高橋 英樹(たかはし ひでき、1944年〈昭和19年〉2月10日 - )は、日本の俳優・タレント・司会者。身長181cm、体重80kg、血液型B型。本名は同じ。アイウエオ企画所属。妻は高橋所属事務所の取締役でもある小林亜紀子。長女はフリーアナウンサーの高橋真麻。千葉県木更津市生まれ。父親は教職者で、高校の校長を務めた。命名は当時の東條英機首相に因んだものである。船橋市立二宮小学校、千葉市立検見川小学校、千葉市立緑町中学校を経て、私立市川高等学校入学。1961年、高校在学中に日活ニューフェース第5期として日活株式会社に入社。第5期の同期には、中尾彬や竜崎勝(高島彩の父)がいる。同年の映画「高原児」でデビュー。芸能界入りのきっかけは厳格な父への反発心からだった。父は芸能界入りに猛反対したが、意外にも日活の受験は父の命令だったという。この時のことについて「芸能界は安定した収入が保証されてないから親としては心配だったと思います。父からは『芸能界に入るなら勘当だ』と言われました。ただ、日活の試験は父の命令で受けたんです。それでいて、万が一、合格したら勘当だと。矛盾しているようですが、試験に落ちてあきらめさせようとしたんですね。合格後は父とは口をきかずに半勘当状態でした」と語っている。1962年(昭和37年)、撮影所内で事故死した赤木圭一郎の代役として日活より『激流に生きる男』で主演格となる。大部屋(仕出し)を経験せず、いきなり役付きで出演するという、当時の新人俳優としては異例のデビューであった。恵まれたスタートだったものの、筋肉質のかっしりとした体型で、しかもカメラマンが下から写しても様にならなかったほど股下が短いことが原因となって、アクションや青春ものでは主役がなかなか回らず、『高原児』では共演の浅丘ルリ子の弟役にも関わらず、浅丘に「お兄さん役だと思った」と言われるなど、10代ながらも大人びた風貌から実年齢より上の役柄が多かった。その一方で、浅丘にはデビュー当時から公私にわたって指導を受けており、当初は千葉市より電車で調布市の日活撮影所まで通っていたが、石原裕次郎の口利きで調布市の浅丘宅に下宿し、食事を浅丘の母親に作ってもらったりと、物心両面で世話になったことから、浅丘とは今でも実際の姉弟のような関係で、頭が上がらないとのこと。1962年に日本大学芸術学部入学(翌年に中退)。1963年(昭和38年)、『伊豆の踊子』では吉永小百合の相手役を務める。同年以降、デビュー当時から落ち着いた存在感のあった高橋は石原裕次郎より「お前は脚が短いから着流し姿で任侠物はどうだ?」とアドバイスを受け、『男の紋章』シリーズを初めとする任侠映画の主演スターとして活躍するようになる。この時期、浅丘や浜田光夫など日活の若手俳優の多くが裕次郎を慕って石原プロモーションに在籍する中、堅実かつ貪欲に自らの可能性を探っていた高橋は淡島千景の事務所に所属。『男の紋章』への出演が決まった18歳の頃から一時、淡島と舞台作品で数多くの相手役を演じた二代目 尾上松緑の門弟となり、1年のほぼ半分を松緑一座の舞台で「時代もの」を演じるための着付けや所作、基本動作、日本舞踊など基礎を徹底的に学んでいる。1966年(昭和41年)には青春映画『けんかえれじい』の主役・南部麒六を演じた。短所を逆手にとる思わぬ形で芽が出た高橋だったが、映画界の斜陽、観客数減少に歯止めがかからず、日活は1971年(昭和46年)秋に低予算のポルノ映画制作に路線変更が決定する。これを機に高橋は日活を離れ、本格的にテレビへ活躍の場を移す。1968年(昭和43年)、NHK大河ドラマ司馬遼太郎原作の『竜馬がゆく』で土佐勤王党の盟主・武市半平太を演じる。これが初の時代劇出演となり、以後高橋は大河ドラマには欠かせないキャストとなる。特に司馬原作の作品では重要な役柄を演じており、司馬の存命中に大河ドラマとなった作品にはすべて出演している。1973年(昭和48年)の『国盗り物語』ではストーリー後半の主役である織田信長を演じ、当たり役となる。司会を務める歴史番組『日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒〜宿命の対決が歴史を動かした! 