四日市ぜんそく(よっかいちぜんそく)は、三重県四日市市(塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・四日市市中部地域)と、南側に隣接する三重郡楠町(現:四日市市)で、高度経済成長期の1960年(昭和35年)から1972年(昭和47年)にかけて政治問題化した四日市コンビナートから発生した大気汚染による集団喘息障害である。四大公害病の一つ。漢字では、四日市喘息と表記する。水質汚染を含めた環境問題としては、四日市公害と呼ばれている。四日市公害が発生した当時は別名では塩浜ぜんそく(四日市市内で使用された名称)の名称や、大気汚染が原因で発生した健康影響事件として四日市のぜんそく事件(国会内で使用された名称)の名称で呼ばれていた。1960年代に入り、四日市コンビナート(第1コンビナートの工場群)に隣接する四日市市南部の塩浜地区で急激に喘息患者が急増し、鈴鹿川沿いの漁村で漁民の多い磯津地区は特に重症患者が多くて「塩浜ゼンソク」や「四日市ゼンソク」と呼ばれた。国会でも「四日市公害」や「四日市のぜんそく事件」と呼ばれて政治問題や社会問題になり、昭和45年の公害国会で環境問題が集中審議された。1967年の塩浜中学校3年生の女子学生の公害病(四日市ぜんそく)による死亡を契機に四日市市民の怒りが爆発して、悲惨な状況を打破するため前川辰男(日本社会党所属の四日市市議会議員)はコンビナートの企業の内、明らかに加害行為が立証された6社(塩浜地区付近の化学系企業の石原産業、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサント化成と四日市港付近の石油系企業の中部電力、昭和四日市石油)のみに絞り込み、四日市公害訴訟を開始した。一つの企業のみの加害行為(水俣病はチッソが加害企業、イタイイタイ病は三井金属鉱業が加害企業、新潟水俣病は昭和電工が加害企業)が明らかだった他の四大公害病の水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病と比較して、複数の工場群(四日市コンビナートには多数の企業が存在する)による四日市公害を裁くのは困難を極めたが、弁護団や科学者など多くの支援によって1972年に四日市公害裁判に勝訴した。日本初の本格的な石油化学コンビナートである四日市コンビナートが建設された事によって、1960年代に四日市市は急速に工業化された。工場の生産活動で大量の亜硫酸ガス(硫酸ミスト)が大気中に排出された。地元三重県の三重大学医学部公衆衛生学教室に所属していた吉田克巳教授などの医学者や環境学者は、原因不明の喘息などの疾患の原因について学術調査を行なった。公害患者が発生した塩浜地区が、四日市コンビナートの亜硫酸ガス排出源の風下の位置であり、地理的に亜硫酸ガスの着地点でもあることから、亜硫酸ガスの濃度が高い塩浜地区で喘息発作が多発したので、四日市ぜんそくは亜硫酸ガス(二酸化硫黄)や二酸化窒素や二酸化炭素の増加が原因であるとした。昭和30年代に三重県四日市市で(塩浜地区)に第1コンビナートが操業を始めた事を発端とする。公害対策として排出量の規制が行われた。四日市公害(四日市ぜんそく)によって悪名の意味で四日市市の知名度が向上した。公害病の四日市公害裁判が1967年から1972年に行われた。1972年7月24日の津地方裁判所四日市支部の判決では原告の請求を認容して、第1コンビナート(塩浜地区)と第2コンビナート(午起地区)に進出した主な四日市コンビナートの企業(石原産業、中部電力、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサント化成など)が被告となり、企業が石油の精製過程で排出した亜硫酸ガスによる大気汚染が原因とされた。四日市ぜんそくを引き起こした有害物質の中で、一番影響が強かったとみられる物質は、四日市コンビナートから10万トン排出された硫黄酸化物 (SOX) であった。石油は石炭と違い黒いばい煙の黒いスモッグに覆われず、石炭よりもクリーンなエネルギーと呼ばれていたが、気管や肺の障害や疾患を引き起こす四日市ぜんそくなどの原因となる硫黄酸化物を多く含んでいた。四日市コンビナートでは中東産の硫黄分の多く含んだ原油を使用していた。中部電力があった第2コンビナートに進出していた石油系企業と化学系企業が中心であった第1コンビナートから硫黄酸化物が排出されて「白いスモッグ」と呼ばれた。四日市市は救済に乗り出したが犠牲者は1000人を超えた。四日市コンビナート企業の有罪が確定してから、官民あげての公害被害者対策が講じられた。気管支炎や気管支ぜんそくや咽喉頭炎など呼吸器疾患になる。大気汚染による慢性閉塞性肺疾患であり、息苦しくて、喉が痛み、激しい喘息の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。心臓発作や肺気腫(肺がん)を併発する場合もある。黒川調査団の報告ではの四種類の疫病が『閉塞性呼吸器疾患』と総称されて、医療費のうち国民健康保険などがカバーする以外の自己負担分を四日市市が支払った。1955年(昭和30年)の三重県知事選挙では、以下の構図となった。戦後初の公選知事であった現職の青木理三重県知事には、自由党・日本民主党の推薦と三重県内の川崎秀二衆議院議員など四日市市選出以外の保守系の国会議員・保守的な三重県議会議員の支持があり、新人候補の田中覚には、以下の労働組合の支持があり、自治労三重県連合・三重県の職労団体・三重県の官公労組織・三重県の地方労協組織・総同盟三重県連合・ゼンセン同盟三重県支部・近鉄労組・紀州工業労組などの労働者の支持と、以下の農協組織の桑名農協・員弁農協・三泗農協・中勢農協・宇治山田農協・北勢農協・牟婁農協など三重県内の農協の支持と日本社会党(右派社会党本部・右派社会党三重県連合・左派社会党本部・左派社会党三重県連合)の支援があったので、三重県の保守層が革新知事の誕生に危機感を強めていわゆる田中赤攻撃とされる以下の中傷攻撃をした。「田中はアカだ」「伊勢神宮がある聖地三重県が左翼に汚される」「三重県が共産主義になる」とマルクス主義者だと誹謗中傷のビラをまき警戒した。田中覚を応援した親しい官僚は「田中が赤いのは間違いである。田中は若いのだ」と反論した。日本社会党の労組組織と、田中候補の地元の塩浜地区を中心とする四日市市民の応援と四日市市の保守層(山手満男)の支持を得た農林省の元官僚の田中覚が三重県知事に当選して、三重県に日本初(全国の都道府県で初期ともされる)革新自治体が誕生する。