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近藤貞雄

近藤 貞雄(こんどう さだお、1925年10月2日 - 2006年1月2日)は、プロ野球選手(投手)・指導者・監督、野球解説者。現役時代は西鉄軍、巨人、中日・名古屋で活躍し、引退後は中日、ロッテ、大洋、日本ハムのコーチ・監督を歴任した。中日では、選手・コーチ・監督という異なる立場で優勝を経験した。愛知県岡崎市出身。旧制愛知県立岡崎中学校から旧制法政大学を中退後、1943年に西鉄軍に入団。強打の一塁手として鳴らしたが、深刻な投手不足のチーム事情から石本秀一監督は、近藤の長身からの速球を見出し投手にコンバートした。同年、西鉄は資金難のため1年で解散に追い込まれてしまう。(なお、この「西鉄軍」は戦中の日本野球連盟活動停止前に解散したため、戦後に復帰を認められなかった。このため、二リーグ分立時に「西鉄(クリッパース)」としてパリーグに加盟した球団との間に直接的な繋がりはないが、氏の訃報に際しては「旧制・岡崎中学から西鉄(現・西武)入団」と書かれているものある。)折しも徴兵による選手不足に悩む東京巨人軍の藤本英雄監督から申し出があり、1944年、黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した(黒沢と共に、他球団から巨人に移籍した最初の選手となる)。登板しない試合には野手として出場したこともあるなどし、プロ野球が再開された2年後の1946年に大車輪の活躍でチーム最多の23勝をあげるが、秋季キャンプで滞在していた愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープにはねられそうになったためそれを避けたところ、側溝に転落。そこにガラスの破片があったため、右手中指を負傷してしまう。戦後混乱期にあって迅速な治療を受けられず神経に深い傷を残してしまい、満足な投球ができなくなり巨人を自由契約になる。同僚だった千葉茂は「近藤の負傷が『別所引き抜き事件』の遠因になった」と評する。なお、近藤の右手中指は生涯第2関節から先が曲がったまま、元に戻ることはなかった。巨人時代の同僚で中日に移籍していた宮下信明が中日の杉浦清監督に掛け合い、近藤は中日に移籍。移籍1年目の1948年、独特の3本指で投げる「疑似チェンジアップ(パームボール)」を開発し同年6勝、翌1949年7勝、1950年10勝と活躍した。この近藤の復活劇をモチーフに新東宝が「人生選手」という映画を製作した。この映画には近藤も出演している。天知俊一監督が復帰した1954年、チームがリーグ優勝を果たす。同年限りで引退。1955年から1962年(野口〜第3次天知〜第1次杉下〜濃人監督時代)、1964年から1968年(第2次杉浦〜西沢〜第2次杉下監督時代)まで中日投手コーチを務めた。ルーキーイヤーから2年連続30勝をあげながら連投に次ぐ連投で肩を壊し、事実上投手生命を失った権藤博(後に横浜監督)の起用法に対する反省から、先発―中継ぎ―抑えの「投手分業制」を提唱。「甲子園準優勝投手」の鳴り物入りで入団しながら打線の援護に恵まれず、不振をかこっていた板東英二をリリーフエースとして起用することで実践した。板東は期待に応えて活躍。巨人・中尾碩志投手コーチとの論争などを経て近藤の「投手分業制」は球界に定着した。ただし、この件について、近藤は自著『野球はダンディズム'88』の中で「当時はまだ若輩で、濃人渉監督・石本秀一ヘッドコーチの権藤の使い方を、疑問の目で見ながらも、確たる理論的な裏づけもないまま、口を挟むことができなかった」と話している。実際に確信したのは、この5年後の1966年、フロリダの教育リーグでセネタースのピッチングコーチだった元ヤンキースのジョニー・セインから「投手の肩は消耗品」ということを教えられ、日本流の「投げ込み」や「酷使」が、確実に投手寿命を縮めることを確信したと書いている。また、コーチ時代に中日に在籍したポール・ホイタックの影響もあったといわれる。その後は濃人の誘いで1969年〜1971年にロッテ投手コーチ。ロッテ時代には若手有望株であった村田兆治の投球フォーム改造に取り組み、その完成形は「マサカリ投法」として村田の代名詞となった。1972年に中日の監督に就任した与那嶺要の要請で、古巣中日にヘッドコーチ兼投手コーチとして再度招かれ与那嶺から投手の起用法についてすべてを任され、1974年のリーグ優勝に貢献した。同年2年目の鈴木孝政を抜擢した。1976年退任。1977年からは中部日本放送野球解説者を務めた。1981年、最下位の責任を取って辞任した中利夫監督の後任として就任。近藤は前任監督の中について「中は年齢的にも長期政権を託されていたはずだから、わずか3年での退陣は本人はもちろん、球団フロントも誤算だったはずだ。」