速記(そっき、英語:shorthand)とは、速記文字や速記符号とよばれる特殊な記号を用いて、言葉を簡単な符号にして、人の発言などを書き記す方法をいう。主に議会や法廷の発言を記録する分野や出版、ジャーナリズムなどで利用されている。この技術の知識体系を速記法、技術を運用する方法を速記術、実際に運用する者を速記者という。また、社団法人日本速記協会では文科省認定速記技能検定試験1級に合格し、申請した者を速記士に登録している。速記の起源は古代ローマ以前に遡ることができる。その起源に関しては定説が成立していないが、紀元前400年代の古代ギリシアで速記碑文が発見されている。有名な速記記録としては紀元前63年のキケロによるカティリナ弾劾演説の記録である。当時のマルクス・トゥッリウス・ティロの速記はと称され、当時の速記は知的奴隷が充てられていた。ティベリウス帝は満足な速記ができなかった速記官の指を切り落としたという記録がある。またローマ法のなかには速記を禁止された演説を速記した者は右手を切り落とすという刑罰が定められていた。しかし体系化されていない速記法であり、学習に大きな困難を伴うため、次第に衰勢となった。その後は速記を理論的体系的に捉えるようになり、次項以下で紹介する各国語の速記法が考案、改良されて現在に至った。更に符号を手で書くペンショートハンドのほか、速記専用タイプライターを用いた機械速記もあり、近年コンピュータで速記符号を反訳する電子機械速記法がリアルタイム字幕などに使用されている。速記は発言の逐語記録を作成する用途を担ってきたが、リアルタイム反訳により、聴覚障害者等を含めて、コミュニケーション手段としての機能を持つに至っている。英語の速記は1175年のジョンの記号まで遡ると言われるが、近代速記としての速記理論を提案したのはジョン・ウィリスである。1602年、『速記術』(Art of Stenography)を出版し、stenography(速記)という造語を行い、線状速記の使用や、表音的な筆記法、母音表記のためのポジショニング等を提唱し近代速記の父と呼ばれている。このウィリス式を発展させ、シェルトン式(1626年)やガーニー式(1750年)、テーラー式等が考案されていった。そして1837年に登場したのがである。ピットマン式はテーラー式を学んだアイザック・ピットマンがより高速で速記ができ、学習性に優れた速記法として考案したものである。一方アイルランドでは、がテーラー式、ピットマン式、そして仏独の速記法を学び、イギリスで主流であった正円幾何派とドイツの草書派を融合させ、更にフランスのサイン符号をも取り入れたを1888年に考案した。ピットマン式、グレッグ式は今日でも英語圏で使用される主要な速記の地位を占めている。ドイツの速記の特徴は草書派と称される、筆先の動きを速記に適した符号に変換した方式であった。初めて速記理論を完成させたのは1834年のであり、と称されている。この速記法は北欧諸言語をはじめ、イタリア語、東欧諸語、ロシア語のサカロフ式(:、GESS)に影響を与え、更にイギリスにも影響を与えロー式を生み出している。ガベルスベルガー式はその後改良が進み、(DEK)と呼ばれている現代速記に受け継がれている。フランス語の最初の速記は1633年にが発表したものとされるが、現代速記につながる系統としての起源は1778年にが発表したクロン式と言われている。現在ではエーメ・パリ式、()、ドロネ式が使用されている。中国語の速記は1896年に蔡錫勇が発表した伝音快字に始まる。これは速記に主眼を置いたものでなく、表意文字の漢字の学習困難による文盲一掃を目的にしたものである。アメリカに渡り速記法を目の当たりにした蔡錫勇はピットマン系のグラハム式を参考に基礎符号を定め、北京語の音節を表音的に表す方法を確立した。しかしこれはあくまでも知識人個人としての提案に過ぎなかった。ところが清国政府が国会を開設するにあたり、その議事記録方法として注目されることで本格的な中国速記史が始まる。清国政府は蔡錫勇の次男である蔡璋を召喚して速記法を考案させた。1910年には資政院に中国速記学堂を開設し、約200名を対象に速記官養成が開始された。1911年からは二人一組で30分速記作業を行う形態が資政院の議事録で採用された。