田中覚の出身地の塩浜地区は工業化による四日市コンビナート企業の社宅設立で人口が増加して塩浜地区(塩浜駅周辺の南部)と三浜地区(海山道駅周辺の北部)の2地区(小学校区)に分裂して、塩浜地区は工業化によって地区が発展すると塩浜地区民は期待していた。三重県は自由民主党と日本社会党が共に田中覚を支えるオール与党体制となる。1959年の四日市市長選挙で日本社会党と四日市北部(富田地区・富洲原地区を地盤とする)保守層の支持を得た平田佐矩が四日市市長に当選をする。戦前までの四日市市は紡績(繊維産業)の町として有名であった。四日市市は、東洋紡績(市内に東洋紡績富田工場・三重工場・四日市工場・塩浜工場・楠工場)・東亜紡織(市内に泊工場・楠工場)・平田紡績(市内に富洲原工場)の発祥地である工業都市だった。繊維産業を中心とする軽工業に変わる新しい産業を振興する重工業化政策の必要性から、日本で最初の本格的な石油化学コンビナートの誘致が田中覚知事を中心とする三重県と、平田佐矩市長を中心とする四日市市によって行われた。四日市市民から四日市の経済発展が期待されていたが、工場が稼働を開始してからほどなくして街の空は曇り始め、四日市市への悪臭や異臭の苦情が殺到した事から始まり、その後市内のぜんそく患者が急増した。この当時は公害への認識がなかったうえに、他の公害病である四大公害病の比較で(水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病)との違いは、経済の発展を優先していたため行政機関である三重県と四日市市が企業に加担していて公害裁判で行政の責任も問われた事が特徴である。四日市公害は3大都市圏の名古屋圏(中京圏)で発生した都市部の公害であった。熊本県の水俣湾で発生した水俣病、富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病、新潟県の阿賀野川流域で発生した新潟水俣病などの他の公害は日本の大動脈である太平洋沿岸以外の地方の非都市部であり、経済的には未発達の地域であった。4大工業地帯(太平洋ベルト)の工業都市の一部である四日市市で発生した四日市ぜんそくは4大公害病で唯一の工業地域で都市部で発生した公害病である。また四日市公害は沢井余志郎の発言では、公害裁判判決の時点で過去に汚染物質を排出して公害病となった水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病と違い四日市ぜんそくになる四日市市の公害は現在進行形の公害であった。公害裁判後も四日市コンビナートの企業が汚染物質を排出する可能性が高くて、四日市ぜんそくなどの健康被害が公害判決後も、四日市市で引き続き発生する公害であった。四大公害と言われた公害病の内では、四日市ぜんそく(喘息)だけが水質汚染ではなく唯一の大気汚染である。公害被害によって居住する事が困難となり、四日市の地域環境が悪化し、高度経済成長の経済発展の代償として公害が発生した。そのため、対策が施されることなく汚染物質がそのまま排出されていた。水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病との違いは、100%特定企業による特定物質による公害と立証できなかった事である。これに関しては四日市コンビナートは複数の企業が関係し、自分の会社は無罪であり、他企業が原因であると主張できる余地があったためである。四日市公害の教訓によって戦後期に制定されていた法律のばい煙規制法に代わる新しい法律の大気汚染防止法が制定された。四日市公害訴訟は四大公害訴訟の1つに数えられる裁判として津地裁四日市支部に提訴されて、6年間の裁判の結果勝訴となった四日市公害判決の反響から、大気汚染の総量規制の実施・SO2の環境基準の改正の実施・公害健康被害補償法の制定・公害対策基本法の制定などの参考になったが、四日市公害裁判については複数の問題点がある。すなわち大気汚染の発生源に対する共同責任でどの企業が汚染物質を排出して四日市コンビナートの進出していた複数の企業の共同不法行為を認定するか(共同不法行為の認定)の問題があった。加えて大気汚染と喘息症状がある特異的でない非特異的な閉塞性症状の肺疾患である四日市ぜんそくとの因果関係論の問題があった事である。公害患者の喘息症状を証明しても大気汚染が四日市ぜんそくの原因と証明できるかの因果関係の問題も存在した。四日市ぜんそくは三重県北部で政治問題となり、自由民主党や財界を中心とする保守政党(四日市コンビナート企業側)と、革新政党(公害患者を支援する被害者側)の政治対立となり、自由民主党は三重県北部で政治的信用を失い、(日本社会党・民社党・公明党・日本共産党)が公害問題に取り組む革新政党としての支持を広げて、三重県での革新(野党)勢力の拡大を許した。また四日市ぜんそくは自由民主党政権による環境庁設立の要因となる。四日市市の石油化学コンビナートの建設は旧海軍燃料廠跡地に通産省の指導でイギリスのシェル=三菱系の石油関連資本に払い下げられた1955年にはじまり、昭和34年頃から第1コンビナートの本格的な操業が開始された。続いて昭和38年に大協石油・大協和石油化学・中部電力の第2コンビナートが操業を開始した。四日市コンビナートの誘致と建設で有名な言葉となり、四日市市民に定着している用語の『コンビナート』(企業集団)とは元々日本語でも英語でもなく、戦後になって広まった新しい外来語で、当時(昭和時代)の社会主義国であったソビエト連邦で誕生したロシア語であった。四日市市民にこのロシア語が日常用語として使用された。昭和40年代になり、塩浜地区の磯津港で水揚げされる魚は臭い汚染された魚と見られて、風評被害で水産物の購入が敬遠された。塩浜地区民に異常な変な咳の症状の被害が発生した。ぜいぜいと息をする喘息症状の発作が起きるなどの病気が集団発生して塩浜地区民に健康被害が急増した。磯津地区の開業医であった中山医師は、「正確には喘息と確定ではないが喘息の様な特異な疾患」に「塩浜ぜんそく」と命名して、喘息発作止めの注射を打つなどの注射投与による治療方法を考案した。中山医師は注射による措置が有効として公害患者には特別な治療行為をした。 三重県の革新知事であった田中覚は四日市コンビナートの建設によって『輝ける伊勢湾時代』を展望して『大四日市』を構想していた。四日市市の工業生産は急成長をしていたが、人口の伸びが鈍り1964年頃には四日市市転入人口より転出人口の方が多くなり人口の構造が逆転して、四日市市の人口30万人都市計画は挫折した。「これは公害の問題ではない。現実の四日市市民が困っている事態で市長として見捨てられない。四日市市が見舞金として支出しても良いではないか。四日市が踏み切れば、国家と三重県が放っておくまい。必ず四日市市に同調をする」以上が平田市長の考えであった。