浜田城(はまだじょう)は、石見国浜田(現:島根県浜田市殿町)に存在した日本の城。江戸時代には浜田藩の藩庁が置かれていた。浜田市中心部にある浜田川に囲まれた標高68メートルの独立式丘陵に築城された。この丘陵は別名、亀山と呼ばれている。本丸の下に狭い二の丸・三の丸・出丸が配されている。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川によって天然の掘割としていた。
浜田城を藩庁とした浜田藩は最初の藩主・古田氏以外は譜代・親藩が入れ替わり治め、長州藩に対する山陰側の押さえの最前線とされた。建物は長州征伐で長州藩軍に攻められた際に(当時の浜田藩主は松平武聡)、城を捨てて藩兵が火を放ち殆どが焼失した。現在は城山公園として、本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残り、登城口に津和野藩武家屋敷より移築された門がある。ただし、往時此処には門は存在していない。また、登城口には小説家司馬遼太郎の碑文「浜田藩追懐の碑」がある。浜田市中心部にある浜田川に囲まれた標高約68メートルの独立式丘陵の頭頂部を平坦にして本丸が築かれ、本丸の南側に狭い二の丸・三の丸、西側に出丸が配された梯郭式平山城。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川によって天然の掘としていた。城下町は城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町屋を設けられていた。本丸には天守を設けられていた。本丸の規模は南北約60メートル、東西約50メートルの約0.3ha。本丸は北西隅に三重櫓、南東隅に本丸御門と六間長屋があり、中央付近に玉蔵が置かれていた。周囲は塀で囲われていた。上層階の広さは四方約9.1メートル、中層階は四方約12.7メートル、下層階は南北約9.1メートル、東西約16.4メートル。明治時代初期頃まで存在した。本丸の南側に位置する郭。山麓にも二の丸が存在し、焔硝蔵や本丸常番所、時打番所、中ノ門などが置かれていた。二の丸の南側に位置する郭。二の丸と同様に山麓にも三の丸が存在し、御殿や諸役所、御用米蔵、大手門などが置かれていた。本丸の西側に位置する郭。別名、本丸脇千人溜り。規模は東西約24.2メートル、南北23.9メートル。出丸への通路は北側と二の丸へと繋がる通路が南側に1ヶ所ずつある。二の丸と同様に山麓にも出丸が存在し、城の南側にある小高い独立式丘陵にあった。通称、夕日ノ丸と呼ばれており、現在は本丸の西側にある出丸と同様に藪や林になっている。本丸や二の丸の二の門などの石垣や土塁が現存している。慶応2年(1866年)第二次長州征伐の際に城の建造物は全て焼失したが、山麓に津和野藩武家屋敷の門が移築されている。
出典:wikipedia
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