四川省(しせんしょう、、、)は中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。四川省は北西は青海省、北は甘粛省及び陝西省、東は重慶、南は貴州省及び雲南省、西はチベット自治区と接する。天険の要害に守られた急峻な山岳地帯に位置すること、東部に四川盆地が広がり内陸部にもかかわらず温暖で肥沃な米作地であることから「天府之国」と称される。また、海には面していないが中国最大級の湖瀘沽湖を擁し、水産物、特に蝦の一大産地でもある。かつての巴蜀のうちの巴国にあたる重慶は従来は四川省に属していたが、1997年重慶直轄市として分離した。省北部の岷山山脈や、省西部、南部にはチベット族、イ族、羌族など少数民族が多い。四川省北部はジャイアントパンダの生息地として知られる。中国最大のパンダ保護区は臥竜自然保護区。省内最高標高地点は、大雪山脈のミニヤコンカ山頂7,556m。近年徳陽市広漢市で三星堆遺跡が発掘され、3,000年前に古蜀の地に存在した仮面王国が明らかになった。四川は古代の(はしょく、「」は現在の重慶一帯、「蜀」は現在の成都一帯)の地である。(→山海経)前316年に秦によって巴蜀が滅ぼされ()、秦の版図に編入され、その険しい山岳地帯である地理的条件から流刑の地とされた。前206年に秦が滅亡し、劉邦が項羽から漢中と巴蜀が与えられる。漢中王を号した劉邦は当地を基盤として勢力を増大し、やがて項羽を討ち中国を統一、中華王朝としての漢朝を建国した。漢王朝が出来た当初は流刑地として以外には開拓が進まなかったが、徐々に豊かになっていく。三国時代には、前漢の皇族劉勝の後裔を称する劉備によりこの地に蜀漢が建てられ、魏呉と天下を争った。五胡十六国時代には成蜀、後蜀が晋の支配を、五代十国時代には前蜀、後蜀が中原支配を脱し、四川省を中心に独自の政権を樹立している。1001年(咸平4年)、北宋は成都府路・梓州路・夔州路・利州路(かつての漢中、現在は陝西省)の4地方を統合して四川路を設置、これよりこの地を四川と称されるようになり現在に沿襲された。明末清初の動乱期に、四川省で最大300万人ほどの大虐殺が行われ()、古代から続く四川人はほぼ絶滅した。その後の100年間に湖北省・湖南省・広東省からの移民が流入し復興した。1926年、イギリス軍によって万県市街が砲撃される(万県事件)。1938年、日中戦争の結果南京を追われた蒋介石率いる国民政府は重慶に国都を移している。その後、日中戦争終結後の1946年に国民政府は南京に戻るが、国共内戦が激化すると蒋介石は再び重慶に逃れ、1949年12月に成都を経て台湾に脱出している。1949年12月27日に人民解放軍が成都を占領し、四川省は中華人民共和国の実効支配下に入る。これとほぼ同じくして西康省の康定も占領、人民政府は西康の名目上の領域ではなく、中華民国時期に西康省政府が実効支配していた地域(カム東部)だけを管轄領域として、西康省蔵族自治区を発足させた。西康に名目上属していたカム地方の西部についてはそれまでチベット政府「ガンデンポタン」が掌握していたが、「西蔵和平解放」の一環として翌1950年に行われたチャムド戦役の勝利により、占領下に置いた。中国人民政府はこのカム地方西部を西康省蔵族自治区に組み込むことはせず、別途この地に「昌都解放委員会」を設置して、「西康」とは切り離した。1955年に西康省チベット族自治区は独立した省からカンゼ蔵族自治州に格下げされた上で、四川省に吸収合併された。昌都解放委員会の委員たちは翌1956年に発足する「西藏自治区籌備委員会(チベット自治区準備委員会)」の委員となり、ここに、清末の1905年以来、形成が模索されてきた「西康」という地域的枠組みは姿を消すことになった。1997年に重慶が直轄市として分離したため、現在の行政区画となっている。2008年、アバ・チベット族チャン族自治州汶川県(ウントン県)を震源とした四川大地震が発生し大きな被害を受けた。詳細は下部テンプレート参照。
出典:wikipedia
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