大内氏(おおうちし)は、日本の氏族の一つ。本姓は多々良氏。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期には山陽・山陰と北九州の6か国を実効支配した。家紋は「大内菱」。日本の武家はいわゆる「源平藤橘」やその他の中央の貴族の末裔を称することが多いが、大内氏は百済の聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子の後裔と称している。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。しかし琳聖太子の記録は古代にはなく、大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされる。また、『新撰姓氏録』に任那系の渡来人として「多々良公(氏)」)が掲載されており、この一族との関連性も考えられる。代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、実態は不明である。平安時代後期の仁平2年(1152年)に発給された在庁下文に、多々良氏3名が署名している。これが多々良氏の初見であり、この頃すでに在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定される。平安時代末期の当主多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、「周防介」に任じられた。その後盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲した。次の大内弘盛から「周防権介」(寿永年間(1182年~83年)頃から)を称するようになった。鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。建武の親政において大内氏は周防守護職に任じられ、親政後は北朝側につき足利尊氏を支援。尊氏の九州下向の際に引き続き周防守護職に任ぜられる。南北朝時代に入ると家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の鷲頭長弘が抗争した。このため大内弘幸は一時的に南朝に帰順。正平5年/観応元年(1350年)、弘幸は子の大内弘世とともに長弘討伐に乗り出し、鷲頭氏の後を継いだ鷲頭弘直を従属させ、南朝から周防守護職に任じられた。また長門国守護の厚東氏と戦い、正平13年/延文3年(1358年)にその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐ったことで、大内氏の勢力は周防と長門の2カ国に拡大した。防長二国が南朝方の大内氏によって統一されたことは、北朝方にとっても影響が大きかったので、足利尊氏は弘世を防長二国の守護職に任ずることを条件に、北朝側に引き入れることに成功。弘世は上洛して、将軍足利義詮に謁した。弘世は本拠地を山口(山口県)に移し、正平18年/貞治2年(1363年)に北朝の室町幕府に再び帰服した。弘世の跡を継いだ嫡男の大内義弘は九州探題今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、元中8年/明徳2年(1391年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍した。結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名となり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行うなどして大内氏の最盛期を築き上げた。しかし義弘の勢力を危険視した室町幕府3代将軍足利義満と対立し、鎌倉公方の足利満兼と共謀して応永6年(1399年)に堺で挙兵するも敗死した(応永の乱)。義弘の死後、領国の大半は義満に取り上げられ、周防・長門2ヶ国の守護職は義弘の弟である大内弘茂に安堵され、大内家の勢力は一時的に衰退した。しかし、乱の際に領国の留守をしていた義弘のもう1人の弟・大内盛見がこの決定に反抗、再び家督を巡って抗争が起こり、弘茂は盛見に殺され、幕府の命令を受けた周辺の国人衆も盛見の前に降伏したため、幕府は盛見の家督を追認せざるを得なかった。当主になった盛見は義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出した。了俊の後任となった九州探題渋川氏に代わって北九州を担当、幕府の信任を得て豊前守護にも任命されたが、少弐満貞・大友持直との戦いに敗れ、永享3年(1431年)に敗死した。しかし、後を継いだ甥の大内持世(義弘の遺児)は盛見に匹敵する人物であり、6代将軍足利義教の信任を受け筑前守護に任じられ、少弐氏・大友氏を征伐するなど、大内氏の北九州における優位を確立した。また、この頃山口氏の系統が興った。大内持世は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に巻き込まれ非業の死を遂げるが、従弟で養子の大内教弘(盛見の子)が勢力を引き継いだ。