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広岡達朗

広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。東京都町田市在住。愛称は「ヒロさん」、あるいは単に「ヒロ」。また、野村克也や森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」と呼ばれることもある。現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ守備コーチ、ヤクルトスワローズヘッドコーチ・監督、西武ライオンズ監督を歴任。監督としては、最下位球団だったヤクルト、長期に渡って低迷していた西武をリーグ優勝・日本一へと導いた。その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。父は旧日本海軍の少佐で、駆逐艦の機関長であった。自身も終戦がもう少し遅ければ海軍兵学校に進み軍人になるつもりだったという。兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。妻の父は理美容・エステ・ネイルの卸商社最大手「滝川株式会社」創業者。宝塚歌劇団94期生(2008年入団)で星組男役の麻央侑希は孫のひとり(長男の長女)。甥の広岡資生は早稲田大学で東京六大学の首位打者に輝き、卒業後は松下電器に進み監督も務めた。また、鶴岡一人は小学校の先輩にあたる。 辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても厳しい批評を下すことがある。、野球殿堂入り。広島県呉市生まれ。実家は二河川の西側にあった。五番町小学校(現・呉市立呉中央小学校)、広島県立呉第一中学校(在校時に呉三津田高校に校名変更)に進む。海軍兵学校へ進学を考えていたため器械体操を主にやった。後年、プロの指導者になってから誰も聞く耳を持たなかったウエイトトレーニングの必要性を早くから説いたのは器械体操をやっていた影響と述べている。戦死した長兄のグラブが家に残されていたのを切っ掛けに野球を始める。1949年、呉三津田三年時の夏の甲子園大会地方予選、山口県代表との西中国大会決勝に進出し柳井高校と対戦、甲子園まであと1勝と迫るが、自身の悪送球を切っ掛けに敗退。野球を辞めて広島大学か山口大学への進学を考えていたが、柳井高戦を見ていた早大OBの杉田屋守が森茂雄に推薦して早稲田大学教育学部へ進学した。早大野球部では荒川博・沼澤康一郎・小森光生らとともに東京六大学リーグのスタープレーヤーとして鳴らし、"六大学の貴公子"と言われた。リーグ通算82試合出場、315打数68安打、2本塁打、52打点、打率.216。毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)と、同郷の鶴岡一人監督の南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、阪神、近鉄から入団を打診され父からは代表の西亦次郎と監督の三原脩から誘われていた西鉄ライオンズ入団を勧められたが1954年、自身の念願でもあった水原茂が監督の読売ジャイアンツに入団。広岡は「私の野球の原点は巨人軍の野球である。わたしがプロの厳しさを、いやというほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球である」と述べている。当時の正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い、打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。以後、大阪タイガースの吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手と称され、とりわけ守備の堅実さ、華麗さを吉田と競いあった。打撃面では1年目以外は低打率の年が多かったが、通算118本塁打、特に1958年には右膝を故障して2か月欠場したが、復帰後は18本塁打を放つなどパンチ力もあった。早大出のエリートかつ、スラリとした長身で、長嶋茂雄入団までは巨人選手で女性人気ナンバーワンであった。1958年3月創刊された『週刊ベースボール』の表紙を長嶋と二人で飾る。1957年12月には、品川主計球団社長(当時)の仲人で挙式。川上哲治とは現役時代からしばしばぶつかった。川上は"打撃の神様"といわれ、若い選手には近寄り難い大選手だったが一塁守備は下手だった。バッティングのことで頭がいっぱいで、守備に付いてもバッティングフォームをして、首をひねったりしていた。この行為がやる気の無さに見えてうんざりしたのか、ちょっと悪い送球を捕ることができない川上に「それぐらいの球は捕って下さいよ」と後輩でありながら広岡が文句をつけることが多く、川上にすれば若造が生意気なという感情を持つことになった。に川上哲治が監督に就任し、広岡はコーチ兼任となる。川上から「今までいろいろあったが、水に流してくれ。これからは力になってほしい。よろしく頼むぞ」と頭を下げられ、自身も頭を下げ氷解したと思ったが甘くはなかった。8月6日の対国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が独断でホームスチールを行い、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかったことに対し、「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」とバットを叩きつけて、試合途中で球場を後にした。同年、川上がシーズン終了後に広岡のトレード放出を画策したが、広岡が正力松太郎に「トレードされるなら巨人の広岡で終わらせてください」と引退を直訴した結果、正力の指示で残留が決定したが(川上はスポーツマスコミに非難を浴びた)、翌年から出番が減った。川上は広岡の資質を高く評価していたが、広岡が『週刊ベースボール』に巨人への意見記事を寄稿したことで、「選手の分がわかっていない」と非難し、大騒動の末、同年のシーズン終了後に現役を引退した。ここから川上との確執がはじまる。自身が目指す野球は私を追い出した巨人より正しいことを証明したいと、現役引退直後の2月にメジャーリーグのキャンプの視察をするため渡米する。この時、フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで行われていた巨人のキャンプも訪れたが、川上監督は広岡による取材を許さず、選手に対して「広岡と口を利くな」と指示を出し、さらに広岡のドジャータウンへの宿泊も許可しなかった。広岡は川上の仕打ちに憤慨し、文字通り殺意を抱くほどの激しい怒りを感じたと述懐している。しかし森昌彦(祇晶)一人だけが広岡が宿泊しているホテルを訪れ食事をともにし、気遣いを見せた。