タップダンスシチー("Tap Dance City")は、日本で活躍した元競走馬、種牡馬である。5歳(現表記、以下同じ)の秋から8歳の春にかけて、GI2勝(2003年ジャパンカップ・2004年宝塚記念)を含む重賞7勝を挙げるなど、大器晩成型の競走馬であった。獲得賞金(付加賞含む)は日本歴代9位で、外国産馬では唯一の10億円ホースである。本馬は「シチー」の冠名で知られ、一口馬主のクラブ法人である友駿ホースクラブの所有となり、募集価格は一口6万円×500口で3000万円であったが、最終的にはその36倍の賞金を稼ぐこととなる。本格化は5歳秋になったころからであったが、佐々木晶三調教師は最初に馬を見たときに「重賞の1つや2つは勝てると思った」、と引退式(後述)のなかでコメントしている。当初競走馬としてのデビューは1999年秋になるはずだったが、手綱につまづいた際に舌を噛み、舌がちぎれそうになるほどの重傷を負った。そのためデビューは翌2000年3月にずれ込んだ。デビュー戦は9着に敗れたが2戦目で初勝利を挙げ、4戦目の重賞京都新聞杯ではアグネスフライトの3着に健闘した。その後は条件戦を走り、12月に格上の900万下条件戦を優勝したが、GI競走とは無縁だった。翌2001年は条件クラス、オープンクラスのレースで堅実な走りを見せたが勝利を挙げることはできなかった。2002年、1000万下クラスからの格上挑戦となった日経新春杯で6番人気ながら3着に入り、その後1000万下・1600万下の競走に連勝。さらに続く日経賞でも2着に入り、デビューから19戦目でオープン馬となった。9月、朝日チャレンジカップに優勝し、デビュー23戦目にして重賞初制覇を達成。このとき騎乗した佐藤哲三は本馬の主戦騎手となり、その後引退するまでの全競走に騎乗した。その後は京都大賞典3着、アルゼンチン共和国杯3着、京阪杯5着と勝てないレースが続いたが、GI初挑戦となった有馬記念では向こう正面からロングスパートをかけて先頭に立ち、2着に粘った。このころを境に、「先行して押し切る」というレーススタイル(後述)が確立されていった。2003年の初戦には東京競馬場リニューアル記念が選ばれた。調教師の佐々木はタップダンスシチーの本格化を確信していたが、ファンの間では前年の有馬記念で単勝13番人気だった同馬の2着をフロック視する向きが根強く、人気は7番人気にとどまった。しかし、2001年優駿牝馬優勝馬のレディパステルに2馬身差を付けて優勝。続く金鯱賞も優勝した。宝塚記念でヒシミラクルの3着に敗れたあと、夏期休養を経て京都大賞典に出走。レースでは、2000年10月の競走(デビュー7戦目)以来となる逃げの戦法をとり、ヒシミラクルを抑えて優勝した。レース後、陣営は天皇賞(秋)には出走させず、目標をジャパンカップに絞って調整を進め、同競走が行われる時期には佐々木が「生涯最高」というほどの状態に仕上がった。レースでは1番枠から先頭に立つと徐々に後続馬との差を広げ、最終的には2着のザッツザプレンティに9馬身差を付けて優勝。初めてのGI制覇を成し遂げた。続く有馬記念ではGI2連勝を狙ったものの、ハイペースで飛ばすザッツザプレンティ・アクティブバイオに主導権を握られ、さらに第4コーナーではまくってきたリンカーンに交わされるなど、ちぐはぐな競馬になってしまいシンボリクリスエスの8着に敗れた。年明け初戦の金鯱賞では、前年と同じように逃げ馬を捕らえて第3〜第4コーナーで先頭に立ち、サイレンススズカが保持していたレコードタイムを0秒3更新して優勝。同競走の連覇を達成した。続く宝塚記念は単勝1番人気に支持された。レースでは序盤は3、4番手を追走し、第3コーナー手前で逃げるローエングリンを交わして先頭に立つとそのまま後続馬の追撃を交わし、2着のシルクフェイマスに2馬身の着差をつけて優勝。2分11秒1のレースレコードを記録してGI競走2勝目を飾った。宝塚記念優勝を受け、陣営はかねてから計画していた凱旋門賞出走を決定した。調教師の佐々木は9月26日発の飛行機でタップダンスシチーをフランスへ輸送し、翌週の10月3日に行われる凱旋門賞に出走する計画を立てた。しかしチャーターする予定であった飛行機が故障により離陸できないアクシデントに見舞われ、輸送が不可能となった。佐々木は一度は遠征を断念したものの一口馬主の会員には出走を望む声が多く、10月1日発の飛行機で輸送するスケジュールで遠征を敢行。レースでは終始2 - 3番手を先行し、ゴールまで残り800 - 600メートルの「フォルス・ストレート(偽りの直線)」では先頭に並びかけたが直線で力尽き、Bago(バゴ)の17着に敗れた。帰国後は検疫の影響で調整が遅れ、陣営が「7割の出来」「あと2週間欲しい」という状態で有馬記念に出走した。