日本お笑い史(にほんおわらいし)とは、日本に於ける笑い・演芸の歴史である。『古事記』の中の岩戸隠れのエピソードが記録に残されている日本で最も古い笑いのひとつだと思われる。神々の暮す高天原(たかまがはら)の統率紳、太陽の神アマテラスオオミカミが、弟スサノオノミコトの乱暴狼藉に腹を立てて岩の洞窟天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまった。そのため世界が真っ暗になり災いが起こった。そこで神々はアマテラスオオミカミをおびき出す為に岩戸の外で大宴会を行い、女神アメノウズメは着衣を脱いで全裸でこっけいな踊りを披露した。これを見て八百万の神々が一斉に大笑いした。その笑い声が気になったアマテラスオオミカミが、岩戸を少しだけ開けて様子をうかがった所、神々の連携プレーで外に連れ出され、再び世界に光が戻った、というものである。アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れて世の中が闇になるというこの神話は日食を表したものだと解釈されており、神々を笑わせた芸能の女神アメノウズメは日本最古の踊り子と言える。また山幸彦と海幸彦では、苦難の末に海幸彦を屈服させた山幸彦が、海幸彦を「俳優(わざをぎ)の民」とすると宣言し、滑稽な物真似芸を演じさせている。このエピソードは古代社会において芸能が、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったことを示している。また、をかしみのある話の源流は『竹取物語』、『今昔物語』または『宇治拾遺物語』に収められた説話にさかのぼる事もできる。物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称として散楽が発達し、そのうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展した。曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれた。滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていった。奇術は近世初期に和妻となった。散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて文楽(人形浄瑠璃)へと引き継がれていった。明代の滑稽な話を集めた本(笑話集)の影響を受けて、安楽庵策伝によって『醒睡笑(せいすいしょう)』が1623年に著されている。続いて『昨日は今日の物語(きのふはけふの物語)』や『浮世風呂』(式亭三馬)、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)などが出されて以後日本でもこうした笑話本・滑稽本が書かれるようになった。江戸時代中期から明治にかけては、漢文の笑話集の和刻本がいろいろと刊行され、広く読まれた。最初に出たのは、寛延四年(1751)に刊行された岡白駒(おかはっく)編『開口新語』である。漢文笑話の原文に訓点を施し、ところどころ漢文の左側に江戸時代の口語で短い訳語を付す、という体裁であった。『開口新語』の成功をうけて、以後、この体裁にならった漢文笑話集が、続々と刊行された。例えば風来山人(平賀源内)も、『笑府』の抄訳『刪笑府』を出版している(右の画像)。「江戸小咄」の原案も、元はこうした和漢の笑話本の翻案に由来しているものが多いとされる。上方と江戸で常設の商業演劇が成立。上方では笑いの要素が意識された作劇がなされた。江戸時代初期にはじまった「滑稽噺」は、身振りを加えた「仕方噺」と混じり合って盛んになった。上方では「軽口噺」とも呼ばれたが、特に「落ち」が特徴的だったので江戸中期には「落し噺」と呼ばれるようになった。滑稽本に書かれた話が落とし話として演じられることもあった。明治に入って「おとしばなし」を「落語」と書くようになり、明治中期以降はこれを「らくご」と呼ぶようになった。1910年、日本初の国産蓄音機ニッポンノホンが発売される。1925年、東京放送局(NHKラジオ第1放送)が開局。1903年、東京市浅草区浅草公園六区に、「日本で初めての常設活動専門館」として「電気館」がオープン。以降、映画は常設の興行メディアとして、東京・大阪といった大都市のみならず、日本全国に拡大した。特に、1930年代トーキー映画の技法が確立すると、榎本健一など軽演劇の人気者が出演するようになり、その人気が全国的なものとなった。また、落語や漫才もラジオに加え映画によって地方の住民も楽しむようになった。戦後、1960年代に一般家庭にテレビが普及するまでは、全国に向けてのメディアは、ラジオと映画であり、特に映画は、その予算や影響力から、森繁久彌などトップスターを輩出した。