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クリストファー・コロンブス

クリストファー・コロンブス(、、、、1451年頃 - 1506年5月20日)は探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身。大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである。コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であったが、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は解らない。通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子供がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない。弟は1~2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(後にディエゴと呼ばれるように)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインやチーズの売買も行っていた。コロンブスと海とのかかわりは10代の頃から始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国のガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ、ロクサーナ号でエーゲ海のキオス島へ行って乳香(マスチック)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べている。1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船が沈没した。コロンブスは櫂につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴスまで辿り着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスとカタルーニャ連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある。彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った。この時期は1477年春以降と考えられる。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月にはイギリスのブリストルを経てアイルランドのゴールウェイそしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキングが北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは判っていない。1479年末頃、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ)と結婚した。なれそめはロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたという。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であった事、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかった事、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていた事などがあったと推察されている。結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年頃にそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年ディオゴ・デ・アザンプージャが 西アフリカを南下し、エルミナ城を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりギニアとゴールドコーストまで行ったと考えられている。ポルトガル側にこれを証拠付ける資料は無いが、コロンブスは第一次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや、所蔵していたピエール・ダイイ著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる点がその根拠とされる。また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島に辿り着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史』(Historia General y Natural de las Indias)を著したフェルナンデス・オヴェイドも1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。この頃、コロンブスは積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理そして航海術の習得に努めた。仕事の拠点であるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに地球球体説は一般に信じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もある。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教の普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。1484年末頃、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に、ジョアン2世は興味をそそられた。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンがコンゴ王国との接触に成功し喜望峰に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した。再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金が無く借金さえ抱えていた。この頃、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年中頃、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。コロンブスはリスボンから海路、スペインのパロスに着き、そこからウエルバのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた。5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもあるセビリアのアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはメディナ・シドニーア公ドン・エンリケ・デ・グスマン、そしてメディナ・セリ公(伯爵)ドン・ルイス・デ・ラ・セルダと面会する機会を得た。メディナ・セリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000-4,000ドゥカート相当の物資を準備することに合意した。コロンブスへの援助に同意したメディナ・セリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えカスティーリャのイサベル1世へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた。1486年5月1日、メディナ・セリ公が紹介してコロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられそこで評価されることになった。1486年だけで二度委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。コロンブスはメディナ・セリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在しカトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持った医師や学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナと恋愛関係となり、1488年8月15日にフェルナンドが生まれたが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラやメンバーのひとりドミニコ会のディエゴ・デ・デサらは委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた。これに抉れたコロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、バルトロメウ・ディアスの喜望峰発見もあって話が纏まることはなかった。また弟バルトロメをイギリスのヘンリー7世やフランスのシャルル8世の元に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得てバルトロメはフォンテーヌブローの宮殿に数年間滞在した。