厚生省の反対を押し切り四日市市単独で患者の医療費の補償制度を開始した。街には悪臭が広がり、伊勢湾では汚染された魚が獲れるようになり、四日市市内で漁業が盛んだった塩浜地区・富田地区・富洲原地区の漁村では漁業が衰退した。1963年に異臭魚の被害が拡大した事で「磯津漁民一揆」がおきる。国の黒川真武博士を中心に以下の数10人の一流の学者で調査団が構成された。2000万円の予算を計上した「黒川調査団」が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区の調査をする。工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。以下の公害運動をする環境団体が結成された。地区労の大部分をし占める「三重県化学産業労働組織協議会」は四日市公害訴訟には中立的立場で不支持を表明をした。1964年に公害健康被害補償法と公害紛争処理法が成立した。1962年にばい煙規制法と改正工業用水道法が成立した。代わって昭和40年代に大気汚染防止法と騒音規制法が制定される。1967年に九鬼喜久男市長が四日市市の更なる工業化のために第3四日市コンビナートを建設する議案の採決を四日市市議会の自民党系議員に働きかけて強行した。霞ヶ浦地区を埋め立てて昭和40年代に第3四日市コンビナートを建設する議案が強行採決された。第3コンビナート建設予定地の周辺の地区(四日市市北部地域の羽津地区・富田地区・富洲原地区で公害が拡大する事が想定された)で「ノーモア塩浜」のスローガンで公害になると反対していた富田地区連合自治会長・富田地区の住民が見守り、公害が発生していた塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区・日永地区などの四日市市南部地域と中部地域に在住する公害患者が喘息で咳こみ苦しんだり、強行採決に怒りながら傍聴していた。前川辰男議員などの革新クラブ(日本社会党系議員・日本共産党系議員)・公明党・新風クラブ(民社党系議員)の必死の抗議と反対を押しのけて富田地区・富洲原地区の自民党系議員と四日市市西部の農村の自民党系議員によって、四日市第3コンビナートを建設する議案が与野党の激しい乱闘の末に四日市市議会の議場で、賛成が(自民党系)の26票で、反対が(野党の日本社会党・日本共産党の革新系と公明党・民社党の中道系)の15票の賛成多数で強行採決された。四日市公害によって地区別では塩浜地区で600人以上の犠牲者が出て、次に被害があった海蔵地区で約200人の死者が出て、中部地区・橋北地区・日永地区でもそれぞれの地区で100人近くの犠牲者が出た云われる。またそれ以上に自殺者が多数いて、乳児死亡者が多数いて、因果関係不明の死亡者が多数いて、四日市市は病死が多い早死の町となっていて、実際の犠牲者は公害病の認定患者のみでは約1000人だが、塩浜地区民(人口15000人)の内で、約40%の住民が身体の異常を訴えていて、6000人近くの軽度の喘息患者がいたことから公害患者以外の因果関係不明の死亡者を含むと四日市公害の犠牲者は1000人を超える2000人以上の四日市市民が死亡した可能性があるとも言われる。一方で四日市市北部の富田地区・富洲原地区と四日市市西部の地区では犠牲者は0人であった。三重県立の塩浜病院で治療が行われて、1965年に「四日市市公害病認定制度」が発足して、「公害対策委員会」も発足したが、四日市コンビナートは規模を大きくする一方だった。1969年3月に 四日市公害裁判中だった78歳の原告男性が死亡した。 1969年12月 石原産業の工場排水で伊勢湾が汚染されて四日市海上保安部が摘発した。1971年7月 に佐藤内閣によって「環境庁」が発足して四日市公害裁判の38歳で原告だった女性がぜんそく発作で死亡した。1972年4月に 「三重県公害防止条例」が改正されて、硫黄酸化物の総量規制がされる。1972年7月24日に「四日市公害病裁判」で患者側が勝訴した。1972年9月2日に小学4年の女児がぜんそく発作で死亡した。1973年10月に 「公害健康被害補償法」が成立した。1974年「三重県公害防止条例」が改正されて、窒素酸化物及びCODの総量規制がされる。1987年9月に 「公害健康被害補償法」が改正されて新規の公害病患者の認定を廃止する。1994年に公害病患者の減少で塩浜病院は閉鎖されて、三重県立総合医療センターとなった。第二次世界大戦中に第二海軍燃料廠が塩浜地区に大日本帝国海軍によって建設されたが、海軍燃料廠は四日市空襲により甚大な被害を受けて壊滅した。戦後、国有地である塩浜地区の旧海軍燃料廠跡地約660万㎡を昭和石油と昭和シェルグループ・三菱両グループに払い下げ、跡地に石油化学コンビナートを建設する計画が1955年の鳩山一郎内閣の閣議によって決定された。1956年に約100万㎡の敷地を持つ昭和石油・コスモ石油などの製油所の建設が開始された。翌年の1957年には製油所から原料の供給をうける四日市コンビナートの工場群の建設が進められた。三菱グループ系企業は三菱油化・三菱化成工業・三菱モンサント化成の工場を建設した。埋立地の石原町には石原一族が経営する石原産業が建設された。石原産業は1969年に塩浜地区付近の四日市港に強酸性溶液を垂れ流していた「石原産業事件」や平成期にはフェロシルトの大量不法投棄問題を引き起こすなど化学物質の汚染事件を頻繁におこしている。昭和四日市石油の工場では、重油を原料にしてガソリンを生産する新しい生成技術が導入された。昭和石油と中部電力は石油・石炭・ガソリンなどを原料として、四日市コンビナート内での発電設備や石油精製で協力していた。中部電力の三重火力発電所が、石炭を燃料に発電をしていた。中部電力の発電所からは四日市市内のすぐ南側の中部地区・すぐ西側の橋北地区・西側の海蔵地区・市内最も南側の塩浜地区に向けて真っ黒な煙が出て黒いスモッグが発生した。昭和四日市石油が操業した後は、石炭から重油に原料を転換した。石原産業と三菱グループ系の企業からの排煙で塩浜地区周辺に白いスモッグが発生した。四日市市南部に北西の風が吹くと塩浜地区の漁村である磯津地区全域に石炭のすすが落下するようになった。昭和四日市石油は製油所施設であり、中東から四日市港に輸送されてきた原油からガソリン・灯油・重油及び石油化学工業製品の基礎原料となるナフサなどを精製していた。三菱油化は昭和石油で精製されたナフサの供給を受けて、第二次製品となるエチレン・ポリプロピレンなどを製造した。第二次製品の供給を受けて三菱モンサント化成・三菱化成工業・石原産業などが第三次製品から最終製品を生産した。液体・気体の石油化学製品の原料を輸送するため四日市コンビナート各社はパイプによって結合して一体化した操業を行った。