1953年、NHK・日本テレビが相次いで開局したが、当初一流俳優などはテレビを「電氣紙芝居」として敬遠し、その結果それまで浅草公園六区や新宿などで活躍していた軽演劇の役者など、実力はあるが陽の目を見ず燻っていた者達がテレビの世界に飛び込んだ。三木のり平や八波むと志・由利徹・南利明の「脱線トリオ」、佐山俊二、関敬六・谷幹一・渥美清(のち海野かつをに交替)のスリーポケッツ、石井均一座の他、浅草で人気を博していた大宮敏充の「デン助劇団」などが初期のテレビ・バラエティを飾っていた。一方、大阪でも梅田の実演劇場・北野劇場に出演していた薄給のコメディアンであった茶川一郎、佐々十郎、芦屋雁之助、芦屋小雁、大村崑等に白羽の矢が立ち、花登筺脚本の一連のコメディーで脚光を浴びた。とりわけ大村は時代の寵児となり、「コンちゃん」ブームを巻き起こした。この他に藤田まことや白木みのる等が進出。吉本新喜劇は当初からテレビを意識して制作されたもので、毎日放送とのタイアップもあり多くのスターを生み出した。一方の松竹新喜劇も看板役者の藤山寛美がよみうりテレビを中心にコメディー数作を発表した。1959年、フジテレビ開局と同時に始まった時事コント番組『おとなの漫画』は、本来本格的なジャズバンドであったハナ肇とクレージーキャッツを起用。青島幸男作の洗練された都会的なギャグで一躍市民権を得た。クレージーはこのあと日本テレビの『シャボン玉ホリデー』で更に人気を増し、国民的なお笑いグループとして認知された。特にメンバーの植木等が演じる「無責任男」が高度経済成長を背景とした時流に乗り、大いに当たった。『シャボン玉ホリデー』もそうであったが、この手の番組の嚆矢は同じ日本テレビの『光子の窓』である。草笛光子を主役に起用したこの番組は、歌と踊りと笑いの全てを集約させた音楽バラエティであった。このあと、NHKが『夢であいましょう』をスタート。渥美清、E・H・エリック、黒柳徹子などがコントを演じていた(作・永六輔)。草笛と黒柳は女性バラエティタレントの先駆者であり、黒柳は現在もなおバラエティ番組に出演し続けている。NHKがジェスチャーに柳家金語楼を起用、全国区の人気に。日本テレビ開局当日に発生した放送事故の穴埋め番組出演を機に、2代目三遊亭歌奴(現:3代目三遊亭圓歌)・三遊亭小金馬(現:4代目三遊亭金馬)・一龍齋貞鳳・3代目江戸家猫八の4人は正力松太郎同社社長に認められ、番組一本を持たされた。これに目を付けたNHKは2代目歌奴以外の三人を引き抜き、『お笑い三人組』をスタートさせる。一方、文化放送で放送された『落語討論会』をフジテレビがテレビ化し、大喜利番組『お笑いタッグマッチ』(5代目春風亭柳昇司会)がスタート。レギュラー陣の4代目柳家小せんが発した「ケメコ」の流行語も相まって一躍人気番組となった。この流れが後述の「演芸ブーム」に繋がる。テレビ創成期にあっては、映画は、いまだ娯楽のメディアとしての優位性を誇っており、特に、カラーテレビの普及までは、手軽ではあるが、画像・音声で劣るものとの認識があった。テレビで人気が出たコメディアンも予算が豊富な映画を重視する傾向があり、クレージーキャッツなどは、ゴールデンウィークや年末といった時季に合わせ、シリーズものの大作喜劇を制作し、爆発的にヒットした。1962年頃から1969年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。景気後退の中、番組制作費が抑制された各局は制作コストがかからず視聴率が取れる演芸番組に傾斜。また、視聴者の側も不景気による沈滞ムードの中、テレビに笑いを求めていた。映画は、その映像などの優位性を失い、かえって、共時性・即時性でテレビに劣るという状況で、お笑いのメディアとしての重要性を急激に失った。シリーズ形式のコメディ映画でクレージーキャッツを継いだのは、ザ・ドリフターズであったが、このシリーズも1975年で終焉を迎えた。1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。演芸ブームの後、コント55号(のちに萩本欽一)・ザ・ドリフターズの2強時代となり、総じて東京発のバラエティー番組がお笑いの主流を占めていた。上記2組の間隙を縫って、せんだみつおや桂三枝(現・6代目文枝)、伊東四朗&小松政夫などが台頭してきたが、この手のバラエティー番組はほぼやり尽くされた感があり、全国ネットのテレビの笑いは一種の砂漠化現象となっていた。一方、大阪では演芸ブーム以降Wヤング、コメディNo.1、中田カウス・ボタンといった吉本興業の漫才師が台頭し、特に若者に人気の高かった中田カウス・ボタンを筆頭に笑いの潮流が吉本側に傾きつつあった。