広岡は森に深く感謝し、以後行動を共にするようになる。帰国後はラジオ関東、サンケイスポーツなどで評論家として活動。サンケイスポーツには自ら売り込んだが、採用の条件が自分で原稿を書くならというもので、当時は自分で原稿を書く野球評論家は皆無の時代で、担当の記者にゴーストライターを頼むのが普通だったが、広岡は自分で原稿を書いた。 、根本陸夫監督に請われ、広島東洋カープの内野守備コーチに就任。ヘッドコーチ・関根潤三と共に、山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを育て、後の広島黄金時代の礎を築いた。西本明和を投手からサードへ、井上弘昭を外野手からセカンドへコンバート、また、根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる。広岡は苑田の守備をみて根本に「苑田は内野手のセンスはゼロ。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁してください」といったが、根本は「俺が責任をもつからとにかくコンバート練習をやれ」と厳命され、広岡はしぶしぶ従った。当初は苑田は一向に上達を見せず、また厳しい指導のストレスで円形脱毛にも陥り、広岡も一度は苑田の転向をふたたび諦めかけた。しかし根気よく指導を続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きがこなせるようになり、これ以降苑田は、広島の内野守備要員として定着、活躍していく。この苑田のコンバート成功は広岡にとって大きな財産になった。この件について広岡は「プロに来る選手は誰でも大変な才能をもっている。しかし答えの出し方を知らないから自分に才能がないと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになって選手と一緒にさがしてやるのが指導者の務め。選手と指導者にやる気さえあれば、選手は必ず答えを見つけて上達してくれる」と学び、指導者としての自分があるのは苑田のおかげであると事ある毎に述べている。に広島を退団。野球解説者として活動する傍ら、プロゴルフのコーチもしていた。この頃になると川上とはわだかまりが解けた模様で、広島退団後には川上を訪ね、広島でのコーチ経験を述べ、巨人のファームコーチを志願している。にヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには早大の先輩だった荒川博打撃コーチがおり、先輩を差し置いて自分が監督になるわけにはいかないと辞退し、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格)。コーチには広岡の他に小森光生・沼澤康一郎らがおり、監督と合わせた4人で「早大カルテット」として話題になった。これは当時の明治神宮外苑長・伊丹安広の「神宮は東京六大学のメッカ。六大学の卒業生を使ってやってくれんか」という意向にそったもので、この年の一軍コーチは全員東京六大学OBだった。にヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中で荒川の後任として監督に就任した。当時のヤクルトは松園尚巳オーナーの方針で家族主義的なチームカラーであったが広岡は「広島以上にぬるま湯」とプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した。シーズンに入り故障者が続出したことで、広島コーチ時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理をヤクルトの選手に対しておこない、正式に監督に就任後のの春季キャンプで、麻雀・花札・ゴルフの禁止、禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)、ユニフォーム姿の喫煙禁止、練習中の私語禁止を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した。広岡イズムを浸透させようとキャンプから、守備走塁を徹底的に重視する練習・試合方針を打ち出す。投手起用では、荒川監督時代に巨人戦でエース級三枚・松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えのような使い方をして連敗が続くような起用法をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の三人に鈴木康二朗と会田照夫を加えて五人で先発を回した。先発投手には中継ぎはさせないことにし、抑えには井原慎一朗を任命。この年加入したチャーリー・マニエルには守備を一生懸命やらなければ試合で使わないと厳しく接した。水谷新太郎を遊撃手として辛抱強く育て上げた。当初は選手から反発を受けたものの広岡の方針は成功し、同年チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかしまだ基礎体力が充分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるシステマティックなウエイトトレーニングを導入した。当時はシーズンオフにトレーニング行うという発想はなく、選手は不満タラタラであった。この年のペナントレースは巨人が優勝し、2位ヤクルトは巨人に対して7勝19敗と大きく負け越した。巨人コンプレックスを払拭しない限り優勝はない、などの理由で松園尚巳オーナーに米国キャンプを直談判すると「ヤクルトの工場があるブラジルならいい」というので「それはできません」と断ると「負けたらどうする?」と聞かれたので「責任をとってやめます」と答え、ヤクルト球団初の海外キャンプが1978年春、アリゾナ州ユマで実施された。ユマは伊東一雄の紹介によるもの。ここでサンディエゴ・パドレスの選手たちが練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になった。ヤクルトがこの年、日本一になったことで海外キャンプを実施するチームが一時増えた。翌は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトンを直接、自分の目で実力を判定した上で採用。森昌彦を作戦コーチとして招聘。森は広岡の意向を受けて選手たちの私生活も事細かく管理した。また森の収集したデータに基づき、巨人に対しての対策を強化する。前年に続いてキャンプからペナントレースに入ってからも1日も休まず、常にディフェンス中心の練習を行なった。開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1、2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。球宴休み期間の激励会で、後援会関係の人に「巨人に勝つと、ヤクルト商品が売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受けた。