南京事件論争(ナンキンじけんろんそう)とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた。戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えたが、以降は事件への関心は薄れた。1971年朝日新聞で本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平や鈴木明との間で論争となった。1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという教科書誤報事件で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった中国から抗議を受け、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した。1989年の偕行社編『南京戦史』は「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。否定派は1995年の終戦50年不戦決議阻止運動とも連携し、新しい論客東中野修道と佐藤和男らが捕虜殺害を国際法上合法と主張し、吉田裕と論争になった。海外では中国系アメリカ人の反日団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された。英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えている。中国政府は、日本の大虐殺派が犠牲者数「20万以下」と切り下げたのに対して、距離をとるようになり、新たに松岡環らを支援するようになった。近年の日本での論争は、大虐殺派が元気がないのに対して、世代交代に成功した「まぼろし派(否定派)」には大変な勢いがあると秦郁彦は評価する。一方で、「虚構説」の破綻で学問的に決着がついたと肯定派の笠原十九司は主張している。このほか、東史郎の「郵便袋裁判」(東側が敗訴)、百人斬り裁判(原告敗訴)、東中野修道の「夏淑琴による名誉棄損裁判」(東中野側が敗訴)などの裁判もある。「南京事件」、「南京大虐殺」について論じる諸氏は、自他を様々に分類する諸説を提示している。事件の犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説あり、その背景として、「虐殺」の定義、地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料検証の相違がある。南京の人口は、日中戦争以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、南京攻撃が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富豪などの疎開によって、南京戦当時の人口はかなり減少していた。スマイス調査によれば、南京攻撃の直前の11月には約50万人に半減していた。欧米人の南京安全区国際委員会は、市内人口は「日本占領直後は約20万」に至ると予測し、難民救済を行った。12月13日の日本占領後、日本側が住民登録を行い、約16万人(子供や老人の一部が入っていない)が登録し、南京安全区国際委員会は子供・老人等を含めると人口は約25万人と算定した。スマイス調査は、占領時の12月12〜13日の南京の人口は約20-25万人とした。また三か月後の1938年3月の人口は22万1150人で、これは未調査分を含めた人口全体の80〜90%とした(つまり全人口は約24万―26万人)。つまり三か月の間の人口増加が考えられるが、これに関して、南京安全区国際委員会のジョン・ラーベは、占領後の安全区での人口増があったのは、安全区の外からの人口の流入による増加ではないか、と推察している。実際に約20万人ぐらい存在したのか?と疑問を持つ説がある。1984年、偕行社の戦史編集委員の畝元正己は、1937年12月17日の南京安全区国際委員会発第6号文書『難民区の特殊地位の解釈』には「(12月13日)あらゆる市民は殆ど完全に難民区内に蝟集し」ていると記されており、また12月13日に入城した日本将兵の証言では、安全区(難民区)以外の城南、城西、城東、城北地区では殆ど住民が目撃されていないので、安全区内に大部分の市民が移動したのは事実であろう、しかし、3.52平方キロメートルの狭い安全区に20万人を収容することが可能であったかは疑問であると述べた。3.52平方キロメートルに20万人いたとすると1平方キロメートルあたり56,818人の人口密度になる。さらに畝元は、スマイス調査に難民収容所に27,500人、収容所に入らず安全区にいたものが68,000人(合計95,500人)と記載されていること、さらに12月17日の国際委員会文書では49,340〜51,340人と記載されていることから、20万人が安全区に収容されたとは考えにくいとした。この南京市人口20万人説をもとに、藤岡信勝は、南京市の人口が20万人しかいないのに(中国側の主張する犠牲者である)30万人も殺せないので30万人説はウソと主張した。ただし、同じく30万人殺害を虚構の数字と見る笠原十九司は、「南京事件の集団虐殺でもっとも多かった」のは市民20万人の数から「抜け落ち」た人数、つまり南京防衛軍の中国軍人が虐殺されたことであり、日本軍が「戦時国際法に違反」したうえでの「中国軍の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵の処刑」であったと述べ、「数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態を遠ざける」と主張した。また、笠原は、20万人前後とは南京城の市内のみの人口であり、南京行政区の農村部を含めると南京戦のときも40-50万の難民も含めた一般人の数が存在し、日本軍がこの農村部で組織的住民虐殺を行い、スマイス調査でも南京行政区の農村部の犠牲者は2万6千人以上と南京城内の数(同調査では6千6百人〜1万2千人)を上回ることも主張する。なお、その後、2007年、南京事件の真実を検証する会は、国民政府が監修し1939年に出版された南京安全区国際委員会の記録『 Documents of the Nanking Safety Zone』(国民政府外務部顧問徐淑希編集)によれば、当時の南京の人口は日本軍占領直前20万であるが、占領1ヵ月後の1月には人口25万に増加と記録されていたが、5万人も増えたと記録されており、「30万の市民虐殺」はありえないとの主張をした。日本軍による南京事件の民間人の死者数についてスマイス調査では6千6百人〜1万2千人と記録されている。