和田弘とマヒナスターズ(わだひろしとマヒナスターズ)とは、スチールギター奏者の和田弘をリーダーとする音楽グループ。ハワイアン、ムード歌謡の第一人者として知られる。マヒナはハワイ語で「月」を意味する。山口銀次、和田弘、三島敏夫らが、「バッキー白片とアロハハワイアンズ」退団後、1953年にハワイアンバンド「山口銀次とマヒナスターズ」として結成。翌1954年、リーダーの山口銀次が脱退、アロハハワインズ復帰後は、和田弘がリーダーとなり「和田弘とマヒナスターズ」に改名する。ハワイアンのメロディ、作曲家吉田正のコーラスを手本にして新しい歌謡曲の要素を作り出した第一人者でもある。吉田正の門下として、1957年にムード歌謡としてデビュー。第一弾は「東京の人(三浦洸一)/哀愁の街に霧が降る(山田真二)」で、第二弾は「好きだった」(鶴田浩二)を吹き込んだ。全て吉田正のカバー曲。翌1958年8月にオリジナル曲「泣かないで」で事実上のデビューを果たした。1960年代には、松尾和子らの女性歌手をむかえるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」、当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「愛して愛して愛しちゃったのよ」「ウナ・セラ・ディ東京」など多数のヒット曲を残した。1967年にビクターから東芝に移籍。その後メンバーの変動があったが、1989年に全盛期のメンバーが再集結した。同年「第40回NHK紅白歌合戦」に紅組から再出場する快挙も達成する。しかし2002年頃に再び内紛が起き、和田以外のメンバーは全員離脱し事実上の和田弘とマヒナスターズの解散となった。その後松平・佐々木・三原は新たに別グループを結成。和田側も新たにメンバーを入れ、新生マヒナスターズとして再始動。また、「マヒナスターズ」という名称を商標登録した。このことで旧メンバーと対立し訴訟問題に発展していた。その商標登録問題解決も間近と見られていた2004年1月5日に和田が急死した。現在は松平が中心となって活動を行っている。2006年9月30日には、長年マヒナのボーカルとして活躍した三原も亡くなった。2003年7月に脳梗塞で倒れて以降、リハビリを続けていたが復帰は叶わなかった。樋屋製薬の「樋屋奇應丸」のCMソングを歌ったことでも知られている。以上が往年のメンバー。他には三島敏夫(1954年参加)・船場太郎(当時;松原昌平)・影山ミキ・タブレット純も一時在籍していた。現在のメンバーは松平との4名である。代表曲「お座敷小唄」は1964年、マヒナスターズが広島に巡業した折、和田弘がキャバレーのホステスが口ずさんだこの曲を採譜、早速、松尾和子を加えてビクターでレコーディング、8月に発表した。元々、このメロディは戦争中の1943年頃から、海軍の兵隊さんが歌い名古屋、大阪、広島、関東地区の1946年、公娼制度が廃止されたのちも、特に売春が黙認された地域で歌い継がれていたものだった。マヒナに続いてテイチクで久美悦子が「裏町小唄」、コロムビアでこまどり姉妹が「祇園エレジー」、東芝で紫ふじみが「しらゆき小唄」として発売し競作となったが、古臭い日本語をドドンパのリズムに乗せてモダン化したマヒナ盤が驚異的な300万枚の売上をマークし独走、夜の巷で大受けした。第6回日本レコード大賞でも「お座敷小唄」をエントリーするところまで来ていたが、同曲は作曲者が不詳であり大賞の受賞資格外であったため代替に「ウナ・セラ・ディ東京」がノミネートされたが、この曲も次点で大賞を逃す結果となった。
出典:wikipedia
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