チームも後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、福富邦夫、若松、大矢明彦、船田和英ら幹部選手を中心にチームが結束、ここから巨人が失速し、ヤクルトは多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。広岡に一番先に抱きつき頬ずりまでしたのが何と松園尚巳オーナーだった。この年はヤクルトは巨人に対して勝ち越した。日本シリーズでは四年連続日本一を狙う阪急ブレーブスと対戦。世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが、ここでも広岡ヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。ヤクルト球団も日本シリーズ優勝を想定しておらず、本拠地の神宮球場を確保していなかったため、日本一を決めた舞台は後楽園球場だった。古巣である巨人の本拠地で胴上げされたのは複雑な思いだったという。広岡は日本一になった時点でヤクルトを退団することを決意し、松園尚巳オーナーからも後任は「武上四郎にしたい」と言われ、そのつもりであったが、フジサンケイグループから「優勝監督を契約切れだからといって、出したら商売にならない」と慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。この契約の際、現場のことは、全面的に任せ、協力するという約束を交わしたが、広岡がチーム強化のために意図した山崎裕之らの獲得、トレードは、合意が成立した段階になると、決まって球団上層部からクレームが出て、ことごとく潰された。広岡はこれを振り返って「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。も優勝候補の一角であったが、開幕から8連敗を喫して成績が低迷。佐藤邦雄球団社長は選手から評判の悪かった森を、広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、植村義信投手コーチを二軍降格させようとした。広岡は球団の人事案を巡って対立を起こし、8月17日には辞任を申し出た。佐藤球団社長から「じゃ辞めろ」と言われ、広岡、森、植村と三人一緒に退団した。退団前に、堪忍袋の緒を切って「巨人びいきの審判がいる。丸山、岡田、大里。名指しで書いてもらってけっこうだ」とマスメディアにぶちまけた。退団後は日本テレビの解説者として評論活動を展開。容赦のない毒舌な解説が人気を博した。1981年には近鉄バファローズの西本幸雄監督から声がかかった。西本に認めてもらったのは嬉しかったが、あまり縁のないパ・リーグでしかも関西球団というところで引っ掛かった。次に阪神タイガースの小津正次郎球団社長から監督要請を受ける。セ・リーグでしかも巨人のライバルということで、巨人を倒すためにやってきたこれまでの努力を実現するには、格好のチームと考えて前向きに検討したが契約年数でまとまらなかった。阪神は伝統的に監督交代劇が頻繁に起こるため、任期5年を主張したが、小津球団社長が3年を譲らず結局流れた。広岡が阪神フロントの総退陣を就任の条件としたことで流れたと書かれた文献もある。阪神からは1978年と2度要請を受けた。最後に監督要請があったのは西武ライオンズで、根本から「おまえしかいない」「いい選手をしっかり取ってある」「行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んでいる」などと言葉巧みに誘われたが、就任が決まってから聞いた話では、最初に長嶋茂雄に声をかけたが即座に断られ、次に上田利治に99%決まっていたが土壇場で引っくり返り、実際は三番目だったという。、西武ライオンズの監督に就任。契約金6000万円、年俸3600万円と異例の好遇であった。広岡の西武入りは根本だけの仕掛けではなく、広岡の反巨人意識と堤義明オーナーの巨人に追いつけ追い越せの経営哲学が一致した結果であった。監督就任にあたっては5年に及ぶ長期契約を締結したが、自身にとっても非常に厳しい契約書を作成してもらう。その内容は「私の都合により、退団する時は、年俸はそこでカット、受領済みの契約金も返還する」「休養中は給料は支払わない」「舌禍に対しては厳罰を処する」など、非常に厳しいものだった。記者会見の席でこれについて聞かれた際、広岡は「納得したから契約した」と語っていた。契約する際に坂井保之球団代表に「優勝したら、裏方を含めて年俸を上げてほしい」と要望すると「当然だよ。常識ですよ」という口約束があった。しかし優勝しても、みんななかなか上がらず、坂井に「上げるのが当然って言ったじゃないか」というと「そんなこと契約書に書いてない。君のミスだよ」と言われた。広岡はライオンズでもスワローズの時と同様、厳しい生活管理とディフェンス重視の野球をおこなう。前任監督の根本は放任主義で有名で、細かなサインプレーもなければ、ミーティングも皆無で、その結果、西武ナインは「十二球団一の怠け者集団」といわれていた。ライオンズは伝統的に大まかな野球をするチームで、根本もその伝統を継承していたため、そこへまるで逆の「広岡式海軍野球」を持ち込んでも、空中分解してしまうのがオチという見方も多かった。広岡が「一年で優勝してみせる」と言い切ると、報知新聞は"優勝したらそれは魔術といえる"と揶揄した。ところが就任一年目に前期優勝を遂げると、プレーオフで後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して球団19年ぶりのパ・リーグ優勝に導く。同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り球団24年ぶりの日本一、西武第1次黄金時代の幕開けを導いた。日本ハムの監督だった大沢啓二は「近鉄とロッテさえ注意すりゃあパ・リーグの優勝は間違いねえ、なんて思ってたんだ。ところが蓋を開けてびっくりよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が監督就任1年目で優勝なんて、なかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたもんよ」と述べている。翌も、2位の阪急に17ゲーム差を付けるという独走状態で優勝を遂げる。日本シリーズの相手は古巣の巨人で、広岡は巨人を倒して日本一になることによって、自分の野球の正しさを証明しようとこれまでやってきたため待ちに待った舞台となる。藤田元司監督とはかつてのチームメイトということもあって、その対決は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として日本中の注目を集めた。このシリーズは第7戦までもつれにもつれる歴史的な激闘となったが、4勝3敗で勝利、2年連続日本一に導く。球界に「西武時代到来」と騒がれた。