その一方で、大内氏の歴代当主の家督継承時には様々な理由で嫡子継承や円滑な家督継承が行われず、室町期の兄弟間の家督争いだけでも5件が知られている(義弘―満弘、盛見―弘茂、持世―持盛、教弘―教幸、義興―高弘)。このため、教弘の子政弘は父祖の年忌法要や系譜の整備を行うとともに、これまで漠然とした形でしか主張されていなかった「百済の子孫」いう主張を一歩進めて「琳聖太子の子孫」であるという先祖説話を強調するようになる。その背景には朝鮮との外交関係上の便宜という意味もあったが、一族・家臣に対する当主の権威づけを図ったものであった(実際に朝鮮に対する大内氏関係の「偽使」とされるものには教弘・政弘父子と家督を争った大内教幸(道頓)が朝鮮へ派遣したとみられるものも含まれており、応仁の乱の一時期に教幸が室町幕府から大内氏家督を認められていた経緯からすると、「正使」と解することもできるものも含まれていた)。また、これと同時に朝廷においても歴代当主への贈位の働きかけなどを行っている。室町期の大内氏に関して特筆すべき点として、対外関係に深く関わっていた点である。特に朝鮮との関係においては、「倭寇禁圧」という現実的な問題を抱えていた高麗や李朝は、あくまでも「日本国王」との通交しか認めて来なかった明とは異なって、北九州や瀬戸内海沿岸などの海上勢力及び彼らに影響力を及ぼせる有力武家との交渉にも力を注いでいた。特に「百済の子孫」を称していた大内氏はその親近感も相まって、その遣使は将軍による「日本国王使」に次ぐ「巨酋使」と位置づけられていた。「巨酋使」の待遇を受けていたのは他に三管領や少弐氏が挙げられるが、三管領が朝鮮に遣使する機会は限られ、日本国内においても大内氏の競合相手の1つであった少弐氏は大内氏によって没落させられると、大内氏は朝鮮側からは室町将軍に次ぐ政治権力とみなされ、対馬の宗氏と並んで重要視されるようになった。また、朝鮮から日本へ派遣される使節は必ず、大内氏領の赤間関(現在の下関市)を通過する事になっており、瀬戸内海の海賊勢力から使節を安全に護送するためにも大内氏の協力は不可欠なものであった。大内義弘の時代の天授5年/康暦元年(1379年)には高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道までも追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られている。だが、室町幕府から派遣されていた九州探題今川了俊が大内氏ら諸大名と朝鮮間の直接通交に対して規制をかけていたためにその後の通交は途絶え、再開されたのは了俊が失脚した応永2年(1395年)以降であった。朝鮮側からは主に倭寇の禁圧を、大内氏側からは大蔵経などの請受を求められたと考えられている。室町幕府は大内氏を朝鮮との取次と位置づけて、その直接通交を黙認しており、それは応永の乱で足利義満に叛旗を翻した義弘が討たれ、続いて追討の対象になった大内盛見が実力で大内氏の家督と領国を勝ち取り、義満がそれを認めざるを得なくなった以降も変化はなかった。むしろ、それに歯止めをかけたのは大内氏と少弐氏の北九州及び博多を巡る武力抗争と、将軍足利義教時代の外交一元化策と大内氏ら守護への規制圧力であったと考えられている。大内氏からの使者は大内盛見時代の応永30年(1423年)に派遣されたのを最後に途絶し、永享12年(1440年)に次代の大内持世が秘かに朝鮮に遣使していた事実を、嘉吉の乱による持世の急死で後を継いだ大内教弘が知らなかったとされている。なお、大内持世は少弐氏とその同盟者である対馬の宗氏を滅ぼすために、朝鮮に対馬を割譲しての軍事同盟を意図していたものの、朝鮮側にそれを持ち出す前に突然の殺害によって具体化する前に立ち消えになったとされている。過去の大内氏による直接通交の経緯も知らないまま家督を継いだ大内教弘が朝鮮側の要請によって直接通交を再開したのは嘉吉3年(1443年)の事であった(応永27年(1420年)生まれとされる大内教弘は大名が朝鮮と通交することは前例がないことだと考えていた)。その後、享徳2年(1453年)になって朝鮮から大内氏に特に通信符と呼ばれる印が与えられ、大内氏の使者に対する特権付与とともに偽使排除の役目を担った。当時の大内氏は教弘と実兄の教幸の家督を巡る対立があり、教幸側も博多商人や宗氏と結んで朝鮮との通交を探っていたからである。その問題が現実化するのは、教弘が急逝し、後を継いだ政弘が応仁の乱で西軍の一員として上洛し、東軍はこれに対抗して教幸を大内氏当主と認めて家中が分裂した時のことである。政弘の不在中、大内氏の偽使が横行し、乱の終結後文明11年(1479年)に朝鮮に派遣された政弘の使者は過去10年余りの使者は全て偽使であると否認したが、実際には教幸側の派遣した「正使」も含んでいた可能性もある。文明以降は2年から4年おきに1回のペースで派遣され、また大内氏は本来は足利将軍だけが持つはずの牙符を入手して「日本国王使」を派遣できるようになるなど、三浦の乱・寧波の乱による対外的緊張を挟みながら進むことになる。16世紀になって、対馬の宗氏が通交の独占を図ろうとするものの、それを唯一阻むのは赤間関と博多を掌握した大内氏の存在であった。少弐氏の没落後、大内氏と宗氏は協調関係にあり、宗氏が大内氏の了承を得て大内氏の偽使を派遣した例もある。