大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所。あるいは、江戸時代の大大名家の奥向の別称でもある。本稿では、江戸城大奥について述べる。初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していた。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。この境界が江戸城に現れたのは、元和4年(1618年)に2代将軍・徳川秀忠が「壁書」を制定した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分された。3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。慶応4年(1868年)4月に江戸城の明け渡しが決定し、大奥は終焉を迎える。同年4月9日(旧暦)、14代将軍徳川家茂正室・静寛院宮と同生母・実成院は清水邸へ、翌10日には、13代将軍徳川家定正室・天璋院と同生母本寿院が一橋邸へ引き移った。江戸城内曲輪は、本城(本丸、二の丸、三の丸)、西丸、紅葉山、吹上御庭、西丸下で構成されていた。この内、大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸の3つの郭である。本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていた。ただし本丸の非常時には、二丸や西丸が代わりとして機能した。図面は江戸城 大奥御殿向惣絵図がある。本丸御殿は、先述したように表、中奥、大奥に区分されている。この内、表と中奥は一続きの御殿であった。しかし大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が、御鈴廊下である。将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていたことからこの名が付いた。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」であるとされている。大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画される。大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、公家・宮家・天皇家から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍家斉の御台所・広大院と13代将軍家定の御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、近衛家に養女となった上で輿入れしたため、形式的には例外はない。江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光夫人・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表したことで、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、御台所不在の期間が合わせて約100年ほどあり、その間は先代将軍の正室や将軍子女らが大奥を主宰した。生前に官位を賜ったのはの6人だけで、世嗣となる子供を産んだのは2代秀忠正室のお江与の方だけである。御台所は自らの夫が亡くなった場合は落飾して本丸から退き、西丸で余生を過ごした。将軍の側室は基本的に将軍付の御中臈から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って寝間の準備が行なわれた。寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」、男子を出産すれば「お部屋様」となり、ようやく正式な側室となる。さらに、我が子が世嗣に選ばれ将軍職に就くと将軍生母となり、時代によっては御台所をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院はその最たる例で、従一位に叙せられている。しかし側室や将軍生母の力は、時代が下るとともに低下していった。江戸時代後期になると、側室はたとえ我が子が将軍世子であっても自身の地位は一介の女中のそれと同等にとどまり、我が子が将軍になって初めてお上として遇された。その他の側室は二丸御殿や桜田御用屋敷で静かに余生を過ごした。出生の子が将軍になった人物は名前を太字で、孫が将軍になった人物は"斜字"で表示大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名はほとんど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼んだ。序列や役職名は時代によって異なるが、江戸時代後期の奥女中の役職は以下の通りであった。奥女中のうち、上臈御年寄から御坊主までがお目見え以上と言い、将軍と御台所への目通りを許されていた上級の女中たちである。女中たちのお禄(手当)は主に切米、合力金、扶持(月々の食料)、湯之木(風呂用の薪)、五菜銀(味噌や塩を買うための銀)、油などの現物が多かった。また老女(上臈御年寄、御年寄を総称して「老女」と言う。)になると町屋敷が与えられることもあった。奥女中には通常旗本や御家人などの武家出の女性が雇用された。しかしそれも建前で、時代が下るにつれて裕福な町人出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多くなる。町人の場合、初めの頃こそは親戚や知り合いの先輩女中の口利きを頼ったり、旗本や御家人の家へいったん養女入りしたりという、迂遠な根回しや手続きを経て大奥入りしたが、後代になって武士と町人の経済力が完全に逆転すると、今度は旗本や御家人の方から持参金付き養女縁組みの話を持ちかけてくることも珍しくなくなっていった。大奥を舞台にした小説・舞台・映画・ドラマなどで「大奥総取締」が登場する場合があるが、「大奥総取締」という職名は大奥には存在しなかった。実際には、大奥の万事差配は老女が合議によって担っていた。しかし時代によっては、大奥においても一人のいわば「総取締」とも言える役割が存在することもあった。大奥の制度が完全に確立されてはいなかった3代将軍家光の時代、乳母である春日局が「将軍様御局」という立場で大奥総取締の任に当たった。また、5代将軍綱吉時代の将軍付上臈御年寄・右衛門佐局は、綱吉から「大奥総支配」を命じられたとされる。この2人はどちらも老女筆頭であったが、大奥総取締を担う女性が必ずしも老女筆頭であったわけではない。12代将軍家慶時代の将軍付上臈御年寄・姉小路は、大奥で権勢をふるった女性として知られているが筆頭ではなかったと考えられている。このように、時代によっては将軍の個人的な意向が大奥の重要人事に絡んだこともあった。幕政の主導権を将軍が握った際、将軍を補佐する側用人や御側御用取次が力を持ったのと同様である。とはいえ、大奥は幕政において贈答儀礼などの重要な側面の一翼を担っていたため、将軍付老女は幕府のために働いていたという側面が否めず、将軍個人の意向で人事が動くことはまれであったと言える。解雇された女中たちはした。ただし、
出典:wikipedia
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