数日後、森を伴い川上哲治を訪ね優勝報告を伝えると川上から「負けりゃよかったのに。藤田に勝たせてやればよかったのに」と言われたという。シーズンオフになると、日本ハムからトレードで江夏豊が入団。このトレードは西武側からの申し入れと「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という大沢の意向によるものである。江夏獲得のため中継ぎ投手の木村広、柴田保光を放出し、さらに小林誠二も広島へトレードとなり、一気に中継ぎ投手が3名も退団した。このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本陸夫らフロントに対して反感を抱くようになる。また江夏が一匹狼的な性格であり、広岡は選手管理で有名であることから、マスコミでは両者の衝突を予想していた。は、V2を支えた田淵幸一・山崎裕之・大田卓司らが不調であり、好調の阪急におされて、早々とペナントレースから脱落してしまう。5月20日から方針を転換、若手選手を多数起用し新旧交代を見据える采配を行った。一方ではベテランに見切りをつけ、田淵・山崎は現役引退を決意する事になり、江夏は8月以降二軍落ちするとそのまま出番が与えられずに西武を自由契約となった。江夏は広岡について「俺の生活権を奪った男」と語っている。元々、若いピッチャーの模範になってもらいたい、と江夏を西武に引っ張ったのは広岡であり、江夏には食事メニューは自由、ミーティングも出席は強要しないといった実績を十二分に尊重した処遇を行っていた。ところが江夏があまりにチームメイトに馴染めない、結果も出せないこともあって対応に苦慮した。孤高の革命児は、広岡の持ち込んだ「組織野球」の幕開けと共に球界を去ることになる。この年は若手に切り替え「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位Aクラスに入ったことで会心のシーズンだったと話している。田淵が1984年限りで引退したことから、広岡は外国人選手の長距離砲を渇望。カリフォルニア・エンゼルスに在籍していたドン・ベイラーを獲得するようフロントに進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエースだった郭泰源を獲得した。当時の外国人選手の登録枠は2人だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手に振り分けてしまったことで、一軍登録は「野手1人・投手1人」となる(スティーブ・オンティベロスと郭泰源)。これで広岡はますますフロントに対して反感を抱く。は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手が台頭し、独走状態でリーグ優勝を果たした。しかし広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化してチームから離れ病気療養し、優勝決定時には現場に不在だった。同年の日本シリーズでは、現役時代のライバル・吉田義男率いる阪神に2勝4敗で敗れて日本一を逃した。広岡はシーズン終了後に監督の権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙に対してフロント批判を再三にわたって繰り返したことを根本が問題視すると、広岡は辞任を申し出た。根本に「辞めてあげましょうか」というと根本は「おお、辞めてくれるか」と嬉しそうに言ったという。5年契約を1年残しての辞任であり、電撃的な辞任といえる。広岡自身は「相当いい仕事をしているのにクビになった」と話している。記者会見上の席上「痛風が出てしまい、終盤の大事なゲームで指揮がとれなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と会社が書いたシナリオ通りに、健康上の問題と説明した。「4年で3度のリーグ優勝、2度の日本一と出来過ぎともいえる成績を残した自分を、どうして追い出しにかかったか、今でも分からない」と話している。その後、広岡と対立し前年に退団していた元バッテリーコーチの森が監督として復帰し、後に黄金時代と呼ばれる。西武退団後は評論家となり、NHKの野球解説者となる。1988年には巨人から王貞治の後任として藤田元司より先に監督就任を要請された。湯浅武代表や務臺光雄読売新聞会長にも会い、巨人もついに自分を認めたかという気持ちも一部にあったが、広岡は自らヘッドコーチを志願し、王は解任せず、投手コーチに宮田征典、サードベースコーチに黒江透修か近藤昭仁を主なスタッフとして入れると充分優勝できる、と答えて首をタテに振らなかった。1980年に長嶋を解任して人気がガタ落ちした巨人が、現在のプロ野球隆盛の最大の功労者であるもう一人の王を、同じような格好でクビにしてはいかんというONに対する敬意が裏にあったのだが、広岡はそのあたりを読み違えてしまい、巨人軍監督という最大のチャンスを逃した。務臺-川上ラインで藤田の再登板が決まったとされる。巨人OBは広岡に「なぜ、監督を受けなかったか」と怒る者が多かったといわれる。広岡は後に渡辺恒雄から礼状を渡され、そこには「あなたがかつて巨人監督就任を固辞されたことは、承知している。いま思えば残念至極」とあった。1990年から阪神監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて、阪神の東京遠征時には仲田幸司、猪俣隆、野田浩司の投手陣を指導した。特に鳴かず飛ばずだった仲田をエースに変えるきっかけを与えた。アメリカに比べ日本は指導者育成の場が少なすぎると「ジャパンスポーツシステム」を設立し、アメリカの著名選手や球団経営者を招いた勉強会「日米ベースボールサミット」を開催。これは1988年からまで3回行われ、元MLBコミッショナー・ボウイ・キューンやドン・ドライスデール、ボビー・ボニーヤ、デーブ・ウィンフィールド、ジョー・マグレーンら、MLBの元指導者、現役の監督・選手が来日し、日本からも広岡・古葉竹識・張本勲・鈴木啓示らが参加してサミットで議論を繰り広げた。また、野茂英雄・古田敦也らアマチュア選手たちも参加して実技指導を受けた。アメリカ側の参加者には、当時テキサス・レンジャーズ監督だったボビー・バレンタインもいた。「ジャパンスポーツシステム」は、日本選手の受け入れを目指しアメリカのマイナーリーグ球団の経営にも乗り出し1989年、当時ミネソタ・ツインズ傘下だった1A・バイセイリア・オークスを買収し同年、巨人から吉田孝司コーチと藤本健治、佐川潔、小沢浩一、四條稔を受け入れた。1990年にはトロント・ブルージェイズ傘下の3A・バンクーバー・カナディアンズを買収した。通訳・経営に携わったエーシー興梠は、能力を買われ後にロサンゼルス・ドジャースのアジア地区担当取締役となり、黒田博樹らを獲得している。、千葉ロッテマリーンズの重光昭夫オーナー代行に誘われ、日本球界初のゼネラルマネージャーに就任。