『ラストエンペラー』("The Last Emperor")は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。溥儀の自伝『わが半生』を原作に、ベルナルド・ベルトルッチが監督、脚本を兼任した。メインキャストである溥儀の青年時以降の役は、香港生まれの中国系アメリカ人俳優のジョン・ローンが演じた。西太后による溥儀に対する清朝皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、退位し連合軍に抑留された後、文化大革命のさなかに一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生を描く。第60回アカデミー賞作品賞並びに第45回ゴールデン・グローブ賞 ドラマ部門作品賞受賞作品。1950年。第二次世界大戦の終結による満州国の崩壊と国共内戦の終結により、共産主義国である中華人民共和国の一都市となったハルビン駅の構内。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ、中華人民共和国に送還された「戦犯」達がごった返す中で、列から外れた1人の男が洗面所で自殺を試みる。男は監視人の手により一命を取り留めるものの、薄れ行く意識の中で幼い日々の頃を思い出していた。この男こそ清朝最後の皇帝にして満州国の皇帝、「ラスト・エンペラー」と呼ばれた愛新覚羅溥儀その人であった。1908年11月14日北京、光緒帝の崩御に伴い、西太后は溥儀を紫禁城へ呼び出す。事態を察知した溥儀の実母福晋幼蘭は、乳母アーモに溥儀を託す。物々しい様子の宮中で、溥儀は動じることなく、無邪気に「お家に帰れる?」と繰り返すばかりであった。瀕死の西太后は、溥儀を皇帝に指名して崩御する。即位式の日、家臣たちが三跪九叩頭の礼で新皇帝に拝礼する最中、溥儀はコオロギの鳴き声を追って列中を歩き回る。そして居場所を突き止めると、コオロギを入れ物ごと家臣から譲り受ける。再び、1950年、一命を取り留めた溥儀は、中華人民共和国の戦犯として撫順の政治犯収容所に送られる。そこで待っていたのは「戦犯」としての自己批判の強要や要人の立場を奪われた生活習慣だった。そこで溥儀は厳しくも善良な所長相手に、孤独で不遇だった私生活を「すべては、(空虚な)儀式でしかなかった」と振り返り、過去を回想していく。収容所では、実弟の溥傑と再会する。紫禁城を出ることが認められず、宦官ら大人にかしずかれて育った溥儀にとって、溥傑は初めて出会った同世代の子供であり、大切な存在となった。しかしながら、乳母のアーモからは依然として乳離れできず、溥傑の目を盗んでアーモの乳房に顔をうずめる。その様子を、先帝妃たちが見ていた。ある日、溥傑が皇帝しか許されないはずの黄色い衣服を着ていたことから、兄弟喧嘩となる。溥傑は「兄ちゃんは皇帝じゃない」と言い、すでに辮髪もしない洋服の新しい「皇帝」がいると話す。溥儀は皇帝である証明に、宦官に命令して緑のインクを飲ませるが、溥傑は皇帝の姿を見せる。ショックを受け、宦官らに問いただすと「紫禁城の外では皇帝ではないが、紫禁城の中では皇帝である」と説明を受ける。そしてアーモは紫禁城を追放され、溥儀は彼女を必死で追うが、会えずに終わる。アーモは乳母以上に、初恋の女性だった。再び1950年代、収容所所長は溥儀の過去を知るため、家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが記した『紫禁城の黄昏』を開く。学生のデモで物々しい北京市街を経て、ジョンストンは紫禁城へ赴く。城内は城外と打って変わって旧態依然としており、伝統や慣習がそのまま息づいていた。10代になった溥儀は知的好奇心旺盛で、盛んに城外へ出たがっていた。ジョンストンは家庭教師として、勉強だけでなく城外の知識や常識を溥儀に与え、溥儀にとって信頼できる友人となる。1921年、溥儀の実母が逝去し、溥儀は自転車で城外へ出ようとするが、衛兵に妨げられる。さらに城外へ出ようと屋根に上った際、頭を打ち、西洋人の医師から「眼鏡をかけないと失明する」と診断される。先帝妃らや宦官は反対するが、ジョンストンは眼鏡を認めないなら、紫禁城の腐敗を新聞を通じて世界に伝えると言い返す。