秦郁彦は、民間人の犠牲者数が過大にならなかった理由としては、南京市陥落前から欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会によって南京市内に安全区が設定され、多くの被災民が避難できたことにあると述べる。「ラーベの感謝状」にもあるように、南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかったとされ、占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の虐殺の記録はあり、決して過少ではない。また、笠原十九司によれば、南京周辺において日本軍が組織的でときに村単位の住民虐殺、南京城外の農村地域において南京への進軍中に行ったとの記録がのこる。この農村での虐殺については日中共同研究において中国側も具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の犠牲者は2万6千人以上と記録されており、南京城内の被害者数を上回る。なお、南京城内の殺害の実数は大規模でないが、南京城外では避難中のかなりの市民(数は不明)が兵卒とともに巻き込まれて殺害されて遺体が長江に流されたとの記録(徳川義親やジョン・ラーベの残した記述など)が存在する。ところで、中国軍敗残兵の暴行が日本兵の仕業と誤った可能性や、中国側の漢奸狩りや「堅壁清野作戦」という焼き払い作戦のように中国側も残虐行為を行ったことを東中野修道らは主張している。多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れたことは孫宅巍や臼井勝美なども認めている。そして、南京における日本軍の乱暴狼藉と思わる中には、中国側の撹乱工作隊の仕業とされる事件があったと1938年1月4日にニューヨーク・タイムズも報道している。また、ベイツも日本軍の犯行だけではなく、中国人による犯行もあったと記録している。しかし、板倉由明によれば、日本兵の仕業と見せかけた中国軍敗残兵の暴行であったとする、東中野修道らの中国敗残兵工作説は、中国軍兵士と疑われる人物の安全区内での逮捕事件を日本側が「中国兵も悪いのだ」と宣伝した当時の記事を誇張しているだけで、工作隊を捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第16師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言や新聞にも全く見当たらないと批判している。なお、中国軍が陥落前に南京市内やその周辺の建物を焼いたことは当時のニューヨーク・タイムズにも報道されており、中国軍の南京市の焼き払いは、南部と南東部の城壁周辺の一部と城の西方面にある建物が中心であった。しかし、城内の南京安全区外の中心街の放火(太平路周辺など)をはじめとした市内広範囲は、日本軍の放火であるともニューヨークタイムズは報道し、ジョン・ラーベやスマイスら欧米人の記録にも書いてある。上海派遣軍参謀長飯沼守も日記でソ連大使館の放火は日本軍による疑いがあるとした。兵士が民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵であるとして中国兵が殺害された事例があり、例えば12月14日-16日の安全区において、日本軍が、元中国兵を約6500-6700名ほど摘発し、処刑した。便衣兵、つまり兵士が民間人を装って行う戦闘行動は、当時の戦時国際法ではハーグ陸戦条約第23条第2項で禁止されている。そして、便衣兵であるかないかの基準には、同条約1条で交戦者(戦闘員)は軍服着用が規定されており、同条約第3条には戦闘員であることを示さないで戦闘行為を行おうとしている者は便衣兵の対象となり捕虜待遇を受ける資格がないとされている。その場合、軍律(占領軍の司令官が制定した占領地の住民に対する規則)や軍律審判(軍律に係る裁判。軍律会議とも言う)を経て処罰、また敵対行為(戦時反逆)をすれば軍律で定めれば即決処分も可能であると、されていた。石田清史は「戦争法規を犯して敵対行為を働く者は単なる戦時重罪犯、戦時刑法犯であるから国際法の保護を受けない」という(なお、中支那方面軍の実際の軍律は後述)。ただし、便衣兵の定義は、兵士が民間人を装っているだけでは不十分であり、戦闘やテロなど(害敵手段)を行っている必要があるとの論議がある。戦前の国際法学者信夫淳平は、「交戦者たるの資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから」との定義があり、(軍服着用などの交戦者資格の有無のみならず)、害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うものを便衣兵としている。同じく、戦前の戦時国際法の研究者篠田治策も、当時『北支事変と陸戦法規』において、抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していて敵対行動をとらない兵士は、便衣兵とは見なしていない、と記している。一方、それに対して東中野修道は、(軍服着用などの)交戦者資格を満たしていない場合は(そのまま)非合法戦闘員(便衣兵)となり、戦時国際法に照らして処刑しても合法であり、虐殺ではないと主張した。東中野のこの国際法理解については、吉田裕との間で論争が行われた。東中野修道と同じく、日本軍による殺害は戦時国際法上は合法であったと考える国際法学者佐藤和男は、一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、逃走したと認められないので、攻撃できると述べている。また、佐藤は「兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(中略)また市街地における一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではない」とも述べている。しかし、便衣兵の処刑の多くは戦時国際法に反したのではという説がある。秦郁彦は、確かに「便衣兵は捕虜と異なり、陸戦法規の保護を適用されず、状況によっては即時処刑されてもやむをえない」が、「一般市民と区分する手続きを経ないで処刑してしまってはいいわけができない」としており、南京占領後、便衣兵摘発に日本軍は手こずり、疑わしい一般人を処刑したとされる記録がある。兵民分離は厳正でなく荒っぽく行われており、水谷上等兵の証言では「目につく殆どの若者は狩り出される」「市民と認められる者はすぐ帰」すが、他は銃殺、「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないこと」とある。北村稔も「手続きなき処刑の正当性」には疑問を示している。。