中部電力の三重火力発電所が昭和四日市石油から重油の供給を受けて発電を行った他、コンビナートの製品製造各社も製品製造のため重油を使用燃料とした。原告が暮らしていた磯津地区は鈴鹿山脈から吹き下ろす風が塩浜に立地する四日市コンビナート各社の汚染物質が上空を通過する際に、亜硫酸ガスと硫酸ミストを運び直撃する位置にある。大気汚染と引き替えに1956年には約500億円だった四日市の工業生産額は10年後の1966年には約5倍になった。1960年には7411人だった石油化学産業の従事者は10年後の1970年代には13699人と倍増した。三菱油化・石原産業・中部電力の3社は株式上場企業であった。三菱油化は石油化学のトップメーカーと呼ばれていた。年間売り上げは320億円以上であった。三菱化成や石原産業の酸化チタンの設備能力は世界有数と呼ばれた。中部電力は電力業界第3位の企業であった。株式未上場の昭和四日市石油は三菱グループとオランダを本拠地とするシェルグループが25対75の比率で出資して昭和32年に設立した会社であり、昭和石油が輸入する原油を精油する子会社であった。重油発電に転換した第2四日市コンビナート内にある中部電力三重火力発電所(四日市火力発電所)が第1コンビナートからの排水で生物ゼロの死の海となった伊勢湾周辺の四日市港(各四日市コンビナート工場の汚排水が流れ込む)伊勢湾の海水を午起地区から取水して、中部電力の発電機の冷却に使用していた。中部電力は伊勢湾の海水を冷却した後、その冷却した温排水を港と反対側の塩浜地区と楠町の中間の鈴鹿川へ放流していた。水質汚染で塩浜地区の磯津漁港付近の伊勢湾は死の海と変化して磯津漁師の生活権を奪った。 塩浜地区の磯津港近辺の魚がくさく異臭をするようになり風評被害で売れないことから、漁村である磯津の漁師は、鈴鹿川の水を冷却に使い港へ放流する方法の要求と、使用した海水を四日市港へ放流するなどの処置を中部電力に要求したが聞き入れられなかった。1963年6月21日に昭和史(特に戦後史)では珍しい貴重な一揆であり、通称名で磯津漁民一揆と呼ばれた漁民一揆が発生をした。三重県・四日市市・会社側(中部電力)と磯津漁民との間で度重なる交渉があったが、返答に業を煮やした磯津漁民は「中部電力の排水口を閉じてしまえ」と10隻の漁船に100人が乗り込み、陸から150人がスコップを手に排水口に押しかけた。400人程度の磯津漁港の漁民が、廃船と土のうを使用する方法で法的に暴動と誤解される磯津漁民一揆と呼ばれた刑事事件を犯した。しかし磯津漁民の実力行使に対して中部電力と三重県の要請で三重県警の警官隊が大量出動をした。工場側は警察権力で水門を警備する事とした。磯津の漁民は三重県警の警官隊の制止を無視した。警察の言う事を聞かず、力ずくで磯津漁港の漁民が実力行動に移った。三重県警察は機動隊80人と私服警官30人と警備艇2隻を動員した。磯津漁民による磯津漁民一揆の罪状は「水利妨害の刑法123条違反」であった。塩浜地区連合自治会長であった男性がこの事態が一大事として「留め男」となって塩浜地区の磯津漁民と中部電力の仲介を三重県に頼んだ。同じ塩浜地区出身の田中覚知事に解決をせまることにした。「広報よっかいち」に四日市市公害対策委員会が進めていた調査結果が公表された。公害対策委員会は汚染地域に亜硫酸ガス測定器を設置して、系統的な化学分析を行っていた。1964年に塩浜地区に在住する62歳の男性が、石原産業を退職後に気管支喘息を発病して、塩浜病院に入院していた。1964年3月31日から三日間の期間内に、猛烈なスモッグが塩浜の町を襲っている最中に1964年4月2日に肺気腫で死亡した。男性は主治医に「死後、自身の身体を解剖して、病気の原因を調査してほしい」との遺言を残して息を引き取った。「産業医学研究所」のスタッフと吉田克己教授が解剖した結果、山口県宇部市で開催された(大気汚染協議会)で「四日市公害」による最初の死亡例として報告された。平田市長は四日市コンビナートの誘致による重工業化政策によって四日市市(四日市地域)が驚異の経済発展をした事に自信があり、日本横断運河の建設などの大型公共事業を推進していたが、男性の葬儀に四日市市長として参列をした際に、塩浜地区民から責任を追及された事で、塩浜地区民への罪悪感を持つようになった。塩浜小学校6年生の男子は塩浜病院小児科病練に入院していた。近くの塩浜小学校と病院との生活が日課であった。1967年10月26日には、七ツ屋町〔三菱油化に隣接〕に住んでいる公害病認定患者の塩浜中学校3年生の女子生徒が、紙片に「家に帰りたい」と最後の言葉を残して四日市公害の影響で病死した。東京都への修学旅行に行く事で「塩浜よりきれいな空気が吸える」と楽しみにしていた修学旅行の直前の10月26日午前1時に喘息による心臓発作で呼吸困難となって15才の若さで病死した。その事で、1967年10月31日の吉田茂元総理大臣の国葬の同日に1500人の四日市市民によって大規模な追悼集会が開かれて「彼女が死んだなんて言うな殺されたのだ」のプラカードが掲げられた。さらに公害死者の最年少記録を更新した事と、塩浜地区以外の地区の死亡児童となった四日市市立海蔵小学校1年生(7歳)の男子が1970年11月5日に入院と通院を繰り返しながら酸素テントに入りきりの状態で呼吸が困難となって死亡した。気管支ぜんそくによる「急性呼吸不全」だった。御霊前海蔵小学校の供え物と釈精信の戒名が付けられた写真がある。男子児童の追悼と抗議の市民集会が男子児童の母親も参加して四日市市中心部の中部地区諏訪公園で開かれた。雨が降りしきる中を、四日市市内の「四日市母の会」は乳のみ子を背負いながら幼子の手を引いて、たすきがけで30人のお母さんたちが参加した。三重県・四日市市の行政機関と四日市コンビナートの企業が「ぜんそくで死ぬのは高齢者で子供が死ぬことはない大丈夫と言っていたのに、死んだじゃないか」と公害病患者の子供たちへの保護者の不安が高まり、四日市市内の母親たちは、空気のきれいな四日市市西部にぜんそく児童の養護学校の建設を三重県に要求することにした。海蔵小学校2名、中部西小学校1名、塩浜中学校1名の「教え子たちの追悼集会」を1972年9月11日の四日市公害の判決後に「三重県教職員組合三四支部」が催した。さらに四日市公害裁判勝訴1972年7月の2カ月後に、岡田克也議員の後輩にあたる四日市市立中部西小学校の4年生(9歳)の女子が1972年9月2日に「2学期になったら女の子同士一緒の班グループになってもう一度国語係になりたい」と記した日記を前月の8月に書き、転地療法の効果もなくて(5歳のときに喘息症状が出始めて、気管支喘息の病名で認定患者となり、中部地区周辺の病院で通院治療を受けていたが症状がなかなか良くならず、健康を心配した両親によって、鈴鹿山脈側の三重郡菰野町に新居を購入して、公害で空気が汚染された中部地区の四日市市西新地の繁華街の自宅から空気が綺麗な環境に移住して治療する方法の転地療法をしていて、中部西小学校へはバス通学をしていた)、9月2日の放課後に容態が急変して救急車で緊急輸送をされて「お父さん注射、注射、注射を」との言葉を残して、ぜんそくによる発作が連続しておきた結果、心臓麻痺によって病死した。