ジャック・ジョゼフ・シャルル・ヴィルヌーヴ(, 1971年4月9日 - )は、カナダ出身のレーシングドライバー。 1995年のCARTシリーズチャンピオン、同年のインディ500優勝者、1997年のF1ワールドチャンピオン。一般的な愛称はJV。1971年4月9日、カナダはケベック州に生まれる。7歳の時、伝説的なF1レーサーである父ジル・ヴィルヌーヴと共にヨーロッパに渡り、11歳の時に父を事故で失った後も、家族と共に在住した。母ジョアンは息子も同じレーサーの道を歩むことを嫌い、ジャックをスイスの寄宿学校に入学させた。成績は優秀で、特に数学と物理の成績が秀でていた。運動神経も優れており、スキーの腕前も秀でていたため、プロスキーヤーを目指していたともされる。なお、この寄宿学校の体育教師が、のちにマネージャーを務める事になるクレイグ・ポロックである。しかし15歳になると、ドライバーを育成するジム・ラッセル・レーシングスクールの3日間コースを経験。翌年にはスペナ・デービッド・レーシングスクールに入学し、父と同じ道をたどる事を決意する。1990年代以降、F1のトップドライバーは幼少期からカートでレースキャリアを積む例が多い中で、ジャックは遅めのスタートを切ったと言える。このことはヨーロッパのレース界でニュースとなり、ジルが伝説を築いたフェラーリの地元イタリアにも流れ、イタリアのツーリングカーレースに出場するチャンスを獲得した。「ヴィルヌーヴ」の名を持つジャックがスポンサー探しに苦労する事もなく、彼にとってレースキャリアを始める事は比較的容易なものであった。しかし、それと同時にヴィルヌーヴという名は彼を大いに苦しめる事になる。F1界の英雄であったジルの息子、ジャックの将来に周囲が大きな期待を寄せるのは明白であり、英雄ジルとの共通点を探そうと必死なパパラッチ、父のファンの期待に応えなければならないという責任感、そして父であるジル・ヴィルヌーヴの存在は当時17歳の少年にとって計り知れないほどのプレッシャーとなった。1989年にイタリアF3で本格的にレースデビューを果たすが、初めの2年間は目立った成績を残せなかった。しかし、3年目の1991年になると結果が出始め、日本のトムスからオファーを受けた。父の親友であるパトリック・タンベイのアドバイスもあり、翌1992年から全日本F3選手権に参戦する事を決意する。空前のF1ブームに沸く日本では、1991年日本GP開催時に伝説の2代目ことジャック・ヴィルヌーヴの全日本F3デビューを報じるマスコミもあった。この時期、東京都目黒区の都立大周辺に住んでいた。日本では父親が神格化されたヨーロッパと違ってジャック自身がさほど注目されることがなく、故に街中で注目を集めたり騒がれたりすることもなく、ミカ・サロやエディ・アーバインなど、同じく日本で活躍する外国人レーサーとの交友や、自身の趣味に没頭することなどが出来た。このシーズンは3勝を挙げ、総合2位と好成績を残した。そして、この年には高校時代の恩師であり親友でもあるクレッグ・ポロックと再会し、彼をマネージャーとした。以後、ジャックは急速に頭角を現すことになる。1993年にはポロックの手引きもあり、北米レースの登竜門フォーミュラ・アトランティックにフォーサイス・グリーン・レーシングから参戦し、シーズン15戦中5勝を挙げ総合3位に入る。モントリオールのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われたレースで優勝したことにより、自国の英雄である父の名を冠したサーキットで、その息子が表彰台の頂点に登ることとなった。1994年には、チームとともに当時のアメリカン・レーシングの最高峰であるCARTシリーズに昇格する。初挑戦のインディ500では2位に入り、第14戦ロード・アメリカでは強豪ペンスキーを抑えて初優勝を飾るなど好成績を収めた。最終的に総合6位に入り、この年のルーキーオブザイヤーを獲得する。1995年には体制変更によりチーム・グリーンとして参戦。父ジルの象徴でもあったカーナンバー27を背負い、インディ500では途中2周(5マイル)のペナルティを受けながらも計505マイルを走りきり優勝した。これを含めシーズン4勝を上げ、参戦2年目にしてCART史上最年少のシリーズチャンピオンという偉業を成し遂げた。バーニー・エクレストンの後押しもあり、からF1に転向。当時屈指の強豪であったウィリアムズ・ルノーから参戦を開始し、初年度からその才能を遺憾なく発揮する。デビュー戦となった開幕戦オーストラリアGPでは、史上3人目となるデビュー戦でのポールポジション獲得という偉業を達成。