日中歴史共同研究の北岡伸一は、「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍」と主張している。なお、前述のとおり、軍律や軍律審判、つまり当時の軍隊は、占領地で戦時の敵対行為などについての司法・処罰を独自で定めることができ、日本軍も南京占領前の12月1日に中支那方面軍での軍律、軍罰令、軍律審判規則を定められた。その中支那方面軍の軍律によると、以下の内容が確認できる。南京戦では、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害が発生したが、山田支隊の行ったとされる1万人単位の大掛かりな捕虜の殺害は稀な例であり、数十人や数百人単位の虐殺が数多く発生し、合計で約3万人の捕虜・投降兵などが殺害されたと、秦郁彦は説明する。当時の捕虜の取り扱いに係る戦時国際法として日中間でともに受け入れていたものはハーグ陸戦条約(1907年改定後)であり、日本・中華民国がともに条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)していた。同条約の第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっており、同条約の第23条第3項では「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」が禁止されている。なお、同じく捕虜などの保護を定めた条約でありハーグ陸戦条約に定めた捕虜の取り扱いを補完する役割を持つ、赤十字国際委員会の提唱がきっかけとなて成立した俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)は、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していたが、日本は署名のみで批准していなかった。なお、戦時国際法に対して日本陸軍は、1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」で、ハーグ陸戦条約の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、同条約の「具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適當ナラス」及び「俘虜等ノ名稱ノ使用」を「努メテ避ケ」る、と通知したが、つまり「捕虜の待遇を含め国際法を守らなくてもよい」・「捕虜という名称をできるだけ使わない」という判断を明示せずに現場に判断を押し付けたかのように表現した。捕虜収容所などの管理機構も作らなかった。戦陣訓はまだ公布されていなかったが、日本軍では捕虜をタブー視しており、秦は「捕虜になることを禁じられた日本兵が、敵国の捕虜に寛大な気持ちで接せられるはずはな」いとする。また日本は大量の捕虜がでたときの指針に欠け、上海戦では捕虜処刑が暗黙の方針になっていたが、首都の南京攻略では明確な方針があるべきだったと秦郁彦は述べる。一方で、日本軍による殺害は戦時国際法上は合法であったと考える佐藤和男は、作戦遂行の妨げになる場合の投降拒否は合法という意見で、軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合があるという(国際法学者ラサ・オッペンハイム)の考えに沿った説を唱える。佐藤は、「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)のこと)の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるべき戦時国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない」と述べている(ただし、そのように主張した佐藤和男は、自著の中で、俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)によって捕虜への復仇が禁止されていたことも、記述している)。なお、南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。しかし、当時の国際法学者の信夫淳平は、1932年第一次上海事変の経験から、便衣隊は戦時国際法違反だが、「確たる証拠なきに重罪に処する」は「理に於ては穏当でない」と見なし、また18世紀の欧州で食糧不足を理由にした捕虜虐殺は”現在の戦時国際法では許されない”(「今日の交戦法則の許さざる所」)と述べて、同時に、”捕虜にして安全に収容することができないときは解放すべきである。捕虜を解放したら敵の兵力が増えるので不利というが、人道法の掟を破ることによる不利益に比べれば、不利といっても小さいものである”(「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」)という、の学説を紹介している。また、当時、中国側が正式な休戦の申し出を日本軍に行っていないから南京戦はずっと戦闘中だった(よって、捕虜・投降兵、そして便衣兵らしい兵の殺傷は正当な戦闘中の行為である)、という考え方が存在する。しかし、日本も締結したハーグ陸戦条約第23条での”兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること”を禁止する規定では、休戦の有無が条件になっていないので、休戦協定とは無関係に兵卒の個々の降伏や無抵抗意思の合法性を尊重する必要があるという考えがある。北岡伸一は「捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。」と主張している。原剛は、当時の国際法や条約に照らしても軍法会議や軍律会議によって処断すべきであったと主張。吉田裕は「仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する」し、「日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していた」と主張している。第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由が、戦時国際法上で合法かについて議論される。幕府山事件とも言われる。東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。笠原十九司は、南京市のみならず、周辺部の農村部である南京行政区への日本軍進入後の事件も被害の対象にしているので、異説としても少し早い時期も含めた「1937年12月4日 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1938年3月28日の4ヶ月」説を唱える。