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三島由紀夫

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした(詳細は三島事件を参照)。"家族・親族も参照のこと。"1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650匁(約2,400グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威にあやかって付けられた。家は借家であったが、同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生れた。父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪判決)。祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田国男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている父・梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、三島家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も、懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法も厳しかった。公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行してゆく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読する。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られた。初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一先生から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当ることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可燃(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。初等科6年の時には校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷信は目撃した。その時、公威は即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。それは揶揄った側がたじろく程の迫力で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという。この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には、〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。1937年(昭和12年)、中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い、祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。7月に支那事変が勃発し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模(すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などと共に3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古の後に出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど、中等科に上り徐々に身体も丈夫になっていった。同年10月、祖母・夏子に連れられ、初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ドイツ対フランス・イギリスの戦争が始まった(第二次世界大戦の始まり)。1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶ごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌を発表。前年から、渾名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、後に『詩を書く少年』に描かれる。この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎の他、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鴎外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破く。公威は黙って下を向いて目に涙をためていた。同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送し批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるとという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字に因んで付けられた。リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。世の情勢は次第にアメリカ列強との全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。12月8日(ハワイ時間は12月7日)、日本はついにアメリカ、イギリス、オランダなどの連合国と開戦(真珠湾攻撃)となった(大東亜戦争・太平洋戦争)。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた。1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、極めて優秀な学生であった。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。ドイツ語はロベルト・シンチンゲルに師事し、他の教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死亡)らがいた。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(帝大文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った。同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と対面し、以後何度か訪問する。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響の下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評で、この本を読んでいた公威は後年、神風連の地・熊本を1966年(昭和41年)8月に訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と会うことになる。ちなみに、三島の死後村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明なため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れて行った。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。そして蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。日本軍とアメリカ軍の戦争が激化し空襲警報が多くなる中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国イタリアのムッソリーニに好感を抱いていながらも、ドイツのヒットラーには嫌悪感を持っていた。同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝。公威は弔辞を奉げた。東の死により同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。世情はこの頃、国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている。同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受け熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地・兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受けた。公会堂の現在も残る松の下で十貫(約40キロ)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となった(召集令状は翌年2月)。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った。徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那(現・中国)出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文依頼のため、伊東静雄の家に行くが、伊東から悪感情を持たれ、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。しかし、伊東は、のち『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで、公威に対する評価を見直している。1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受され、ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、この時修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝するようになる。公威が文学に熱中することに反対し、度々執筆活動を妨害していた父であったが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは梓の貢献であった。出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のために、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。書店に並んだ『花ざかりの森』は、当時学生だった吉本隆明、芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も、物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のため8月をもって通巻70号で終刊となっていた。1945年(昭和20年)、戦況が激しくなり大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。以前保田與重郎に謡曲の文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意により、第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、その直後(公威の入隊検査の10日)、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって大空襲を受けたため、結果的に応召は三島の罹災を免れさせる結果となった。同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立した。風邪で寝込んでいた母から移ったせいで、気管支炎を起こし眩暈や高熱の症状を出していた公威は10日の入隊検査の折、新米の軍医からラッセルが聞こえるとして肺浸潤と誤診され即日帰郷となった。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調したこの時のアンビバレンスな感情が以後三島の中で自問自答を繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯、コンプレックスとなり、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観や〈戦後は余生〉という感覚)を抱かせることになる。梓が公威と共にが自宅に戻ると、一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに、〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。公威は、栗山理一を通じ野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただひとつ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。処女短編集『花ざかりの森』は野田宇太郎を通じ、3月に川端康成に献呈された。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した。1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。帰京後の7月、戦禍が悪化し空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた。1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原爆が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった。8月15日、終戦。第二次世界大戦が終わった。天皇陛下のラジオの玉音放送を聞き、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った。終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。戦争中「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが、戦時中に遺作の心づもりで書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎え、同年8月19日に駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだなま水を飲んだのが原因)により、17歳の若さで急逝。公威は号泣した。また、6月の軽井沢訪問の後から、邦子との結婚を三谷家から打診され逡巡していた公威だったが、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。そして翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚。公威はこの日、自宅で泥酔する。恋人を横取りされる形になった公威にとり、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は偶然、邦子と道で出くわし、このときのことをノートに記した。この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発し、背広姿でマッカーサーと並ぶ写真が新聞に報道された。公威はこれについて親友の三谷信に、「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムに対して心底怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。なお、この時期、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で、公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一、林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪問した。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の『花ざかりの森』や『中世』にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と、「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し没となった。がっかりした三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、以後、川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりが形づくられた。しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という川端への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生の三島を助けた。臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。ある日、木村徳三は、三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を、好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に、清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。戦後彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスにより講談社の『群像』に持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。当時の三島は両親と同居はしていたものの、親から生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかどうかを模索するためのものだったと見られている。川端と出会ったことで、三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生れる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。「煙草」や「中世」が掲載されたものの、それらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていた三島だったが、作品が雑誌掲載されたことで何人かの新たな文学的交友も得られ、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と、太宰理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反撥〉も感じていた。1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。三島以外の出席者は皆、矢代と同じ第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。太宰の正面の席に導かれ、太宰が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた三島は、森鴎外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の韜晦を込めて言った。下戸の三島は、「どこが悪いのか」としらふの改まった表情で真面目に反論し鴎外論を展開するが、酔っぱらいの太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。これに対し太宰は、虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰とのたった一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。1947年(昭和22年)の4月、『古事記』と『日本書紀』の「衣通姫伝説」を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。前年の9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)とは、その後11月6日に来電があり何度か会い、友人らともダンスホールに通っていた三島だったが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社・新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友銀行と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。8月には、軽井沢を舞台にした「夜の仕度」を『人間』に発表。この作品は戦時中の邦子との体験を元に、堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林房雄は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って、帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、三島は林に好感を抱き、親交を持つようになった。この時期三島は、堀辰雄の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)に親近感を持ち座談などするが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え同人にはならなかった。「夜の仕度」は、当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに、〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。当時大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で、基本給(月給)は1,350円であった。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島の他、長岡實、田中啓二郎など全26名だった。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。同12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。大蔵省入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された。その冒頭文に三島は、〈…淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長から怒られ赤鉛筆でバッサリと削られた。将来有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。翌1948年(昭和23年)も、『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていた三島だったが、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子がはたして朝日新聞に小説連載するような一人前の作家になれるのか聞きに来た。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じて、三島も同人となった。三島はその際、天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。この第2次参加の顔ぶれは、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。同年の7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。幸い電車が来ないうちに這い上がれたが危なかった。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受け退職した。同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。その時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったとしている。河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には、短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を、店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。8月1日に立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ヶ丘2323番地(現・緑が丘1丁目17-24)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まってゆき、その後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志の演出により12月に上演された。1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」を各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した。厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた。ハワイから北米(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン)、南米(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ)、欧州(ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマ)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマのバチカン美術館で観たアンティノウス像であった。古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した。また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった

出典:wikipedia

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