当時のロッテは下位に低迷し「オーナーから全部任すと言われ、革命的なことをやる必要がある」と前述の日米野球サミットで知り合った、当時テキサス・レンジャーズの監督だったボビー・バレンタインを監督に招聘する。また選手ではフリオ・フランコ、ピート・インカビリア、エリック・ヒルマンを獲得する。しかし、シーズン開始直後から低迷し、バレンタインとは早くも野球観の相違から確執を起こし、選手でも伊良部秀輝、小宮山悟、ヒルマン、フランコら主力選手とも確執を起こした。広岡は二軍ヘッドコーチだった江尻亮を一軍ヘッドコーチに昇格させた。広岡はバレンタインの意向を遮って、試合のない日に選手へ練習を課したというが、広岡はバレンタインが「こんなはずじゃなかった」と泣きついてきたので「手助けしようか」と話すと「頼む」というから、それならと日本式の特守や特打を導入して、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している。チームは後半から調子をあげたため、新しい外国人選手を獲得するためアメリカへ行き、帰国したら、バレンタインが「自分にまかせていたらもっと早く上に来ていた。GMが横やりを入れたから」などという趣旨の記事を書かせたと広岡は話している。ロッテは最終的には1985年以来のAクラス(2位)に躍進。しかし江藤省三、江尻亮、尾花高夫の3コーチが「選手が不調になれば、すぐ対処するのがコーチの仕事なのに、監督は、疲れているのが原因だから休ませればいいという。これでは我々の仕事がない。出来れば辞めたい」と言ってきた。これを受け、重光昭夫オーナー代行に事情を説明すると重光武雄オーナーに裁定を仰ぐことになり、オーナーに「監督を解雇しても構わないか」と聞かれたので「困りません」と答えると同年限りでバレンタインの解任が決まり、後任に江尻が昇格した。広岡は「自身に監督をクビにする権限はなかった」と話している。後にバレンタインは「GMとは選手を集めてくるのが仕事なのに、広岡はそれをせず、現場に口を出すだけだった」と批判した。これに対し広岡は「監督は現場で泥まみれになって選手を教えるのが仕事なはずなのに、バレンタインはそれをしていなかった」と反論している。江尻が監督を務めた翌はフランコとインカビリアに変わる助っ人スパイク、ジャック・ドウティーを獲得したが、スパイク、ジャック共々開幕から絶不調で6月にそろって解雇されるという非常事態に陥る。その後スパイクとジャックに変わる助っ人としてウェス・チェンバレン、ダレル・ウィットモアを獲得したが2人をカバーできる活躍はできず、結局順位は5位に終わり、広岡は3年契約を1年残して解任された。GM時代の広岡の評価は色々である。ロッテGM辞任後は、RFラジオ日本の野球解説者を1998年から2007年まで務めていた。また、その間スポーツ情報番組のパーソナリティとしても活躍していた。楽天が創設された翌年2005年オフ田尾安志監督が1年目に解任された後、同球団のオーナー三木谷浩史から新チームの再建策について相談を受けた。三木谷は「私は球団を持つからには勝ちたいんだ」というから広岡は「三木谷さん、球団創立から5年チャンピオンになったら奇跡です。もっと時間がかかりますよ。」、すると三木谷は「僕にそんなに我慢できない。3年ぐらいで優勝してほしいんだ」と言ったという。広岡の提案で「勝ち癖のあるコーチ」として土井正三、黒江透修、宮田征典を推薦したが球団社長(当時)島田亨が「支度金含めて3000万しか出せない」と言われ3人は「少ないですね」、広岡が「確かに3000万は少ないが、これで受けろ。そしてチームを勝たせてボーナスを取れ」と就任を勧めたが3人は「今でも3000万以上稼げますから」といってこの話はなくなった。金ではないぜひコーチをやりたいというスタッフを新たにそろえて推薦しようとしたら楽天が「野村監督にします」と言ってきたので楽天から手を引いた。広岡は「楽天は2013年に星野監督で日本一になるまで球団創立から9年かかった。あの時私が推薦した巨人OBトリオを獲得したらもっと早く優勝できたかもしれない」と述べている。現在は野球評論家として活動する傍ら、巨人軍OB会副会長を務めていた。長嶋茂雄会長が脳梗塞で倒れた2004年以降は、事実上のOB会会長格として活動している(正式な会長ではない)。長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や前任の藤田元司が辞任した時にも会長候補として名前が挙がったが、就任は実現しなかった(2009年に王貞治が会長就任)。「指導者というのは自分の体で見本を見せられなければいけない」が持論で、高齢者の監督・コーチ業には否定的な立場を取っているため、2000年代以降は正式な指導者として腕を振るうことはないが、オフシーズンにはしばしば巨人の臨時コーチを行っている。2012年春のキャンプでは、阪神・中日・ヤクルトの臨時コーチを務めた。母校・早稲田大学野球部の指導にも熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っている。早大野球部OB会には、広岡と徳武定祐を筆頭として、スポーツ推薦の高校生を選ぶ「推薦委員会」がある。また、長嶋が巨人監督を辞任した後の2002年頃より、東京スポーツ紙上で巨人軍の球団経営に介入する発言を繰り返している。事実上の巨人OB会会長となった前後からは夕刊フジ紙上などで「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」と宣言している。巨人監督は生え抜きに限るが持論で、2005年に星野仙一巨人監督就任説が浮上した際には公然と大反対した。2007年、巨人が原辰徳監督で5年ぶりのリーグ優勝を果たすと「原が優勝してくれて心底ホッとしました。原には巨人魂がある。やはりヨソ者を入れてはダメ。巨人の飯を食ったことのない者に監督は任せられません」と話した。巨人の監督は2002年からは長嶋に代わって原が務めることになったが、広岡は長嶋に以前から原を推していたことを、2015年3月23日発売の週刊大衆で語っている。一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持ち、日本の野球界に対する苦言などを自らの持論を元にして語っていた。オリンピックへのプロ選手の参加には否定的で、「オリンピックというアマチュア選手の夢を奪うことは野球界のレベルアップにはつながらない」というのが持論である。2008年4月からは、愛知新城大谷大学社会福祉学部の特任教授として教鞭をとっていた時期があった(担当科目はスポーツ科学。同大学の閉学に伴い退任)。これは当地在住の高木時一(元スポーツニッポン記者。広岡の元でロッテのGM補佐を担当していた)との交流がもとである。高木守道と親交があり、高木が監督であった2012年の中日ドラゴンズキャンプでは臨時コーチを務めた。優れた守備力をもった遊撃手として評価され、巨人の一時代を担った選手の一人とされる。