平成研究会(へいせいけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥(木曜研究会系)。 旧称は経世会。略称は平成研。通称、額賀派(ぬかがは、竹下登派→小渕恵三派→橋本龍太郎派→津島雄二派→額賀福志郎派)。自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む保守本流集団。1985年2月、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力をもち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登・金丸信らを中心に田中派内に勉強会として創政会(そうせいかい)を結成。1987年7月4日、角栄を追放し事実上派閥を乗っ取る形で経世会(けいせいかい)を結成、会長には竹下が就任した(通称竹下派)。 派閥名は中国の古典にある「経世済民」から取った。金丸の長男と竹下の長女の結婚、田中の地元新潟県の建設会社福田組会長の娘2人を小沢一郎と竹下の異母弟亘にそれぞれ嫁がせるなど、閨閥を重視していた。竹下は、中曽根康弘の裁定により自民党総裁と内閣総理大臣に就任、金丸が会長となる。竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、竹下派(経世会)支配と呼ばれた。リーダーの鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。竹下派の有力幹部は永田町のTBRビルに事務所を構えていたが、高級官僚や米国高官が首相官邸よりもまず先にTBRビルに訪問していた様は、首相の権威の低下と竹下派(経世会)支配の象徴とされた。元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における事実上の影の最高権力者として君臨、このため実権を奪われた竹下との関係が悪化する。特に、金丸子飼いの小沢一郎が自民党幹事長辞任後に経世会会長代行に就任、金丸の庇護のもとに辣腕をふるい、竹下に近い議員の反発を買う。1992年の佐川急便事件で金丸が衆議院議員を辞職し会長も辞任。不測の事態により派内で後継争いが発生した。この抗争は親小沢対反小沢の構図となったが、衆院は数が拮抗していたものの、実権を取り戻したい竹下が参院は反小沢でまとまるよう青木幹雄に指示したため、半ば強引に竹下子飼いの小渕恵三が会長に就任した。小沢はこれを不服として羽田孜らを引き連れて改革フォーラム21(羽田派)を結成して分裂。分裂後は、それぞれ党内第四・第五の派閥に転落したが、羽田派は1993年6月に離党して新生党を結成、細川護煕を首相とする非自民連立政権を樹立した。細川・羽田内閣と非自民党政権が短期間で崩壊、村山内閣が成立し自民党が与党に復帰すると、小渕派も次第に勢力を回復した。1995年の総裁選で竹下は派閥幹部の橋本龍太郎の擁立を決定。総裁就任後、1996年1月の村山内閣退陣をうけ、後任の総理大臣に就任した。その間、党内の派閥解消運動や、小派閥転落で事務所維持費が厳しくなったため、砂防会館から経世会の看板を下ろし、平成政治研究会に改称した。その後、平成研究会に改称。1998年7月の参議院議員選挙で敗北すると、竹下は即座に総理総裁職を橋本から派閥会長である小渕へ交代するよう指示。後継の会長には綿貫民輔が就任した。この決定を不服として、梶山静六は派閥を退会して独自に総裁選に出馬した。それまで「一致結束・箱弁当」と呼ばれた平成研が最初に見せた綻びであった。この頃から、派閥のアキレス腱として「小渕派の後継者が不在」であることが囁かれ始める。将来をつなぐはずだった若手のほとんどが小沢・羽田らと共に自民党を離党したためである。2000年に小渕、竹下が相次いで死去。7月に綿貫が衆議院議長に就任し派閥を離脱したため橋本が後任の会長に就任した。しかし、実質的に派閥の実権を握っていたのは、野中広務と青木幹雄であった。橋本は、2001年4月、森総裁の後任の自民党総裁選挙に出馬したが、小泉純一郎に大敗した。田中派以来、「一致結束・箱弁当」と呼ばれる鉄の団結を誇ったが、小泉政権成立以降、総裁候補が不在のままとなり求心力が低下した。また、角福戦争以来の怨念を抱く小泉首相からは、「抵抗勢力」と位置付けられて目の敵にされ、小泉政権では2003年9月まで橋本派は党執行部から外された。橋本派が党執行部ポストに就任できなかったことは過去を遡ると田中派時代の三木政権(1974年 - 1976年)以来25年ぶりのことであり、橋本派の影響力低下を物語った。2003年の自民党総裁選挙において、反小泉の急先鋒であった野中が独自候補の擁立を主張したものの、青木幹雄や村岡兼造が小泉支持を表明したために野中は完全に孤立。