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北の富士勝昭

北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき、1942年3月28日 - )は、北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)出身の元大相撲力士。第52代横綱。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。少年期に父が事業に失敗し、3回に渡って夜逃げを経験した。1954年のある日、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業が行われていたので家族で見に行ったところ、恵まれた体格をした少年を見つけた横綱・千代の山から直々に「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」声をかけられ、これがきっかけで相撲に興味を持つようになった。その後も軟式野球を続けていたが、現役横綱から直接声をかけられたことが忘れられず、北海高等学校・北海道旭川南高等学校・北海道留萌高等学校の各野球部と、北海道増毛高等学校(当時の全国優勝校)・北海道天塩高等学校の各レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に勧誘されていたが、全てを断って中学校卒業と同時に出羽海部屋へ入門した。 靴を買う金すらなく、学生服に下駄履きという姿で上野駅に降りた竹澤は母からいざという時のため換金用に渡されたアズキ三袋を手にしていたが、すぐに転んで道に撒いてしまったという。1957年1月場所、竹美山という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏む。入門のために上京した際に船酔いしてしまい、これが原因で体重が激減してしまった。。3月場所は計量直前に大量の水を飮んで体重基準を通過した。あまりにも痩せていたことから期待に反して出世は遅れ、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」の規約をもう少しで適用され、廃業を余儀なくされるところだったが、当人もそれを知って奮起したという。入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの式守鬼一郎の付き人も務めていた。1960年には三段目まで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発した。それでも巡業に同行したものの、実家のある旭川市に到着したところで体調が限界に達したため入院、50日間に及ぶ入院生活を送った。このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から「北の冨士」と改名している。1963年3月場所で、ようやく十両に昇進した。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成した。1964年1月場所で新入幕を果たすと、この場所では13勝2敗という新入幕力士最多勝の新記録樹立という好成績で敢闘賞を受賞した。この場所、北の冨士と同じように好成績を挙げた清國勝雄・若見山幸平とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。同年3月場所に小結へ昇進すると同年7月場所には関脇に昇進、その取り口は「スピード相撲」と称された。1965年5月、柏戸剛・大鵬幸喜と共に拳銃をハワイから密輸入し、その証拠隠滅を図ろうと廃棄していたことが発覚して書類送検されたが、日本相撲協会からの処分はなかった。1966年7月場所後に大関に昇進するが、昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗で、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字である。北の冨士の大関昇進場所当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時でも意外と言われた大関昇進だった。それ故か北の冨士自身、新大関が決まった時も、まさか自分が大関に昇進するとは思っていなかったため何も用意しておらず、大関昇進の決定伝達を行う日本相撲協会からの使者を迎える際に必要な紋付や足袋も全く持っていなかった。そのため、紋付は当時兄弟子であった佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での昇進伝達式に間に合わせたという。大関時代に九重が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には、九重に付いていくか出羽海に留まるか大いに悩んだという。