しかしながら、この傾向はまだ関西ローカルに止まっており、全国向けの関西の演芸は依然としてかしまし娘やレツゴー三匹などが起用され、松竹芸能の力が強かった。(松竹でも笑福亭鶴光や笑福亭鶴瓶などが登場してはいた。)そんな1979年、澤田隆治、横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の色物(傍流)であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手上方漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業は関西止まりで燻っていた炎がこの時期一気に爆発した形となり、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送のハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者うけのよい、スピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。1980年後期から1990年初頭に、テレビの深夜番組を発端としたブーム。演芸ブームを「お笑い第一世代」、漫才ブームを「お笑い第二世代」と数えて「お笑い第三世代」と呼ばれた。1980年代初頭にメディアを席巻した漫才ブームが、1982年頃を境に人気が低迷期に突入し、ブームに活躍した漫才師は、コンビ解消やピン活動などメディアの幅を拡大させていた。同時期、大阪・吉本興業は新人発掘を目的に、新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」(通称:NSC)を開校。養成所からはダウンタウン、ハイヒール、トミーズなどの漫才師が誕生するが、デビュー直後に全国的に認知されるまでに至らなかった。一方東京では、前記のブーム期に放送された「お笑いスター誕生!!」や各局のお笑いオーディション番組で活躍した山田邦子、とんねるずを筆頭に頭角を現し、タモリ、明石家さんま、ビートたけしのビッグ3がテレビ界を独占状態であった。1980年代中期、民放各局は深夜放送が急増、セミプロ・アマチュアのタレントの登場により、お笑いシーンに変化が訪れ、若手主体による小劇場やライブ・スペースが東西問わず数多く開催(主に心斎橋筋2丁目劇場、ラ・ママ新人コント大会)され、旧来の師弟関係での定義が薄れ、タレント育成所・ライブ出身者になる新たな仕組みが生まれた。さらに演劇界では、演劇的な笑いを織り交ぜたシティボーイズを代表に新たなジャンルを切り開いた。メディアでは漫才ブーム〜ひょうきん族世代以降のタレントを「ニューウェーブ」や「新人類」と総評し、さらに民放各局が終日24時間放送を実施。深夜番組が一世代に比べて一層に拡大。視聴者投稿を元に作られていたテレビ番組『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ、タモリ司会)が、徐々にその性格を変えて「大勢の若手芸人がネタを競い合う番組」に変化すると、若い女性などを中心とする特定層の支持を集めたが、番組の人気凋落に伴い、ほとんどの出演者が次第に存在感自体をフェードアウトさせてゆく(つまるところ、しっかりとした下積み経験があったわけではない「ポッと出」の出演者が、視聴者のバブル人気に舞い上がっていただけであった。この現象はのちにも『爆笑オンエアバトル』や『エンタの神様』で繰り返されることになる)。この番組をきっかけに知名度を得た世代をお笑い第四世代と呼ぶことが多い。爆笑問題(厳密に言うと第四世代ではない)、ネプチューン、海砂利水魚(現:くりぃむしちゅー)、ロンドンブーツ1号2号などは、のちに各局で冠番組を持つことになる。『進め!電波少年』(日本テレビ、松本明子らが司会)は、アポイントメントなしの突撃インタビューをはじめとして、台本のないドキュメンタリーの味わいを取り込んだ番組だったが、特に後半は若手芸人に私生活を犠牲にした体験・チャレンジ企画をさせて笑いの種とする構成となり、過剰演出(やらせ)の傾向が強くなる。そんな中で、過酷なヒッチハイク旅行を行なった猿岩石が、お笑いというよりも共感できる等身大の若者といった位置付けで人気を博し、彼らが唄った楽曲が一定の売り上げを集めたり、旅行中に記した日記をまとめた書籍が売り出され、版を重ねるなど、一部特定層において社会現象化する。その後同様のコンセプトで、ドロンズ、なすび、ロッコツマニア、矢部太郎(カラテカ)らを起用して話題を提供しつづけたが、あくまで企画の面白さが中心のため、企画自体がパターン化すると飽きられるのも早く番組の人気も急に失速した。この番組は芸人を育てるというよりも、消費し尽くすといった感が強く、PTAなど視聴者の批判も多かった。