担任の先生は「欠席が多い子でした。2学期の始業式に体重が20キロまで増加して健康になってきたと喜んでいたのに」と声を詰まらせて、中部西小学校のクラスメイトが参列して、涙を流す悲しみの葬儀が行われた。「担任の先生に良く従い、良く勉強する努力家で、家でもノートや日記を毎日書き、絵を描いたりしていた。早い時期に空気の綺麗な地域に引っ越せば良かった」 女子の母親は、9歳で亡くなった長女の写真を平成24年の四日市公害裁判勝訴から40年たった40周年式典後に新聞記者の取材の前に見つめていた。昭和40年代に、近鉄四日市駅付近に住んでおり、女児は幼稚園時代からせき込み初めは風邪と思ったが、四日市市中部地区の四日市市立病院で四日市ぜんそくと診断された。「名古屋市で喘息専門医の診察を受け、空気の綺麗な地域への移住を勧められて菰野町に引っ越してからは喘息の発作が減少して、喜んでいたのに」と母親が振り返り、最後の言葉は 「お母さん、お医者さんに連れてって下さい」だった。1974年10月18日夜に第2コンビナート付近の〔海蔵地区の三ツ谷町〕に住んでいた公害患者の海蔵小学校4年生(10歳)が激しい発作で死亡した。小中学生の死者は、これで6人目だった。死亡した男子児童は1973年6月に中日新聞の発言欄に公害防止を求める投書をしていた。保育園も休む事が多く、海蔵小学校の運動会も遠足も発作を心配してほとんど欠席していた。1966年7月10日に第2四日市コンビナート内の大協石油付近の納屋地区に住む76歳になる男性が「病気の完治する見込みがなくて喘息がいっこうに良くならない。どうしてこんなに苦しまなければならないのだ」と喘息の発作に何度も嘆いていた。入院していたが「死ぬなら自分の家で」と自分から退院して「死ねば薬もいらずに楽になれる」「死んだら仏様になって見守りたい」と遺書を残して自殺した。納屋地区の男性の公害苦による自殺は3日後の国会審議でも取り上げられた。1966年7月14日「四日市公害対策協議会」によって自殺した男性の追悼集会が開催されて、追悼集会で「自殺した男性の死を無駄にするな」と書かれたプラカードを持って行進したり、1967年2月に、 第3コンビナートを誘致して建設工事と埋立て工事を許可する議案が強行採決された 四日市市議会に傍聴して公害反対を訴えていた男性が、1965年に発足した「四日市公害患者を守る会」の副会長を務めていた。公害と戦う四日市市民の中心となっていた60才になる四日市公害患者を守る会の副会長であった四日市ぜんそく(公害病)の認定患者の男性は甘納豆を作っている岡女堂の主人であった。亜硫酸ガスへの逃避行を繰り返して、鈴鹿山脈側の菰野町と四日市市中部地区を行き来して、疲れ果てていた。1967年6月13日に「ああ、今日も、空気が悪い」の一言を残して自殺を図り、加害者の企業への怒りや公害対策や取締りをしない四日市市へは「平田佐矩市長が四日市が経済発展をするために四日市コンビナートが必要と嘘をついた」と不満を記した日記と「九鬼(四日市市長)喘息やってみろ」と市長を恨む遺書を残して喘息を苦にして自殺するなど、ついに公害での死者も出た。明らかになったのは、この2件であるが、その他の自殺者については表にはならず不明である。公害患者を守る会副会長だった自殺した菓子製造業を営み男性は首つり自殺する10日前の日記に「午後5時よりスモッグがひどい。亜硫酸ガスのために咳がやまず。弁当をつくって早々に我が家を飛び出し、空気の綺麗な所へ逃げる。ああ残念。家にいたくてもさびしい所に行かねばならない。くやしい。九鬼市長ゼンソクやってみろ。わかるだろう。公害の影響で死にたくない」と記されていた。この他に、公害裁判後の1985年1月5日には、三重郡楠町で四日市公害認定患者の女性(52歳)が病気を苦に、自宅の庭で灯油をかぶって焼身自殺をしている。公害被害者と僧侶によって公害企業を呪い殺す「公害企業主呪殺祈祷僧団」が組織されて祈祷が行われた。 伊勢新聞の1972年9月3日の地域記事では、四日市市の患者が死亡するのは、例年決まって夏の終わりから晩秋にかけての時期に多い。医療関係者と公害問題の関係者は「夏バテで身体が弱体化している状態で、秋口の涼風に刺激されて発作が起きやすくなっているのでは」とコメントをして、公害の原点であると言われる最汚染地区の磯津地区でも、北西の風が吹く、秋口から初冬にかけての季節が汚染のピークであった。硫黄酸化物や窒素酸化物などの汚染された大気を吸って窒息障害になり多くの四日市市民が死亡した。昭和時代高度経済成長期の四日市市は、塩浜地区を中心とする四日市市市南部地域と中部地区を中心とする四日市市中部地域と富洲原地区を中心とする四日市市北部中心の人口構造から、四日市市西部地域の郊外の人口が急増していて、公害が発生した戦後の高度経済成長期は四日市市民が約20万人いたが、その内、塩浜地区を中心に市民の100分の3の割合(3%)に当たる約5000人が公害患者と全員が認定されなかったが、軽度から重度の喘息症状に発症していた。その内2216人が四日市ぜんそくの公害患者と認定された。公害認定患者は9歳以下の子供たちが4割(40%)近くであり、患者は男性の方が多くて、男性では4割4分(44%)以上が9歳以下の子供で、19歳未満では過半数を超えた。女性患者も子供たちが最多で、30歳から40歳までの中年女性が、全体の2割5分(25%)の4分の1を占めた。入院を必要とする重病患者の約3分の1に当たる、3割3分(33%)が塩浜地区内の磯津漁港がある磯津町民で、認定患者の4割(40%)が塩浜地区民であった。公害死亡者数については、子供や若い年代の患者の場合は公害で死亡した可能性が高く、公害死亡者として断定できるが、四日市ぜんそくは高齢者の患者が多数であったため、死亡原因が老化によって喘息以外の病気で死亡した可能性があるため因果関係が難しい事情がある。約600人が公害によって死亡したとする説もあるが、因果関係が難しい乳児死亡や高齢者の死亡者がいるので公害死者の実数はもっとたくさんいる。自殺者と公害裁判後の病死者を含める統計では、2008年までに946人が死亡して、因果関係が難しい患者を含めると、四日市市内で四日市空襲の死者808人を超える犠牲者が出て、四日市公害によって約1000人近くが死亡して1000人以上が公害犠牲者である。四日市市に合併前の三重郡楠町では67名の犠牲者が出た。