代のヒーローだろう」と賞賛されるなど、声価を高めた。一方、シリーズ終了後に西本は三原と比較され、特に第2戦のスクイズの采配に批判が集中した。監督1年目にしてリーグ優勝という功績は忘れ去られ、多くの評論家が西本にクレームをつけた。西本は後年、「今でもあのスクイズが誤りとは思っていない」と語っている。1963年、西本は戸倉勝城の後任として阪急監督に就任した。弱小チームを立て直すためキャッチボールのやり方からやり直させるという厳しい練習姿勢で臨んだが、就任1年目でチームは最下位に転落する。この当時の阪急は「灰色の時代」と揶揄されるほどの弱小球団であった。1966年シーズン終了の時点で、1964年の2位が最高で、1965年は4位、1966年は5位と、後はBクラスだった。幾ら自分が汗水たらしても選手が付いていかずに悶々していた西本は、その年の秋季キャンプ初日、一軍マネージャーの矢形勝洋を介して選手に信任投票を義務付けるという思い切った策に出た。「監督についていけるものは=○、ついていけないものは=×を書くこと」というもので、西本は選手全員が自分を信頼しているか否かを見極める、という意図があった。投票の集計結果は○32、×11、白紙4。「×が一票でもあれば辞任する」と決めていた西本は「こんな結果ではチームは動かない。どうせなら俺がやめるしかない」と判断し、小林米三オーナーに辞任を申し入れ、自宅にこもってしまった。「×11、白紙4」という結果には、「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった。当時のエース米田哲也は「西本さんはとても困った監督で、練習態度が悪かったり試合前に飲んで二日酔いでゲームに出れば、たとえ主力でも使ってもらえなかった。試合での活躍が月給にはね返る我々としては、たとえふらついていようが試合に使ってもらいたい…と考えていた。でないと、勝てない。これを考えると西本さんの厳格さは困ったものだ」と引退後に述懐している。選手には西本を排斥する意図はなかった。それでも西本が辞任にこだわった背景には、岡野祐社長(のちパシフィック・リーグ会長)ら当時の球団フロントへの不信感があった。西本は、主力選手がフロントとの酒席で自分への不満を漏らしている事実を掴んでいた。また一部のフロントは、その年ヘッドコーチに就任した青田昇を可愛がっていて、青田を次期監督にしたいと考えていたといわれる。西本は「フロントが自分を辞めさせたがっているのではないか」と疑心暗鬼に駆られながらも、「偉い人との酒の席だから口先を合わせているだけで、本当は理解してくれている」と選手を信じていた。西本の辞任申し入れで、一部フロントが企図した「青田体制」は実現に向かって前進したかに見えた。しかし小林は、西本に対しては「報告は球団社長(=岡野)から聞く」と縦の線を守り通しつつ、岡野に対し「たとえ何年かかろうと西本を翻意させろ! 阪急の再建は西本以外にない!」と説得を厳命。岡野から「小林オーナーがお前を信頼している」と告げられ、辞意を撤回した。同時に西本は、「組織としては非常に危険な考えかもしれないが、俺が監督である間は、選手個々の意志に遠慮する事無く、俺が思う方向へ選手を持っていくしかない」と腹を括ったという。翌1967年、阪急は球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たす。これ以降、阪急は西本が1973年限りで勇退するまでリーグ優勝5回の第一期黄金時代に入った。西本は、大毎監督だった1960年にも似たような事件を起こしている。当時の大毎には前監督の別当薫を慕う「別当派」と呼ばれる選手がおり、九州でのオープン戦では球場に来ないなどして西本に反抗していた。西本はチーム分裂を憂い、後日のミーティングで「監督として俺を信任するかしないか、投票を行ってくれ」と言い残して部屋を去った。それから選手だけによる話し合いが行われたが、山内一弘の「俺は野球さえやれればそれでいい。だから監督が別当さんだろうが西本さんだろうがかまわない」という言葉に榎本喜八が同調したことから、事態は収拾。結局、信任投票は行われなかった。西本はリーグ優勝によって選手の信頼を勝ち得ることができ、監督を辞任する時には選手たちから時計を贈られたという。1975年後期、阪急西宮球場での対阪急戦、試合中に西本が羽田耕一を殴打した事件である。この年、近鉄は阪急のルーキー山口高志に苦戦し、この試合も阪急は山口がリリーフで投げていた。西本監督は試合中、自軍の攻撃が始まる前に円陣を組み、「絶対に1球目は打つな。1球目がボールなら、2球目も打つな」という指示を出していた。しかしこの回の先頭打者だった羽田は、初球に来た高めのストレートに手を出して空振り。結局その打席ではサードゴロに打ち取られてしまった。自ら育てた羽田のミスに怒った西本は、試合中にもかかわらず羽田に鉄拳を浴びせた。山口や佐々木恭介によれば、西本の行動を見て阪急ナインは「一瞬、野球を止めた」という。実は羽田は、試合の円滑な進行のための先頭打者の慣習としてウエイティングサークルに入っており、西本の指示は聞きようがなかった。