丁銀(ちょうぎん)とは、日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨である。丁銀という名称は『金銀図録』の記述によれば棒状の銀塊の意味である銀(ちょうぎん)が挺銀(ちょうぎん)を経て変化したものとされる。形状は、ナマコ形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、量目(質量)は不定だがおおよそ43匁(約161.25グラム)前後。額面は記載されておらず、量目によって貨幣価値が決まる秤量貨幣である。金(小判)および銭と共に三貨制度の一角を担い、当時は銀と呼ばれていた。江戸時代には、主に大坂を中心とした西日本および北陸、東北と広域に亘って流通した。額面は天秤による量目の実測値で、商取引において銀何貫、銀何匁と表記される銀目取引の通貨単位であった。また賞賜目的には43匁を銀一枚とする単位が用いられた。なお、当時用いられた分銅の質量単位は「両」であったが、小判の通貨単位との混同を避けるため「両」は用いられなかった。一方中国では、当時秤量銀貨(銀錠)の額面単位に「両()」を用いていた。丁銀は額面の記載されていない秤量貨幣で、本来は使用のごとに量目を量る必要があるが、それでは扱いづらいため、包銀の形で用いられた。これは、丁銀と同品位の少額貨幣である豆板銀を合わせて一定の量目(恩賞および献上用には銀一枚:43匁、商取引用には五百目など)にし、紙に包んで封印したものである。銀数十匁にもなる丁銀は日常生活には高額過ぎ、豆板銀と異なり包封していない裸銀として支払いに用いられることはほとんど無かった。秤量銀貨の量目を定め、包封することは両替商の重要な仕事のひとつで、諸藩における年貢米の売り上げ、物品購入代金の管理を任命された両替商、および天領である石見銀山、生野銀山などで産出される上納灰吹銀の量目を掛け改めた役職は掛屋(かけや)とも呼ばれた。江戸時代以前には、灰吹銀および極印銀が、鋳造者である富商や両替商の極印によって流通した。また、当時は切り遣いの慣行が見られた。これらが「地方銀」と呼ばれる領国貨幣である。やがて、灰吹銀を譲葉のような形状に叩き伸ばして極印を打った銀貨が登場した。16世紀中頃から銀山の開発および灰吹法の普及により国内の銀の産出が急増し始め、銀屋(かなや/かねや)あるいは銀吹屋(かねふきや)と呼ばれた銀地金の売買および精錬などを手掛ける者が現れ、後の銀座および両替商の前身となった。堺の南鐐座の銀細工師湯浅作兵衛らは諸国の灰吹銀を集め極印を打って売買していたが、伏見銀座設立前に家康の上覧に供するための丁銀を試鋳した。この時代のものは古丁銀(こちょうぎん)とよばれる。またこれらを切り遣いしたものは切銀(きりぎん)と呼ばれる。極印銀および古丁銀の銀品位は各地の銀山により不定であったが、おおむね90%以上であった。中でも石見銀山産出の銀で作られた、石州銀(ソーマ銀)(佐摩)は良質で量的にも潤沢であったが、銀産地による品位のバラつきは取引上甚だ不便なものであった。慶長6年7月(1601年)には、伏見銀座から慶長丁銀が鋳造され、以後、江戸幕府によって品位を一定に定められた丁銀が発行され、元和年間以降は常に小額通貨である同品位の豆板銀(小玉銀)を伴って発行された。銀座では常に鋳造された丁銀は灰吹法による糺吹(ただしふき)すなわち銀品位の抜き取り検査が行われ、規定の品位の基準を満たさないものは吹き戻され作り直された。元禄8年(1695年)には銀の国外流出や産銀の衰退、幕府の財政建直しの目的で吹替えにより銀品位が下げられ、宝永年間には更なる吹替えが立続けに行われる。正徳年間には小判と共に慶長の品位に戻されるが、通貨縮小による不況のため、元文年間以降、銀品位を下げる吹替えが度々行われた。慶応4年5月(1868年)に、明治維新政府は銀目廃止の布令を出し、丁銀は流通停止となった。古丁銀は以下のものが知られているが、いずれも現存極めて稀少である。括弧内は発行年、鋳造量、銀含有率(規定)。鋳造量には豆板銀を含む。しまねバーチャルミュージアム企画コーナー(石州丁銀)
出典:wikipedia
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