この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする。藤原彰は、この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定している、と批判した。笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民の中の一部が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする。本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する。1938年2月(南京事件発生の約2か月後)に開催された国際連盟第100回理事会において、日中戦争による中国の苦境を理解した国際連盟第100回理事会は、日本の中国侵略に対して、「前回の理事会以降も、中国での紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の意とともに銘記し、中国国民政府が中国の政治的経済的再建に注いだ努力と成果にかんがみて、いっそうの事態の悪化を憂慮し」、日本の軍事行動が不戦条約等の国際法違反であるとした前年10月の国際連盟総会での非難決議を確認する形で再度非難の決議をした。非難決議案が公表されて理事会で決議されるまでの間に、中国側代表の顧維鈞は演説を行い、(前年10月の国際連盟総会後の)11月以降の日中戦争全般についての深刻な事態を「南京事件」も一部として説明し、日本の中国への主権侵害が中国の存亡にかかわる深刻な状況にあること(日本が南京に傀儡政権を作ったこと、中国経済を破壊するような不利な関税策を一方的に設置したなど)に力点を置いて演説した。この国際連盟第100回決議を根拠に、「国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった」という意見が存在する。日本の前途と歴史教育を考える議員の会の戸井田徹衆議院議員(2008年当時)は、著書で、中国側代表が南京事件(死者2万人などの当時中国の把握した被害内容)も含めて国際連盟の第100回理事会において演説したが、そのときの演説に含まれていた南京事件の説明は(他の個別の軍事被害の説明も含めて)、国際連盟の非難決議案に含まれなかったことに注目した(ただし同理事会の決議案が固まった後に中国側の演説が行われたので、正確には「追加されなかった」)。そして、戸井田議員は、非難決議案に南京事件が含まれていないので、「国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった」と主張した。しかも、当時は2万人と中国が述べたので後の30万人説はウソ、日本への制裁を中国は希望したが国際連盟が実施しなかったことも強調した。戸井田徹は、1937年9月に日本軍の中国の都市への空爆(渡洋爆撃など)への具体的非難が国際連盟総会で決議されたことを例としてあげ、にも関わらず南京事件は個別決議の対象に扱われないのは「国際連盟は無視した」と推察した。これに対して、笠原十九司は、第100回の国際連盟の理事会における中国側代表顧維鈞の演説の全体的な趣旨は、ちょうどその時期に国際連盟もナチスドイツの台頭などの欧州大戦の危機に関心が向く中、何とか国際社会の中国支援を引き出そうとしており、「南京事件」よりもそのときの「中国滅亡の危機を阻止」することが最重要であった。よって、その中国の対応にそった国際連盟の非難決議であり、個々の軍事行為でなく全体的危機への非難を行った。そのような背景を考えると、南京事件が議決の文言にあるなしでもって国際連盟が「南京事件を無視した(なかったとみなした)」とはとうてい言えない、むしろこの議決は日本の軍事行動全体を非難していると、反論した。虐殺否定派は、当時の中国国民党が1937年12月から約11か月の間、300回の記者会見という記録があるが、東中野修道が調査した国民党の秘密文書の中には、「南京事件の記者会見があった」という証拠は、その秘密文書の中では探せなかった。よって、南京事件は記者会見の中にさえ言及されなかったのでは、(つまり南京事件の実態が疑わしい)と主張した(戸井田徹東中野修道)。しかし、中国国民党の蒋介石は1938年7月7日漢口での「日本国民に告ぐ」において、日本軍の略奪、暴行、残酷な殺人を非難している。蒋介石夫人宋美齢も、南京の殺戮を1938年1月にアメリカの友人宛ての手紙に書いている。また、国民党に近い新聞「大公報」では南京事件を残虐行為としてとりあげている。確かに、国民党の新聞では、外国報道の翻訳でのみしか南京事件を報じず、国民党の新聞中央日報、新華日報はアメリカの上海新聞Shanghai Evening Post and Mercury(大美晩報),The China Weekly Review(John W. Powell主幹)での事件報道記事の翻訳のみを掲載し、事件を報じなかった。この理由として、当時、中国側の新聞は戦意高揚のために戦勝記事を繰り返しており、南京事件を報じなかったのは、南京戦での敗北を報じたくなかったためという説がある1937年12月15日、A・T・スティール記者はシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を世界で初めて報道した。また12月17日「特派員の描く中国戦の恐怖 ―南京における虐殺と略奪の支配」、12月18日「南京のアメリカ人の勇敢さを語る」と報道した。1938年2月4日記事では、南京の中国人虐殺をウサギ狩り(ジャックラビット狩り)に比して「ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。 逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くは武器をすでに放棄していた。(略)日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。(略)日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える」と報じた。ティルマン・ダーディン特派員は12月17日に上海アメリカ船オアフ号から記事を発信し、12月18日にニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事では「・・少なくとも戦争状態が終わるまで、日本側の規律は厳格であろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。」と報道している。