レースでは好スタートを切って逃げを打つと、道中の1ハロン(200メートル)ごとのラップタイムは11秒台を連発し、もっとも遅いラップでも12秒4と、「スタートから緩みのないペースで逃げて後続に脚(スタミナ)を使わせる」展開に持ち込み、勝利したゼンノロブロイが記録した2分29秒5の日本レコードから2分の1馬身(0秒1)差の2着に健闘した。翌2005年も現役を続行。初戦の金鯱賞を逃げ切り、セカイオー以来となる平地の同一重賞3連覇の快挙を達成した。続く宝塚記念では史上初の連覇および、8歳馬による平地GI制覇を狙い、単勝オッズ1.9倍の1番人気に推されたが、レースの3日前に厩舎内でほかの馬に蹴られ、重度の外傷を負うアクシデントに見舞われた。調教師の佐々木は出走取消も考えたがオーナーサイドとの協議の結果出走することになった。レースでは逃げたコスモバルクを第3コーナー過ぎから捕まえに掛かったが、前年のようにあっさり交わすことができず、直線で力尽きて牝馬のスイープトウショウから1秒2離れた7着に終わった。佐々木いわく、レース後タップダンスシチーは走る気を失い、体調も下降線をたどった。後半シーズンは調整の遅れから前哨戦を使わずに天皇賞(秋)に出走したが、一度も先頭に立つことなく9着に敗れた。続くジャパンカップではスタートからの1000メートルを58秒3、2000メートルでも1分57秒7のハイペースで逃げ、残り200メートル手前まで先頭という見せ場を作ったが、優勝したアルカセットから1秒差の10着に敗れた。4年連続での出走となった有馬記念では逃げを打ったものの、第4コーナーでコスモバルクに並びかけられると失速し、勝利したハーツクライから1秒4差の12着に敗れた。タップダンスシチーはこのレースを最後に競走馬を引退することが決定しており、有馬記念当日の中山競馬場で最終競走終了後、2003年ジャパンカップ優勝時の1番ゼッケンを着けて引退式を行った。2006年1月6日付でJRAの競走馬登録が抹消され、ブリーダーズ・スタリオン・ステーション(北海道日高町、旧門別町)で種牡馬となった。シンジケートは組まれず、競走馬時代と同じく友駿ホースクラブの所有馬として種牡馬入りした。クラブ馬であるため、種付料が競走馬時代の賞金と同様に、一口馬主に分配される初めてのケースになった。種付料は30 - 80万円(支払い時期などにより異なる)と安価に設定され、2006年は163頭、2007年は127頭、2008年は77頭、2009年は50頭と推移した。2008年7月8日に行われた八戸市場2008では、産駒のシュバルブラン2007が牡馬の最高価格となる693万円で、同じく産駒のボールドテスコ2007が牝馬の最高価格となる598万5000円で取引されている。初年度産駒は2009年にデビューし、同年7月3日の浦和競馬第2競走で、アールパラダンス(牝)が中央競馬・地方競馬通じての産駒初勝利を挙げた。また、同年11月15日の東京競馬第1競走では、ケイアイツバキ(牝)が中央競馬での産駒初勝利を挙げた。しかし、中央での勝ち星はこの1勝のみで、総合的には初年度の産駒成績は不振を極めた。この影響から、翌2010年の種付け頭数は6頭、2011年には1頭と激減してしまう。そのため、この年の種付けを最後に種牡馬を引退し、去勢手術を施された後乗馬に転用。ノーザンホースパークでの訓練を経て、2011年10月からは福島県天栄村のノーザンファーム天栄でスタッフの乗馬訓練用の練習馬となった。しかしながら、長年の種牡馬生活と気性面から乗馬としては不向きと判断され、現在は個人牧場にて過ごしている。2003・2004年金鯱賞、2003年ジャパンカップ、2004年宝塚記念、同年有馬記念のように「スタートから緩みのないペースで引っ張る」競馬を持ち味とした。この戦法は道中でもラップが落ちず、ペースが適度に速くなりやすいので、自身も3度のレコード勝ちを記録し、敗れたレースでも、逃げまたは先行しレースを作った2004年有馬記念や2005年ジャパンカップではコースレコードでの決着となるなど、勝ちタイムが速くなることが多かった。この戦法は2002年(5歳)暮れの有馬記念から見られるようになったが、これは瞬発力に欠けるところがあるものの、スピードの持続力に優れていて、「無理に抑えると機嫌を損なう」気性だったためであった。優勝した2004年宝塚記念では、3コーナー手前(残り900メートル程度)で先頭に立ってそのまま逃げ切り、優れたスピードの持続力があることを証明しているが、これは瞬発力に欠けるために、相手を引き付け、後続馬のスパートに合わせてレースをするタイプの馬ではないことも示しており、良くも悪くも自分のペースでレースを進めていた。また、重い馬場やある程度の重い斤量でも苦にせず走れるというのも特徴であるが、2003年ジャパンカップに勝利するまでは、重馬場での実績は2戦して4着・5着であった。
出典:wikipedia
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