三重郡楠町は日本史や保健体育の教科書の戦後の4大公害の項目に四日市ぜんそくと云う名称で四日市市のみに公害が発生して楠町の被害の記述がない事から楠町の公害被害の記述も加筆してほしいと要望していた。2011年の時点で、四日市公害の認定患者が441名いる。大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決があった1972年7月24日から5年後の1977年に四日市市営の墓地である大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者の慰霊碑が建立された。1977年10月23日に四日市ぜんそくの病死者と自殺の公害被害者の慰霊祭が実施された。1977年の慰霊碑の建立当時に調査した統計では、すでに病死や自殺で死亡した公害認定患者は184名だった。慰霊祭は現在まで毎年続けられ、公害死亡者が年々増加して2008年9月21日の第26回慰霊祭では、946人が四日市喘息の慰霊碑に公害病の死者とされている。患者は10代の子供と、50代から60代の中高年が多かった。明治生まれの高齢者に死亡者が多くて、大部分は平成時代までに四日市ぜんそくの影響で死亡していて、塩浜地区を中心に四日市市の平均寿命が全国平均より短かった。平成期に生存している世代では、当時小学生くらいの子供であった新人類世代に公害患者だったものが多くて、2010年代に50代の中年となっている。大気汚染による代表的な公害病の一つである。喘息の以外の症状として感冒の症状・扁桃炎(へんとうえん)の増加・結膜炎の増加・むかつきの症状・嘔吐の症状・頭痛の症状・気管支炎の症状・肺がんの発症が増加するなど、これらの症状で塩浜地区の平均寿命が、全国平均や四日市市の汚染されていない他の地区と比較して低下する健康問題がおきた。四日市公害で喘息症状になったのは、未成年が多くて、子供の健康被害が大きかったが、児童や生徒の公式な四日市喘息の死者は10人前後と少ない。しかし、原因不明の死亡が多かった四日市公害は四日市市の健康調査の統計でも明らかだが市内の平均寿命や乳児死亡は悪化しており、公害が健康や原因不明の死亡に強い影響を及ぼした。昭和30年代から昭和50年代まで市の平均寿命と乳児死亡率は、四日市ぜんそくによる塩浜地区を中心とする四日市市南部地域と中部地域の老人の病死が増加した事や公害苦による自殺の増加によって高齢者の死亡率が高かった事から全国平均より明らかに平均寿命が短くて、乳児死亡率は全国平均より明らかに高くなっていた。同じ四日市市内で公害による健康被害があった塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区の子供と、公害汚染がない空気が綺麗な水沢地区・小山田地区・富洲原地区・保々地区の子供の健康状態を比較する健康調査が実施された。これらの死亡記事が四日市市民の怒りになり訴訟のきっかけとなる。塩浜地区では公害による生活環境悪化から逃れるためある一部の町である雨池町と平和町の住民が四日市西部の鈴鹿山脈側に集団移転で引っ越してゴーストタウンの様に消滅した町もあった。公害が拡がったのは、塩浜地区は第1コンビナートが立地する工業地帯と(塩浜地区・三浜地区)の住宅地で構成された住宅地と工業地の混合地域であり、近隣に混在していたのが公害を悪化させた原因である。煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する四日市コンビナートの大工場は稼動開始当初は四日市の街の誇りであった。この工業化の誇りはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われていたことからわかる。この校歌は塩浜小学校の保護者の抗議を受けて変更された。四日市市史によると、1965年3月に公害汚染地区である4つの小学校(塩浜地区の塩浜小学校・三浜小学校・中部地区の納屋小学校・橋北地区の東橋北小学校の各小学校)の教職員と児童全員に「公害予防マスク」が配られた。そして1965年4月には厚生省によって汚染被害地区の塩浜小学校・三浜小学校と非汚染地区の四日市市西部の四日市市立桜小学校・四日市市立神前小学校・四日市市北部の富洲原小学校の2年生と6年生の児童の公害検診が実施された。1965年10月には中村梅吉文部大臣が三浜小学校を視察した折にPTAからの陳情がされた。四日市市内の教職員が公害問題に積極的に取り組んだ。1965年1月の三泗教職員組合により公害対策専門職員の配置と定期無料検診などの実施が要望されて、1965年2月には四日市学校保健研究会で、「四日市ぜんそく」の実態の調査報告がされた。1965年11月には日本教職員組合が公害調査のために公害汚染地区の学校や工場を調査している。1967年12月には三重県教職員組合が「第1回公害と教育研究集会」を四日市市内で開催している。そして1971年8月には三重県教職員組合が三泗支部編「四日市の公害と教育〜教育実践と地域実践〜第1集」が発刊されて、続いて1972年8月には小中学生の作文集「みんなが被害者、四日市公害を訴える子供たち第1集」が発刊された。1966年に三浜小学校の児童会会長であった6年生(12歳)の男子が佐藤栄作総理大臣に手紙を書き、「公害に悩む私たちの学校にもようやく空気清浄機が入りました。しかし夏には暑くて勉強ができません。どうかクーラーを入れて下さい。夏に公害対策として窓の閉鎖が行われて暑さから授業ができずクーラーを設置してほしい」と救援 (sos) の手紙を書いた。手紙を読んだ佐藤栄作首相は、四日市の子供がこんな悲惨な目にあっているのかと涙を流した。九鬼市長を呼びつけて問いただしたが、「子供の話は大した事はなく、四日市には公害がない」と発言して無責任市長の悪評が広がった。公害汚染がひどかった塩浜地区内の塩浜小学校・三浜小学校と、中部地区内の納屋小学校、橋北地区内の東橋北小学校の4つの四日市市立の公立小学校は、公害による被害で地域住民が引っ越した事で児童数が急激に減少して、同じ塩浜地区内の塩浜小学校と三浜小学校は統合計画が成立して、同じ中部地区内の四日市市立納屋小学校は中部東小学校と統合されて四日市市立中央小学校となり、同じ橋北地区内の東橋北小学校は西橋北小学校と統合計画が進んでいる。参考文献の『おはなし歴史風土記第24巻 三重県』の『校歌がさびる卒業式』の内容では以下のような公害物語のエピソードが記載されている。『港のほとりに並び立つ科学の誇る工場は平和を守る日本の希望の希望の光です。塩浜小・塩浜小、僕たちは明日の日本を築きます』昭和41年度の四日市市立塩浜小学校の卒業式で塩浜小学校の校歌が流れた。児童たちにはさまざまな子供がいたと紹介されている。