〜』(BS-TBS)では信長を取り上げるたびに「自分は信長の生まれかわり」、「信長を演じる時は、台詞を覚えなくても自然と出てくる時がある」と公言するほど入れこみ、信長役が自らにとってターニングポイントだった事を認めている。『国盗り物語』の後、しばらくは高橋に信長の強烈なイメージがついてまわり、イメージの払拭、また様々な経験を積むため、しばらくの間は数多く寄せられた信長役での出演依頼を断っていたが、19年を経た1992年(平成4年)の正月時代劇『戦国最後の勝利者・徳川家康』(テレビ朝日系)で久々の信長役を受け、1994年(平成6年)にはテレビ東京系『12時間超ワイドドラマ 織田信長』に主演、年輪を重ねたうえでの新たな信長像に挑んでいる。『国盗り物語』以降の大河ドラマでは、1977年(昭和52年)の『花神』では司馬の肝煎りで河井継之助を、1990年(平成2年)の『翔ぶが如く』では島津久光を演して芸域を広げている。また、2008年の宮尾登美子原作『篤姫』では久光の兄島津斉彬を演じた。2015年の『花燃ゆ』では、島津斉彬と次期将軍問題で対立していた井伊直弼を演じる。師匠である二代目 尾上松緑は、第一回大河ドラマ『花の生涯』で主人公・井伊直弼を演じており、師匠と同じ役を演じる事について「非常に感慨深い」と語っている。この間、民放でも数々の時代劇に主演した。1970年(昭和45年)の『旗本退屈男』(フジテレビ系)を皮切りに1970年代から1990年代前半にかけて時代劇俳優としての地位を確立する。1976年(昭和51年)の『桃太郎侍』(日本テレビ系)では主役を務めるも、当初の設定は「基本的に人を斬らず、諭して改心させる」というもので、長屋の喧嘩を諌めるような人情話もあり、放映当初の視聴率は芳しくなかった。ある日主題歌を歌っていた三波春夫とゴルフをしていた際、三波から「桃太郎、お地味ですねえ。もっと時代劇はすっきりしないと。高橋さんはお派手がお似合いですよ。」と言われたことをきっかけに、高橋の提案でそれまで原作に沿った“峰打ち”だったものを、大人数を斬り捨てる派手な殺陣に変え、クライマックスの衣装を黒の着流しから三波ばりの絵柄の入った派手なものにし、登場の際には般若の面を被り、高倉健の任侠映画からヒントを得て「ひとつ、人の世の生き血を啜り…」と、殺陣のさなかに口上を述べるように変えたところ、人気が急上昇し、その後番組は5年間にわたり継続された。また1982年(昭和57年)の『遠山の金さん』(テレビ朝日系)では、「刀を持たない町人(に扮した遠山金四郎)の武器」として、濡らした手拭いを使った殺陣が人気となった。1987年(昭和62年)からは『三匹が斬る!』(テレビ朝日系)に出演。役所広司、春風亭小朝とのコンビネーションが人気となり、1995年(平成7年)まで7シリーズが制作された。高橋は6作目まで、リーダー格の「矢坂平四郎」役を演じ、前述の2作品と並んで高橋の代表作となった。テレビ東京系の正月恒例の新春ワイド時代劇では、12時間超ワイドドラマと銘うたれていた1991年に『次郎長三国志』で初めて主演、1994年(平成6年)に上記の信長で再び主演した後、2007年(平成19年)『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』では柳沢吉保を、その後2009年(平成21年)には『寧々〜おんな太閤記』で徳川家康、2010年(平成22年)には『柳生武芸帳』で柳生宗矩を演じた。また、2008年(平成20年)には上記『篤姫』に出演、2009年(平成21年)には『坂の上の雲』でも児玉源太郎を演じ、近年は主演以外でも活躍している。既存の時代劇に懐疑的・批判的な一面もあり、1973年(昭和48年)の『ぶらり信兵衛 道場破り』(原作・山本周五郎、フジテレビ系)のような軽妙な人情劇や、近年では2004年(平成16年)〜2007年(平成19年)の『慶次郎縁側日記』(NHK)など、殺陣よりも人間ドラマや推理劇をメインとした作品にも出演、「それなりのキャリアを積んだからといって “黄門様” になろうとは思わない」とも発言している。