このピットマン式の影響がある速記法は1935年頃まで主流を占めたが、その後グレッグ式の影響を受けた速記法が登場、更に中華人民共和国成立後はソ連のサカロフ式の影響が入り斜線派が登場した。その嚆矢が1952年に顔廷超が発表した人民速記法案である。それ以降正円幾何派、半草書派、草書派は入り乱れ様々な速記が用いられている。日本に速記という概念が登場したのは江戸時代である。1862年に出版された『英和対訳袖珍辞書』にshorthandの訳語として「語ヲ簡略ニスル書法」と、stenographyの訳語として「早書キヲスル術」と紹介されていた。1868年の『増補西洋事情』(黒田行次郎)には「疾書術は近代の発明なり」と紹介されている。西洋文明を積極的に導入した明治維新期、西洋の速記を日本語に導入する試みが数多く行われた。1875年には、松島剛や畠山義成が日本語速記法の整備に着手した。そして1881年に「明治23年ヲ期シテ国会ヲ開設スル旨」の詔勅が発表されたことで、国会議事録記録の必要から多くの人々が速記法を考案していった。1882年9月16日、田鎖綱紀が『時事新報』にグラハム式を参考にした日本傍聴記録法として発表し、10月28日、日本傍聴筆記法講習会を開設し、田鎖式速記の指導を開始した。日本では象徴的にこの日を以って日本速記の始まりとされる。ここで養成された速記官は、若林玵蔵や酒井昇造の名が残っている。速記官は説法や政談、演説などを速記する練習を繰り返し、また講談や落語を速記するなど政治や文化の担い手として活躍した。そして1890年、帝国議会が開設され、議会速記が必要とされる時代を迎えた。この時、議会速記を一任されたのが若林玵蔵である。帝国議会の貴族院・衆議院が議事の進行等について定めた貴族院規則、衆議院規則には「議事速記録ハ速記法ニ依リ議事ヲ記載ス」との規定が置かれ、議会開設直後の第一議会からの発言が速記記録されることになった。議会開設前後に整備され、また黒岩大や清沢与十らによって発展した日本速記であるが、全て田鎖式を基礎にしていた。その中、東京高等商業に招聘されていたイギリス人教師エドワード・ガントレットが、ピットマン式を発展させてガントレット式と呼ばれる日本語速記法を考案した。田鎖式に比べ書きやすく、また日本語の発音体系を反映した方式であり、この方式を学んだ森上富夫は1909年に衆議院速記者に採用され、田鎖式系一色だった議会速記に新風を送り込んでいる。そのほか基礎符号を単線にした武田式や、それを更に発展させた中根式、更にその中根式を発展させた石村式が登場している。このようにイギリスの正円幾何派を中心に導入された日本の速記であるが、大正になるとドイツの草書派を参考にした日本語速記が誕生した。毛利高範はドイツ留学中に目にしたオーストリアのファウルマン式を参考に毛利式を発表している。また、従来は民間養成を基本としていた帝国議会の速記官であるが、この頃には報道など、民間における速記への需要の高まりがあり、速記官確保が困難になってきた。そこで政府は、1918年に速記練習生を募集し内部養成する方針に転換した。ここでは現場の速記官からのアイデアが集積され、1942年には衆議院式標準符号が定められるに至った。朝鮮語の速記は1909年に朴如日が朝鮮速記法を発表したことに始まる。しかし朝鮮速記法はアメリカ在住の朝鮮人を対象にしていたため普及しなかった。朝鮮での速記法は1925年に方翼煥、李源祥が共同で発表した朝鮮語速記法と言われている。ただし1934年に出版された『日本速記50年』に1920年6月に朝鮮語速記法を創始した報道があったとの記載があり、それが朝鮮速記法を現しているのか、それともそれ以前に他の速記法が考案されていたのか、現在でも定説はない。朝鮮半島では独立後に多くの速記法が考案されて現在に至っている。1833年にブレヴォ式を応用した楽譜速記が考案された。楽譜で一般で用いられる五線譜に代わって九線譜を用いた速記法である。日本の速記方式は、仮名五十音に対応する基礎符号の設計理論により、以下のように分類することができる。日本語の速記は方式の差異を問わず、多くの場合は以下の符号によって構成される。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。