決勝でも残り5周までトップを快走し、史上初のデビュー戦ポール・トゥ・ウィンを達成するかと思われたが、マシントラブルにより2位に終わった。第4戦ヨーロッパGPでは、前年王者のミハエル・シューマッハを抑えてF1初優勝を達成。その後も3勝を加え、チームメイトであるデイモン・ヒルと最終戦日本GPまでチャンピオン争いを繰り広げ、最終的にはヒルに次ぐランキング2位となった。参戦2年目となるには、ヒルの移籍で名実共にエースドライバーとなり、チャンピオン最有力候補に挙げられた。チームメイトのハインツ=ハラルド・フレンツェンを圧倒して7勝を挙げたが、自身のミス、チームの戦術の失敗、ピット作業のミスなども目立った。その結果、急速に戦力を上げたフェラーリのミハエル・シューマッハにポイントでリードを許す展開となった。第16戦日本GPではフリー走行中の黄旗無視により、レース後に失格処分を受け、1点差のランキング2位で最終戦ヨーロッパGPを迎えた。スタートで先行したシューマッハを追い上げ、ヘアピンコーナーでインからオーバーテイクを試みる。これをブロックしたシューマッハと接触し、マシンにダメージを負いながらも3位で完走し、父ジルが果たせなかったF1ワールドチャンピオンの夢を実現した。接触後にリタイアしたシューマッハはシーズン後、国際自動車連盟 (FIA) から選手権除外処分を受けた。なお、シューマッハとはこの年、不思議なことに一緒に表彰台に立つことはなかった(現在、非ヨーロッパ人のF1チャンピオンはこの年のヴィルヌーヴを最後に出ていない)。は、ルノーエンジンの撤退などによりウィリアムズは低迷し、未勝利、表彰台もわずかに2回と、不本意な結果でシーズンを終えた。、マネージャーであるポロックがブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) とレイナードと協力し、名門ティレルを買収して「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(B・A・R)」を設立した。ジャックはB・A・Rに移籍したが、新参チームにありがちなトラブルが多発。初年度は予選ではトップ10に食い込む走りを見せるが、開幕戦から11戦連続リタイアという不名誉な記録を残した。、B・A・Rはシャシーコンストラクターとしての参戦を見送ったホンダからエンジン提供を受け、昨年に比べるとマシン性能も飛躍的に向上した。トップチームを脅かすまでには至らなかったが、リタイアは4回と大幅に減少し、7回ポイントを獲得するなどの活躍を見せた。にはチームに初表彰台をもたらすものの、優勝争いに絡むまでには至らなかった。その後B・A・Rのチーム代表がポロックからデビッド・リチャーズに変わったことで、チームとの関係が悪化する。2003年にはチームの支持がジェンソン・バトンに移り、高給取りであるジャックに対する風当たりは強まった。最終戦日本GP直前にチームが翌年のレギュラーシートを佐藤琢磨に与えると発表すると、ジャックは急遽参戦を取り止め、そのままチームを去った。翌年のレギュラーシートを得られず、しばし浪人生活を送ることとなった。は、シーズン終盤にルノーがヤルノ・トゥルーリを放出したことを受け、中国GPからブラジルGPまでの3戦に出走。BARとのコンストラクターズ2位争いの助っ人として期待された。ほぼ1年のブランクがあったことも影響したのか、復帰直後はフェルナンド・アロンソとの差が大きかったが、ブラジルGPではアロンソのベストラップに迫る記録を残した。は、中堅ザウバーのレギュラーシートを獲得。しかし、本人曰くチームの資金不足もあってエンジンブレーキの改善に苦戦し、若いチームメイトのフェリペ・マッサにパフォーマンスで劣ることも少なくなく、最高位はサンマリノGPの4位だった。その後BMWへのチーム売却が決まると放出の噂が付きまとったが、BMWはヴィルヌーヴがザウバーと交わした2年契約を尊重したため、翌年も残留が叶った。シーズンは、第2戦で新生BMWザウバーに初のポイントをもたらし、予選でも速さを見せ存在感を示した。しかし、チームメイトのニック・ハイドフェルドに対して決勝レースで遅れを取ることも少なくなく、第11戦フランスGPを終えた時点でハイドフェルトが入賞6回13ポイントを獲得していたのに対し、入賞4回7ポイントに留まっていた。第12戦ドイツGP後には、クラッシュの後遺症による次戦の欠場が発表された。その際にレース中のハイドフェルドとの接触を巡りチームと衝突したとの報道もあり、新鋭ロバート・クビサにシートを譲る形で、8月にBMWザウバーから離脱した。