ただし、当時の評価ではNo.1遊撃手は阪神の吉田義男とされており(ベストナイン遊撃手部門で吉田は9回選出されているが、広岡は1回だけだった)、広岡は、その吉田のずば抜けた守備力と比較されたため「甚だ迷惑した」と語っている。吉田は「広岡さんからグラブさばきなど、いろいろなことを学んだ」と述べている。吉田の俊敏・華麗な守備に対抗するために広岡が行きついたのは「基本に忠実、堅実なプレー」だった。早大、巨人を通じてチームメートだった岩本尭は「どんなデコボコのグラウンドでバウンドがどうなろうと、広岡は百発百中捌いていた。広岡へのノックが始まるとほかの選手は練習を止めて見入っていたよ」とその守備力を称えている。広岡が守備の手本としたのは、1958年秋に日米野球で来日したセントルイス・カージナルスの二塁手・ドン・ブレイザーだったという。広岡は基本的動作を一からすべて丁寧に練習するブレーザーをみて「最初は馬鹿にしてみていけれど、それはとんでもない間違いで、自分はあんなふうに野球を丁寧にやっていないことに気付かされた。ブレーザーの真似をしてボールにひたすら丁寧に向き合うようにしたら、自分の守備能力が急激にあがっていった」といい、自らの守備理論の確立にブレーザーが最も大きな貢献をしたと常々語っている。妥協を許さない厳しい姿勢は監督時代につとに有名になったが、現役時代からそれは変わらなかった。巨人のコーチだった牧野茂は「彼には『このくらいでいい』っていうのがない。どこかで固めてしまえば“広岡スタイル”ができただろうに、常に上を求めてしまう。」と語っている。また、牧野と巨人の大先輩である千葉茂は口をそろえて「広岡のエラーには『理由のないエラー』がない。エラーをすると必ずその原因を追求して、次の日にはそれを修正するための練習をしていた」とその探究心を評価している。広岡の存在を球界史上不動のものとしているのは何といっても指導者としての功績である。コーチ時代の業績もあるが、監督として弱小球団であったヤクルト・西武をわずかな期間で日本一のチームにした手腕は多方面から高く評価されている。西武監督就任は、「真のプロ野球を教え、彼らを戦う集団に変貌させて欲しい」と、広岡を「プロ野球界でもっとも妥協のない人物」と評価する根本陸夫から要請されたものであったし、関根潤三は広岡を「文句なしに、球史に残る名監督、大指導者」と評している。1966年に巨人を現役引退したばかりの当時34歳の広岡を永田雅一オーナーの反対を押し切り、東京オリオンズ(現千葉ロッテ)の監督に招聘要請したこともある(受諾せず)青木一三は、「広岡クンの監督としての才能に誰よりも早く目を付けたのが誇り」と話し、「両リーグで日本一になった監督は、三原修氏と水原茂氏だが、水原氏の場合、東映を勝たせたのは評価できても、強い巨人を日本一にしたのは評価できない。前年最下位のヤクルトと西武を日本一にした広岡は三原に続く優れた監督だったと思う。名将として語り継がれる川上哲治氏、鶴岡一人氏も、同一チームでしか優勝してない点で私に言わせれば1ランク落ちる」と述べている。また早稲田大学の後輩である近藤昭仁・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一らからは深く信奉されている。早稲田大学の一年先輩・荒川博が毎日OBながら打撃コーチとして巨人入りできたのは、広岡が荒川を推薦したもの。荒川は「プライドの高い広岡が犬猿の仲の川上に頭を下げてくれた。広岡には感謝してもしきれない今でも深い恩義がある」と話している。チャーリー・マニエルはかつて広岡と激しく対立し、いざこざが絶えなかったが、現役引退後、アメリカ球界で監督と指導者としてキャリアを重ねていくうちに、「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」「今監督をしてチームを率いてやってみて、ヒロオカの言ったことは正しかったことがわかる。説得力があり、自分でお手本を示すことができ、選手の心理をつかんでやる気を出させる、そんな彼が示したボスの条件は、おれもまったく同意しているんだ。ニシモト(西本幸雄)には悪いが、監督としておれが目指すのはヒロオカ式鉄の統制だ」 などと発言、指導者としての自分があるのは日本での経験のおかげであると述べている。その一方、現役時代から歯に衣着せない毒舌家であるため敵も多く、森祇晶・豊田泰光・江夏豊・東尾修らからは公然とその人間性を批判されている。特に森とは、かつては盟友と呼べる関係であったにも関わらず、広岡の森への発言と行動がきっかけで断絶、現在も袂を分かったままとなっている。特に清原和博が覚醒剤で逮捕された事件で、『清原がこうなったのは、「プロ野球で上に立つ人が「これはやっていい」「これはやってはいけない」と教えてこなかった結果なんですよ。縁あって入った球団の指導者は何をしていいかいけないかを選手に教えるべき。この事件は球界に対する警告だと思うね。コーチを責めるよりも、やっぱり監督だね。清原は高校を卒業してドラフト1位で西武に入った。当時の森監督は野球は教えたけど、社会人としての常識を教えなかった。親ができなかったことを、球団が教えないといけなかった。森監督がしっかりしていれば、清原はタイトルを取ってますよ。清原は「無冠の帝王」だもん。清原はまれにみる才能を持った男だったんですよ。僕が西武の監督だったころに入団していたらよかったが。』と、批判してる。広岡によると清原の扱いにてこずり将来を心配したコーチたちが森に「一度、社会常識など厳しく教え込むべきではないか」と進言したが森はこれを無視して放任したという。大沢啓二は著書で「広岡と森はプライベートじゃ、ほとんど口をきかない。ただ試合になるとチームの勝利のためにプライベートでの確執を忘れて協力しあう、俺はその姿を見てつくづく思ったね。これこそが、ほんとうのプロフェッショナルだってな。あの二人のプロ根性が西武を強くしたのは間違いないよ」と述べている。一方森については「私がヤクルトと西武の監督の時は森昌彦という有能なヘッドコーチがいた。川上巨人のV9に貢献した名捕手で、投手の事を知り尽くした名参謀だ」と記している。江夏は「広岡さんの野球に対する考え方は素晴らしい。管理野球、管理社会の時代には、最高の指導者といえるが、長期的にみた場合、広岡さんのやり方では一人一人の選手の個性を伸ばせない」、東尾も「広岡さんを監督にしたのは大正解。いい勉強をさせてもらったよ」「広岡さんの厳しい指導の下で若手が成長し、チームが強くなったのは事実」 などと指導者としての手腕や実績については一定の評価を示しているものの、指導方針などを巡る様々な確執から、現在でもその人間性を批判している。いつ見てもアゴを上げ、銀縁の眼鏡越しに冷たい視線をグラウンドに送る、恐怖イメージは、いしいひさいち作の4コマ漫画、及び劇場版アニメ『がんばれ!!タブチくん!!シリーズ』でも陰湿なキャラクター・ヒロオカさん・ヒロオカとして描かれた(『がんばれ!!タブチくん!!』が全盛のころ、娘の祥子に毎週駅まで買いに行かせ、自室でこっそり読んでいたというユーモラスで人間臭い一面を持つ)。