総裁選のさなかに野中はこれを理由に議員引退を表明する事態となった。派内からは笹川尭・熊代昭彦など複数の会員が公然と出馬意欲を示すなど大きく混乱したが、最終的に藤井孝男を擁立。派内の支持をまともに得られない中で藤井は落選し、小泉が再選された。その後の小泉政権下の党役員人事では2003年9月から2004年9月まで額賀福志郎が政調会長に、2004年9月から2006年9月まで久間章生が総務会長に起用され、久々に党三役ポストを得た。2004年日歯連闇献金事件が浮上し、野中広務や青木幹雄が立ち会う形で橋本龍太郎が1億円の小切手を受け取り、政治収支報告書に闇献金として処理していた疑惑が浮上(この疑惑では村岡兼造元官房長官が在宅起訴され有罪)。2004年7月30日、橋本は責任をとる形で会長を辞任。派からも離脱し、2005年の衆院解散で政界を引退した(その翌年に死去)。その後、綿貫民輔元衆議院議長、次いで保利耕輔元自治大臣兼国家公安委員長の会長就任の声が上がるも、両者共に固辞した。さらに、郵政国会での郵政法案の対応を巡り2005年の第44回衆議院議員総選挙で綿貫・保利ら法案反対組が非公認となり、党内第一派閥の座を森派(現・細田派)に明け渡した。会長不在の状態が続いたが、第3次小泉改造内閣の成立した4日後の2005年11月4日、会長に津島雄二が就任。2003年9月の自民党総裁選以来、派内で続いている衆院と参院のわだかまりの解消が大きな課題であった。また、衆議院幹部の多くが、1993年以降の政界再編の中で離党後に復党した「出戻り」(ほとんどが小沢一郎率いる新進党からである)や「外様」議員(鳩山邦夫(2010年に2度目の離党)・笹川堯・石破茂・船田元ら)となり、生え抜きは額賀などの少数派となった。会長の津島も元は旧宮澤派出身の出戻り組であった。もともと経世会分裂とその後の嘘つき解散時に、船田元・鳩山邦夫ら将来を担うと目された議員が離党ないし派閥離脱し(その後大半が復党したが、鳩山邦夫は再度自民党を離党、船田元は落選した)、"NYKK"の一人といわれた中村喜四郎(現在は無所属)がゼネコン汚職事件で失脚するなど、人材が不足する中で藤井孝男・鈴木宗男・額賀福志郎が「御三家」とみなされるようになった。しかし、鈴木が2002年に鈴木宗男事件で失脚し、離党と橋本派離脱を余儀なくされたほか、藤井も2005年の郵政政局で離党・落選した(藤井は2007年の参院選で当選し、復党と同時に再入会をしたが、2010年に再離党し新党たちあがれ日本を結成)。このため最後まで残った額賀福志郎を総理・総裁候補として育てていく方向であるという見方が強くなったが、久間章生や青木幹雄が総裁選のたびに額賀擁立に賛同しないなど、自他共に認める総理・総裁候補とは言い難い状況であった。また、鳩山邦夫は派閥復帰後も麻生太郎(宏池会系)の盟友として活動し、派としての行動の統一がとれなかった。さらに、郵政造反組で復党した議員の多くが他派閥に移籍するか無派閥ととなっており、面倒をみる幹部が不在となった。2007年の第21回参議院議員通常選挙では、片山虎之助参議院幹事長をはじめ、武見敬三厚生労働副大臣、青木幹雄参議院議員会長の地元島根県選出の景山俊太郎など、議員立候補者が次々に落選し、参議院においても町村派に次ぐ第2派閥に後退した。2008年の福田康夫総裁の辞意表明を受けた自民党総裁選で、麻生太郎や与謝野馨に支持表明する派閥幹部が出る中、若手や中堅を中心に石破茂を擁立し、石破が総裁選に立候補したが5位で敗れた。総裁選後、鳩山邦夫を中心にした戸井田徹、吉川貴盛、馬渡龍治、田村憲久、河井克行の通称「鳩山5人組」も分派行動をとり始めた。鳩山が総務大臣を更迭された際には、集団離脱が懸念された(第45回衆院選で戸井田、吉川、馬渡は落選)。2009年7月19日、会長の津島雄二が第45回衆議院議員総選挙の直前になって不出馬・政界引退を表明した。同選挙で自民党は結党以来初となる衆議院第一党の座を明け渡す大敗北を喫し、平成研も改選前の45議席から1/3以下となる14議席へ勢力を激減させた。2009年9月8日、津島雄二の引退と総選挙の結果を受けて臨時総会が行われ、会長代理の額賀福志郎がそのまま会長に就任した。総選挙後、政界再編や新党結成などを主張していた鳩山邦夫が離党し、派閥解消を唱える石破茂が2011年に政調会長を離任後に派閥を離脱するなど所属議員の数が減少を続け、党内第三派閥に後退。2012年の第46回衆議院議員総選挙で自民党大勝の影響から49議席まで勢力を広げ、党内第二派閥に復活。(計31名)(計18名)
出典:wikipedia
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