2012年(平成24年)2月19日放送の『必殺仕事人2012』(ABC - テレビ朝日系)では、人生初の悪役を演じている。映画では1973年(昭和48年)、松竹作品『宮本武蔵』(監督:加藤泰)に主演。1978年(昭和53年)日本アカデミー賞が創設される際に、同賞の創設に尽力した岡田茂東映社長(当時)に、高橋のそれまでの映画界への貢献から「会員になれ」と言われたが「映画に出ていないからならない」と固辞した。以降も原点である映画への思いは持ち続けていたが1976年(昭和51年)以降は映画から離れ、テレビ・舞台を中心に活動している。二代目 尾上松緑の下で日本舞踊などの素養を培って磨いた殺陣には定評があるが、剣道・その他の武道の有段位資格者ではない。これは、『三匹が斬る!』の役づくりために一時期学んでいた小野派一刀流の師範から「あなたが演じようとしているのは“剣の達人”だが、今から学んでも名人にはなれない。例え段位を取得したとしても、太刀捌きがその段位内の範疇に納まってしまうから、逆にあなたは取らない方が良い」とアドバイスされた事がきっかけになっている。2007年(平成19年)3月4日に高橋が『いつみても波瀾万丈』に出演した際、時代劇作品が減り、最近は殺陣をやっていないことについて、「本当は殺陣やりたいんですよ。自信あるんです!」とアピールしていた。現代劇作品にも、1974年(昭和49年)の『6羽のかもめ』(フジテレビ系)以降、1979年(昭和54年)〜1981年(昭和56年)の『判決』(テレビ朝日系)など、時代劇作品と並行して数多く出演を続けており、近年は2時間サスペンスにも主演している。特に1990年(平成2年)に初めて演じた西村京太郎作品の十津川警部役が知られ、2000年(平成12年)からはそれまでテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」で十津川を演じていた三橋達也から役を引き継いた。毎年新作が制作され、十津川を演じた本数は交代後27作に達している《2014年(平成26年)現在》。1986年の『ドキド欽ちゃんスピリッツ!!』へのレギュラー出演以来、様々なバラエティ番組やトーク番組にレギュラーまたはゲストとして出演している。きっかけの一つは、一人娘の真麻が小学生だった当時『とんねるずのみなさんのおかげです』の大ファンだった事からこの番組のコントに出演したことや、当時自分の出演していた時代劇のポスターを見ていた小学生の子どもが発した「このおじさん、誰だろう?」との言葉がきっかけだという。コントではシャネルやルイ・ヴィトンの柄をあしらったスーツを着た嫌味な大物俳優を演じ、英樹自身もこの「ステレオタイプな大物俳優のパロディ」というコミカルな役どころを嬉々として演じたという。当時『とんねるずのオールナイトニッポン』で語られたところによると、その返礼として、とんねるずから真麻宛の「サイン色紙」が届けられたという。後年、真麻がフジテレビアナウンサーとなって以降は、番組のコーナーレギュラーに起用(「きたなトラン」や「モジモジ君HYPER」など)され、高橋親子との交友は続いている。また、真麻が中学生の頃、SMAPの中居正広のファンになり、クラスで人気だったSMAPと父との共演を望み「どうしてパパはSMAPと共演できないの?」と言われたことに奮起、英樹自らABCのスタッフと出演交渉し、1995年(平成5年)に『キスした?SMAP』にゲスト出演している(7月8日放送分。ただし、この回に中居は出演していなかった)。2007年(平成19年)3月4日に英樹が『いつみても波瀾万丈』に出演した際には、真麻からの「こんな理想的なパパはいないと思う」との内容の手紙が紹介され、うっすら涙ぐむ場面も見られた。2010年(平成22年)6月に、総務省から「地デジ化応援隊」隊員のひとりに選ばれた。他のメンバー5人とともに、アナログテレビジョン放送終了までの1年間、ボランティアの形でCMや地デジ推進イベントに出演、アナログ放送終了に向け、地デジへの切り替えを呼び掛けた。