卒業式のスピーチで「皆さんは近代科学の町の中心の塩浜で学びました。公害に負けない体力作りをはげみました。これからも、元気で明るく、明日の日本を築く人になれるように努力して、中学校へ進学しても頑張ってください」塩浜小学校の校長が励ましの言葉を述べた。「汚れた空気を吸わない事」できない不可能なことを何度も塩浜の児童たちは先生たちから言われていた。この『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県の記述では「四日市は、工業を盛んにするために青い海を売った。青い空を売った。綺麗な空気と汚れた空気を取り換えた。今では子供や老人の命まで売っている」四日市ぜんそく物語で以下の内容が記述されている。四日市市教育委員会が作成した文集に「みんな被害者」と云う出版物もある。1966年ころから、公害対策として塩浜地区の四日市コンビナートには、大気汚染の排煙を遠方へ拡散させるために100mを超す高い煙突が立ち並んだ。1971年には赤色と白色のだんだら模様の高煙突が20本も立ち並び、中には150m級の高煙突があった。煙突を高くする対策で第1四日市コンビナート付近の塩浜地区の硫黄酸化物の濃度が低くなったが、煙が遠方まで汚染物質が流されて、塩浜地区以外の三重郡楠町と日永地区・浜田地区まで大気汚染が拡大した四日市市は公害患者は子供と高齢者に多いが、「喘息で死ぬのは高齢者で子供はほとんど死なない」と云う見解であった。子供が死亡した時の四日市市民の怒りが高く、子供の追悼集会が開かれて、中高年の死亡した時より子供が死亡した時のニュースが大きく報道された。中高年の死亡は原告や公害運動をしていた患者が死亡した場合は大きく報道されたが、高齢者の死亡は大きく報道されなかった。九鬼喜久男市長を中心とする四日市市は本当に四日市コンビナートが喘息の原因で公害によって四日市ぜんそくになったのか、違う原因ではないかと責任を認めていなかった。四日市コンビナートの被告企業も社会的責任を取りたくないので、自己の会社の無罪を主張していた。参考文献の『おはなし歴史風土記』では以下の内容のストーリが記述されている。1958年に、三重県四日市市に四日市コンビナートが建設されて、日本で最初の石油化学コンビナートとして石油を原料として、化学製品を製造する工場が稼働して、その時は多くの市民は「これで四日市が繁栄する」と喜んだ。「四日市コンビナートからの法人税で、学校建設や道路建設や商店街の再開発ができる。四日市市の流入する人口が急増して仕事が増加して経済が成長する。四日市は、生き生きした金持ちの自治体となる。四日市市民は四日市の繁栄と経済成長をする」と思考した。田畑を四日市コンビナートの石油化学企業の用地に売り渡した四日市市川尻町では、これが四日市のための貢献として役に立つ事を喜んで、川尻町中心部に大きなみかげ石の「日本合成ゴム誘致記念碑」を建立した。川尻町民は、日本合成ゴム四日市工場を「自分たちの工場」と呼び、川尻町の誇りとした。新工業の栄える石油化学重工業の町となった四日市を日本中の全国から見学に来て、人々は「四日市こそ新しい化学工業都市の代表だ」とうらやんだ。ところが昭和40年代になり、四日市コンビナートの工場が書き出す二酸化窒素・二酸化イオウ・煙・玉ねぎの腐ったようなひどい匂いが、四日市市民に襲いかかった。川尻町には毎晩のように自治会会合が開催された。夏には蛙が鳴き、蛍の飛んでいた川尻町が、わずかの期間に人間が居住することが困難な公害の町に変えられたからである。川尻町の住民と四日市の市民団体は川尻町の全世帯を対象に、川尻町の全住民が公害がない他の地域への集団移転をする避難対策を四日市市議会に請願するほどであった。「誘致記念碑は川尻町の恥や、取り壊せ」一人の農民の意見と、「記念碑を残すべき」とする意見と「壊すべき」との意見が対立して、記念碑の破壊が会合の結果によって決定していたところに、一人の老人が、みんなの住民を諭して、「記念碑は川尻町の魂じゃ。魂を壊してはいかん。川尻町のような悲劇が二度とないように、二度と公害がおきないように、わしらには世間の人に話す責任がある。川尻町の百姓の魂として記念碑を残さなければ、自分たちの先祖に申し訳ない」と呼びかけた。塩浜地区の漁民は伊勢湾で捕れる魚が四日市コンビナートからの排水で油まみれとなり、伊勢湾の魚が汚染されるようになった。塩浜地区の磯津港で捕獲される魚は風評被害もあり漁業ができなくなった。大気汚染より海の汚染が先であり、重油により臭い魚が多数ある。苦情で値引きがされる。東京都が通達するの記事が報道された。そこで塩浜地区の漁民は昭和38年6月21日に「平田佐矩あの四日市市長が全部悪い漁業責任を取ってもらおう」と塩浜から富洲原まで大量の魚を持ちながら歩いた。富田地区・富洲原地区の四日市市北部は四日市公害が発生せず四日市コンビナートを誘致したのが北部出身の平田市長だった事から北部(加害者)南部(被害者)の構造があり平田佐矩に反省させるため「油まみれになった魚を富田地区と富洲原地区の人が買って食べてくれるのか」と市長に迫り、平田佐矩市長に責任を追及するため富田一色本町の自宅に追し寄せた。しかし、平田佐矩市長は「私が全部買います」と言って、魚を全部私費で買いとったことで、塩浜の漁師は無責任な悪徳政治家ではないと感心して、この対応で平田佐矩市長が責任感が強い人格者だったと理解し、塩浜地区の人は市長を恨むのをやめた。平田市長によって買い上げられた汚染された魚は富洲原港沖の伊勢湾で適切に処分されたエピソードがあるまた、平田市長は在任中に市内の喘息患者の医療費を、自身の財産と公費で無料化するなどして責任をとった。平田紡績は公害による汚染で伊勢湾周辺の漁村の富洲原漁港(四日市市富洲原地区の富田一色漁港と天ヶ須賀漁港)、富田漁港(四日市市富田地区の東富田町など富田浜周辺)、磯津漁港(四日市市塩浜地区の磯津地区の漁港)、川越漁港(三重郡川越町の北部の漁港)、楠漁港(三重郡楠町の漁港)、赤須賀漁港(桑名市赤須賀地区周辺の漁港)で行われていた漁業が衰退して、漁網の需要が減少した。水質汚染で漁業が衰退した事で平田紡績の経営が悪化して、四日市公害が平田紡績消滅の要因となった。1965年に平田佐矩が急死して、死後に四日市市長となったのが、九鬼産業グループの経営者で四日市九鬼家出身の九鬼喜久男である。九鬼喜久男は「石油化学に公害は無い」や「四日市の喘息は一般的な病気である」という考えの持ち主であり、1966年(昭和41年)の四日市市長選挙で吉田千九郎元市長に接戦の末に勝利をした。四日市の名門九鬼家は九鬼水軍の子孫である。江戸時代に四日市市に移住をした四日市九鬼家が九鬼産業グループを経営していた。