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橘広相

橘 広相(たちばな の ひろみ、承和4年(837年) - 寛平2年5月16日(890年6月10日))は、平安時代前期の公卿・学者。初名は博覧。橘氏長者、若狭守・橘峯範の次男。官位は正四位上・参議、贈従三位・中納言。紀伝道を菅原是善に学び、貞観2年(860年)文章生に補せられ、貞観6年(864年)対策に及第する。文章生補任からわずか足かけ5年という短期間で対策に及第しており、その学才が窺われる。六位蔵人・右衛門大尉を経て、貞観9年(867年)従五位下に叙爵されるとともに、31歳で文章博士に任ぜられる。貞観10年(868年)博覧から広相に改名する。これは博覧比丘の呼称が舎利弗の別称であったことから、仏菩薩や聖賢の号を名に使用することが適切でないとの格を憚った父・橘峯範の上奏によるものとされる。貞観11年(869年)貞明親王が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜらる。このことから広相は摂政・藤原良房と密な関係にあったと考えられる。貞観12年(870年)民部少輔に任ぜられると、のち左右少弁を歴任するなど、清和朝後半は東宮学士の傍らで実務官僚も務め、この間の貞観15年(873年)従五位上に叙せられている。この間の貞観13年(871年)太皇太后・藤原順子(仁明天皇妃)の崩御に際して、祖母である太皇太后に対する清和天皇の服喪の形式について疑義が生じて決定できなかったために、儒学者や紀伝道学者たちに対して議論が命じられたが、広相は『養老令』『儀礼』『唐礼』などを根拠に錫紵を5ヶ月間着用して服喪すべき旨を述べている。これは他の学者たちと比べて圧倒的に長期間の服制であり、摂関家の権力確立に大きな役割を果たした藤原順子の重要性を高めることで摂関家におもねろうとした可能性を見るとする指摘もある。また、貞観14年(872年)来日していた渤海大使・楊成規の元に、高階令範とともに派遣されて小宴を催し、詩賦に興じたという。貞観19年(877年)貞明親王の即位(陽成天皇)に伴って、東宮学士の功労によって二階昇進して正五位上に叙せられ、式部大輔に任ぜられる。さらに同年中に従四位下・蔵人頭に叙任と急速に昇進を果たすが、元慶3年(879年)蔵人頭を辞任する。のち、陽成朝では勘解由長官・右大弁を歴任する。元慶8年(884年)光孝天皇の即位後まもなく従四位上に叙せられ、同年参議に任ぜられ公卿に列す。光孝朝では紀伝道の権威として文章博士を務めるとともに、議政官として左右大弁を兼帯するなど要職を歴任する。仁和3年(887年)宇多天皇の即位に伴って正四位下に昇叙される。即位に際して藤原基経を関白に任じる詔勅を広相は起草するが、その文章中に「阿衡に任ず」との文字があったために、文章博士・藤原佐世らが阿衡は位は貴いが具体的な職掌がない官職との意味である旨の主張を行い、それにより基経が一切の政務を放棄してしまう。翌仁和4年(888年)基経不在に伴って長期化する政務の停滞に心痛した宇多天皇が改めて詔勅を出すことになった。基経はなおも広相の処罰を求めるが、讃岐守・菅原道真が基経宛に送った書簡により基経は矛を収め事件は終結した(阿衡事件)。なお、事件後に基経の娘・温子が入内していることから、この事件は広相の娘・義子の産んだ皇子が即位して橘氏が天皇の外戚となることを警戒した藤原氏の陰謀によるものともされる。寛平2年(890年)5月16日に卒去。最終官位は参議正四位上兼行左大弁。同日従三位・中納言が追贈された。早熟で、9歳にして童殿上の際に漢詩を詠んだという。注記のないものは『日本三代実録』による。

出典:wikipedia

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