宇沢(宇澤) 弘文(うざわ ひろふみ、1928年(昭和3年)7月21日 - 2014年(平成26年)9月18日)は、日本の経済学者。専門は数理経済学。東京大学名誉教授。。従三位。1983年文化功労者、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章、2009年ブループラネット賞。Econometric SocietyのFellow(終身)。1976年から1977年までEconometric Society会長。浅子和美、吉川洋、小川喜弘、清滝信宏、松島斉、宮川努、小島寛之、岩井克人らは東大時代、宇沢ゼミ出身。デイヴィッド・キャス、カール・シェル、ミゲル・シドロスキーらは博士課程指導学生。ジョセフ・E・スティグリッツ、ジョージ・アカロフらは、シカゴ大学時代、宇沢の授業を受けたことがある。数学者の宇澤達は長男。経済学者の田中秀臣は宇沢が生前ノーベル経済学賞受賞候補であったと推測している。鳥取県米子市出身。父時夫は小学校の教師。宇沢家の始祖は江戸中期にさかのぼる。元は米子の南に位置する法勝寺(現在の南部町)というところの出で、のちに米子に移った。生家は代々米屋を営んでいたが破産している(時期は不明)。宇沢家は長い間、男の子に恵まれなかった。全くの女系家族といってよい。父も祖父も婿養子である。祖父は大工だった。父は春日村の農家の生まれで、二十歳そこそこで宇沢家に婿入りした。宇沢が3歳の頃父は教師をやめ、家屋を処分し家族を連れて東京に出た。東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校を卒業。東京府立一中の同級生に速水融や田中健五がいる。旧制第一高等学校の同級生に寺田和夫、伊藤順(伊藤貞市の子息)がおり、同じラグビー部に所属していた。1951年に東京大学理学部数学科を卒業し、数学科の特別研究生となった。統計数理研究所、生命保険会社などに勤務した後、スタンフォード大学のケネス・アロー教授に送った論文が認められ、1956年に研究助手として渡米。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校で研究教育活動を行い、1964年シカゴ大学経済学部教授に36歳で就任した。専門的な論文として最適成長論や二部門成長論の業績があった。なお、ジョセフ・スティグリッツは、 1965年から1966年にかけて、宇沢の在籍したシカゴ大学の宇沢の下で研究を行った。1968年に東京大学経済学部に助教授として戻り(翌年教授)、1989年退官した。日本に帰国以来40年以上にわたり日本政策投資銀行設備投資研究所顧問を務めていた。東日本大震災直後の2011年3月21日、脳梗塞で倒れ、その後はリハビリを続けていた。2014年9月18日、肺炎のため東京都内の自宅で死去。。叙従三位。新古典派経済成長モデルではその成長経路が安定的とされてきたが、宇沢は「安定的」なものではなくむしろ不安定なものである、また経済はケインズ的な失業を伴うという点に着目した。
出典:wikipedia
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