そして出した決断は、九重に付いて行き、所属も九重部屋に変えることだった。それまでは佐田の山がいたために2番目の気楽な立場に甘んじていたが、独立後は部屋頭となった。独立した当初の九重部屋は経営が決して楽ではなく、既に大関に昇進していた北の富士が巡業で九重と布団を譲り合う時期もあったという。その独立後最初の場所となる1967年3月場所では、佐田の山を倒して14勝1敗で悲願の幕内初優勝を決め、一緒に移籍した松前山武士も十両優勝を達成した。だが初の綱獲りが期待された1967年5月場所は、過度の緊張と稽古不足から5勝10敗、次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう。初の大関角番となった1967年9月場所は、四股名の「冨」に点を付けて「富」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。しかし、その後もしばらくは10勝前後の成績に留まり、その間に清國・玉乃島らの綱獲り挑戦(失敗)も発生した。1969年9月場所は大関・玉乃島と最後まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、11月場所は13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に協会は、北の富士の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、全委員の反対によって却下された。それでも1970年1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成し、場所後に行われた横綱審議委員会でも文句無しの評価を受け、同場所の優勝決定戦で北の富士に敗れ優勝同点だった玉乃島と共に、ようやく念願の横綱へ昇進した。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録だった。同時昇進した玉の海(玉乃島が横綱昇進と同時に改名)とは最大のライバルだったが、「島ちゃん」「北さん」と呼びあう親友でもあった。歴代横綱の親睦会である「横綱会」に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになり、玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を歌い、栃錦清隆に「びっくりした。時代が変わったものだねぇ」と言われた。北の富士の横綱土俵入りは雲龍型で行っていたが、1971年8月の巡業で例外がある。この時の巡業は北海道を中心に巡回したA班(北の富士が参加)と、東北地方から信越へ向かったB班(玉の海が参加)に別れて行われていたが、B班が秋田県南秋田郡八郎潟町での巡業中、玉の海が急性虫垂炎を起こして入院した。この一報を聞いたA班は北海道岩見沢市での巡業を終えて帰京しようとした矢先だったため、北の富士がB班に加入して土俵入りを行うこととなった。しかし、現地にある玉の海用の綱は北の富士と異なる不知火型だったうえ、玉の海の付き人の力士が雲龍型の綱締めを知らなかったため、北の富士は玉の海の土俵入り用具一式を借りて不知火型の土俵入りを行った。巡業とはいえ、横綱として雲龍型・不知火型両方の土俵入りを行ったことは史上初だった。両者の対戦は、1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。北の富士と玉の海の対戦は、両者が交互に優勝を重ねて「北玉時代」とも言われたが、長くは続かなかった。巡業中に入院した玉の海が、1971年9月場所後に虫垂炎が悪化したために緊急入院する。早急に手術して経過は順調だったが、退院前日だった同年10月11日、併発した右肺動脈幹血栓症による急性冠症候群で急逝した。玉の海の早過ぎる死に、巡業先の滋賀県坂田郡米原町(現:米原市)で訃報を聞いた北の富士は、人目をはばからず号泣した。同年11月場所に13勝2敗で8回目の優勝を連覇で遂げた千秋楽の11月28日は、玉の海の四十九日の法要が行われたため、北の富士は優勝パレードを後回しにして駆けつけた。玉の海との突然の別れから間もない1971年11月場所中、暴力団関係者からの祝儀を受けたことが発覚したため、協会から戒告処分を受ける。事件そのものについても文部省(当時)が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。土俵でも一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は不振が続いてしまう。3連覇の期待がかかり、優勝争いの本命とみられていた1972年1月場所では、初日にいきなり大関・琴櫻との取組が組まれて敗れると、8日目の関脇・貴ノ花戦では、北の富士のつき手・かばい手か、貴ノ花が生き体か死に体なのかで大きな話題となった。