豊田泰光の場合は、著書が多いのでしばしば広岡の話が出てくるが、豊田は広岡の指導者としての手腕は高く評価し、シドニーオリンピック野球日本代表の指導を一緒にしたり、大久保博元が巨人をお払い箱になったとき、当時ロッテのGMだった広岡に豊田が大久保のロッテ移籍の仲介をしてやったり(移籍せず引退)、ある時期までは仲が良かった。過去に一番早くに広岡と確執を演じた川上哲治は、近年の自著『遺書』の中で広岡のことを「ひとことでいえば意志の人だ。頭がよく、ひらめきもある。特に先を読みながら考えを組み立て、実行していくタイプの野球人で、コーチであれ監督であれ、ゼネラルマネージャーであれ、どんな立場に就いても自分をフルに発揮する」と非常に高く評価している。広岡自身は自著『意識革命のすすめ』他で、歴代プロ野球でもっとも評価する監督として西本幸雄をあげている。日本シリーズでは一度も勝利を得ることがなかった西本であるが、広岡は選手を一から育成し弱小球団だった阪急や近鉄をリーグ優勝にまで導いた西本の手腕を絶賛している。この西本への評価から、広岡の理想の指導者像が「勝つ」能力ではなく、「育てる」能力をもった指導者であることがわかる。当然、FA制度その他で完成した選手しか集めなくなった現在のジャイアンツに対しては厳しい批判を向けている。同じ広島出身で巨人の遊撃手としても後輩である二岡智宏は高く評価していたが、現在の遊撃手である坂本勇人は評価しておらず、しばしば著書などでその守備やプレースタイルに厳しい批評を行っている。監督としての広岡は、徹底した「管理野球」で有名である。選手の役割分担を決め、それぞれの役割を完璧に果たすように教育し鍛え上げる。綿密にスケジュールを組んで選手を管理する。夜遊びや度を越した飲酒を禁止し、食事のメニューまで規制を加えた。「私の野球スタイルは、海軍の“軍律”と同じ。上官の命令への絶対服従が当たり前。ファンのため、チームのために自分の生活を賭けて死にもの狂いで戦うのに、『監督の指示に従えません』では勝てない」と述べている。集団行動の規律を重要視する組織野球は「管理野球」と呼ばれた。それがチームのためであり、選手自身のためだという論理である。ヤクルト監督時代、1978年のチーム日本一の立役者であったはずのチャーリー・マニエルを全く評価しなかったように、打撃のみに特化した選手を嫌っている。かつては門田博光なども槍玉に挙げ、指名打者制に関しても否定的な見解を持っていた。しかし西武監督を経た後は、「中途半端な野球選手を作ることを別にすれば、攻撃的な野球が展開できて面白い」とその意見を若干変えている。ただしその後も福岡ソフトバンクホークスの松中信彦に対して「イチローのように(走攻守)3拍子揃っていれば素晴らしいが、松中のような打つだけの選手にどうしてソフトバンクは大型契約をしたのか」と批判している。広岡は、勘や経験が頼りだったプロ野球選手のフィジカル管理にいち早く科学的な視点を取り入れたことでも有名である。「万全のコンディションでプレーするためには当然のこと」「プロの選手にとって、グラウンドがすべて。いいかげんな体調でグラウンドに出てくることは許されない」 と、その管理は選手の私生活にまで及び、1982年に西武監督に就任した際には、それまでの禁酒、禁煙、禁麻雀に加え、選手の食生活の改善から着手し、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限した(ただ、「あくまでも『制限』であって『禁止』ではない」と後に広岡はマスコミの誇張表現に対し牽制している)。親交のあった森下敬一 を呼んでコーチ、選手全員を参加させ「夫がグラウンドでいい仕事が出来るよう参考に」と妻帯者の選手の夫人にも参加を呼びかけ講演会を行った。当時はスタミナ作りに肉はかかせない、特にスポーツ選手はたくさん食べないと肉体が維持できないという考え方が大勢を占めていたが、この講演に「肉は腐った食物である。牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るものなので、毒を飲んでいるようなもの」といった内容があったため、この講演会を報道で知った日本ハムの大社義規社長が烈火の如く怒り、親会社が日本ハムの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発した。実際は、これら肉や牛乳、ビタミン類が失われている白米より、玄米や雑穀類、豆乳などの方が栄養価が比較的高く自然治癒力もつきやすいという意味であり、肉食が全面的にいけないといっているのではなく食べ過ぎるなという意味で、魚介類、野菜、果物で栄養のバランスをとったほうが身体にいい、酸性偏重の食生活の改善 という程度の要旨であった。当時の日本ハムのキャンプには、本社から何十キロという新鮮な肉が差し入れされ、一日目がステーキ、二日目がトンカツ、三日目はすき焼きと肉中心のメニューを組んでいた。元々、豆乳はヤクルト監督時代にも導入したことがあったが、乳酸菌飲料を扱う親会社の強い圧力で一週間で中止に追い込まれていた。大沢発言は舌戦を展開して、当時はまだマイナー扱いされていたパ・リーグをメディアに取り上げてもらおうというパフォーマンスの意味合いも強かったといわれる。大沢は著書で「確かにいい選手は揃っていたが、でも優勝した大きな理由は広岡の徹底した管理主義よ。選手管理と教育でチームをひとつにまとめて優勝させたんだから、そりゃたいしたもんよ」と述べている。当時の野球選手は暴飲暴食しがちで、肉食に偏ることが多く、食事のことなど、まったく異質の分野のことと考えていた。広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している。広岡は西武監督時代に読んだロバート・ハースの書いた『食べて勝つ』(講談社、1985年)から大きな影響を受けたと話している。前述の「肉や牛乳は腐った食物」発言は、親会社の系列スーパーから大クレームを受けたが、広岡は親会社の意向を無視して自分の考えを貫き通した。その姿に、選手は"怖さ"を感じ、それがチーム変革のパワーとなった。「肉は腐った食物である」という言葉は、極端な表現ではあったが、それまで好きなモノを好きなだけ食べていた選手にとって、食生活を考える切っ掛けとなった。現在では当たり前となったスポーツ選手の節制や自己管理の必要性を、広岡は情報の少なかった当時から、科学的根拠を基にした基礎練習や食事管理を実践し。プロ野球選手のあるべき姿として提示した。しかし、チーム内での反発が大きく、遠征時の外食が増えるなど首脳陣の目を盗むような事実があったことは、後に西武の監督を経験した森や渡辺久信からも指摘され、特に森は西武監督就任時に玄米食を白米食に移行し試合後の食前酒も解禁したという。さらに広岡自身については、肉料理の制限を行っておらず、また西武監督最後の年には(美食家が罹るとされる)風痛を病んでいることが明らかになり、このことはチーム内外で批判を浴びた。広岡はこれらについて「監督と選手が違うのは当たり前」と著書で述べている。