F1離脱後はドイツツーリングカー選手権 (DTM) への参戦が噂されたが、2007年はプジョーと契約し、ル・マン24時間レースに出場した。インディ500、CART、F1に続く史上初の4冠達成が期待されたが、リタイアに終わった。2007年シーズン終盤にはアメリカのストックカーレースであるNASCARのネクステルカップシリーズおよびブッシュシリーズにビル・デイビス・レーシングから参戦したが、上位入賞は果たせなかった。2008年は、長年のマネージャーであるグレイグ・ポロックと決別し、CART時代の所属チームの監督でもあるバリー・グリーンと再スタートを切ることになった。しかしスポンサー関係のトラブルが明らかになり、ネクステルカップ開幕戦のデイトナ500で予選落ちした直後に、2008年シーズン無期限の欠場が所属チームから発表された。その後、ストックカーによって争われるスピードカー・シリーズへのスポット参戦が決定し、F1バーレーンGPと併催されたバーレーンラウンドと、最終戦であるドバイラウンドに参戦したが下位入賞に留まった。また、前年に続いてプジョーからル・マン24時間レースに出場し、総合2位を獲得。スポット参戦となったル・マン・シリーズ第3戦(スパ・フランコルシャン)で、F1時代の1997年ルクセンブルクGP以来、実に11年ぶりとなる優勝を果たした。2009年以降、NASCARのスプリントカップ・シリーズやネイションワイド・シリーズにスポット参戦し続けているが、フル参戦は実現していない。2011年には地元カナダのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットにてポールポジションを獲得したが、クラッシュにより勝利を逃した。その他には、オーストラリアのV8スーパーカーやアルゼンチンのトップレースV6シリーズにスポット参戦している。2012年よりi1スーパーカー・シリーズへ参戦することが発表されたが、シリーズ開幕が2013年に延期となった。また、2010年より氷上レースのアンドロス・トロフィーにシュコダから参戦。2012-2013シーズンにはシトロエンから参戦し、第6戦で初優勝した。2014年は19年ぶりにインディ500に参戦する。2015年はヴェンチュリーと契約しフォーミュラEに参戦。しかしクラッシュによるリタイアなどが原因でチームとの関係が悪化、第4戦を前に契約を解除した。他のカテゴリーで戦っていながらも、新参チームの登場や、ストーブリーグの噂の中には常にヴィルヌーヴの名前があり、しばしばメディアに大きく取りざたされた。2010年にはステファンGPより参戦が噂されそのシートの獲得が濃厚となった。ただし、ステファンGPは正式な参戦権を承認されておらず、このF1復帰に関しては流動的であった。マシンも完成し、シート合わせも完了していたが、最終的にはFIAにチームの参戦が認められなかった。その後、元GP2チームのデュランゴと提携し、「ヴィルヌーヴ・レーシング」として2011年の新規参戦チームにエントリーした(スピードカーにはデュランゴから参戦していた)。US F1の消滅で開いた13番目のチーム枠をエプシロン・ユースカディとの間で争ったが、最終的にFIAは新チームを採用しないと発表した。その後、参戦権を持つ既存のF1チームを買収する方向に転換したが、2010年10月末に「F1参戦を断念し、NASCARに集中する」と語った。2013年より、有料テレビ局であるスカイ・イタリアやカナル+と契約し、テレビ解説者としてF1に関与している。思い切りの良いドライビングをよく見せ、深いブレーキを見せることもたびたびである。ただしこのブレーキングスタイルが電気系統を重視した現代のF1と相性が悪かったとされ、2005年移籍後のザウバー時の低迷期、「ブレーキング時、電気が勝手に運転している感じで、マシンの挙動が自分の体で感じられない。」 と自身コメントを残している。1996年のポルトガルGPでは、高速の最終コーナーでミハエルのフェラーリに外側から被せ、並走して追い抜くという大胆なパフォーマンスを見せた。ヴィルヌーヴは、この最終コーナーで「必ず抜ける」とレース前から言っていたが、チームメートのデイモン・ヒルをはじめ、このコーナーで抜くなんて無理だと周囲に笑われていた。 一方で、モナコGPや雨中のレースなど、ドライバーの技量が反映される条件での成績が目立たない点で、ナチュラルな才能に疑問をはさむ声もある。天才型だった父とは対照的に、一発の速さよりもレースでの勝負強さが魅力のドライバーともいえる。フラビオ・ブリアトーレは、ヴィルヌーヴのことを「ファン・パブロ・モントーヤと共に最後のF1のスターであった」と2006年シーズン終盤に評価した(奇しくも2人ともシーズン中にF1から離脱)。