畠山 昭高(はたけやま あきたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。河内国南半国及び紀伊国守護。本来の名は秋高である。文書等で本人が署名していると確認できる名乗りは全て「秋高」のみ。兄・畠山高政を補佐して三好長慶と争うが、永禄3年(1560年)、三好軍の攻撃を受けて居城の高屋城は落城し、高政や重臣の安見宗房・遊佐信教共々河内から紀伊に追い出されてしまう。永禄8年(1565年)、第13代将軍足利義輝が三好三人衆らに永禄の変で殺されると、高政は家督を弟の秋高(当時は政頼)に譲り、自らは義輝の実弟である一乗院覚慶の擁立に奔走する。高政や安見宗房らに支えられていた覚慶は、還俗すると名を足利義秋と改めた。そこで、政頼は義秋の一字を貰いうけ、また兄からも一字を取って「秋高」と名乗る。永禄11年(1568年)、足利義秋改め義昭が織田信長と共に上洛してくると、畠山家はそれまで義昭を支援していた事もあり、秋高は河内国の南半国を安堵され、高屋城に復帰した。しかし、北半国は三好義継に安堵されてしまった。元亀2年(1571年)、三好義継が反乱を起こすと松永久秀と共に河内の畠山方の諸城を攻撃してきた。秋高は宗房と共にこれに抵抗する。しかし遊佐信教が三好氏と同調する気配を見せたため、秋高と信教の仲は悪くなっていく。元亀3年(1572年)閏1月4日には信教による昭高暗殺未遂が発生した(『多聞院日記』)。しかし、足利義昭と信長の対立が激化すると当初は秋高・信教双方とも義昭方(『顕如上人御書札案留』)だったにも拘わらず、また河内の国人衆の大半が義昭派であった中、信長の威勢に怯んだ秋高は信長派に鞍替えしてしまい、家臣団と対立する。こうして元亀4年(1573年)6月25日、秋高は信教に攻められ、自害した。天正3年(1575年)の高屋城の戦いの後、河内は信長の家臣である佐久間信盛の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くも信盛の指揮下におさまり、畠山氏は紀伊国有田郡において命脈を保つのみとなる。しかし畠山氏の家督は兄畠山政尚の子畠山貞政に継承され、江戸時代にも高家として存続した。
出典:wikipedia
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