江夏豊は「広岡さん自身が制限を守らない件を指摘したら、そのことで私は二軍に落とされた」「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記している。西武時代に「アイツは関西で投げると、どうも変なピッチングをする」という際どい発言を浴びせた 東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人」「すべて自分の考え方に全選手をあてはめ、従わせようとする人」と評している。但し、東尾は「広岡監督に選手が反発とか、対抗しながら優勝していった。マスコミもそれにうまく乗っけてくれた。そこら辺から少しずつパ・リーグの記事も増えたから、本当の野球とは違った意味での魅力なのかね」 などと話している。広岡が西武の監督に就任した1982年初頭のテレビ界は“「マンザイ」から「ヒロオカ」へ”と騒いだ。これは予想以上に早く潮が引いた「漫才ブーム」に代わるものは「広岡・西武」しかない、と在京キー局全てが西武の試合をめぐって争奪戦を繰り広げたもので、先の自然食の話は当時のマスメディアの大報道合戦を呼んだ。パ・リーグがマスメディアに露出する機会が増えてきたのはこの辺りからである。勿論、こうした自然食品や健康食品、玄米、食品添加物といったものが、世間一般に知られるようになったのもこの辺りからであった。広岡西武が“自然食ブーム”の普及に一役買った。広岡はとにかく厳しく妥協を許さない。ヤクルトの守備コーチ時代に、登板の予定のない投手陣にも厳しい練習メニューを課すので、投手が壊れてしまうと当時バッテリーコーチだった片岡宏雄が荒川博監督に進言したら、荒川が「よし、分かった」と広岡に伝えるとこれをあっさり却下、荒川も広岡に賛同せざるを得ない程の勢いで荒川をねじ伏せたという。平井平八郎トレーナーが開幕前のハードなトレーニングに「このまま行くと選手がパンクしますよ。少し緩めてやったらどうですか」というと広岡は「緩めて勝てるなら緩める。緩めても勝てないのならパンクした方がいい」と言い放った。田淵幸一は広岡のコーチングに最も強烈な影響を受けたと自著で述べているが、それは“まさに、ケンカ、選手を怒らせて上手くさせるコーチング”と解説している。西武キャンプ初日に全選手を前に主力選手を「給料泥棒」「引き際を考えろくなどと一人ずつ批判したため、選手間で「アイツの目が節穴だったと証明してやる。絶対優勝してアイツを胴上げして4回目で全員の手を離して落としてやる」が合言葉になったという。これは、このチームはベテランの働きが鍵を握ると考え、ベテランを奮起させればチームの体質が変わるという広岡の戦略でまんまとこれにはまった。不思議なものでチームが強くなると指揮官に信頼感が湧いてきて胴上げの時はしっかり広岡を受けとめたという。広岡は不世出の勝負師と思うと話している。田淵は広岡の食事療法を受け入れた結果、体質が改善されたと述べている。二年目にチームリーダーとしての教育を施した石毛宏典は「俺にとっても広岡さんの存在は大きい。1年目に新人王を取って、ああプロってこんなもんかって少し甘く考えていたんだけど、2年目に広岡さんが来たら下手だ、なんだとボロクソ言われて。腹の立ったこともあったけど『将来、指導者になりたければ自己流はダメだ。しっかりした理論を体にしみこませろ』と言われた」、「正確に問題点を再現するので納得するしかなかった」、「俺の中で昭和の名将は広岡達朗しかいない。監督人事は"有事"なんですよ。問題があって、それを解決して勝てるようにしなきゃならないから、その能力を持った人にやってもらうわけでしょう。あの時の西武はバラバラで、個々の選手の技術やレベルも十分じゃなかった。だから広岡達朗という男は個人のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った"技術屋"でもありました」、「厳しい広岡監督に野武士たちが付いていくようになったのは、やっぱり広岡監督が技術理論に長けた人だったからではないかと思う」、「ベテランは猛反発したけど、自分は中高大学と軍隊のような部活で育ったから(広岡野球に)違和感はなかった」と話している。広岡も石毛はリーダーシップのある選手と見抜き、天狗にならないよう意識的に挑発したと述べている。広岡は一軍で指揮を執る一方で森、近藤昭仁、佐藤孝夫の3コーチらと共に二軍に足を運び、若い選手を鍛え上げた。その成果もあって1985年に一気に若手が台頭した。2012年阪神球団初のゼネラルマネジャーに就任した中村勝広は、この一軍首脳陣が二軍にいる期待の若手を直接指導して西武の黄金時代を築いた広岡の指導方式を導入した。渡辺久信は「高校を卒業していきなりの管理野球にはとんでもないとこに来たと思ったけど、今思えばその経験が良かったと思う。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎をつくってもらったのかも知れない。蹴飛ばされたこともあったが、野球に関してあんなに厳しい人はいなかった。若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と話している。2010年まで球界最高齢選手(47歳)として現役を続けた工藤公康は、広岡に"坊や"と可愛がられ、入団一年目から使われたことでも知られるが、西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているといい「管理野球が自分の基礎」「これまで何度もあった逆境を乗り越えられたのは、広岡監督に若いうちにプロ魂をたたき込まれたお陰」「玄米じゃなきゃ壊れてたかもしれない」「頭が上がらないというより、今でも顔を見たら直立不動です」「野球に懸ける情熱、思いはあまりにすごすぎてまねできない」などとと話している。なお熊谷組への就職を発表していた工藤をドラフト6位で強行指名し入団させた仕掛人は、長らく工藤自身含めて全て根本と信じられてきたが、実は根本は工藤指名には反対で、強行指名の仕掛人は広岡だったという。渡辺と工藤は広岡が一軍に置いたまま、特別教育した成果である。金森栄治は「俺は玄米嫌いじゃなかった。今はみんな五穀米を食べている。広岡さんは時代の先を行っていたということ。野球のスタイルに関してもそう」と話している。伊東勤も基本の大事さを教えられた最も影響を受けた野球人として広岡を挙げている。大久保博元は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している。伸び悩んでいた時期に「下手投げ理論」を基に再生させた松沼博久は、当時誕生した長男に「達」の一文字を付け、感謝の気持ちを表した。また、秋山幸二は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された長池徳士コーチによって育てられたもの。西武の「育てながら勝つ」という伝統は、広岡の時代から始まったものである。またロ

出典:wikipedia

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