25代木村庄之助は北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、物言いによって北の富士の勝ちとなった(決まり手は浴びせ倒し)。しかし、2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士は「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っている。その後、10日目まで6勝4敗、さらに12・13日目と連敗する乱調ぶりで、14日目より胃炎・高血圧などの体調不良で途中休場となった(7勝7敗1休)。これにより、1967年9月場所 - 1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは26場所で止まった。北の富士の不振によって、この場所は千秋楽まで4敗が3人、それを5敗の力士5人が追う大混戦となった。3月場所も序盤から取り零しが続いて早々に優勝争いから脱落し、勝ち越したものの9勝6敗に終わる。その同年3月場所7日目、貴ノ花との結びの一番では、北の富士が左足で外掛けをかけながら貴ノ花を土俵外へ追い詰めたが、土俵際で両者がほぼ同時に倒れ込み、またも物言いが付く大相撲となった。式守伊之助の軍配は北の富士に挙がったが、協議によって北の富士の左足が僅かに先に出ていたと判定され、北の富士の勇み足・行司差し違えで貴ノ花の勝利となる。この一番は先場所も北の富士のつき手・かばい手を巡って揉めており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が軍配を差し違えてしまう珍事となった。次の5月場所、北の富士は8日目まで3勝5敗の絶不調、9日目には横綱として前代未聞の「不眠症」で途中休場した。休場するには医師の診断書が必要であるが、極度の不振とはいえ、身体に悪いところはどこにも見当たらない。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」と医師がようやく診断書を書いた、というエピソードが本人の口から語られている。続く7月場所を右手中指の脱臼で全休したが、休場中にハワイへ旅行をしていたことが明るみに出て協会から注意を受けた。北の富士は直ちに帰国して詫び、場所後の夏巡業に参加した。同年9月場所は3回目の全勝優勝を果たして完全復活をアピールするが、一人横綱の8場所中で輪島大士(同5月場所)と高見山大五郎(同7月場所)が初優勝を果たし、貴ノ花と輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。1973年1月場所後に琴櫻が横綱へ昇進して2人横綱となると、3月場所には14勝1敗で10回目の優勝を果たし、7月場所にも14勝1敗で琴櫻と決定戦を行うなど、健在ぶりを印象づけた。だが、それ以後の1年間は皆勤が1場所だけと急速に衰えていき、3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に旭國斗雄、2日目に大受久晃と連敗して体力の限界を感じ、現役を引退した。年寄・井筒(12代)を襲名し、引退相撲は翌1975年2月2日に行われ、太刀持ち・北の湖、露払い・輪島を従えて横綱土俵入りを執り行っている。断髪式の後に白のタキシード姿で登場し、自らの持ち歌を披露して会場・関係者を驚かせた。また、短期間に40kg近いダイエットを敢行し、ダイエット後のスリムな容姿で周囲を驚かせた。現在でも元力士とは思えぬ体型を維持している。井筒部屋(現在の部屋と別系統)を興したが、1977年に千代の山が没すると、12代九重を襲名し自らの井筒部屋と合同させる形で九重部屋を継承した。その後、先代から引き継いだ千代の富士を第58代横綱に育て上げ、昭和の大横綱として大成させた。1987年には北勝海を第61代横綱に育成、さらに孝乃富士・巴富士を小結まで昇進させた。。一方で、前妻と離婚して不惑を超えてから元ホステスと再婚したり、交友関係や部屋の力士養成員(北天佑勝彦の弟だった)の素行不良に対する制裁を指揮していた疑惑をかけられるなど、スキャンダルで紙面を賑わすことも多かった。なお、千代の富士の大関昇進時の伝達式では独身だったため、亡き千代の山の夫人に同席をお願いしている。1981年7月場所後、千代の富士が横綱に昇進した時には、「ウルフ(千代の富士のあだ名)、辞める時はスパッと潔く・綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と、千代の富士に引き際の美学を説いた。。1992年には引退したばかりの千代の富士に九重部屋を譲って、18代陣幕に名跡交換 し、自身は九重部屋の部屋付きの親方となった。しかし、直後に千代の富士の13代九重と金銭問題で仲違いし、1993年10月に北勝海の8代八角が興した八角部屋に移籍した。但し、後に千代の富士との関係は改善された模様である。