また、イギリスのロンドンタイムズ(12月20日)でも報道されており、「日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した」ことが書かれているし、そのほか、ロイター通信社も、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたと報道した。なお、アメリカの新聞が南京事件よりもパネイ号事件(アメリカの船の日本軍による沈没事件)を確かに大きくとりあげたが、まずパネイ号事件は、当時アメリカと日本との間では重大問題となっており、日本海軍・外務省も巻き込んで解決されたが、日米開戦もあわやという事件であった。そして、パネイ号事件は、アメリカ人も同時期のアジアの一部でおきた南京での虐殺事件の新聞報道よりも、アメリカの船を意図的に攻撃したのでは、との世論の高い関心を呼ぶこととなり大きく連続してアメリカでは報道された。同じく、南京事件よりもアメリカで報道されたとされるアリソン殴打事件(在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件)は、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した事件であった。なお、現地欧米人記者は南京占領後すぐ上海方面へ避難したので、ごく初期の事件以外は自社の記者では直接確認できなかった。例えば、当時ニューヨーク・タイムズ記者だったティルマン・ダーディン特派員は、南京から逃げるときは長江を船を使って下り、上海に向かった。またダーディン記者は上海戦が始まってからおよそ二、三週間後(日本軍が南京に向かい上海から進軍する約3か月前)に南京に向かい、南京に在住した。「戦闘に遭わずに南京に行くため」、上海からは南の道をつかって行った。1989年文藝春秋誌上では「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と答えている。「南京戦史」(偕行社)編纂者で南京戦当時独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己は、日本に敵意を持つ英米独の宣教師や新聞記者らは、日本軍の行動を針小棒大に伝聞、憶測まで伝えたとする虐殺否定派の東中野は、南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、安全区国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみでスティールら外国人記者が見たという証言の信憑性を疑い、また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されたのではない」としている。また、東中野は当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性があると主張している。たとえば日本兵の内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)。渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の「大虐殺」の記事を、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したと推定する。日本の前途と歴史教育を考える議員の会によれば、南京事件の発生後の約2ヶ月の新聞記事を調査したところ、その間は、12月の場合は市民が大虐殺されたとか、1月以降も強姦や殺人事件があったという記事はなく、むしろ、アメリカの船パネイ号事件の日本軍による沈没事件や、1938年1月26日に発生した在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件(アリソン殴打事件)が主であり、(アリソンへの)殴打事件よりも記事の重要度が低いなら、それ以上のこと、例えば強姦や殺人は南京には当然なかったと主張した。以上の事実から、同会の西川京子衆議院議員(2008年当時)は、ニューヨーク・タイムズもロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた。しかし、前述の通り実際は欧米の新聞は南京事件を報道しており、またパネイ号事件やアリソン殴打事件が当時のアメリカで南京事件よりも報道された経緯も前述したとおりの事情であって、決して南京事件がなかったからではない。当時事件を報道した著作や映画が戦時プロパガンダであるとする説がある。田中秀雄は、敵対する国家間では相手を打倒するためにあらゆる手段がとられ、戦争のほかに謀略やプロパガンダも用いられ、またプロパガンダは国民を結集する方法でもあるとし、南京事件以前の中国の歴史でも多数のプロパガンダがあると論じた。敵側の残虐性を宣伝し攻撃する先例として、清軍の攻撃で80万人の犠牲者を生んだ揚州大虐殺を明側から記録した『揚州十日記』が、1911年の中国革命以前には「滅満興漢」のスローガンとともにバイブルとなったことや、1937年12月の南京事件以前の1937年10月25日に中国共産党の毛沢東はイギリスの記者バートラムに対して日本軍が「虐殺、掠奪、強姦、放火」をしていると述べている例、また、1927年の北伐で蒋介石の国民党軍が張作霖や張宗昌軍を攻撃するために撒いたビラには「虐殺、掠奪、強姦、放火」と表記してあった例などを挙げて、南京事件との関連を指摘している。さらに、田中は、中国人にとっては「宣伝が武器よりも優先」し、「プロパガンダが世界に認められたとき、初めて抗日戦争は彼らにとって勝利となる」と述べている。南京陥落前の1937年11月、国民党は蒋介石の直属機関として中央宣伝部および国際宣伝処を設け、本部を重慶に、さらに上海、香港、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンに支部を置いた。国際宣伝処の対敵宣伝科は1937年12月1日にプロパガンダ活動を開始し、対敵宣伝本としてティンパーリの著作を発刊した。また、1938年2月2日、ジュネーブでの国際連盟理事会で中国代表の顧維鈞は、日本軍による掠奪、強姦、市民の虐殺、捕虜の大量処刑を報道したティルマン・ダーディン特派員の1938年年1月20日ロンドン・タイムズ記事を引用し、「虐殺された中国人市民の数は2万人と見積もられ、一方で若い女性を含む何千人もの女性が辱めを受けた」と演説で述べた。田辺敏雄は、ダーディンの記事では2万人の「捕虜」とあったたのが、顧維鈞演説では2万人の「市民」が虐殺されたとすり替わっていると指摘している。また、顧維鈞は1933年2月のリットン調査団を審議する国際連盟理事会で田中上奏文を引用して平頂山事件に触れて日本を非難しており、虐殺事件を用いて非難するところは南京事件の場合と類似していると田辺は指摘する。