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。一方のスペイン王室は、1489年5月12日付けでコロンブスが王室に謁見する時に必要な宿泊費を無料にする通達を出すなど不完全ではあるが金銭的援助を行い、決して彼を邪険にしていた訳ではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。このわずか2週間後、コロンブスの下に王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。しかし1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここに、ルイス・デ・サンタンヘルが登場する。財務長官であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。元々興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15kmほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的とも言える出来事を解説する銅版がある。1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、というものだった。航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万マラベディを、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達しコロンブスに提供した。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナ・セリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった。1492年8月3日、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。一旦、カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えた後、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。コロンブス自身は平気な振りをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアン達から歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブス達に水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。だがしかし、コロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残しているコロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名付けた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦から与えられるとされていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。1493年5月4日、ローマ法王勅書は、アゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって、新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。折からの関心の高まりによって、コロンブスは二回目の航海の資金を難なく作ることができた。1493年の9月に17隻・1500人で出発したコロンブスの2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名付けた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間は全て殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上り、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。インディアンたちは、ゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばら撒く疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。コロンブスが何カ月もの間病いに臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。 1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。コロンブスと同行し、虐殺を目にしていたキリスト教宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスは、日記にこう記している。コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖に繋いで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性はセビリアに着く前に船中で死んでいる。インディアンの殺戮に"大勝利"した後、コロンブスは予定通り、捕らえたインディアンを奴隷として本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3カ月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったので、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に彼らを殺す楽しみを決してやめなかった。1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたという。その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれを中々受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの全ての地位を剥奪される。それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末には彼に信頼を寄せていたイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去。その遺骨はセビリアの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された。サントドミンゴ大聖堂の地下にあるコロンブスの墓碑銘には「輝く、有名な紳士、ドン・クリストバル・コロン」と書かれている。コロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記されてしまった。この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった。(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「コロンビア」も用いられる)一般的にコロンブスの「功績」はアメリカ大陸を“発見したこと”と語られることが多いが、アメリカ大陸にはこれ以前からインディアンやインディオなどのモンゴロイド系先住民族が一万年以上前から居住し独自の文明を築いていたことを考えると、“発見”という言葉自体がヨーロッパ中心で世界を見る視点に立脚した発言と言わざるを得ない。従って、中立的な視点では「大西洋航路の発見」、つまりヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ「航海路を発見した」というのが、その真の功績であると言える。コロンブスのアメリカ大陸到着以前はユーラシア大陸と南北アメリカ大陸の住人や国家、文明の間には相互の文化や経済、政治などに影響を与え合うほどの交流がほとんど無かったことから、「"世界の一体化を促進した"」とする評価もできる。そしてその評価の中には、聖書に地球が球体であると描写された記述があり、コロンブスの行動によりそれが正確であると立証されたこともあげられる。なおコロンブス自身はアメリカ大陸を最後までアジアだと誤認しており、「新大陸」と気づく事は無かった。その事を考えれば、1492年にコロンブスが「新大陸を発見した」ようにいわれることもおかしいともいえる。「コロンブスがアメリカを発見した」という「功績」については、現代の多文化主義論者たちは、「“発見”などしていない」との見解で一致している。歴史家のは、「ヨーロッパ白人は処女地に植民したのではない。彼らは先住民族を侵略して、入れ替わったのだ」と述べ、インディアン活動家のマイク・アンダーソンは「コロンブスの上陸の前に、そこには文化があった。そして人々がいた。そしてそこには政府があった」としている。カークパトリック・セールは「我々は“発見”などというイベントは無かったと断言することが出来る」と主張、小説家のはインディアンと白人が「互いに相手を“発見した”のだ」としている。また、やゲイリー・ナッシュ、ロナルド・タカキといった歴史家たちは、「“発見”ではなく、“遭遇”である」との主張で一致している。またレシェク・コワコフスキはこの「遭遇」という言葉に対して、「探検への衝動は、世界の文明の中で決して均一に割り当てられたものではなかった」として、コロンブスがアメリカに到達し、インディアンがヨーロッパに到達しなかったことは、インディアンと白人が「同一水準で文明的な接触をする」という条件面での違いを隠すものだとしている。