審判部副部長(役員待遇)時代に不祥事(知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていた)を起こし、一度委員(無任所)に降格されながらも審判部副部長に返り咲き、理事昇格後は長らく審判部長を務めた。その後は新設された広報部長を務めた。かつて九重部屋の弟子だった千代の富士(のち九重親方)が2016年7月31日、61歳で膵臓癌により死去。2013年1月に大鵬、2015年11月は北の湖前理事長と、昭和の大横綱の相次ぐ訃報に、北の富士は「何でだろうねえ、強い順番で逝っちゃうんだ…」とショックを隠せず、「これは、もう若いも何も…千代の富士本人が一番悔しいでしょう」と追悼のコメントを述べていた。1998年に相撲協会理事選の候補から外されたことで日本相撲協会を退職。将来は理事長に就くことを期待されていたが本人は「もともといつまでもやる気はないよ。地位にすがるのはみっともないだろ」と後年話している。その後はNHK専属で相撲解説を務めている。大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるケースは、テレビ放送開始以来初めてである。解説者としては歯に衣着せぬ切れ味鋭く、かつわかりやすい解説が好評を博しており、同相撲解説者の舞の海秀平らと共に、現在大相撲中継の名物ともなっている。2002年2月には満60歳を祝い太刀持ち・千代の富士(九重親方)、露払い・北勝海(八角親方)と共に、横綱昇進を果たしたかつての弟子二人を従えての還暦土俵入りが行われたが、相撲協会から退職していたために両国国技館が使えず、都内のホテルを借りての還暦土俵入りとなった。取り組み前後にNHKアナウンサーと北の富士の会話において、様々な語録が披露されている。自身が「黄金の引き足」と言われたほど、引き技の切れが鋭かったことから、千代大海龍二・千代天山大八郎・北勝力英樹の引き技による自滅など、ふがいない相撲に対しては容赦ない叱責が飛ぶこともあった。千代天山が引き技で敗北した際、「げんこつをあげたくなるくらい悪い相撲」と酷評した。この時は、取組前まで千代天山の素質などを大いに褒めていたが、九重部屋及び八角部屋の(自身の孫弟子となる)力士に対するコメントは引き技に関するもの以外でも辛いことが多い。その一方で、解説者(それも優勝10回を誇る横綱経験者)であるにも関わらず、特定の力士(松鳳山、舛ノ山等)についてファンだと発言するなど、一方的な解説者目線に限定されない角度からの相撲の見方も好評を得ている。2010年より東京中日スポーツにて自伝「はやわざ御免」を連載している。北の富士自身が1963年11月場所で達成して以来、十両の地位での15戦全勝優勝は長らく出てなかった。このため、十両で終盤まで全勝の力士がいると「もし全勝優勝したら僕からも何かやりたいね」と言っていた。2006年3月場所、把瑠都凱斗が十両で北の富士以来43年ぶりに15戦全勝を達成すると、実況のアナウンサーによって全勝を祝い「北の富士賞」として紹介された。把瑠都の十両優勝インタビューの際に、アナウンサーが「北の富士関は横綱まで行きましたが、把瑠都関はどこまで行きたいですか?」と言った時、北の富士は「横綱、横綱」と発言するなど横綱昇進を期待していた。その後の把瑠都は2010年5月場所で大関昇進を果たし、2012年1月場所には14勝1敗で幕内初優勝。しかし翌3月場所に綱獲りに挑んだが失敗、さらに度重なるケガに泣き2013年1月場所で関脇陥落、それから十両まで陥落し2013年9月場所前に現役引退となった。立合いの搗ち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げあり外掛けありと躍動感ある取り口だった。引き技も早かった。また左脇が固く、右四つの型をもつ玉の海に右差しを許すことがほとんどなく、これは千代の山譲りといわれる。外掛けも自信があり「俺の外掛けを内掛けに返したのは玉の海くらいだ」と言っていた。勢いに乗ると手がつけられないが、反面守勢にまわると脆く、無謀な首投げや二丁投げをみせてかえって体勢が悪くなることもあった。現役当時から栃王山とキャバレー「月世界」を共同経営し、札幌市や名古屋市で相撲料理店「ちゃんこ 北の富士」を経営するなど、熱心に副業を手がけていた。さらに、低音を生かした歌声が評価されてレコード吹き込みを勧められ、1967年に発売した「ネオン無情/チャンコ花唄」は50万枚を売り上げた。その後も何枚かレコードを出して、1969年には当時の人気歌番組「夜のヒットスタジオ」にも「歌手」として出演している(曲は「君を慕いて」)。しかし、大関で成績が停滞していた時期と重なったために、相撲解説者の天竜三郎から「本職は歌手で相撲は内職だろう」と批判されたこともあり、横綱昇進後は歌手との兼業を控えるようになった(2007年に三保ヶ関が28年振りにリリースした新曲「水玉のスカーフ」のカップリング曲、「女房に捧ぐ」では三保ヶ関とのデュオで久々に歌声を披露している)。

出典:wikipedia

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