「田中上奏文」は日本が世界征服するためには中国、満州、蒙古を征服しなければならないという内容の文書で、現在は偽造文書であることが分かっているが、当時は中国をはじめアメリカのプロパガンダ映画『バトル・オブ・チャイナ』でも日本の侵略計画として説明されたり、戦後の東京裁判でも重要文書と見なされるなどした。田中秀雄は、当時の国際情勢として「世界的に左派リベラルと共産主義が結びついていた「人民戦線」の時代で、"中国を侵略する日本"という図式は確固なものとしてあり、欧米の世論は日本非難に傾きがちだった」と指摘しており、安全区委員や記者は国民党や共産党とつながっていたと主張している。後述するティンパリー『戦争とは何か?』は1938年(昭和13年)に日本訳(『外国人の見た日本軍の暴行』)が出版され、鹿地亘と青山和夫の共産主義者の序文がついていることから、この二名の日本人工作員が関わっていると田中秀雄は指摘している。鹿地亘は中国の国民党地区で反戦運動を行っており、日本兵捕虜を組織した。また、国民党も日本兵捕虜から情報を収集するだけでなく、中国側の寛大さを示す国際宣伝に利用することも行っていた。さらに、収容所では「中国側へのオベッカから恭順をよそおう者」だけが「反戦分子」として優遇された。鹿地亘は郭沫若の協力もあり、1938年12月には反戦同盟を組織。1939年12月には、中国の抗日戦争は「日本人民の自由解放」と一致するとの声明を発表し、1940年5月には延安支部が建設され、八路軍や新四軍地区の日本人捕虜兵士による反戦運動にも影響を及ぼした。青山和夫は重慶政府国際宣伝処の対日工作顧問で(本名は黒田善治)、コミンテルンの指令で対日工作に活躍した。なお、戦後、重慶から帰国した青山和男は1946年4月3日の朝日新聞で 「尾崎秀実君から(日米戦がはじまるぞ)と予告を私たちに伝えてきた。 そのため、連合国のいっさいの準備ができた。尾崎がしらせたのはソ連と中国であったが、私は英国と米国へ”戦争の準備はいいか”と はっきり駄目を押したところ、両国とも”大丈夫”と答えた。」 と真珠湾攻撃前の情報工作について述べている。倉前盛通は、この青山証言から連合国側は事前に真珠湾攻撃を知っていたと主張している。なお、尾崎秀実は1930年に上海で、アメリカ共産党員の鬼頭銀一やアメリカ人記者アグネス・スメドレーを介してコミンテルン情報局員・ソ連共産党員のリヒャルト・ゾルゲと知り合い諜報活動を行い、1944年に処刑された。満州事変に対抗してコミンテルンは、1932年2月に「あらゆる資本主義国の港から日本に向けて積み出される武器と軍需物資の輸送に反対しなければならない」とし、中国の抗日戦争を支持するよう各国の共産党に指示した。アメリカ共産党は「アメリカ中国人民友の会」を設立し、会長にマックスウェル・スチュアート(『The Nation』編集員)、は機関誌『チャイナ・トゥデイ』編集長にフィリップ・ジャフェ(Philip Jaffe)が就任し、F.V.フィールド(アメリカIPR事務局)、T.A.ビッソン(在中国宣教師)らが委員となった。1933年にはルーズヴェルト大統領がソ連と国交を樹立し、アメリカ共産党は反戦・反ファシズムアメリカ連盟を平和運動家と結成した。1935年、コミンテルン第七大会で、日本とドイツのファシズム国家と戦うために英米と提携し、反ファシズム統一戦線と人民戦線が各国の共産党に指示された。アメリカ共産党書記長で赤色労働組合インターナショナル中国・太平洋支部太平洋労働組合書記局長のアール・ブラウダーが指揮して、「反戦・反ファシズムアメリカ連盟」、アメリカ教員組合連盟、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議,アメリカ反戦会議などの団体と「共産党色」を消して連携していった。またA.スメドレーもコミンテルンから資金援助を受けて反日プロパガンダ工作を上海で行い、「南京市民20万人虐殺」説を唱えるなどしており、プラウダとも協力していた。また1925年にYMCAが設立したシンクタンクの太平洋問題調査会(IPR)の事務総長エドワード・カーター(インドYMCA)の秘書にアメリカ共産党のF.V.フィールドが就き、O.ラティモア、冀朝鼎(後国民党財務大臣秘書官)、ゾルゲグループの陳翰笙、H.ノーマンが研究員となり、1933年以降は日本の侵略を非難していった。太平洋問題調査会は1939年にはノーマン『日本における近代国家の成立』等を刊行し、米軍監修のプロパガンダ映画『汝の敵を知れ』では製作に協力し、田中上奏文や南京大虐殺が毒々しく紹介された。1936年、アメリカ共産党のF.V.フィールドとジャフェ、T.A.ビッソンらは、中国共産党を支援する雑誌『アメラジア(Amerasia)』を創刊し、IPRのラティモアも委員となった。T.A.ビッソンは中国で宣教師をした後、日本敗戦後はGHQで財閥解体を担当した。1937年6月、アメリカ共産党のF.V.フィールド、ジャフェ、T.A.ビッソン、ラティモア、スメドレー、エドガー・スノーらは延安の中国共産党基地を訪問し、毛沢東と面会した。1937年7月の盧溝橋事件以降、アメリカの反日運動が高まり、会員数400万人の「反戦・反ファシズムアメリカ連盟」はアメリカ平和民主主義連盟と改名し、全米各都市に「中国支援評議会」を設置し、その名誉会長にはルーズヴェルト大統領の母ジェームズ・ルーズヴェルトが就任し、副会長に胡適、理事にマーシャル陸軍参謀総長夫人が就任した。上海でゾルゲやスメドレーを支援していたルドルフ・ハンブルガーもソ連赤軍諜報部責任者で、その妻ルート・ウェルナーはゾルゲの助手であり、またジョン・ラーベの友人であった。なお、ゾルゲも南京戦を目撃していたといわれる。南京にいたジョン・マギーは撮影したフィルムをティンパーリの指示で「侵略された中国」と題して、中国YMCAのジョージ・フィッチが持ち出し、アメリカ各地でYMCA等によって上映された。1938年8月にフィッチらはニューヨークで「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」(以下、アメリカ委員会)を設立し、ジャフェ、ビッソン、M.スチュアートらアメリカ共産党員や、ハリー・B・プライス(燕京大学教授)、ヘレン・ケラーが発起人となり、1939年1月17日には名誉会長にヘンリー・スティムソン元国務長官が就任した。なお、ハリー・プライスの弟のフランク・プライスは中国の宣教師で、また国民政府国際宣伝処の英文編集主事だった。アメリカ委員会はパンフレット『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』『戦争犯罪』を作製し、ロビー活動を行った。