眼鏡を認められた溥儀が最初に見たものは、お妃候補たちの写真であった。17歳の婉容を皇后に、12歳の文繍を淑妃(第2皇妃、側室)に選ぶ。古式ゆかしい婚礼が行われ、婉容と文繍は友情を結ぶ。彼女を古風な女だと思っていたが、実際には溥儀の理想通り、外国語が話せてダンスが踊れる「モダンな妻」であった。溥儀は二人でオックスフォードへ留学したいという夢を語り、婉容も彼を気に入り好きになりそうだと、互いに好印象を抱く。再び1950年代、溥儀は日本と接近した経緯と理由を激しく詰問される。成長した溥儀は、もはや城外への脱出ではなく改革を志すようになっていた。その始まりは辮髪の断髪と、宦官らの不正を露呈させるための美術品目録作成であった。その夜、不安を感じた婉容は自ら溥儀の寝所を訪れる。さらに文繍も現れ、3人で仲睦まじく過ごすが、屋外では炎が燃え盛っていた。一部の宦官らが、証拠隠滅のため美術品ごと建福院に放火したのであった。溥儀は激怒し、共和国軍の支援も得て1000名以上の宦官を全て追放する。日本への接近が決定的となったのは1924年、北京政変だった。溥儀を対象としたクーデターで、溥儀ら一族は1時間以内の退去を命じられる。ついに溥儀は紫禁城を離れることとなった。ジョンストンは英国大使館へ連絡して庇護を求めるが、結局、溥儀に手を差し伸べたのは大日本帝国のみだった。加えて、日本には同世代の天皇もおり親近感もあった。日本の庇護下、天津での生活は、軍閥との交渉はあったものの、総じて楽しいものだった。溥儀と婉容は「ヘンリーとエリザベス」となり、社交界でも注目の的だった。一方、文繍は紫禁城の外では(社会的に)妻として認められず、孤独な思いから離婚を望んでいた。ダンスパーティーの最中、蒋介石の上海制圧のニュースが伝えられ、居合わせた欧米人らが拍手喝采する中、輪から外れた溥儀らに甘粕正彦が「日本公使館へお越し下さい」と誘いかける。文繍は車中で離婚の意思を告白し、混乱の中ついに出奔する。友を失った婉容の護衛のため「東洋の宝石」(Eastan Jewel)こと川島芳子が現れる。彼女は溥儀の遠縁であり、あらゆる情報に通じていた。彼女は清朝の陵墓(清東陵)が国民党により略奪されたニュースをもたらし、溥儀を激しく憤慨させる。そして芳子は、婉容にアヘンを勧める。再び1950年代、溥儀が自発的に満州国皇帝になろうとしたか否か、激しく論争が起こる。溥儀自身は告白には「日本に誘拐された」と記したが、ジョンストンは『紫禁城の黄昏』に溥儀が望んだと記していた。そして、かつての使用人も天津出立前日に荷造りをしたと告白していた。当時、溥儀は満州国の支配者の家系に生まれた自分抜きで満州国の成立はあり得ないと考えていた。清朝復活に魅かれる溥儀に対し、婉容は慎重な姿勢を示す。所長は、事実を思い出せ、と『紫禁城の黄昏』を溥儀の目の前に置く。1934年、溥儀はついに満州国皇帝となる。告天礼が行われた後、即位を祝う舞踏会の最中、婉容は涙を流しながら花を食べる異常な様子を示す。溥儀は婉容をたしなめるが、彼女は日本の傀儡でしかない現状だけでなく何故自分を抱かないのか抗議する。溥傑の横で客人から挨拶を受ける嵯峨浩を見やり、自分も彼女のように子供が欲しいと訴えるが、溥儀はアヘン中毒が理由だと説明し、訪日にも連れて行かないと告げる。宴を中座した婉容は、芳子の導きでアヘンと同性愛関係に溺れていく。日本で歓迎を受けた溥儀が帰国すると、満州国内の様子が異様だった。国務総理大臣鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū)は息子の暗殺を機に隠棲し(=辞職に追い込まれ)、代わって軍政部大臣張景恵(Zhāng Jǐnghuì)が関東軍の推薦の元、溥儀から後任の承認を得ようとしていた。御前会議の場で、溥儀は首相就任を認めないばかりか、独立国として日本のみならず各国と対等な関係を築こうと話すが、関東軍の息のかかった家臣は次々に退席する。夕食の席で、婉容は溥儀に懐妊を告げる。相手は満州人の男で、溥儀のためにもなると話す。そこへ甘粕が現れ、承認のサインをするよう迫る。溥儀は皇后の懐妊を告げ、満州国の後継者が誕生すると強気に出るが、甘粕は逆に相手の男の名を溥儀に教える。溥儀は帝室の名誉のため、傀儡となることを余儀なくされる。