四日市九鬼家が、飯南郡飯高町出身で東京帝国大学を卒業した優秀な社員の男性を九鬼紋十郎の婿養子としたのが九鬼喜久男である。九鬼喜久男は九鬼産業の婿養子として九鬼肥料工業の社長になっていた。九鬼喜久男は四日市のケネディと呼ばれた大正時代生まれの若い市長である。九鬼紋十郎衆議院議員の養子となった九鬼喜久男は、公害患者との懇談会で「塩浜はいつまで漁業をするのか」と発言した。四日市市議会で「経済発展のための工業化政策に四日市コンビナートが必要であり、少々の公害被害が発生するのはやむを得ない」と発言した。霞ヶ浦地区の第3コンビナートの建設をするための富田地区連合自治会との話し合いで「味噌屋には味噌のにおいがするコンビナートにはコンビナートのにおいがして当たり前」と発言して、特に四日市市内の地区では公害患者が多い塩浜地区民と対立した。また、四日市の更なる工業化を目指して、第2コンビナート(午起地区)や第3コンビナート(霞ヶ浦地区)を建設して四日市コンビナートに進出した石油化学系企業を税制面で優遇した。大気汚染を出していた石油化学企業や財界の味方となり、公害対策も真面目にしなかったため九鬼喜久男の、「公害市長」としての悪評が広がった。1972年に田中覚が三重県知事を辞職して衆議院議員に転身した。田中覚が、三重県知事として1972年にあった公害裁判の判決の頃に決断した総量規制などの公害対策を中止させて、四日市コンビナートの企業や三重県の財界を優遇するために三重県知事選挙に出馬する事とした。九鬼喜久男は「四日市に公害は無いと」して公害患者の存在を認めていなかった。九鬼は三重県教職員組合による公害に対する環境教育は偏向的な左翼思想教育だと認識していて三重県教育委員時代から三重県教職員組合と全面対決をしていた。三重県教職員組合は「反九鬼・反公害キャンペーン」を行い、全国一の組織率を誇る三重県教職員組合は組織の存亡をかけて田川亮三候補を全面支援した。九鬼は三重県南勢地域に建設予定の芦浜原子力発電所建設の推進、塩浜地区磯津公害患者への補償中止を公約にしていた。自由民主党や財界の支持を得て、当初は九鬼が有利と見られていた1972年の三重県知事選挙は、四日市ぜんそく問題(四日市公害対策などの環境問題)が争点となり民社党・日本社会党など野党の支持を得た田川亮三が当選して、九鬼が落選をする。田中覚は故郷である塩浜地区の大気汚染の実態を、自身の身体で受ける健康被害で実験するために津市の三重県知事公舎ではなくて、四日市市塩浜地区付近の三重郡楠町に住み楠町の楠駅から三重県庁まで近鉄名古屋線で通勤していた。塩浜地区出身の田中覚三重県知事は公害対策を真面目にした事で四日市市民の支持を得て衆議院議員に当選をする。伊勢新聞の記事では1972年の第33回衆議院議員総選挙に出馬した田中覚候補を応援するために四日市市の中心市街地に来た田中角栄内閣総理大臣が達者な田中節で演説していたが、それを聞いていた地元四日市の高齢女性が田中角栄に対して「四日市の公害をどうにかして」と叫んだ。田中角栄総理大臣は四日市市内で記者会見をして「日本改造計画は四日市ぜんそくの発生とは無関係である。四日市公害は日本列島改造計画など公共事業政策が原因ではない。四日市コンビナート建設の計画ができる方が日本列島改造計画ができる時期より以前の話である」と述べた。「三重田中覚」の意味で塩浜地区に新しく埋め立てられた四日市コンビナートの土地が「三田町」と命名されて、塩浜地区には田中覚の支持者が多かった。また田中覚は晩年に自身の人生を振り返り、四日市喘息の慰霊碑で慰霊をした。田中覚は自身の故郷である塩浜地区民の公害被害に心を痛めていた。実際には四日市喘息ではない心臓ぜんそくであったが、四日市喘息に発病したと主張して喘息症状で死去した。田中覚の伝記として平野孝 が執筆した『菜の花の海辺から 評伝田中覚』があり、紹介のタイトル文では「公害の責任を問われた総理大臣はいないが、公害の責任を問われた田中覚のような首長(昭和30年から昭和47年の公害発生時の三重県知事。四日市市長は吉田勝太郎→平田佐矩→九鬼喜久男と交代している)はいるか」と読者に問いかけている。従兄弟の加藤寛嗣(昭和51年から平成8年の四日市市長)と菜の花畑だった塩浜のコンビナートが建設された土地で菜の花がたくさん咲く自然で子供時代に一緒に良く遊んだ思い出と「田中は地獄に落ちる」と故郷である塩浜地区民から非難される文章がある。当初は塩浜地区に公害が発生したため「塩浜喘息」と呼ばれたが周辺地区にも拡がったため四日市喘息に改められた。公害による喘息患者のため県立塩浜病院で治療が行われたが公害患者の減少のため、1994年に閉鎖された。公害の発生だけで即裁判となるのではなくて、戦後の高度経済成長期は日本全国でコンビナートによる大気汚染があり、公害問題は存在していた。四日市市以外の地域では川崎公害があり、昭和30年代から、国家政策に基づいて京浜工業地帯の一部である川崎市臨海部に石油化学コンビナートが建設されて、東京電力により火力発電所が設置されて、日本鋼管製鉄所も稼働していた。川崎市臨海部のコンビナート工場群からの大気汚染物質の排出に加えて、昭和40年代以降のモータリゼーションによる自動車交通量の急増が加わり、川崎区・幸区を中心として激甚な大気汚染が出現した。川崎市の公害が川崎ぜんそくと呼ばれる公害問題であった。その他の大気汚染による昭和時代戦後期の公害として、岡山県の水島臨海工業地帯にも水島コンビナートの汚染物質によって大気汚染が拡大した公害があった。他には阪神工業地帯の阪神地域で発生した西淀川公害訴訟などの大阪公害や首都圏にも大気汚染が発生する環境問題があった。なぜ四日市ぜんそくだけが他の地域と比べて特に問題となったのかと云う疑問があるが、中京工業地帯の一部である四日市市特有の政治的な地域事情がある。四日市コンビナートを誘致した平田市長は、公害患者への医療費無料化などの政策で公害対策を真面目に行なっていた。四日市市と塩浜地区を中心とする公害患者の関係は良好であった。平田佐矩市長の死後に四日市市長となった九鬼喜久男市長が「今は石油化学産業の時代で、工業化と化学のおかげで今の日本がある。私は四日市市長として四日市の工業化をもっと進行させる」として四日市市議会で表明した。公害対策を真面目に取り組まず「工業化のために四日市市民に少々犠牲が出ても良い」と発言して公害患者や塩浜地区民と対立した。九鬼喜久男四日市市長の公害対策の不備による政治問題化が四日市公害裁判の要因であり、訴訟の大きな引き金となった。四日市市に実際に行ったことがない社会科の教師による日本史の戦後史における四大公害の授業や、保健科の教師によって、四日市
出典:wikipedia
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