、自身が監督になったことについては「将来の監督候補として、チーム生え抜きの木俣、あるいは星野が目されていたが、ともにまだ現役で、またもうプレイングマネージャーの時代ではなくなっていた。結局選手時代からドラゴンズの経歴が長く、また与那嶺監督の下でヘッド兼投手コーチとして主力選手の多くを知っており、チーム事情も熟知しているなどの理由で、僕に後任監督の座がめぐってきた」と語っている。近藤はコーチングスタッフの編成で一つだけフロントに注文を出した。「牧野、そして杉下と、過去に中日はOBをコーチとして巨人にさらわれている。今度はその逆をやりたいんだが」、近藤が白羽の矢を立てるのは黒江透修だった。近藤は黒江について「有能な反面、言いたいことをストレートに口に出して煙たがれるタイプで、そのあたりをフロントの誰かに疎まれたのか、浪々の身だった。人間が仕事上での不平不満を、酒場などで愚痴るのはサラリーマンの世界でもよくあることで、グラウンドで期待してくれれば問題はないと考えたから、コーチとしての彼の能力のみを買って、黒江を自分のチームに迎え入れた」、「結果は成功で、1982年のリーグ優勝は、球界でのキャリアは長かったといえ新米で、ともすれば作戦や用兵で独断専行に陥る危険性があった僕を、投手コーチだった権藤、作戦コーチだったジム・マーシャルらと共に助けてくれた。」と著書の中で記している。戦力外になりかけていた平野謙の才能を見抜きレギュラー野手に成長させ、2年目の若手投手牛島和彦を抑え投手に抜擢し、翌1982年にリーグ優勝を果たした。この優勝決定試合は大洋戦(横浜スタジアム)で、長崎啓二(大洋)と田尾安志(中日)との間で最後まで争った首位打者争いで、いまだに語られる田尾の5打席連続敬遠の日であったが、中日は優勝し外野スタンドから大勢の観客がグラウンドに乱入しもみくちゃの観客のいる中で優勝インタビューが行なわれた。インタビューが中盤にさしかかった時に心無いファンに正面から近藤がかぶっていた球団帽を奪い取られた。近藤は一瞬動揺したがインタビュー中で追いかけることもできないため、そのままインタビューに答えている。翌年は前年の秋季練習が無く、春のキャンプも主力は「調整」のみという、近藤自ら「大リーグ方式」と言ってはばからなかったが、シーズンに入ると故障者が続出し、練習不足もたたって、ほとんどの主力選手が軒並み前年より成績を落とすなどして5位に沈んで退任した。1985年大洋監督に就任。高木豊、屋鋪要、加藤博一の俊足打者3人を1〜3番に据え「スーパーカートリオ」と銘打った。1986年退任。1989年より日本ハムの監督を務める。4月10日の対ダイエー戦では7回、加藤伸一による一塁への牽制球をめぐって、最初三塁に投げようとした事がボークではないかと猛抗議し、退場処分となる。63歳6カ月での退場処分は阪神タイガースの監督だった1967年の藤本定義の62歳9カ月を抜く、当時の史上最年長記録であり、加えて平成初の退場者となった。同じ年の7月20日の対オリックス・ブルーウェーブ戦でも、酒井勉の牽制球を巡って抗議し、退場処分を受け自らの最年長記録を更新している。1991年に退任。以降は中部日本放送野球解説者・中日スポーツ野球評論家を務める。野球解説者がスポーツ新聞などに寄稿する場合、実際の記事は解説者から話を聞いた記者(ゴーストライター)が書くケースがほとんどといわれている。しかし近藤は、そのような場合自ら記事を書いた。中日スポーツの増田護記者がその理由を聞くと、「話したこととニュアンスが違う(記事になった)ことがあったんだ。それじゃあ自分で書けばいいんだから勉強もしたよ」と答えたという(『中日スポーツ』2006年1月3日)。また、教え子の1人であった板東英二は近藤が「ディスクジョッキーみたいなものをやってみたい」という意向をもっていたことから、それも踏まえて「自分で(記事を)書かなけりゃボケますよ」とアドバイスしたという。なお、近藤の願望は中部日本放送解説者に復帰した直後の1992年4月に始まったCBCラジオのワイド番組『もぎたてのカボチャたち』のパーソナリティー就任で実現することとなった。1999年野球殿堂入り。2001年にはプロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sers初代監督となり、翌2002年まで務めた。2006年1月2日午前9時22分、都内の病院で呼吸不全のため死去。。この年、かつて監督を務めた日本ハムが25年ぶりのリーグ優勝を果たし、中日も2004年以来の2年ぶりのリーグ優勝を決めた。ニックネームは先進的な理論とユーモア溢れるパフォーマンスから「ダンディ」。日ハム時代には、専門誌の週刊ベースボールで親しみをこめて「ダンディじじい」と書かれたこともある。巨人のエースとして活躍したこともあったが、退団の経緯などの事情から巨人OB会には一度も出席しなかった。