バーニー・エクレストンは「もし、ビルヌーブ(元BMWザウバー)がいいマシンに乗り続けていたら・・・。もし、ミカ(ハッキネン)が現役を続けていたら・・・。(シューマッハが)支配してきたようになったかどうかは、誰にも分からないだろうね」とも語った。一時期、この2人のどちらが最多勝利などの記録を更新するかという論争がメディアで盛り上がったが、結果的に最後までウィリアムズ・ルノー以外のチームでは勝利を収める事は無かった。1997年のルクセンブルクGP以降、最後となった2006年ドイツグランプリまで一度も勝つ事が無く、優勝経験者としては最多無勝利記録である。またファステストラップとポールポジションもウィリアムズ・ルノー以外で記録する事はなく、1998年のウィリアムズ・メカクロームと2001年のB・A・R HONDAでそれぞれ2度(ドイツグランプリとスペイングランプリ)の3位を獲得した以外は表彰台に登ることもなかった。キャリアの長い期間をB・A・Rで過ごしたが、幾度か移籍の噂もあった。とくに父がこの世を去るまで乗り続けたフェラーリに加入する事を望まれていた。また2006年の本人インタビューにより、チャンスがあったこと、潰えたことが明らかになっている。2001年にはベネトン(現在のロータスF1チーム)に移籍するチャンスがあったが、当時のベネトンはチーム始まって以来の低迷期にあり、また、親友ポロックと共に設立した自分達のチームで成功したいという強い思いがあったため、結局B・A・Rに残留した。 皮肉にもベネトンはその後ルノーとの提携により一躍飛躍したが、B・A・Rは伸び悩むこととなる。2004年の終盤にはフラビオ・ブリアトーレ率いるルノーから出走したが、ブリアトーレ自身はヴィルヌーヴのファンであったと公言している。そのアグレッシブなドライビング・スタイルとユニークなキャラクターから根強いファンが多く、F1引退後も、「No Jacques, No F1 (ジャックがいなきゃF1じゃない)」 といった旗を掲げるファンもいた。2006年にフランス人のジョアンナ・マルチネスと結婚。直後のイギリスGPではBMWザウバーチームが"Just Married"(新婚)と書かれた特製リアウィングをマシンに装着した。その後2児を授かったが、2009年に離婚。2012年にブラジル人のカミーラ・ロペスと再婚した。なお、かつては歌手ダニー・ミノーグ(カイリー・ミノーグの妹)と交際し、婚約もしていた。ヴィルヌーヴ家は父ジル、母ジョアン、ジャック、妹メラニーという家族構成で、幼少期には家族と共にキャンピングカーでサーキットを転戦していた。父ジルについては聞かれるたびに「幼い頃に亡くなったのであまり思い出がない」と答えており、同様な境遇である盟友デイモンが父グラハム・ヒルの思慕の情を素直に語っているのとは対照的に多くを語ろうとはしなかった。が、近年では父にまつわる行事に参加するなど、心境の変化を感じさせている。2004年のクラシックカーイベント、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードでは、父が1978年に乗ったフェラーリ312T3を、父と同じデザインの赤いヘルメットを被って運転した。2006年には父のセレモニーにもフェラーリ関係者と共に参加。ミュージシャンとしてのデビューアルバム「Private Paradise」には、メラニーとの共作で「Father」という一曲を収めている。没後30周年となる2012年には、フェラーリのテストコース、フィオラノ・サーキットでフェラーリ312T4をドライブした。前述の通り母ジョアンは幼い息子をレースから遠ざけようとしたが、ジャック自らがレーサーの道を選んだことについて「ヴィルヌーヴ家の運命」と悟り、後にその活動を応援するようになった。ちなみに、F1ドライバーとしての「ジャック・ヴィルヌーヴ」は、ジルの3歳下の弟ジャックが「初代」である。1981年にアロウズから、1983年にRAMからスポット参戦したが、予選落ちなどF1では成功できなかった。後に甥のジャックがレースデビューしたため、叔父の彼はジャック・ヴィルヌーヴSr.(-シニア)と表記されるようになった。なお、ジャックが誕生した当初、ジルは名前を決めかねていた。しかし、妻ジョアンに弟の話題をしている時に赤ん坊が笑い出したため、弟と同じ名前にすることを決めたと言われている。
出典:wikipedia
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