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星セント・ルイス

星セント・ルイス(ほし・セント・ルイス)は、星セントと星ルイスからなる、日本の漫才コンビ。1971年結成、2003年解散。星セント(1948年1月16日 - )星ルイス(1948年11月17日 - )セントは長野で高校に通っていたころから芸人を志望しており、森繁久彌・谷啓・関敬六といった有名コメディアンにファンレターを熱心に送るような青年だった。その中の漫才コンビ・獅子てんや・瀬戸わんやから卒業後に来るよう返事をもらい、1969年に弟子入り。ルイスはその頃、晴乃ピーチク・パーチクに弟子入りしていたが、1971年にピーチク・パーチクが解散することになったため、てんや・わんやに客分扱いで招かれる。その時、トリオ・ザ・パンチに所属していたセントを引き合わされてコンビを結成。師匠から「セント・ルイス」と命名された。駆け出しの頃は有楽町の東宝演芸場を本舞台とし、浅草の松竹演芸場の高座を修行と割り切るような気概があった。反面、それが表に見えたことで一部の浅草芸人たちから嫌われていたという。2人の衣装は揃いのスーツに蝶ネクタイというような伝統的なものではなく、オープンシャツにノーネクタイ、革ジャンやタイトなマンボズボン、頭にはダービーハットといった洒脱なものを好んだ。さらにブーツを履いてステージに上がることが多く、新進の漫才コンビが古臭い漫才師の服装を崩すきっかけとなった。セントは新劇に傾倒するところがあり、漫才にシェイクスピアの戯曲からセリフを引用したり、スタニスラフスキーの名前をギャグのフレーズに登場させたりした。売れない頃は暇を見つけては文学座に所属していた友人と演劇芝居に取り組んでいたという。名が知られてからもイヨネスコの『授業』や、ベケットの『ゴドーを待ちながら』などに出演している。コンビ結成3年目あたりから不仲になり、会話はネタ打ち合わせの時と舞台に立っている時だけ。プライベートな付き合いは一切無かったようで、コンビ解消前はそのことを伏せてお互いプロフェッショナルに徹して舞台に立っていた。互いの住所すら明かさなかったという。1977年、ツービートらを抑えてNHK漫才コンクールで優勝。長身(178cm)のセントが早口でギャグをまくし立て、それに小柄(153cm)なルイスが突っ込むというスタイルで、社会風刺をネタにした独特の漫才で一躍人気者となる。1980年には「田園調布に家が建つ」(「弁が立つ、腕が立つ」に続く韻踏み)というネタで一世を風靡。『花王名人劇場・激突!漫才新幹線』では、やすし・きよしに対抗する東の代表として競演し、漫才ブームの先駆けとなった(もう一組として抜擢され出演したのがB&B)。しかし、その後ブームの仕掛人横澤彪と合わなかったことなどが原因となりテレビの露出度は減退する。そのスタイルは洗練されていくが、さらに低年齢向けとなったお笑いブームでは一線に出ることはなかった。2003年にコンビを解消。2004年にはセントが、2005年にはルイスが相次いで他界。ともに死因は肺癌であった。 セントが他界した際、ルイスは「俺を置いて逝くなんて、大馬鹿者だよ」と発言したが、その8か月後には同じ病で亡くなることになった。ナイアガラレコードのオムニバスアルバム『Let's Ondo again』で、イーハトブ田五三九(大瀧詠一)が歌う『ハンド・クラッピング音頭』にゲスト出演しギャグを披露している。ビートたけしは、NHK漫才コンクールでセント・ルイスに敗れたことに対して相当悔しかったのか、1990年代以降、テレビやラジオ、週刊誌の連載ページなどでツービートの漫才論を語る際に「“田園調布に家が建つ”とか、かったるい漫才があっただろ。俺たちの出番が先だったから“一つ仕掛けるぞ”って、スピード重視、リズム重視でドッカンドッカン笑い取って、客の雰囲気をガッチャガチャにしてやった。そしたら、その後のセント・ルイスの芸風があんな感じだろ。やりにくそうにしてたし、全然受けてなかったよ」と述べている。有名な「田園調布に家が建つ」のフレーズは、もともと「ああ鎌倉に家が建つ」というものだった(セントの姉が鎌倉に住んでいたことと関係する)。

出典:wikipedia

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