広告代理店やジャーナリズムによる造語「第四世代」という定義に厳密に合致していないが、ほぼ同時期のものとして、フジテレビ『とぶくすり』(のちの『めちゃ²モテたいッ!』→『めちゃ²イケてるッ!』)や日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』などがあり、これらの番組からナインティナイン、よゐこらが1993年頃から知名度を得た。これらに通底しているのはロケーション撮影(ロケ)の多用、そして同時代性である。1990年代初頭に漫才スタイルがダウンタウンのもとで飽和に達し、それ以降の芸人やお笑い番組は違うスタイルを築きあげる必要にせまられた。その経済学的にいう(商品)差別化の中でたどり着いたのが、街に繰り出し現場や社会を笑いのネタにするというロケーションの手法であり、「リアル」を笑いにして視聴者を惹きつけるとともに、テレビに映る若者が参加しているという同場所性や、それを通して若者と同世代を生きているという同時代性が親近感を醸成し、ヨコの繋がりを生み出して、漫才とは違う人気に結びついた。これらは、番組をテレビ局で撮ると先輩芸人に偶然会ってしまうという若手芸人の緊張や心理、当時抱いていた劣等感がそれを避ける形を求めたということにもある。などボキャブラブーム後お笑い界はしばらく冬の時代に突入。そんな中1999年に『爆笑オンエアバトル』(NHK)の放送がスタートし、若手のお笑い芸人たちを発掘しようとする動きが起き、いわゆる「ネタ見せ番組」が増え始める。2001年には島田紳助企画立案の新たな漫才コンテスト『M-1グランプリ』が立ち上がった。同初代チャンピオンの中川家が東京進出。「若手芸人」がブームの中心であるが、若手と言っても殆どが30代であるのが特徴的で、「若手」と言われながら(芸歴で考えて)第四世代である中堅芸人と同い年、年上、同期、先輩など、不思議な現象が起きている。これはブームに乗じて、先のボキャブラ世代の時代に売れ損なったり、未だ東京進出を果たしていなかった大阪吉本所属の第四世代の芸人が多く流入してきたことや、これらの芸人が未だ知名度が低いゆえに第五世代と同じ扱いを受けたことが主な要因である。特に『ボキャブラ天国』に起用されていた芸人(いわゆる「キャブラー」)が東京芸人に偏重していたため、ボキャブラ芸人とほぼ同世代の関西芸人が第五世代のブームによって売れるケースが目立っている。また次長課長・井上、チュートリアル・徳井などに代表される“イケメン芸人”が急増したことや、お笑い情報のみを取り扱ったお笑い専門誌が次々に発行されたりといった芸人のアイドルのような扱いが急増している。自ら若手芸人ライブを主宰する渡辺正行は、このお笑いブームを「悲しいエピソードで出ている芸人が多い。一昔前と色々な意味で違い、可哀想な芸人が増えた。笑わせてるんじゃなくて、笑われてるんだ」と見る側だけでなく、芸人自体のレベル低下に苦言を呈している。以前から存在したジャンルではあるが、雛壇芸人というジャンルが大々的に紹介され、「お笑いファン」の間で新たなジャンルとして知られる様になった。ブリッジを多用した一発屋といわれる芸人も急増しており、一発屋芸人は年末の番組に多数出演し、年始に飽きられて、テレビから姿を消す、という新たなパターンが生まれた。また、こういった芸人はNHK紅白歌合戦に出演したり、流行語大賞を受賞するケースが多い。(例:テツandトモ、ダンディ坂野、波田陽区、ヒロシ、レイザーラモンHG、ムーディ勝山、藤崎マーケット、にしおかすみこ、エド・はるみなど)ビートたけし、明石家さんま、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンなど、大御所芸人が俳優業などの「非お笑い分野」で活躍することはあったが、第5次お笑いブームでは、若手芸人が積極的に非お笑い分野での活動をしている。ネタ番組や賞レースにおけるお笑い芸人のネタの持ち時間は4分〜5分程度が一般的であるが、2000年代中期から後期にかけて、1分〜2分程度の短いネタを矢継ぎ早に披露するネタ番組が登場するようになった。ネタ時間を短くすることによって放送時間内により多くの芸人がネタを披露することができるのがこれらの番組の特徴である。このショートスタイルを「お笑い革命」と名打って2007年に放送開始されたのがフジテレビ系列『爆笑レッドカーペット』である。2007年10月に放送開始されたTBS『あらびき団』も同様のショートスタイルの体裁をとっており、他のネタ番組とは趣を異にしている。