堂島(どうじま)は、大阪府大阪市北区・福島区の地域名。または、北区の町名。堂島川と曽根崎川(現在は埋立)に囲まれていた中州で、堂島川を挟んで南は中之島、曽根崎川跡を挟んで東は天満、北は曾根崎新地・梅田・福島に接する。現行の住居表示で堂島と付くのは、北区堂島1~3丁目と同区堂島浜1・2丁目だけであるが、堂島の東端は難波小橋跡、西端は上船津橋北詰交差点にあたり、北区西天満2丁目の曽根崎川跡以西および福島区福島1~3丁目と同区玉川1丁目のそれぞれ曽根崎川跡以南も堂島である。大阪キタの繁華街に南接し、大阪駅前の地下街「ディアモール大阪(ダイヤモンド地下街)」より堂島の地下街「ドージマ地下センター(堂島地下街)」に繋がり、梅田より連続する大規模なオフィス街を形成している。江戸時代より新地・米市場・蔵屋敷地として栄え、中央に南北幹線の四つ橋筋が通るが、この四つ橋筋を挟むように高層ビルが立ち並び、大企業の本社や支社が集まるオフィス街となっている。一方、北新地に接する北端は歓楽街の色彩を帯びている。淀川本流であった堂島川の北に形成された中州で、北を西流する分流を曽根崎川(蜆川)という。地名は薬師堂があったことから「堂島」になったと言われる。少ない田畑があるだけの島であったが、1685年(貞享2年)、河村瑞賢が曽根崎川を改修して堂島新地を開発、江戸幕府は開発後の振興策として茶屋の設営を許可、大坂市街(大坂三郷)の北に位置したため、北の遊里・北の色里などと呼ばれる繁華街になった。1697年(元禄10年)、江戸時代の代表的な豪商である淀屋が淀屋橋南詰で開いていた米市場が堂島(大江橋北詰)に移されるとともに米取引の場へ変貌、繁華街は曽根崎川対岸に拓かれた曾根崎新地(北新地)へと移っていった。その後、全国より廻送された米が取引きされた「堂島米市場」として発展し、これが後に世界初の近代的な商品先物取引が行われた「堂島米会所」となった。堂島に廻送された年貢米は年間100万石とも150万石とも伝えられ、それらを保管する倉庫と屋敷を兼ねた諸藩の蔵屋敷が建ち並び、その数は中之島に次ぐものとなっていった。1878年(明治11年)に堂島川と大阪駅を結ぶ堂島掘割が開削されて、東西に二分された。1909年(明治42年)にはキタの大火(天満焼け)が発生。大火で生じた瓦礫で曽根崎川の東半(堂島掘割以東)が埋め立てられ、1923年(大正12年)には残る西半も埋め立てられて、曾根崎新地・梅田・福島と地続きになった。米取引は昭和初期まで行われていたが、戦時統制により1940年(昭和15年)に廃止された。堂島掘割は1967年(昭和42年)に埋め立てられ、阪神高速11号池田線が通っている。近年では、毎日新聞大阪本社と毎日放送の社屋を併設した「毎日大阪会館」があったが、北側部分は堂島アバンザという商業・ビジネスビルに再開発された。旧社屋玄関は堂島アバンザのモニュメントとして使われている。南側部分もエルセラーン化粧品がホテルを、東西土地建物が高層ビルを建設し、それぞれホテルエルセラーン大阪、堂島プラザビルとして2010年春に開業、新たな賑わいを見せている。堂島浜にある村野藤吾設計の新ダイビル(旧・新大阪ビル、1958年竣工)も高層ビルへ建て替えられた。堂島地区西部はNTTデータなどのNTTテレパーク堂島がある。北から順堂島・堂島浜の両地域を含む概ね、東から西への順に並べている。
出典:wikipedia
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