ロード・ダンセイニ(Lord Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)は、アイルランドの小説家、戯曲家、軍人。フルネームは18代ダンセイニ男爵 エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron of Dunsany)。幻想的、神秘的な作品で知られ、『ペガーナの神々』などによりファンタジー文学に大きな足跡を残した。プランケット家はデンマーク系旧家の貴族で、ダブリン北部ミース州のタラの丘に1190年に建てられたを居城としている。ダンセイニはロンドンので生まれ、ロンドンとケントで育つ。10歳の時に父の十七代ダンセイニ卿が病気でアイルランドに戻り、ダンセイニは母のいるロンドンとダンセイニ城を行き来して暮らす。12歳で男爵号を継承。1899年に父が死去し、借金が残され、ダンセイニはコールドストリーム連隊に入り、1916年のダブリン暴動ではイギリス側(制圧側)として参加し、南アフリカでの第二次ボーア戦争にも従軍する。1901年、アイルランドに戻り、猟に熱中。1903年からロンドンで暮らすようになり、社交界で知り合ったレディ・ベアトリス・ヴィリアス("Lady Beatrice Child Villiers"(1880–1970))と結婚する。この頃からチェスの名手として知られ、またW.B.イエイツやグレゴリー夫人などアイルランドの文学者との知遇もあった。デーヴィッド・ベラスコとジョン・ルーサー・ロングの劇"The Darling of the Gods"を観て、神々の神秘的な世界の物語を思いついて『ペガーナの神々』を執筆。1904年にこれを自費出版し、翌年出版社から発売したが、それほどの評判にはならなかった。またこの本で挿絵を描いたシドニー・H・シームは、その後もダンセイニの本の挿絵を多く描いた。この頃保守党から選挙に立候補するが敗れる。1906年、『ペガーナの神々』の続編『時と神々』を出版し、特異な作家として認められるようになる。1910年、戯曲『輝く門』を執筆、この幻想劇が認められてイェイツの文学サークルにも参加する。しかし第一次世界大戦が始まると軍人として出征し、フランス戦線での体験を『不幸な日のこと』(1919年)として発表。初の長篇小説『影の谷年代記』(1920年)を発表した後、第二長編『エルフランドの王女』(1924年)で成功を得る。また戯曲家としてアメリカで人気を得ており、1919年の講演旅行ではハワード・フィリップス・ラヴクラフトが聴講している。チェス・プレイヤーとしては、世界チャンピオンのホセ・ラウル・カパブランカとトーナメントで引き分けたこともあり、チェス・プロブレムの特にを『タイムズ文芸付録』紙にしばしば掲載している。第二次世界大戦中は住んでいたケント州の館で、ドイツ軍の空襲から村を守るための任務に付き、村人と深い親交を持った。晩年はケント州でチェス三昧の暮らしをしていたが、アメリカのリトルフィールド・スミス夫人("Hazel Littlefield-Smith")の訪問を受けて以来親交を結び、リトルフィールド・スミス夫人は後にダンセイニの評伝『ロード・ダンセイニ 夢の王』(1959)を記した。1952年、訪米、カリフォルニア大学のユー・シュン・ハン(韓玉珊)教授からは漢詩を贈られた。1957年、消化器疾患でダブリン養護病院に入院し、そのまま死去。遺言によってケント州のショアハム共同墓地に葬られた。2003年、1955年頃に執筆された未発表長編『"The Pleasures of a Futuroscope"』が刊行された。執筆時期はケルト文学復興運動()の時代と被るが、いわゆる「アングロ・アイリッシュ」()と呼ばれた支配階級の出自もあり、その活動はレディ・グレゴリーやイェイツ、シングらとは異なってアイルランド民族のアイデンティティにあまり肩入れしたものではなかった。ミステリのジャンルでは短編「二壜の調味料」がエラリー・クイーンらの高評を受け、クイーンの定員にも選ばれた。江戸川乱歩は評論「奇妙な味」で本作を代表作の一つに挙げている。日本には大正時代に戯曲作家として紹介され、佐藤春夫、稲垣足穂らに影響を与えた。小説戯曲詩ノンフィクション(自伝・評論・他)
出典:wikipedia
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