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パラリンピック

パラリンピック()は、国際パラリンピック委員会(、略称:IPC)が主催する主に肢体不自由の身体障害者(視覚障害を含む)を対象とした競技大会の中で世界最高峰の障害者スポーツ大会。オリンピックと同じ年に同じ場所で開催される。2004年のアテネ大会から夏季オリンピックと共同の開催組織委員会が運営する。パラリンピックは、国際パラリンピック委員会の登録商標である。各国にパラリンピック委員会を設け、商標の保全を義務付けている。日本においては、元厚生労働省所管であった公益財団法人日本障害者スポーツ協会の下に日本パラリンピック委員会が設立され、商標保護に努めるとともに、日本選手団の派遣事業を行っている。日本国内において「パラリンピック」という文言を使用するためには、日本障がい者スポーツ協会の承認を必要とし、オフィシャルサポーターと呼ばれるスポンサー契約を結ぶ必要がある。なお、パラリンピックを見出しにおいて文字数の関係で『パラ』と省略したり、『パラ五輪』と記載するメディアも存在する。オリンピックの直後に同じ場所で開催するというIPC(国際パラリンピック委員会)の戦略が奏功し、格段にマスコミに取り上げられる率が高く、数ある「障害者スポーツ大会」の中で、現在、最も知名度が高くなり商業的にも成功をおさめつつある。しかし障害者スポーツの競技大会は、聴覚障害者のためのデフリンピックや、知的障害者のためのスペシャルオリンピックスなど各障害ごとに別々の理念と大会と歴史が存在している。またパラリンピックは開始当初から車椅子使用者のために実施されてきた大会が、その他の障害者にも拡大された大会である。日本では、ながらく厚生労働省所管となっていたが文部科学省に移管され、オリンピックとの一元化が図られることとなった(「福祉」から「スポーツ」へ節参照)。20世紀初頭から、散発的な障害者スポーツの大会は記録されているが、当大会の起源とされているのは、1948年7月28日、ロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会とされる。これは、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたものである。ストーク・マンデビル病院には、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱により、この日、車椅子の入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われた。この競技会は当初、純然たる入院患者のみの競技大会であったが、毎年開催され続け、1952年には国際大会となり、第1回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催された(参加国はイギリスとオランダの2カ国)。1960年には、グットマンを会長とした国際ストーク・マンデビル大会委員会が組織され、この年のオリンピックが開催されたローマで、第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催された。この大会は現在、第1回パラリンピックと呼ばれている。第2回大会は、1964年にこの年の夏季オリンピックが開催された東京で、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会が行われた。大会は2部構成で、第1部が国際ストーク・マンデビル競技大会、第2部は全ての身体障害を対象にした日本人選手だけの国内大会として行われた。現在、国際的には第1部のみがパラリンピック東京大会とされているが、日本国内では第2部の国内大会を合わせて呼ばれることがある。当大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は、東京大会後は定着せずいったん中断することとなり、1972年のハイデルベルク大会で復活する。1976年、国際ストーク・マンデビル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との初の共催でトロント大会が開催され、同年、第1回冬季大会、エーンシェルドスピーク大会も開催された。1984年のニューヨーク・アイレスベリー大会は当初アメリカの2都市での開催予定であったが諸事情により2国開催となった。1988年、ソウル大会より正式名称が「パラリンピック」となった。また、IOCが当大会に直接関わる初めての大会ともなり、この大会からは再び夏季オリンピックと夏季パラリンピックの同一開催地が復活した。なお、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは1992年のアルベールビル冬季大会からである。1989年には国際パラリンピック委員会(IPC)が設立され、これ以後、継続した大会運営が行われるようになった。IPC本部は、ドイツのボンに置かれている。1998年の長野パラリンピックにおいてクロスカントリースキー種目だけだが初めて知的障害者の参加が認められ、その後の種目採用の拡大が期待された。2000年のシドニーオリンピック時にIOCとIPCとの間で正式に協定が結ばれ、オリンピックに続いてパラリンピックを行うことと、IPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催は正式に義務化された。一方で長野大会で参加を認められた知的障害者について夏季大会でも数種目を採用されたが、その内のバスケットボールの試合でスペインチームが複数の健常者を紛れこませて金メダルを攫う不正行為が発覚した。