大内氏の滅亡後、宗氏は大内氏及び少弐氏の滅亡の事実(少弐氏は大内氏の2年後に滅亡)を豊臣政権による日本全国平定でその事実を隠せなくなるまで、朝鮮側には両氏滅亡の事実を隠して大内氏の偽使を派遣して通交の独占を図ることになった。大内政弘は、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全に属して勇名を馳せ、宗全の没後に山名氏が戦線を離脱すると、西軍における事実上の総大将になった。乱の終結後は、九州での復権を目論んで挙兵した少弐氏・大友氏を再び屈服させた。それだけに留まらず室町幕府にも影響力を及ぼす守護大名としての地位を保持し続けた。また、分国法である「大内家壁書」を制定し、守護代ら重臣の台頭を抑えようとした。戦国時代、政弘の後を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州・中国地方の覇権を確立し、その勢力基盤を確固たるものとした。そして京都を追われた放浪将軍足利義稙を保護した。永正5年(1508年)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛を果たした。上洛後は管領代として室町幕政を執行し、表面上は一大勢力を築き上げた。しかし長期の在京は大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となり、先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となった。その対応に苦慮した義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦った。享禄元年(1528年)に義興が死去すると、嫡子の大内義隆が家督を継いだ。この時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、義隆が学問・芸術に熱心でキリスト教布教を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。大内義隆は陶興房や内藤興盛等の優秀な家臣に補佐されて、出雲の尼子経久と孫の晴久、筑前の少弐資元・冬尚父子らと戦う一方、豊後の大友義鑑や安芸の毛利元就などとは何度か戦うも、最終的に融和策を講じた。また内紛の起きていた厳島神主家の家督争いにも介入している。天文5年(1536年)には少弐氏を再び滅亡に追いやり、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)には吉田郡山城の戦いで尼子氏を撃破したが、同年の出雲遠征に敗北し、甥で養嗣子の晴持を失っている。この遠征の失敗により義隆は政務を放棄し、文芸や遊興に耽るようになる。さらに以前から燻っていた陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立が激しくなり、大内氏の勢力にも陰りが見え始める。天文20年(1551年)に義隆は武断派の陶隆房の謀反に遭って義隆は自害する(大寧寺の変)。これにより大内氏は急速に衰退し始めた。なお、これによって実質的に大内家は滅亡したとする見解も有力である。義隆の死後、陶隆房は義隆の甥で以前義隆の猶子であった大友氏出身の大友晴英を当主として擁立、偏諱を受けて晴賢と改名した。晴賢が実権を掌握し、大内義長と改名した晴英を傀儡として頂点に抱くという形で大内氏は存続した。この晴賢の強引な手法に不満を持つ者も少なくなく、義隆の姉婿であった吉見正頼が石見三本松で反旗を翻し、鎮圧の最中に安芸の最大勢力であった毛利元就も反旗を翻して、安芸国内の陶方の諸城を攻略した。弘治元年(1555年)、安芸国宮島で晴賢は元就の奇襲攻撃の前に自害して果てた(厳島の戦い)。家中を牛耳っていた晴賢の死により、大内家内部は最早統制の効かない状況となった。弘治2年(1556年)、元就は晴賢亡き後の大内領への侵攻を開始した。それにも関わらず杉氏や陶氏、内藤氏が山口周辺で内紛により衝突。親族の吉見氏も毛利氏へと従属。まともな戦闘能力を失った大内義長は内藤隆世の守る長門且山城に逃亡。弘治3年(1557年)に隆世と義長は自害。戦国大名としての周防大内氏はこの時点で滅亡してしまった(防長経略)。永禄2年(1559年)、室町幕府将軍足利義輝は大内義長の実兄である大友義鎮(後の宗麟)に対して九州探題の職とともに大内氏の家督を認める御内書を発給している(「大友家文書」『大分縣史料(26)』424号)。永禄12年(1569年)、大内氏の一門である大内輝弘は大友宗麟の後ろ盾を得、加勢の兵を糾合し周防山口に侵攻した。周防に於いては大内氏旧臣らの帰参が相次ぎ一時は山口の占拠に成功するが、大友氏との交戦をやめ北九州より反転してきた毛利軍主力の逆襲に遭い、攻められ自害した(大内輝弘の乱)。江戸時代牛久藩主であった山口氏は、大内氏分家であり大内義弘の次男・大内持盛の系統である。明治維新まで譜代大名として存続した。※ 凡例 太線は実子、細線は養子。義隆時代
出典:wikipedia
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