これらに先駆けて放送されていた『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)内のコーナー「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」や『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円』(TBS)なども含め、このショートスタイルお笑い番組を通じてエド・はるみ、世界のナベアツ、柳原可奈子、鳥居みゆき、博多華丸・大吉、山本高広、渡辺直美、はるな愛などが知名度を高めた。吉本興業をはじめとする「芸能商社」がシステマチックに若手を発掘し、消費するサイクルを作り上げたことで、若手の芸人の供給は非常に潤沢におこなわれるようになった。そのため、力があって観客を笑わせることができる芸人であっても、漫才やコントなどのオーソドックスな形式ではインパクトが与えられず、大ブレイクしにくい状態になっていた。そのためか、従来の日本では比較的手薄だった漫談形式を採用した芸人が、新鮮さを感じさせ人気となる。長井秀和、青木さやか、だいたひかるなどは、毒舌を自分なりの独特なお決まりのフレーズとからめる。陣内智則は綿密に構成された映像ならびに音声等にボケの部分を小刻みに織り込み、そこへツッコミを入れるというパターンで自作のネタを展開した。またエレクトリックベースを使ったはなわが「佐賀県」を歌い、CDが25万枚以上のセールスを記録した。また、はなわから少し遅れて、ギター侍こと波田陽区も2004年の流行語大賞にノミネートされるという現象も起きた。ただし、供給過剰の状態は続いており、ブームを起こした芸人が消費尽くされてしまうと簡単に忘れられてしまう、という傾向はさらに激しくなっている。そのためか、大木こだま・ひびきの大木こだまなど逆に大きなブレイクをおこさず、地道に戦略を立てて活動した芸人の方が生き残っている。また、拡大した需要にはそれまでお笑いに興味すら示さなかったような人々まで包括し、その人気の基準は一種のトレンド的な性格を強めるようになり、芸人のあり方も変化しつつあるが、一方でそれは笑いのレベルの低下と見る向きもある。レイザーラモンHG、犬井ヒロシ、なだぎ武、世界のナベアツ、ムーディ勝山などコンビであるにもかかわらずピン芸人のような扱いを受けブレイクした若手・中堅芸人も多い。売れた者の中には、相方の世間での認知度が皆無の者もいる。平成に入って、落語界では1993年(平成5年)には初の「女真打」が誕生し、1995年(平成7年)には東京の5代目柳家小さん、翌1996年には上方の3代目桂米朝がそれぞれ「人間国宝」に認定され、古典芸能としての地歩を固めた。人間国宝には、その後、2014年(平成26年)に十代目柳家小三治が認定されている。21世紀に入って、落語界には、マスメディアでも幅広く活躍していた春風亭小朝が発起人となった「六人の会」や、新作落語の隆盛をめざした話芸集団「SWA(創作話芸アソシエーション)」の結成という新たな展開が生まれ、一方では長瀬智也と岡田准一が主人公を演じたテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』(TBS系)や連続テレビ小説『ちりとてちん』(NHK)などの影響によって新たな落語ファンが生まれた。このような現象はしばしば「平成の落語ブーム」と呼ばれる。このブームの特徴は、「落語全般」が好きな落語マニアによるブームではなく、それぞれ自分のことばで語る個性的な落語家各人のファンによるブームであるということで、個別に熱烈なファン層をもつ落語家が多数存在することによっている。深夜番組から始まった人志松本のすべらない話がDVD化されヒット。番組の認知度が格段に上がったことにより、番組初期から出演していた千原ジュニア、宮川大輔、ほっしゃん。、河本準一、ケンドーコバヤシや番組MVSを受賞した小籔千豊、兵動大樹などが大ブレイク。1855年1857年1864年1866年1867年1876年1883年1885年1887年1894年1897年1900年1901年1902年1904年1905年1906年1907年1908年1909年1910年1911年1912年1914年1915年1916年1917年1918年1920年1921年1922年1923年1924年1925年1926年1928年1929年1930年1931年1932年1933年1934年1935年1936年1937年1938年1939年1940年1941年1942年1943年1944年1945年1946年1947年1948年1949年1950年1951年1952年1953年1954年 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出典:wikipedia
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