こうした情勢に対して若杉要ニューヨーク総領事は1938年に、アメリカでの反日プロパガンダ組織には中国政府系、アメリカ共産党系、宗教人道団体系の三種あり、このような運動を背景に、当時のアメリカ世論では蒋介石と宋美齢は「デモクラシーとキリスト教の擁護者」として認知されているが、共産党系の狙いは日米関係を悪化させて支那事変を長期化させることによって日本がソ連に圧力を加えないことを目的としていると報告しており、また若杉は1940年に、反日運動を指揮するコミンテルンの目的は、日本を牽制することでアジア地域の共産化を助成していことなので、日本が反米政策を取ることに警鐘を鳴らした。しかし、近衛文麿内閣は、ゾルゲグループの尾崎秀実らの昭和研究会からの影響で、英米排除を掲げた「大東亜新秩序建設」を国是としていった。早稲田大学の有馬哲夫によれば、終戦後GHQとCIE(民間情報教育局)がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによってラジオ「太平洋戦争史」や「真相はこうだ」「真相箱」などで南京の暴行事件を報道し、日本人に「認罪」に導こうとしたとし、また現在の中華人民共和国が「南京大屠殺」を反日プロパガンダとして使う際には戦闘員の戦死、便衣兵の処刑、民間人の虐殺を故意に混同していると主張している。終戦後の連合国軍占領下の日本では全国規模での検閲が実施され、連合国への批判が禁止され、また神道指令によって神道行事が禁止され、さらに大日本武徳会が強制解散させられ、剣道、柔道、歌舞伎も禁止された。アメリカ合衆国は、ハロルド・ラスウェルのプロパガンダ研究を基礎にして、プロパガンダや情報操作によって相手国をしたがわせる心理戦を重視した。戦時中にも戦時情報局(OWI)や戦略諜報局(OSS)に心理戦部局が作られ、ハドレー・キャントリル、ジョージ・ギャラップ(世論調査で知られる)、フランク・スタントン(後CBS)らがいた。アメリカ政府は1945年11月1日にマッカーサーに対して占領政策の基本方針として以下を通達した。この方針によって民間情報教育局のケン・ダイクは『太平洋戰爭史」』とラジオ『眞相はかうだ』のメディアキャンペーンを行った。1945年12月8日からGHQの宣伝政策で全国の新聞各紙で連載された『太平洋戰爭史」』ではと報道された。また「太平洋戰爭史」 をドラマ仕立てにしたNHKラジオ『眞相はかうだ』が同年12月9日から放送され、そのなかで「南京の暴行」として、と放送した。有馬哲夫はこのラジオ『眞相はかうだ』は悪質なブラック・プロパガンダ(虚偽や誇張が含まれるプロパガンダ)であるとした。さらに有馬は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって日本人に周知が徹底されたことを知った上で謝罪するのは自由であるが、それを「日本人すべてが、それも現在の日本でなく、将来の世代も、謝罪と懺悔を続けるべきであると考え、そのようにほかの人にも説くならば、それは反日プロパガンダに加担することになる」と主張している。なお、朝鮮戦争で米兵が中国共産党捕虜になると共産主義者に改造されることが続出したことが報告され、中国共産党による「洗脳」の手順がエドワード・ハンターやロバート・J・リフトンらによって明らかにされていった。また撫順戦犯管理所での日本兵捕虜への思想改造なども報告されており、一部の元日本軍将兵は中帰連を結成した。一方、新井利男は戦犯たちは精神の自由を取り戻したとし、『週刊金曜日』認罪は「人類の解放という理想を体現した」と絶賛した。また、南京虐殺と対比される事件に旅順虐殺事件がある。旅順虐殺事件は日清戦争時の旅順戦の敗残兵掃討戦において発生っしたとされる事件で、2000名の中国市民が日本陸軍によって虐殺されたと当時NYワールド特派員クリールマンが報道し、中国の教科書ではそれ以上の犠牲が記述されているが、現在の研究ではNYワールド紙がライバル紙(ハーストのNYジャーナル)と扇情主義報道を競い合うイエロー・ジャーナリズムにおける報道であったことや、またNYヘラルド特派員ゲルヴィルが虐殺報道は捏造であると当時反論していたことやベルギー公使が虐殺は誇張であると報告していたことが判明している。ただし大江志乃夫は一般市民6000名虐殺は「絶対に動かしようがない事実」と主張するなど、日本の研究者では虐殺は史実であるとされる。マンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件について1938年著作「戦争とは何か」を出版した。この著作は当時イギリス、アメリカ、フランス、中国、日本で刊行され、日本軍の残虐行為について広く世界に知らしめ、戦後の戦犯裁判では検察側の主要な証拠として採用された。匿名で書かれた第1章「南京の生き地獄」、第2章「掠奪、虐殺、強姦」、第3章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第4章「悪魔の所為」までは、マイナー・シール・ベイツとジョージ・アシュモア・フィッチが執筆した。ベイツは金陵大学歴史学教授兼安全区国際委員会委員で、国民党顧問であった。フィッチはYMCA支部長で、国民党軍輜重部隊顧問だった。付録には南京安全区国際委員会による「南京暴行報告」 と書簡文」(国民党外交部顧問徐淑希編『南京安全区档案』にも収録)、および「南京の『殺人競争』」として日本の百人斬り競争記事が収録された。なお当時国民党外交部長官は王寵恵であった。ティンパーリは「南京暴行報告」 について日本軍占領当初安全区内2ヶ月の報告を「完全に取り揃えている」と評価し、以下のような暴行案件が掲載された。この報告で殺人事件は50人程度であった。しかし、ベイツは1万2千人の中国人非戦闘員の殺害を東京裁判で証言しており、この相違は説明がつかないと田辺敏雄は指摘している。しかし鈴木明、北村稔、東中野修道によって『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』、国民政府国際宣伝処長の曽虚白自伝などの中国側の資料が発見され、これらの資料よりティンパーリは蒋介石国民党政府中央宣伝部顧問に就任しており、国民政府の依頼を受けてイギリスやアメリカで戦時プロパガンダを行っていたことが判明し、著作の公平性が疑われると主張した。国民政府国際宣伝処長の曽虚白は以下のように著書で証言している。「2つの書物」とはティンパーリの本と、スマイス調査のことであった。また、ティンパーリはベイツへの書簡で「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚もできるでしょうが、ここでは劇的な効果をあげるためにもそれを犠牲にしなければならない」とセンセーショナルに書くと述べていた。田辺敏雄は、南京在住の米欧人が日本軍に対して悪感情を持ち、中国人に肩入れするのもごく自然のことであっただろうが、それらの記録は中立の立場とはいえないものだったとしている。