当の羽田自身は、引退後に「最初は悔しかったけど、時間が経つにつれてしょうがないと思った。僕は怒られることは多かったが監督に対して絶対的な信頼があったので反抗したことはなかった」と語っている。近鉄はこの年後期優勝を果たした。プレーオフでは阪急に敗れたが、球団創設25年目にして初めて「優勝」という経験を味わうことになった。なお羽田が円陣に加われなかったことを、後日梨田昌崇から「羽田はあの時監督の指示を聞いてません」と指摘されたが、西本はそれに「しまった!」と感じたものの、羽田に対しての謝罪は行っていない。これは近鉄が球団合併によって消滅する際に出された刊行物の中での西本のインタビュー、羽田と栗橋茂の対談で明かされている。プロ野球ニュースのオフ企画でも「殴った後、『しまった』と思ったが、ここで謝ったら監督の立場がないと思ったので撤回しなかった(笑)」と言ったことがある。また、この事件に関して一般に西本が「ボールを打つな」「高めを打つな」「高めのストレートに手を出すな」といった指示を出したことになっているが、自著の中で「新聞記者はボールを打つな、高めを打つなという指示だったって記事に書いてたがそうじゃない」と否定している。「絶対に1球目は打つな」という極めて単純な指示だったからこそ、それが守れなかったと思った西本は、羽田に対して思わず手が出てしまうほど怒った、という。西本はこの時出した指示に関して「山口には何試合も抑えられていたのでデータを分析すると、1球目、2球目のボール球に手を出してカウントを悪くしてることがわかった。山口が気持ちよく放るストレートはなかなかストライクにならないが、速いから振ってしまう。山口が力を込めて投げるとだいだいボールになるからそういう指示を出した」と語っている。2015年2月2日に行われた三田学園高校の監督就任会見の際羽田は理想とする指導者として西本の名前を挙げて「本当に厳しい方で、今ではやってはダメだけど、手を出す方。でもグラウンドから一歩出ると優しくて、面倒見のいい監督だった。当時の選手は誰一人、悪口を言わなかった。そういう選手から慕われる監督でありたい」と述べていた。1979年、ヤクルトから移籍したチャーリー・マニエルを擁して球団創設以来の初優勝を果たした直後の大阪球場で行われた広島東洋カープとの日本シリーズ第7戦。1点ビハインドの9回裏1アウト満塁で打者石渡茂にスクイズのサインを送るが、江夏豊投手に見破られ、三塁走者が挟殺。その後石渡も三振に終わり、ゲームセットとなる。この場面は山際淳司がSports Graphic Number創刊号にて「江夏の21球」として活写したことでも知られる。なお、西本が采配をとった翌年のオールスター第3戦において、1点ビハインドの9回表無死満塁で全セのマウンドに江夏が登板、16球でゲームセットとなり「またも満塁で江夏に抑えられた」と言われた。2死になったとき打順はピッチャーだったが、すでに野手をすべて使ってしまっていたため、南海の投手である山内新一を代打として送り込んだもののあえなく三振に終わる。山内を起用したのは「彼が打撃がうまいという話だったから」と西本はコメントしている。その時、三塁走者だった福本豊は、「素人(山内)が、江夏を打てるわけないから」と本盗をしようとベンチを見たところ、「オヤジ(西本)に睨みつけられたため止めた。」と語っている。また、山内は他の南海選手のヘルメットが合わなかったため、近鉄のヘルメットをかぶっていた。左投げの選手は一般に、捕球して一塁に投げる時、「蟹の横這い」のような形になってしまうため、一塁手を除く内野手に不向きと言われている。左投げでありながらプロ野球で二塁手を経験したのは、西本と大東京の鬼頭数雄、阪急の山田伝の3人だけである。1951年8月16日、対西鉄戦、試合は毎日が選手を総動員する展開になり、9回の守りに入った時には、使える内野手が、一塁しか守れない三宅宅三だけになった。そこで西本は湯浅禎夫総監督に「三宅を入れましょう。自分は二塁に回ります。二塁は中学時代に経験があります」と進言。湯浅は背に腹は代えられないとして西本を二塁に回したが、守備機会はなかった。西本が一塁以外を守ったのは、プロではこの時が唯一である。初の日本シリーズで対決して(試合前も含めて)苦杯をなめた三原脩とはその後も縁が続いた。三原が近鉄を率いてチーム初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本だった。そしてそれから10年後に、西本が近鉄の指揮をとり、三原のなしとげられなかった近鉄の初優勝が実現した。また、当時三原が相談役を務めていた日本ハムが、球団譲渡以来の初優勝(1980年後期)に“マジック1”と迫ったシーズン最終戦に西本率いる近鉄に大敗し、後期及びシーズンの優勝を近鉄に譲った。
2012年までは3チームで胴上げ監督になったのは西本と三原だけであった。

出典:wikipedia

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