しかし、ヨーロッパ白人もアメリカ大陸のインディアンも、双方が互いを知らなかった状況において、ヨーロッパ白人がアメリカ大陸に来訪したのを、「アメリカ大陸を発見」と呼んでも、必ずしも不公平ではないという意見も白人の中にはある。しかしながら、との夫妻が、ニューファンドランド島のランス・オ・メドーでコロンブスが北米に上陸する以前の年代にヴァイキングが持ち込んだとされる鉄釘を発見した。これによりコロンブスが「西洋人としてはじめて」「新大陸を発見した」という説は覆った。現在ではヴァイキングがアメリカ大陸に到達し、その地をヴィンランドと呼んでいた事実は、定説となっている。また、古代ポリネシア人もおそらく南米に到達し、コロンブス交換以前に南米の作物を旧世界に持ち込んでいた。後世のコロンブスの発見に比べれば、交流は限定的であるが、少なくともアメリカ大陸以外の住人が、アメリカ大陸に来訪したのは、コロンブスが最初ではないのは事実である。さらに言えば、エスキモーと呼ばれる北極圏の先住民族グループの分布は、ベーリング海峡や北極海を越えて、ユーラシア大陸・アメリカ大陸にまたがっており、アメリカ大陸が他とは隔絶した地域だという認識そのものが疑問視される。1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。量的にもスケール的にも、コロンブスは、エルナン・コルテスやフランシスコ・ピサロに並ぶ、虐殺目的で戦争を楽しんだ最も悪名高いコンキスタドール、征服者の一人と言えるだろう。コロンブスのインディアンを見下した傲慢さや残虐さについては、多文化主義に基づく歴史家たちは、これを典型的な西側の白人男性の、原住民に対する人種差別的偏見としている。は、コロンブスはインディアンに対して、不合理な敵意に根ざした独特な「ヨーロッパの傲慢な本質」を体現していると告発している。は、「偏見を起因として他の種に対して交戦が見られるということは、ヨーロッパ文化としては空想的なことではない」としている。またスティーヴン・グリーンブラットはコロンブスについてこう述べている。「政治的、経済的、文化的なカニバリズムという、西洋史のなかでも最大の実験を開始したのがコロンブスである」。アメリカ合衆国の記念祝日である10月12日、「コロンブス・デー」は、インディアンにとっては「白人による侵略開始の日」に他ならない。1911年にインディアン運動家たちは「アメリカインディアン協会」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱。オハイオ州コロンバスでの第一回決起大会において、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」とのスローガンを掲げ抗議した。現在も反「コロンブス・デー」運動は「アメリカインディアン運動(AIM)」などに引き継がれ、毎年この日になると全米各地で抗議行進やデモが行われていて、この際多数のインディアンが逮捕されている。インディアン団体「AIM」のコロラド支局はその公式サイトで、「Transform Columbus Day!(コロンブス・デーを変えろ!)」として、この記念祭の廃絶を求め、以下のように主張している。AIMスポークスマンであるスー族のラッセル・ミーンズらインディアン運動家はチカーノ団体と連携し、コロラド州デンバーの「コロンブス・デー」に毎年、同州にあるコロンブスの銅像にバケツで真っ赤な絵の具を浴びせている。インディアンによるこの「血の洗礼」は、州警察による逮捕者を出しながらも毎年行われている。1992年の「コロンブス500年祭」に合わせ、ラッセル・ミーンズは、「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。コロンブスの前では、アドルフ・ヒトラーはまるでただの不良少年だ」、AIMコロラド支局代表のインディアン、グレン・モリスは、コロンブスを「殺人者であり、強姦者であり、今日も続く大量虐殺思想の大立者である」、ウィノナ・ラデュークは、「生物学的、技術的、生態学的な侵入は、500年前のコロンブスの不幸な航海から始まった」とコメントしている。ラテンアメリカ諸国やスペインでも、10月12日は"Día de la Raza"(「人種の日」)として「発見」以来讃えられてきたが、20世紀末の1990年代からインディオ団体や黒人(混血を含む)団体らが主体となってコロンブスを「発見者」として讃える歴史観への見直し運動が高まり、「新大陸発見」から500年目の1994年10月12日には、ドミニカ共和国やグアテマラなど各国で「人種の日」を記念する政府行事に対抗して、これに反対する諸団体によるデモ行進が行われている。2000年代に入ってからもこの反ヨーロッパ中心主義運動はラテンアメリカ域内で影響力を強めており、近年左派政権が成立したベネズエラでは10月12日を「人種の日」から"Día de la Resistencia Indígena"(「インディヘナの抵抗の日」)と公式に呼び替える運動が進んでいる。黒人作家のイシュマエル・リードはこう発言している。「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか? たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」上記のような歴史的・文化的業績への評価とは別に、コロンブスには地球磁気のズレ(偏角)の発見者という功績を帰せられることがあった。現存する第1回航海の記録である、息子エルナンデスの『コロンブス提督伝』とラス・カサスの『コロンブス航海誌』双方の1492年9月13日の項に、「夜は北西を指していた羅針が、朝には北東を指していた」という記述がある。これを受けて、J・C・ポッゲンドルフ『物理学史』(1879) やパーク・ベンジャミン『The Intellectual Rise in Electricity』(1895) のように、コロンブスを偏角の変化ないし偏角そのものの発見者として記載する資料がある。しかしこうした傾向に対する反論は、A・クリフトン・ミッチェルらによって1930年代からなされてきた。ミッチェルは『コロンブス提督伝』第2回航海の記述において、コロンブスがヨーロッパの偏角を想定して造られた羅針盤を携行していることに注目し、コロンブスが第1回航海で初めて偏角を発見したのだとしたら羅針盤の発達がありえないほど迅速であると指摘している。つまり、1492年の以前からヨーロッパの航海士や羅針盤製作者には偏角の存在が知られていたと解するのが自然である。とはいえ、コロンブスの航海記録が現存する西洋での最古の定量的な磁気偏角測定であることには変わりない。コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れている。また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術は無い。レオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから、両者の間に面識があったのではないかという説がある。多く語られているものとしては、コロンブスはユダヤ人の片親から生まれたのではないか、とする奇説である。また1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、一方コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。この事からコロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないか、とする奇説も存在する。また、教皇インノケンティウス8世の落胤ではないかとする説も存在する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。アメリカ、ノースカロライナ州にあるデューク大学でITアナリストとして働くアマチュア歴史家のマヌエル・ロサは、2010年10月にスペインで出版した『コロンブス:語られなかったストーリー』のなかで、コロンブスがポーランド王ヴワディスワフ3世(晩年にかけてはウラースロー1世としてハンガリー王も兼任)の実の息子であるとの説を主張している。新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作も無いことです」と返した。これが『コロンブスの卵』の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われている。しかし、ヴォルテールは『習俗論』(第145章)にて「これは建築家フィリッポ・ブルネレスキの逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した。逸話の内容は1410年代、『フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。他の建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。誰も出来なかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。当然の如く周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのが最も難しい。もし先に図面を見せたら、あなた達は真似をするでしょう?」と切り返した。』というものである。本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。

出典:wikipedia

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