これにより金メダルの剥奪だけでなく知的障害者参加の全ての種目が追放され、再び知的障害者はパラリンピックへの道を閉ざされることとなった。2001年にはIPCとIOCは、スイスのローザンヌで合意文書に調印し、パラリンピックとオリンピックの連携を強化した。2008年夏季大会、2010年冬季大会からIOCはパラリンピックについて運営・経済両面においてIPCを支援。また、パラリンピックの構成や保護を強化するとともに、パラリンピック競技大会の組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合されることになった。2012年のロンドンオリンピック時のパラリンピックでは知的障害者に閉ざされていた門戸が12年振りに再び開かれ陸上競技と水泳、卓球の3競技が実施された。しかし次の冬季大会のソチパラリンピックに知的障害者の参加する競技の採用はなかった。元々、パラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピック(Olympic)の造語であったとされる。国際パラリンピック委員会によると、"Paralympic"の表記が最初に確認されたのは、1953年のイギリスの新聞の見出しであるが、その名称の由来は不明である。一方で、「パラ」+「リンピック」=「パラリンピック」という語呂合わせは日本人の発案で(個人名は不詳)、1964年の第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会を東京で開催した際の「愛称」として初めて使用したものであるとされる。IOCは、1985年パラリンピックという呼称を用いることを正式に認めるとともに、半身不随者以外も参加するようになったことから、パラレル(Parallel、平行)+オリンピック(Olympic Games)で、「もう一つのオリンピック」として再解釈することとした。これに伴い、1988年のソウル大会からIOCが直接関わることとなり、「パラリンピック」が正式名称となった。パラリンピックの象徴であるマーク(パラリンピックシンボル)は、人間の最も大切な3つの構成要素「心(スピリット)・肉体(ボディ)・魂(マインド)」を赤・青・緑の三色で表している。1988年のソウル大会で初めてこの旗が使われたときには、青・赤・黒・緑・黄の5色であったが、オリンピック旗と区別するために、1994年のリレハンメル大会から3色の旗に変更された。そして、2004年のアテネ大会から3代目となるロゴに変更され、現在に至っている。ちなみに、2008年の北京大会では、シンボルの形・色は同じであるが、3色の意味を中国式に赤を天、青を地、緑を人としていた。第1回大会から第10回大会までの参加国数及び参加人数は、厚生労働省の発表による数値(日本障害者スポーツ協会の発表数値とは異なる)、第11回大会以降は日本障害者スポーツ協会の発表による数値。第1回大会から第7回大会までの参加国数及び参加人数は、厚生労働省の発表による数値(日本障害者スポーツ協会の発表数値とは異なる)、第8回大会以降は日本障害者スポーツ協会の発表による数値。パラリンピックの各競技種目は、同一レベルの選手同士で競い合えるようにするため、障害の種類、部位、程度によってクラス分けが行われている。クラス分けは競技種目によって異なるが、陸上競技であれば視覚障害、肢体不自由、知的障害などに大別され、肢体不自由でも原因が脳性麻痺であるか手足の切断であるかなどで区分され、さらに障害の軽重により種目ごとに及ぼす影響で階級化される。たとえば、肢体不自由などの障害の場合は「LW」等の競技ごと・障害の種類ごとの記号+度合いを数字で表す。障害種は「運動機能障害」「脳性麻痺」「切断など」「視覚障害」「車いす」などがある。現在は聴覚障害者・精神障害者の出場は不可であり、知的障害者に関しては参加可能となっている。ロンドンパラリンピックにおいては、陸上競技トラック種目(T)の階級は、T11〜T13は視覚障害、T32〜T38は脳原性麻痺、T42〜T46は切断・機能障害、T51〜T54は脳原性麻痺以外の車いす使用者となっていた。さらに、T11及びT12の選手は伴走者(ガイドランナー)と競技を行うことができるなど細かいルールが定められている。一方、視覚障害者のみによる競技である柔道は障害によるクラス分けはなく、オリンピックと同様に体重別クラス分けのみとなっている。スキーのアルペンスキーとノルディックスキーは障害の部位・程度によるクラス分けを採用、クラスの数だけ金メダルが与えられたが、トリノパラリンピック以降、立位(立って滑る)、座位(座って滑る)、視覚障害の3カテゴリー制となり金メダルもカテゴリーごとに与えられ、金メダルの価値を上げ競技性を高めた。第二次世界大戦による傷痍軍人の社会復帰を進める目的で発生したため、福祉的側面から捉えられることが多かったが、次第に福祉的側面よりも競技としての性質が高まり、陸上競技や車いすテニス等でプロ選手が誕生し、「障害者アスリート」という言葉も使われるようになり、競技スポーツとしての側面がクローズアップされてきている。また競技性が高まるに従い、福祉ではなく「スポーツ文化」としての理解と支援を求める声が強まっている。なお、日本では日本オリンピック委員会(JOC)は文部科学省が所管し、日本パラリンピック委員会(JPC)は厚生労働省の所管とされてきたが、2014年4月より、文部科学省へ移管され一元化されることが厚生労働省社会・援護局障害福祉部企画課自立支援振興室により発表された。JOCとJPCは、2014年8月6日パラリンピックを目指す強化指定選手の就職支援する協定を結んだと発表。