ティム・ヘンマン(Tim Henman, 1974年9月6日 - )は、イギリス・オックスフォード出身の男子プロテニス選手。フルネームは "Timothy Henry Henman" (ティモシー・ヘンリー・ヘンマン)という。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝、ダブルス4勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。1998年にはイギリス出身男子シングルスの選手として1973年のロジャー・テイラー以来となる地元開催のウィンブルドン選手権準決勝進出を果たす等、1990年代後半~2000年代前半のイギリスNo.1プレイヤー。4大大会は優勝には届かなかったが、ベスト4が6回(うちウィンブルドン4回)と活躍。2003年BNPパリバ・マスターズ優勝。他3度のATPマスターズシリーズ準優勝がある。テニス・マスターズ・カップに3度出場がある。イギリスにとって、オープン化以降、アンディ・マリーが登場するまで、地元選手によるウィンブルドン優勝を最も期待された名選手である。ティム・ヘンマンは両親の手ほどきにより、2歳半からテニスを始めた。彼の家族はイギリス国内でも名門のテニス一家として知られ、祖父のヘンリー・ビリントン(Henry Billington)はウィンブルドン選手権で1948年・1950年・1951年の3度3回戦進出、1939年全仏選手権ベスト8の経歴を持つテニス選手であり、曾祖母も1901年のウィンブルドン選手権に出場したことがある。1993年にプロ入り。1994年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイギリス代表選手となり、ウィンブルドンにもデビューを果たす。1994年4月に初来日し、東京・有明コロシアムの「ジャパン・オープン」3回戦でピート・サンプラスに挑戦した。1996年のウィンブルドンの1回戦で、先の全仏オープンで優勝したばかりのエフゲニー・カフェルニコフ(ロシア)と対戦し、地元の声援の中でカフェルニコフを 7-6, 6-3, 6-7, 4-6, 7-5 で破った。その勢いに乗って初めての準々決勝に進んだが、アメリカのトッド・マーティンに 6-7, 6-7, 4-6 で敗れた。ウィンブルドン8強進出で躍進した1996年は、アトランタ五輪でもイギリス代表選手として男子ダブルスの銀メダルを獲得し、全米オープンでもステファン・エドベリとの4回戦まで進出した。1997年のウィンブルドンで、ヘンマンは4回戦で前年優勝者のリカルト・クライチェク(オランダ)を破って2年連続2度目のベスト8に入ったが、準々決勝で1991年の優勝者ミヒャエル・シュティヒ(ドイツ)に敗退した。この年はATPツアー大会でも、シングルスで4度決勝に進み、ツアー年間2勝を挙げた。その後、彼はウィンブルドンで4度の準決勝進出があったが、1998年と1999年は2年連続でピート・サンプラス、2001年はゴラン・イワニセビッチ、2002年はレイトン・ヒューイットに敗れ、いずれも決勝進出はならなかった。2004年、ヘンマンは30歳にして初めて全仏オープンと全米オープンの準決勝に進出した。全仏準決勝ではアルゼンチンのギリェルモ・コリアに 6-3, 4-6, 0-6, 5-7 で、全米準決勝ではロジャー・フェデラーに3-6, 4-6, 4-6 で敗れたが、両大会ではサーブ・アンド・ボレーのみに頼らない、オールマイティな力を示し、どんなサーフェスでも活躍できる実力を備えていることを証明した。ウィンブルドンでは、準々決勝でクロアチアのマリオ・アンチッチに敗れている。しかし、2005年以降はウィンブルドンでの成績も下降する。それまで彼は9年連続で4回戦以上に進出していたが、2005年のウィンブルドンでは2回戦でドミトリー・トゥルスノフ(ロシア)に敗退してしまう。2006年の大会では、2回戦で第1シードのロジャー・フェデラーと顔を合わせた。2006年の「ジャパン・オープン」で、ヘンマンは2年半ぶりに男子ツアー大会の決勝に進んだが、フェデラーに 3-6, 3-6 で完敗して準優勝に終わり、これが彼の最後の男子ツアー大会決勝戦になった。2007年8月23日、ヘンマンはデビスカップ「ワールドグループ・プレーオフ」の対クロアチア戦(9月21日-23日)を最後に現役引退することを表明した。現役最後の年、ウィンブルドンは2回戦でフェリシアーノ・ロペス(スペイン)に敗れ、全米オープン2回戦でジョー=ウィルフリード・ツォンガ(フランス)に 6-7, 6-2, 5-7, 4-6 で敗れた試合が、ヘンマンの4大大会最後の試合になった。現役最後の舞台に選んだデビスカップのクロアチア戦で、ヘンマンはシングルス第2試合と、ジェイミー・マリーと組んだダブルス戦の2試合に勝利を収め、イギリス・チームは2008年度の「ワールドグループ」復帰を決めた。パトリック・ラフターとともに1990年代後半を代表するネットプレイヤー。ボレーの技術は天才的である上、サーブやストロークも決して悪くなく、レベルの高い名プレイヤーであった。キャリア後半の2000年代には、サーブスピードを落とし正確性を高める一方、ストローク力を高めて、ストローカ全盛の時代にも適合、ウィンブルドン以外の4大大会でも好成績を残している。地元イギリスではフレッド・ペリーが1936年にウィンブルドンで優勝して以来のイギリス人男子シングルス優勝者を待ち望んでおり、そのため“ヘンマニア”と呼ばれる過激な地元ファンが登場し、ウィンブルドンの1番コート近くの大型モニター前は、彼の試合会場に入れなかった“ヘンマニア”たちが詰め掛けて応援することから“ヘンマン・ヒル”と呼ばれるようになるなど、ウィンブルドンでのヘンマンの活躍はイギリスのテニス界に大きなブームを生んだ。その後イギリスの期待はアンディ・マリーに引き継がれ、マレーは見事悲願のウィンブルドン優勝を成し遂げた。近年はヘンマン・ヒルを“マレー・マウント“と呼ぶ者が増えたことを受け、ヘンマンが「ヘンマン・ヒルの名称は譲れない」と主張するジョークCMが放映されている。
出典:wikipedia
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