林 美雄(はやし よしお、1943年8月25日 - 2002年7月13日)は、日本のアナウンサー。東京府深川区(現・東京都江東区)出身。TBS編成局アナウンス部副理事。東京都立第三商業高等学校を卒業後、三菱地所に入社。三菱地所を退職、早稲田大学に入学。卒業後、1967年4月、TBSにアナウンサーとして入社。ラジオ『パックインミュージック』のDJを担当。デビュー前の荒井由実(後の松任谷由実)や、おすぎとピーコを紹介し、若者たちの人気を得る。その後『夜はともだち』『夜はこれから』などを担当。1994年社会情報局アナウンスセンター専任部長を経て、2001年編成局アナウンス部副理事。TBSの放送終了時に流れる「こちらはTBS、東京放送です」とのステーションコールを担当するなど局を代表するアナウンサーとして知られた。東京都立第三商業高等学校在学中の1961年(昭和36年)に第8回NHK杯全国高校放送コンテストに出場し、アナウンス部門で1位を獲得している。アナウンサーになるためには大学を卒業する必要があることから大学進学を望んだが、家庭の経済的事情から高校卒業後、三菱地所に就職する(アナウンサーとしては珍しい高卒就職組である)。まず会社勤めをして学費を稼ごうという考えであった。一年後同社を退社し、早稲田大学第二法学部に入学する。卒業後の1967年にTBSにアナウンサー12期生として入社し同期には青木靖雄、石森勝之、小口勝彦、河野通太郎、久米宏、宮内鎮雄、米沢光規、他職では若林貴世志(現TBSHD取締役相談役)がいる。アナウンサーの1年先輩には川戸恵子がいる。1967年11月15日に『アナウンサー研修室』設置に伴いアナウンサー研修室付兼ラジオ第一制作部勤務となる。深夜放送ブームがあった1970年代には、久米宏、小島一慶、林美雄の三人で「TBS若手三羽ガラス」に数えられていた。1970年5月に深夜放送『パックインミュージック』(以下『パック』)木曜日第2部のパーソナリティを担当。本来、この時間帯は同年4月より、久米宏が担当していたが、久米が体調不良により降板。これにより急遽、林が起用された。番組では、映画、演劇、音楽を中心にテレビやラジオではなかなか紹介されないもの、人を取り上げることに精力を注ぐことで、数多くの人材を発掘した。中でも看板コーナー「ユア・ヒットしないパレード」(文化放送の長寿番組『ユアヒットパレード』のパロディ)では、山崎ハコ、斉藤哲夫、RCサクセションなどのミュージシャンを紹介した。また荒井由実を「この人は天才です!」と絶賛。当時流行のフォークソングとは一線を画した、日本のポップス、ニューミュージックなどを数多く紹介するコーナーとなった。この他、低迷状態にあった日本映画紹介や、小劇団、イベントなどに自ら足を運び『パック』で紹介。林の紹介を聴いて劇場に足を運んだリスナーも多く、初日の客席がガラガラだった劇団が、最終日には満員札止めとなる事態になることもあったという。こうした林の放送での発言から、劇団「ミスタースリムカンパニー」や、映画「八月の濡れた砂」などが若い世代に浸透した。また、デビュー前のタモリを出演させ、四カ国マージャンを放送したり、おすぎとピーコのコーナーを設けるなど、これはと思った映画や歌手、文化人を次々と取り上げた。また、井上陽水と石川セリが同時に出演し、その以後2人は結婚した。この他、ニュース番組のパロディ「苦労多かるローカルニュース」では、ニュースに止まらず、パロディCMなどのコーナーがあり、同番組での愛称は「下落合のミドリブタ」。下落合は当時林が住んでいた住所に由来する。『パックインミュージック第2部』は1974年8月に降板。このときの最終回は酒を飲んで涙しながら放送し、終了後は局の玄関前に集まった約50人のリスナーと一緒に朝焼けを見に上智大学の土手まで歩いていったという。しかし、降板前から活動していたというリスナー有志のパ聴連(『パック』から林を降ろすな聴取者連合)の署名活動など(林本人曰く、署名の中には「荒井由実」の名前もあったという)、ファンの復活を求める声が多かったため、翌1975年10月から火曜深夜(のちに月曜深夜)の担当を務めた。また『パック』と並行して、1976年4月から1978年3月まで夜9時台の若者向けワイド番組『一慶・美雄の夜はともだち』も担当した。