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世宗 (朝鮮王)

世宗(セジョン、せいそう、洪武30年4月10日(1397年5月7日) - 景泰元年2月17日(1450年3月30日))は、李氏朝鮮の第4代国王である。姓は李(イ、り)、名は(ド、とう、文字は示へんに陶の旁)。即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれた。ハングル(訓民正音)の制定を行ったことで知られ、儒教の理想とする王道政治を展開したことで、朝鮮王朝における最高の聖君と評価されている。韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の堯舜」と称された。このため廟号は世宗であるが、朝鮮史では李氏朝鮮の歴代国王の中で聖君(最高の名君)と尊敬されている意味で世宗大王(、セジョンデワン、せいそうだいおう)とも言われる。田制改革などの内政・文化の改革で大きな成果があり、女真族の土地を奪って朝鮮族を入植させて版図を広げ、国威を高めた一方で、貢女の黙認、日本への侵略である応永の外寇の失敗や仏教の統制・弾圧、李氏朝鮮の朝鮮朱子学への極端な傾倒の端緒となるなど負の側面もあった。1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后・閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム、ちん)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。健康問題を抱えた父・太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。世宗は宮中に学問研究所として集賢殿を設置し、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、朝鮮の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。とくに、集賢殿の鄭麟趾(チョン・インジ、てい りんし)ら13名の学者に命じて創製した朝鮮文字であるハングル(訓民正音)が知られている。1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して朝鮮の田税制度を定めた。1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。外部の対しては柔軟に慎重策と積極策を使い分けた。日本との関係に関しては、当時朝鮮の沿岸を荒らし回っていた倭寇の取り締まり問題での対立が引き金となって、即位翌年の1419年に対馬を攻撃した(この外征は当時まだ上王として実権を握っていた太宗の意向が反映していたものであった)。その後、外交的解決に重きを置くようになり、世宗在位中には1428年・1439年・1443年に通信使が派遣された。室町幕府との修好がなされ、富山浦など3つの開港場(三浦)を設けて、倭寇禁圧の要請が行われた。通信使は日本の国情偵察も兼ねており、使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』としてまとめられた。1438年(永享10年)ころには文引制を採用し、1443年(嘉吉3年)には日本側の事実上の出先機関となった対馬の宗氏との間に嘉吉条約を結んだ。北方には積極的に進出して、建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江以北に女真族を追いやって、奪い取った領地には数千戸を入植させ、朝鮮の土地として平安道や咸鏡道に組み込んで、支配機構として六鎮が置かれた。また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行った。これらの地域は、約200年後に女真族が反撃して奪還するまでは、朝鮮の版図であった。明へ太宗・世宗の時に2人の妹を貢女として送った韓確(ハン・ファク1403年-1456年)は右議政や左議政(共に現在の副首相クラス)などの要職を歴任し、密通に及んだ事実が発覚した際も、世宗は「罰せられない人物」だとして黙認した。仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18ヶ寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(朝鮮の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある。三網行実図などを出版して儒教的な道徳を広めていった。高麗時代の歴史書である『高麗史』や朝鮮王朝の建国神話である『龍飛御天歌』などを出版させて政治姿勢を明確にした。また、次のような実学や技術が発展したとされている。このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で薨去した。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。ハングルを制定し、韓国語の正書法の基礎を確立した業績から、韓国では「国民的英雄」として不動の地位を得ている。そのため国家的プロジェクトや文化・科学技術関係の施設・事業など「国家や民族の威信をかけたここぞという場面」に世宗の名が使われることがある。

出典:wikipedia

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