2011年(平成23年)、芸能生活50周年の節目にアニメーション作品『劇場版ポケットモンスター ベストウイッシュ ビクティニと黒き英雄 ゼクロム・白き英雄 レシラム』で、ポケモン・ゼクロム役として初めてアニメ声優に挑戦した。同時に、声の出演ながら36年ぶりに映画に復帰することともなった。司会を務めている同年の『第33回隅田川花火大会』テレビ中継(テレビ東京)では、小さな女の子からポケモンの出演者と気付いてもらえたエピソードを語った。2012年(平成24年)4月、神奈川県横浜市に本社を置くブリーズベイホテルの名誉支配人に就任した。2013年(平成25年)3月16日、東京都台東区立浅草公会堂で行われた『第29回浅草芸能大賞授賞式』および『第30回浅草名人会』並びに平成24年度『スターの手型』顕彰式に出席。第29回浅草演芸大賞・大賞を受賞。2014年(平成25年)1月2日にテレビ東京で放送された新春ワイド時代劇『影武者徳川家康』で石田三成の家臣、島左近役で出演。高橋は1998年(平成10年)4月 - 7月、テレビ朝日で同作品が連続ドラマとして放送された際、主人公である徳川家康と世良田二郎三郎の二役を演じている。ちなみにこの時の島左近役は寺田農だった。下戸のため酒は嗜まないが、日活の若手スターとして活躍していた頃から、月20日間は銀座のクラブや京都で遊び、石原裕次郎、小林旭といった先輩俳優にならって、後輩たちに奢りまくっていた。しかし、そうした「スター然」とした放蕩三昧の生活で、飲み代の支払いは全て「ツケ」で会社からの前借りを繰り返し、20代にして借金が当時の金額で3500万円ほどに膨れ上がっていた。高橋自身、結婚後にこの事実を知るが、妻や妻の両親・家族は「借金も財産、信用のうち」とこれを寛大に受け入れる。その後、高橋は夜遊びをやめ、年間70本に及ぶテレビの仕事をこなし、2年ほどでこの借金を完済している。「趣味は家族」と公言するほど妻子を大切にし、唯一ともいえる趣味はゴルフ程度だったが、2003年(平成15年)7月〜9月に放送された『趣味悠々 鶴太郎流墨彩画塾』(NHK Eテレ)へ出演し、講師の片岡鶴太郎から手ほどきを受けた事をきっかけに日本画と書道を始め、各所で個展を開催、自身の公式サイトでも書道作品の一部を公開している。若い頃は見かけに寄らず虚弱で、風邪をひきやすかったという。当初は乾布摩擦を励行していたが、ある日、本で読んだ「たわしで身体を擦る」という健康法に興味を持ち、これを取り入れている。身体前面は自らが、背中は付き人に擦らせている。それが済むと、今度は両手で顔を思い切り100回ほど叩いて刺激を与えている。以来「亀の子たわし」を愛用し、仕事に入る直前には「気合を入れる」「1回血液を全身に廻らせて新たな役作りに入る」という意味合いで、この健康法を30年以上続けており、すっかり風邪をひかなくなったと語っている。一方で、テレビドラマでは『船長シリーズ』(土曜ワイド劇場)などで鉄道連絡船や長距離フェリーといった大型旅客船の船長役を演じているが、高橋自身は海上の乗り物に弱く、むしろ船酔いしてしまうという。また、毎年春先になると、ひどい花粉症に悩まされ、十数連発ものくしゃみに見舞われるとのこと。59歳の頃には原因不明の“めまい”の症状に襲われ、以来しばらくの間、病院からテレビ局に直行するという生活を余儀なくされている。そんな時に出会ったのが同年代の芸術家である、宮崎県在住のガラス作家、黒木国昭と洋画家でフレスコ画の国内第一人者である絹谷幸二で、二人の制作現場を見せてもらう機会があり、そこで間近に作品に取り組む強いエネルギーに接する中で、いつしか症状も和らいでいったという。以来「海外旅行先でも真っ先に訪れるのは美術館。エネルギーをもらいに。」と語るほど、絵画や美術作品を愛好している。雑誌歴史人に、「高橋英樹の歴史通」を掲載しており、それらをまとめたものが、「高橋英樹のおもしろ日本史」として、出版される。この本により、第2回野村胡堂文学賞特別賞を受賞する。
出典:wikipedia
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