一方、渡辺久志は、曽虚白の証言には問題があり、またティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのも1939年であったといい、井上久士は「曽虚白自伝」による中国側の依頼でティンパーリが書いたのは誤りとしている。笠原十九司は、曽虚白の証言は信憑性がなく採用できないとし、また、ティンパーリの本では主要な部分は南京在住者の手記で構成されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので捏造ではないとする。なお、ティンパーリやベイツと親しかった新聞記者松本重治の記録では両名とも日本への好感を持っていたが、日本軍の行動によって好感が失望に変わったと記されている。このほか、南京陥落の翌日に現地にいった外交官福田篤泰は、「残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されている」と述べ、T・J・ティンパレー『中国における日本軍の残虐行為』(1938年)の原資料には、フィッチ神父が現場検証もせずに中国人の訴えを記録したものもあるという。また中国軍の抵抗は激しく、急な進撃で日本軍は食糧が不足し、これが略奪の一因とした。 安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実であるとする。また、ティンパリー著作では日本の飛行機が「日機」と表記されるなど中国語寄りの表記があることから、日本留学経験のある中国人が執筆に協力しているのではないかと田中秀雄は指摘している。中国共産党に取材した『中国の赤い星』で高評を得ていたエドガー・スノーは、南京戦当時には上海にいたが1941年の著作『アジアの戦争』でと書いた。田辺敏雄によれば、国際救済委員会の前身は南京安全区国際委員会で、スノーはベイツやティンパーリの著作を参考にしていたが、「非戦闘員1万2千人殺害」でなく、「女、子供4万2千人虐殺」 にすり替わっており、「聞き伝えというのは当てにならないという好例で、そこに個人的感情、政治的立場が入りこめば、悪意を込めた方向に際限もなく変形していく」、また本多勝一ら大虐殺派の30万人虐殺説はスノーの「上海・南京間の30万人虐殺」説の影響を受けている可能性があると主張している。アメリカ陸軍省が監修したプロパガンダ映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』中の「南京大虐殺」シーンは、女性を連行する軍人の肩章や勲章が日本軍のものではない、腰に弾帯を巻いているが日本軍の拳銃は回転式ではないので必要がない、南京事件は12月なのに半袖姿がある、生き埋めにされる婦人の上に「三民主義」と書かれた紙片が載せられるなど、日本軍が南京で行った連行殺害の映像ではなく、中国軍が別の時期に行ったものではないかと大原康男と竹本忠雄は主張している。アイリス・チャンは『ザ・レイプ・オブ・南京』で、デビッド・バーガミニの著書『天皇の陰謀』(1971)に基づいて、昭和天皇が朝香宮鳩彦中将に日本軍指揮を命じ、その後朝香宮中将またはその参謀が「捕虜はすべて殺害せよ」との命令を発したと論じた。しかし、アメリカン大学名誉教授のリチャード・フィンはアメリカの歴史家はバーガミニが使った情報源に懐疑的で、天皇や朝香宮中将による命令について信頼に足る証拠はないと批判した。歴史家のバーバラ・タックマンはバーガミニの『天皇の陰謀』は「ほぼ完全に、著者の推論と悪意ある解釈を好む性向の産物」と非難した。"中島今朝吾日記を捕虜殺害命令とする説と論争については#陣中日誌を参照。"また戦時国際法に対して日本陸軍の1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」で「捕虜の待遇を含め国際法を守らなくてもよい」・「捕虜という名称をできるだけ使わない」という判断を現場に押し付けたのは、陸軍省の判断であり昭和天皇は無関係である。当時の日本の皇室が戦争における「人道的な側面」を重視した証拠の一例として、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁親王は陸軍将校だった経験から、戦後、「日中戦争時の中国人捕虜虐待への批判、日本軍がもともと国際人道法を大切にする組織であったのにも関わらずに日中戦争で人道を無視する行動をとったことへの悔悟」を述べている。1984年8月4日朝日新聞夕刊は、南京大虐殺を「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人」と報道した。アイリス・チャンは著書「ザ・レイプ・オブ・南京」の副題に「忘れられたホロコースト」と付け、南京の犠牲者は26万から35万にのぼり、東京大空襲や広島・長崎の原爆投下の犠牲者(犠牲者推計約23万8900人)よりも多く、南京事件を犠牲者は580万とも推計されるナチスドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)と同一視した。またチャンの著作が刊行された1997年11月30日にニューズウィークはチャンの著作と内容が重複する編集部書名記事「南京のレイプを白日の下に晒してみよう(EXPOSING THE RAPE OF NANKING)」を報道した。しかしリチャード・フィンはチャンの数字は誇張であり、当時南京にいたラーベは犠牲者を5万〜6万人、現地入りしたダーディン特派員は数千人と記録していると批判した。ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲルもラーベの記録はチャンの数よりはるかに少ないと指摘している。スタンフォード大学のデビッド・M・ケネディは「南京で起こった事件はホロコーストに見られる組織的な殺戮と同一視されるべきであると結論を下す理由を、チャンは読者に与えていない」と評した。『ニュー・リパブリック』誌のジェイコブ・ハイルブランは「ホロコーストはナチによる組織的、計画的、かつ政府組織をあげてのユダヤ民族の絶滅を目指す殺人行為だった。だが、南京破壊は戦争犯罪であり、中国人絶滅の試みなどではない。日本政府が事前に残虐行為を命令した証拠はなく、前線の軍隊が暴走した結果だろう。その意味では、南京でのような事件は歴史上、他にも多数、起きたといえる。センセーショナルな宣伝文句に間違った比較を使うことには納得できない」「事件はあくまで軍隊の一部による戦争犯罪であり、日本以外の国の軍隊も同じようなことはしてきたのだ」とコメントし、さらに中国政府は大躍
出典:wikipedia
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