やがて婉容は出産するが、生まれた子はすぐ殺害され婉容は静養のため皇宮を離れる。溥儀は彼女を必死で追うが、会えずに終わる。その様子を見ていた甘粕と芳子は指を絡めあうのだった。再び1950年代、戦犯たちに対し中国共産党視点での歴史映画が放映される。大日本帝国は満州で侵略の足場を固め、上海での無差別爆撃、南京での20万人以上の虐殺、真珠湾奇襲、そして満州における細菌戦のための人体実験にアヘン生産――満州の映像が流れたとき、溥儀は思わず立ち上がる。日本の敗戦、そして満州国の滅亡により、溥儀は溥傑の勧めにより日本への亡命を図る。出立直前、皇宮に戻った婉容と再会するが、中毒症状で変わり果てた姿の彼女はもはや会話が成立する状態ではなかった。そして亡命の途上、ソ連に捕えられたのであった。溥儀は、一転してあらゆる告白に署名を行った。1959年、特赦により収容所を出所する。文化大革命の嵐が吹き荒れようとしていた折、一介の庭師として植物園に職を得ていた溥儀は、紅衛兵のデモの中に罪人として引き回され晒し者にされているかつての収容所所長の姿を見つける。紅衛兵に話しかけ懸命に庇おうとする溥儀であったが、徒労に終わり所長は連れ去られていく。溥儀はその足で街をさすらい、博物館として一般公開されている紫禁城へ、そしてかつては自分のものだった玉座へと赴く。そこには彼の顔も知らない博物館の守衛の子供が一人いるだけだった。玉座への立入をとがめる子供に「昔ここに住んでいた」と語る。溥儀は皇帝だった証拠として、幼い頃玉座の隅に隠し持っていたコオロギの壷を手渡す。そして子どもが目を上げたとき、そこにはもう溥儀の姿はなかった。時代は移り1987年(公開当時の「現在」)、歴史を直接に知らない大勢の観光客たちが紫禁城を訪れ、騒がしさのなかで溥儀の玉座を眺めるのだった。清朝及び満州国を舞台にした映画であるが、中国系アメリカ人俳優が主なキャストを占めており、主な台詞は英語であったり、独自の脚色も多い。また、他にも中華人民共和国で何本か同じテーマの作品が作られた上、当時はまだ同国政府による規制が現在よりもさらに厳しかったために外国映画が広く観られていなかったこともあり、アカデミー賞受賞作品であったにもかかわらず、映画の舞台となった中華人民共和国での知名度は低い。故宮で世界初のロケーションを行われたことが公開前から大きな話題を呼んだ。観光名所として一日5万人が訪れる故宮を、中国共産党政府の全面協力により数週間借り切って撮影が行われた。色彩感覚豊かなベルトルッチの映像美は圧巻の一語に尽きると高い評価を受けた。特に故宮太和殿での即位式の荘厳、華麗なシーンは映画史に残る有名なシーンとなった。甘粕正彦役兼音楽プロデューサーで坂本龍一が参加。坂本がベルトルッチ監督から音楽についてのオファーを請けるのは、撮影が終了して半年も後のことだった。甘粕正彦は切腹して自決する筋書きになっていたが、これに強い違和感を持った坂本が監督を説得し、拳銃自殺に変更された(史実では服毒自殺している)。またキャストとして昭和天皇が登場するとされ、溥儀と対面する後ろ姿の写ったスチール写真が存在するが、公開時には登場シーンは全てカットされていた。1987年度のアカデミー賞では『恋の手ほどき』以来となる、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全てでの受賞を達成した。特に日本においては、溥儀や満州国という日本人にとって非常に近い題材を描いた内容であったことで幅広い年齢層を引きつけたことと、高松英郎や立花ハジメなどの日本人俳優が多く出演し、さらに甘粕正彦役兼音楽プロデューサーとして参加した坂本龍一が、日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞したことなど、様々な要因が大ヒットに繋がった。なお、日本での劇場公開に際しては、配給元が「溥儀が中華人民共和国の収容所で南京大虐殺の映像を見せられるシーン」をベルトルッチ監督に無断でカットした。そのためベルトルッチ監督から抗議され、後にそのシーンを復活させた。
出典:wikipedia
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