彼自身が「瞬間湯沸かし器」と自称していたとおり、審判に駆け寄っての抗議も多く、その際に両手を後ろに回すスタイルが多くのプロ野球ファンの共感を呼び、「日本のビリー・マーチン」と呼ばれた。審判団から退場を命じられた数も多く、1993年に福岡ダイエーホークスの根本陸夫監督に破られるまで、退場者の最高齢記録を持っていた(現在は2005年に仰木彬が更新)。1986年9月8日の対巨人戦(後楽園球場)で有田修三のセーフティー・スクイズプレイがセーフと判定されて敗戦したことについて「今日は審判で負けた」と発言した。なお、翌日の新聞に「有田はヘッドスライディングしたのでなく、一塁に手前で転んだだけ」とコメントが載った。また、平成元年(1989年)のプロ野球において、初の退場を命じられたのは、大正生まれの近藤であった。しかしながら実際のところは審判との罵り合いはファンサービスととらえており、中日・大洋の監督時代に2度の退場宣告を受けている柏木敏夫とは実際にはアドバイスや議論を重ねる間柄だった。近藤が日本ハム監督になると、柏木をつかまえて「お前もパ・リーグに来て一緒になんかやらかして、客集めしよう」と声をかけたこともあった。日本ハム時代は、前川芳男が抗議のターゲットであった。その一方で、近藤は論理的、システマティックな野球観を持っていた。例えば不要な投げ込みの禁止、自主練習を重視するスタイルによるキャンプでのだらだらした長時間練習の廃止、判で押したようなバント作戦の否定、「アメフト野球」「ツープラトン野球」と言われた攻撃と守備で選手を大きく入れ替える戦術などは、その野球観の代表例である。1982年のシーズン最終戦、優勝を賭けた試合前にベンチ裏にビールをずらりと並べ、緊張するナインに「ぐいっと引っかけて度胸を据えて行け」と言ったが、ナインは誰も手を付けず、近藤一人だけが飲んでいたという逸話があるが、鈴木孝政が「(この試合は小松辰雄が完投した事もあり、)用なしだから裏でビールを飲んでた」と発言している。1981年にコーチ兼任になった星野仙一とはもとより信頼関係は低かったが、中日が優勝した1982年には、登録抹消はされなかったものの衰えが顕著になり登板機会が大幅に減少した。同年6月30日ナゴヤ球場での巨人戦9回表4対2で2点リードの場面で星野が通算3割3分以上打たれている苦手打者淡口憲治から同点本塁打を打たれる。牛島和彦に後を譲り降板。近藤は星野に「もう先発要員ではない。リリーフに回れ」と話したが、木俣達彦は「先発、完投を生きがいにしてきた星野にとって自分をすべて否定された思いに違いない」と記している。先発を外されたうえに、リリーフは牛島の指定席とあって、星野はこの年をもって引退する。星野はその後も二度中日監督を務めるなど球団内で圧倒的な権力を誇っていたが、阪神監督就任の際に中日OB会を除名されることとなった。近藤は「(中日OB会から)星野を追い出したのが俺の最大の功績だ」と親しい知人に漏らしていた。こうした経緯から、星野は近藤の訃報を聞いても通夜・葬儀への出席をしなかったが、死去翌日の一部新聞(読売新聞大阪本社版等)には追悼のコメントを寄せていた。しかし近藤は、著書で星野について、現役時代や監督としての姿勢を高く評価しており、前述の1982年の引退勧告も、これからの中日のメリットのことを考えてのことだったこともあり、複雑な心境だったと述べていた。また、監督就任時には髙木守道に「君はいいコーチになれるよ」と言い、引退するように仕向けて実現させており、星野と同年には木俣達彦も引退させている。同年5月23日大洋戦で9回裏9対6で3点リードの場面で鈴木孝政が長崎慶一にサヨナラ満塁本塁打を打たれる。リードしていた木俣を近藤がリードに問題ありと断罪され、翌日新人の中尾孝義にマスクを譲り、木俣は代打に専念にするように告げられる。近藤が起用した中尾は同年MVPを獲得している。代わって投は小松辰雄や牛島ら、打は平野謙らを登用している。投打共に球団のスター選手を引退させ、世代交代を進める役回りを果たしたと言える。チームが勝てば何だっていいというような無責任な考えの応援を快く思っておらず「彼らは野球を見に来ているのではない。こういうのは野球ファンとは呼べない」と嘆いていた。また、長嶋茂雄に対しては、前向きな姿勢が立派であると評価していたものの、監督としての能力を心配している部分もあった。そこで、近藤は、野村克也を参謀にして、長嶋とタッグを組んだらよいのではないかという考えを著書にて、提唱していた。※1967年は西沢道夫の休養に伴う監督代理(5月18日 - 5月28日)※1981年から1996年までは130試合制※この他、1974年10月14日の対巨人戦ダブルヘッダー(後楽園球場・長嶋茂雄引退試合)でも代理で指揮を執っている(与那嶺監督や主力選手が名古屋市内での優勝パレードに参加したため)。

出典:wikipedia

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