ミナルディ("Minardi" )は、かつて存在したイタリアのレーシングチームである。本拠地はイタリアのファエンツァ。からまでF1に参戦したのち、レッドブルに買収され、2006年よりスクーデリア・トロ・ロッソへ移行した。F1直下のカテゴリ(F2やF3000)で成功した後、1980年代後半にF1へステップアップしたプライベートチームのひとつ。これらの小規模チームが淘汰されていく中で、ミナルディも毎年のように撤退が噂されながら、合併やオーナー交代によって2000年代までしぶとく生き残った。F1で表彰台に上ったことは無く、参戦後期の印象から「万年テールエンダー」と揶揄されたが、1990年代前半頃までは中堅であり、予選で上位を占めることや入賞することも多かった。慢性的な資金難のため、型落ちのマシン・エンジンを使い続けなければならなかったが、技術面ではチタン製ギアボックスを始めとして、堅実な開発能力を持っていた。さらに、「現代のF1では他にみられない家庭的な雰囲気と、F1への愛と情熱を感じさせるチームである」と評価する向きもあった。イタリアのチームだけあって、イタリア人ドライバーを多く起用していた時期があったが、1990年代終盤からは様々な国籍のドライバーを起用するようになった。スポンサー持ち込みのドライバーを採用することも多かったが、有能な新人を発掘し、F1デビューの機会を与えるチームでもあった。また、日本人ドライバーの片山右京、中野信治が最後に所属したチームでもあることから、日本人のファンも多かったチームの1つである。イタリアで老舗のフィアットディーラーを営むミナルディ一族のジャンカルロ・ミナルディが創設したプライベートチーム「スクーデリア・デル・パサットーレ(Scuderia del Passatore)」「スクーデリア・エベレスト(Scuderia Everest)」を前身とする。フォーミュラ・イタリアを経て、1974年よりヨーロッパF2選手権へマーチ・BMWを使用して参戦開始した。また、ジャンカルロはフェラーリの創業者エンツォ・フェラーリと良好な関係を持ち、1976年にはイタリアの若手ドライバー養成のためフェラーリ・312Tを借りて非選手権レースに出場した。1977年と1978年にはF2参戦用として"ディーノ"V6エンジンの供給を受けた。1980年にはピエロ・マンチーニからの支援を受け、チーム名を「ミナルディ」と改め、ジャコモ・カリーリ設計によるオリジナルマシン「GM75」を投入した。ヨーロッパF2選手権には1984年まで参戦し、ジャンカルロ・マルティニ、ランベルト・レオーニ、エリオ・デ・アンジェリス、ミケーレ・アルボレート、ジョニー・チェコット、アレッサンドロ・ナニーニ、パオロ・バリッラ、ジャンカルロの甥であるピエルルイジ・マルティニらが在籍した。ミナルディはF1への進出を計画したが、アルファロメオからのエンジン供給を得られなかった。そこで、マンチーニがアルファロメオからエンジン技術者のカルロ・キティを引き抜き、モトーリ・モデルニを設立。自社製V6ターボエンジンをミナルディのマシンに搭載する計画を立てた。ストッダートは2005年シーズン限りでミナルディを手放し、エナジードリンクメーカーのレッドブルへチームを売却することを決断。2005年9月10日のベルギーGP予選後に、同年11月1日よりレッドブルが全株式を取得することが発表された。チームの本拠地は引き続きファエンツァに置かれるが、2006年からはレッドブル・レーシングのジュニアチームの「スクーデリア・トロ・ロッソ」として参戦することとなり、20年に渡るミナルディの歴史に幕を下ろすことになった。この買収の際、レッドブル社が買収行為を「デリバリーピザを頼むように気軽に」と発言した事により、同社はミナルディのサポーターから多大な反感を買った。最後のレースとなった2005年の最終戦である中国GPまでに通算340戦参戦を果たした。これは当時の記録として、フェラーリ、マクラーレン、ロータス、ウィリアムズ、ティレル、ブラバムに次ぐ、歴代7位となるものである。これらの他チームは少なくとも1勝を記録しているが、ミナルディは未勝利のまま参戦を終えた。チーム創設者のジャンカルロ・ミナルディは、2006年よりイタリアのGPレーシングと共にユーロ3000選手権(旧・イタリアF3000選手権)に「Minardi Team」の名称で参戦を開始し、「ミナルディ」の名称は引き続きモータースポーツ界に残されることとなった。また2007年からはネルソン・ピケ率いるピケ・スポーツとのジョイントによりミナルディ・ピケスポーツを設立。GP2参戦を開始した(2007年限り)。またポール・ストッダートは、2006年3月29日に「ヨーロピアン・ミナルディF1リミテッド」の名称で2008年のF1世界選手権へのエントリー申請を行ない、結果却下されたが、その後新たなレース活動をアメリカのチャンプカーに求めた。キース・ウィギンス率いるCTEレーシングHVMの株式の半数を取得する形で、2007年よりミナルディチームUSAの名称で参戦することが決定した。これにより、ヨーロッパではジャンカルロ・ミナルディが率いるミナルディ、アメリカではポール・ストッダート率いるミナルディと、2つのミナルディがそれぞれ異なるカテゴリーでレースに参戦することになった。しかし、前述の通りGP2でのジョイントは1年で終了、チャンプカーシリーズが2008年よりIRLへ統合され、IRLへの転向も見送ることとなったため、再びミナルディの名はレースシーンから消えることとなってしまった。が、2011年にフォーミュラ・ルノー3.5世界選手権にジャンカルロ・ミナルディの息子、ジョバンニ・ミナルディ率いるBVMターデットチームが参戦することが、オートスポーツWebの2010年10月12日付の記事で報じられた。それによると、BVMチームはすでにイタリアF3選手権などに参戦はしていたが、世界転戦型のモータースポーツカテゴリーに参戦するのはこれが初めてであった。ミナルディチームは上記の通り有力ドライバーを雇えない一方で、新人発掘には優れていた。古くは、ミナルディから計6シーズンに参戦したマルティニをはじめ、アレッサンドロ・ナニーニもミナルディからF1デビューしている。特に1990年代後半からはフラビオ・ブリアトーレのマネージメント契約下にあるドライバーにシートを与え、ジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリ、フェルナンド・アロンソ、マーク・ウェバーといった有力ドライバーがミナルディからデビューを果たしてトップチームへとステップアップしていった。中でもアロンソは2005年・2006年にミナルディ出身ドライバーとして2年連続ワールドチャンピオンを獲得した。また、その他のミナルディ在籍者の中には片山右京や中野信治、アレックス・ユーンやステファン・サラザンなど、F1以外のモータースポーツで活躍するドライバーもいる。ここではミナルディでデビューして後にF1で優勝を記録したドライバーを初優勝の記録順に挙げる。カッコ内は初優勝GPと当時の所属チーム。
出典:wikipedia
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