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別所毅彦

別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者。旧名および本名は「別所 昭(べっしょ あきら)」。愛称は「べーやん」「鬼軍曹」。巨人時代に残した221勝は今も球団最多勝利記録。滝川中学校で野球部に所属。1935年に全国中等学校優勝野球大会に初出場した野球部の入部テストは熾烈なもので、「いつ『止めろ』と言われることもなく延々ランニングをさせられ、最後まで走り続けていた者だけが次のテストに進んだ→地面に描いた円の中央に立たされ、周りから先輩選手がひたすら投げ続けるボールを素手でキャッチさせられた」というものであった。在籍当時の野球部監督の一人に元東京巨人軍の前川八郎がおり、後年「前川先生にはピッチング技術を教わった。ボールの握り方、腰の使い方、全体のフォームなど投球のすべてを習った」と述べている。また、わずかな期間ながら沢村栄治とも面識があった。当時、別所にとって沢村は憧れのスーパースターであり、声をかけるのもはばかられる気持ちだったというが、思い切って「どうしたら沢村さんのような速い球が投げられるようになりますか」とたずねた。それに対し、沢村は少しだけ考えてからたった一言「走りなさい」と答えたという。多くの名投手・大投手と同じように別所も走り込みを大切にするようになった。別所によれば、ランニングは下半身強化の効果もさることながら、腕を振ることが投球に必要なしなやかな腕のしなりを生み出す効果があるという。第二次世界大戦が激化していた、エースとして第18回選抜中等学校野球大会に出場。青田昇と別所を擁した滝川中は優勝候補であった。しかし、準々決勝の岐阜商業戦の9回表、青田昇の三塁ゴロを岐阜商の三塁手が悪送球し、一塁走者だった別所がホームに突入したが、本塁上のクロスプレーで左肘を骨折。別所は左腕を三角巾で吊って延長12回裏途中まで投げ続けたが、痛みが限界に達し降板。チームは延長14回にサヨナラ負けを喫した。この別所の力投に、翌日の大阪毎日新聞神戸版は「泣くな別所 センバツの花だ」との賛辞を贈った。これは後々まで別所の代名詞ともなった。滝川中学卒業後の別所は慶應義塾大学への進学を考えていたが、野球選手の特待生制度がなくなったため、旧制大阪専門学校を経て日本大学に進む。秋、別所は東京巨人軍と入団契約を結んだ。在京中に監督の藤本定義と知り合っていたためだった。しかし、実家の母と兄は別所を近くに置いておきたいという理由で南海軍に入る契約を結んでしまう。巨人側は連盟に提訴したが、親権者の契約が優先するという裁定で南海に入団することとなった。この入団の経緯はのちの「引き抜き事件」の伏線となる。2年目の5月26日の大和軍戦でノーヒットノーランを達成(四死球2)。また、5月30日の大和戦では惜しくも2試合連続ノーヒットノーランは逃したが、1安打完封勝利を収めた。この年、14勝をあげて南海のエースに成長した。、近畿グレートリングのエースとして19勝を挙げ南海軍創設以来初の優勝に貢献。7月15日富山県高岡市でのグレートリング対ゴールドスター(1946年結成、現ロッテの傍系)戦で、ゴールドスターを7安打に抑え、スコア26対0で完封勝利をあげたが、この試合は完封試合としてはプロ野球史上最大の得点差試合であった。にはプロ野球記録となるシーズン47完投という大記録をマーク。この年は30勝19敗(最多勝)であり、相当数の完投敗戦もあったことからも凄まじい記録であることが伺える。また、リーグ最多の448回3分の1を投げて防御率は1.84(リーグ4位)という驚異的な記録を打ち立て、この年創設された沢村賞の初代受賞者となった。にも26勝し優勝に大きく貢献した。しかし、同年オフに、いわゆる「別所引き抜き事件」が発生。2ヶ月の出場停止処分を受けての巨人移籍となったが、以降も長きに渡ってエースとして君臨した。、松竹ロビンス戦で9回2死まで松竹を完璧に抑え、完全試合まであと一人としたが、神崎安隆に内野安打を打たれ、完全試合を逃した。因みに、この時の球審金政卯一は完全試合寸前であったことに気付いておらず、後に『気が付いていたら、2ストライク後のボールと判定した際どいコースを温情でストライクと判定したかもしれない』と語っている。、23勝を挙げ2度目の沢村賞を受賞。同年の日本シリーズでは3勝を挙げ1952年に続く2度目の日本シリーズMVPを受賞。このシリーズ第7戦で南海を完封し胴上げ投手となったが、別所自身このピッチングを生涯のベストピッチングと語っている。1958年、チームは優勝したが別所は13シーズン続けた2桁勝利が途切れる。そのオフ、契約更改の席で「35試合登板」を条件に入れるよう要望、選手起用は監督の専権事項という水原茂監督と真っ向から対立して、マスコミにも取り上げられた。