JOCが仲介役となりオリンピックを目指すトップ選手と企業の橋渡しをする制度アスナビに障害者選手も登録する。JOCとJPCの協定は初。競技志向が高まるとともに予算とメダルの関連が強く出ており、アトランタパラリンピックで日本のメダル獲得順位は10位だったが、ロンドン大会では24位に落ちた。ロンドン大会で国家予算を障害者エリート選手に掛ける中華人民共和国のメダル獲得順位は1位、ロシアは2位、ウクライナは4位になっている。日本ではスポーツ庁はスポーツ基本法の検討課題として附則に規定されるにとどまっていたが、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催決定を受け、2014年度中に厚生労働省の障害者スポーツ部局を移管し、2015年度に文部科学省の外局としてスポーツ庁を設置した。アメリカやイギリスではアメリカ同時多発テロ事件以降増加した傷痍軍人とその補償費が増加していることもあり、社会的な自立を促す制作として大会で実績を残した傷痍軍人に対し、スポーツに専念できる環境を用意している。アメリカ陸軍では障害を負った兵士を専属選手として雇用し続ける体制も整えている。日本では、長らく、障害者スポーツは一般になじみがなく、社会参加やリハビリテーションの観点からしか捉えられていなかったため、取り上げられたとしても、新聞では社会面に掲載され、スポーツ欄に掲載されることはなかった。パラリンピックも1990年代半ばまでは一般になじみがなく、ほとんどメディアに取り上げられなかった。1996年のアトランタパラリンピックでは、車いすマラソンにおいて男女とも日本人が銀メダルという快挙もあったが、民放テレビや一般紙ではほとんど報道されなかった。1998年の長野パラリンピックの開催を機に、いくつかの競技がNHKのBS放送で中継され、信濃毎日新聞が詳細な報道を行った。またアイススレッジスピードレースに出場した土田和歌子ら、スター選手も現れるようになった。2000年以降、車いすテニスのプロ選手である国枝慎吾が、年間の四大大会全てで優勝するグランドスラムを成し遂げたり、ボストンマラソンや、ベルリンマラソンなど、海外主要マラソンの車いすの部での日本人の優勝などが一般紙においても「スポーツの結果」として大きく報道されるようになった。2008年以降、NHKは、パラリンピック報道にもオリンピック報道と同じテーマ曲を使用している。2012年のロンドンパラリンピックにおいては、Yahoo!をはじめとしたインターネットのサイトにおいてもスポーツとしての特設サイトが設置され、リアルタイムで結果が掲載された。2013年9月に、東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定したことで、「パラリンピック」という言葉が完全に市民権を得た。また、この招致活動においてブエノスアイレスで行われたIOC(国際オリンピック委員会)総会の最終プレゼンテーションでスピーチを行った義足のスプリンター佐藤真海にも注目が集まり、彼女が2014年のソチパラリンピックの聖火リレー走者を務めたことが大きく報じられた。2014年のソチパラリンピックでは、NHKが初めて地上波で開会式を中継することが発表された。Youtube(配信元はParalympicSportTV)でも開会式をライブ配信を行った。2016年リオデジャネイロパラリンピックでは、次回の2020年東京パラリンピックの開催を念頭に置き、これまで以上に放送体裁を強化し、現地のナイトセッションで行われる注目競技を総合テレビ・ラジオ第1放送で生中継を中心に放送するほか、総合テレビでは連日22時台を中心に「パラリンピックタイム」、Eテレでは20時台を中心に「みんなで応援!リオパラリンピック」と題して競技のダイジェスト中継を実施する。特にEテレのそれは、「ユニバーサル放送」と称して、競技の実況に、聴覚・言語障碍者向けにワイプ画面による手話通訳とリアルタイム字幕放送、視覚障碍者向けにも競技場面やルールなどの解説放送(ステレオ2。総合テレビの「パラリンピックタイム」、一部競技中継も同)を交えながら、障害者にも楽しめるような内容を提供しているパラリンピックの切手は、これまで多くの国々から発行され、障害者スポーツへの社会の理解と認識を深めとともにパラリンピックの周知が図られている。最初のパラリンピック切手は、1964年にアルゼンチンから発行された東京パラリンピックの記念切手である。日本から発行された最初のパラリンピック切手は、1998年2月に発行された長野パラリンピックの記念切手で、アイススレッジホッケーが描かれている。ちなみに、2002年8月には世界車椅子バスケットボール選手権大会の記念切手が発行されている。2012年のロンドンパラリンピックでは、イギリスは自国のパラリンピックチームが金メダル獲得すると、24時間以内に記念切手を発行するという企画を実施した。日本でも2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは自国から金メダル獲得選手が出た場合には翌日に記念フレーム切手を発行するという企画を行っている。ソウル大会より、オリンピックと同一の開催地になってからパラリンピックへの注目が増し、障害者スポーツの認知度が向上したことにより、問題も発生し始めた。その主な原因はオリンピックと同様にメダルを取れるかどうかで注目度が全く違うため、いわゆる勝利至上主義的な姿勢が指摘されている。時代により選手層の変化が指摘されている。

出典:wikipedia

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