こうした中、1975年1月には、新宿の東京厚生年金会館ホールで「歌う銀幕スター・夢の狂宴」と銘打ったイベントをプロデュース。林の愛する映画スターに、スクリーンの中で演じてもらうのではなく、ステージの上で歌ってもらおうという企画であった。映画評論家の植草信和(元・キネマ旬報編集長)らとともに、出演交渉から演出まで全てを行い、渡哲也、菅原文太、原田芳雄らが観客を前に歌うという、当時、また後の時代としても豪華なイベントを成功させた。1980年9月、林は『パック』をふたたび卒業。最終回では、エンディングテーマ『青春の蹉跌』(井上堯之)にのせて挨拶をしたが、途中で林の声が絞られ、数分間曲のみが流れた。番組終了間際に再び声が流れ「音としては(放送に)のっていませんでしたが、いろんな事をいま言いました…だから、勘弁してくださいね」の言葉で締めた。これについては、2013年12月のTBSラジオの特番「林美雄の空白の3分16秒」にも紹介されている。その後、プロデューサーとして『パック』に携わり、1982年7月、15年に亘る『パックインミュージック』番組全体の最終回では、総合司会を務めた。『パック』終了後は、番組で培ったプロデュースを生かし、アナウンサーとしての番組出演業務に止まらず、ラジオ編成部の兼任や、アナウンス部副部長(1990年5月から)として後輩アナウンサーの育成など、人材の発掘と育成も並行して行っていった。後輩のTBSアナウンサーの中では、小林豊が“愛弟子”とされている他、外山惠理(1998年入社)は「私を褒めて下さった唯一の先輩」としている。80年代中盤は『赤坂ライブ』のプロデューサー兼司会者を務め、爆風スランプや渡辺美里らを登場させた。渡辺は後に深夜放送『スーパーギャング』を担当、林本人も同番組プロデューサーを務めた。他にも東京JAPのドラマー・赤坂泰彦のラジオDJとしての才能を見出し、後に赤坂が長年に亘って帯番組を担当するTOKYO FMの担当者に、赤坂を紹介したのも林だった。同時に、昼の帯番組『歌謡ワイド昼一番』を1985年4月まで担当した他、1986年には音楽に限らず、様々な分野で活躍する人間を紹介する『おもしろ組 '86』を担当。この他、夕方の関東ローカルニュース番組『テレポートTBS6』では、スポーツコーナーのキャスターとして出演。1991年から2003年までは、TBSテレビのオープニング・クロージングのナレーションを担当していた(林が2002年に死去した後も追悼の意味を込めてしばらく使用された)。1993年10月からは再び昼のワイド番組に復活。『林美雄アフタヌーン〜オーレ!チンタラ歌謡族』(翌年10月からは『だんとつ林の午後はどーんとマインド』)のパーソナリティを1995年秋まで務めた他、テレビ『CBSドキュメント』のナレーションも担当した。この頃、50歳を過ぎて自動車免許を取得し、ゴルフを始めた。1998年の初めに胃がんが発見され胃の3/4を切除した。2001年に再発、同年夏と2002年の初めに手術を受け療養していたが、2002年7月13日肝不全のためTBS在職中に死去。。林の死後、『キネマ旬報』(2002年8月下旬号)に、植草信和(キネマ旬報元編集長)の手になる林美雄追悼メッセージが掲載された。2002年8月25日、東京・港区の新高輪プリンスホテルで、お別れ会『サマークリスマス〜林美雄フォーエバー』が執り行われた。会場には松任谷由実、渡辺美里、赤坂泰彦、白石冬美、原田芳雄など、深夜放送時代に知り合った関係者をはじめ、700人が出席。石川セリが「八月の濡れた砂」、山崎ハコが「さよならの鐘」を歌ったほか、松任谷由実は林が『パック』を引退する時に贈った曲「旅立つ秋」を歌った。9月1日深夜(2日未明)には、同タイトルの特別番組が放送された。『夜はともだち』で共演した小島一慶の進行で、お別れ会の模様が紹介された他、本人の録音テープや同期入社アナウンサーの宮内鎮雄、小口勝彦による座談会が放送された。また、これに遡ること1ヶ月前、『月刊 愛川欽也 キンキンのパックインミュージック』では、この訃報についてリスナーから便りが寄せられ、愛川欽也、白石冬美が生前の林を偲んだ。
出典:wikipedia
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