その年の別所の登板数は26試合に減っており、このままではあと8勝(当時、通算最多勝のヴィクトル・スタルヒンの勝利数は301勝とされていた。スタルヒンの項を参照)となっていた通算最多勝新記録の達成がおぼつかないと考えてのことだった。しかし、最終的に別所は非を認めて要求を取り下げ、水原もできるだけ別所の意に沿うように起用することで落ち着いた。にスタルヒンの持っていた通算最多勝記録を更新。からコーチ兼任となる(ただし登板はなかった)。同年から監督となった川上哲治を支え「鬼軍曹」的役割を果たした。チームは1955年以来6年ぶりの日本一を奪回する。同年限りで引退。通算310勝は当時のプロ野球記録(別所の引退から2年後に金田正一が更新)。また、巨人在籍時の通算221勝は現在でも球団最多勝記録である。から一軍投手コーチ専任となる。同年7月、名古屋の宿舎で中村稔が当時禁止されていたビールをこっそり飲んだとして殴りつけた。これが週刊誌の記事となって表沙汰になり、球団からこのことで謹慎処分を受ける。川上は別所を即座に解任せず、冷却期間をおくために別所の二軍への配置転換を考えていた(上前『巨人・陰のベストナイン』等では「多摩川へ行ってほしい」と表現されている)が、別所は監督の川上が自分を積極的に守ってくれなかったことに憤慨し、シーズン途中で辞任。その後ははTBS解説者、(から)まで大洋ホエールズ一軍投手コーチを務めた。2度目のTBS解説者()を挟み、、サンケイアトムズ(はアトムズ、からヤクルトアトムズ)の監督に就任。1970年8月にシーズン2度目の11連敗(その後16連敗まで伸びる)を喫して解任された。当時アトムズの選手だった豊田泰光は「別所毅彦さんはやる気がある方だったんですが、選手の扱い方が拙劣だった。気持ちを察する事が出来ない。甲子園での阪神戦、打線が打てなくて負けたことがありました。別所監督は兼任コーチの私に「打者は宿に帰る途中でバスから降りて素振りだ」と命じました。困ったことをいう人だと思いましたよ。でもその通りにしました。で、宿に帰って見ると首脳陣はみんなで麻雀をです。こんなことをやってちゃチームはまとまりませんよ。」、同じアトムズ、ヤクルトの選手だった松岡弘は「とにかく走れしか言わなかった。今のように科学的にトレーニングなんてないから、とにかく、倒れるまで走った。でもそれが良かったと思っているよ。怪我せず、一年間投げ抜くための基礎はその3年間で作ったと思うから。練習も習慣も。能力じゃなく、体力が鍛えられた」、「別所さんは巨人に勝てしか言わなかった。精神論ばっかりで体力があればよかった。」と語っている。その後はフジテレビ・文化放送・日刊スポーツで野球解説者。野球殿堂入り。からは川上哲治に代わり巨人OB会の会長を務めていた。解説者としては、白髪眉毛・巨人贔屓・貧乏ゆすり・高笑いで人気を得る。漫画家やくみつる作の四コマ漫画で何度も取り上げられるなど(漫画になりやすい)豪快なキャラクターもあり、「球界の彦左(大久保彦左衛門)」と呼ばれていた。試合で巨人が劣勢になると、態度が豹変して慌てふためくのも恒例であった。晩年のには27時間テレビで当時絶望視されていた巨人の優勝の可能性について、あると答え後の「メークドラマ」を予言していた。6月24日、急性心不全のため自宅で死去。享年78(76歳没)。登板間隔について、本人は中3日が最も調子が良いと主張し、それ以上間隔が空くと監督に食ってかかることもあったという。身体は非常に頑健で、旧制中学時のエピソードもさることながら、引退までついに投手の職業病とも言える肩・ひじの故障とは無縁だった。打撃が良く、登板日以外に野手として出場したことがある(初出場は1942年10月10日巨人戦の3番左翼手、翌年には投手、野手として4番も務める)。また、プロ生活中送りバントのサインを出されたことがない。投手としての出場がメインでありながら通算500安打は特筆すべき点である。通算打撃成績は打率.254(2111打席)、35本塁打、248打点を記録した。1950年には161打席に立って打率.344、4本塁打、28打点、OPS.915の成績を残した。本塁打の通算35本のうち投手として出場したときに31本を記録しており、投手として出場した試合の本塁打数としては、金田正一、米田哲也に次ぎ歴代3位の記録となっている。この中には1955年6月9日の中日ドラゴンズ戦で杉下茂から放ったサヨナラ本塁打も含まれている。1946年7月15日の対ゴールドスター戦で、グレートリングは8回に1イニング11安打、1試合28安打などの当時の日本プロ野球記録で26対0で圧勝しているが、8回の攻撃時に別所は本塁打と三塁打を記録した。

出典:wikipedia

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