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ボストン・レッドソックス

ボストン・レッドソックス(、略称:"BOS")は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はマサチューセッツ州ボストンにあるフェンウェイ・パーク。ユニフォームカラーは紺・赤で、ロゴデザインは赤い靴下1足である。ワールドシリーズで8回の優勝、アメリカンリーグで13回の優勝を誇る。典型的なビッグボール派のチームで、伝統的に長打力を前面に押し出した野球を志向する。ア・リーグ屈指の名門チームだが、ベーブ・ルースに呪いをかけられたようだとして、いつしかベーブ・ルースの愛称「バンビーノ」から「バンビーノの呪い」と呼ばれるようになった。86年もの長きに及んだこの「呪い」も2004年のワールドシリーズ制覇により解かれることとなった。2005年シーズン開幕戦、ヤンキースタジアムで「バンビーノの呪いは解けたのではなく、86年に一度しか優勝できなくなるものだ」と皮肉り、ヤンキースファンによって“2004+86=2090”(次の優勝は2090年以後だ)と書かれたプラカードが見受けられた。しかし、3年後の2007年にナ・リーグ優勝チームのコロラド・ロッキーズと対戦し、4連勝でワールドシリーズを制覇したことから、「バンビーノの呪い」が完全にとかれた事を証明する形となった。対するボストンはヤンキースが球界最高年俸のアレックス・ロドリゲスを擁してワールドシリーズを全く制覇できないことから「Aロッドの呪い」として揶揄する(しかし2009年にワールドチャンピオンになり、ロドリゲス自身も大活躍した貢献により、この呪いが解けた。)。全米一熱狂的なファンを持つといわれ、同地区のニューヨーク・ヤンキースとは深い因縁がある。ベーブ・ルースの移籍以来、ア・リーグの盟主として君臨するヤンキースに対して、レッドソックスファンは強い敵愾心を持っている。2003年にラリー・ルキーノ球団社長がヤンキースを「悪の帝国」と呼んだことは有名である。本拠地のフェンウェイ・パークは現在MLBで使用されている球場では最も古い歴史を持つ。市街地の中心に建設されたため、球場自体はそれほど広くなく観客席も少ない。そのためレッドソックスの人気と相まってチケットは入手困難な状況が続いており、特に対ヤンキース戦といった人気カードではプラチナチケットと化す。2003年5月15日から2013年4月10日まで、フェンウェイ・パークでは820試合連続チケット完売を記録。1893年、ウエスタンリーグ (Western League) の球団としてオハイオ州トレド市に誕生。1900年にアメリカンリーグが発足すると、当初の予定では本拠地をバッファローに置く予定だったが、結局ボストンに本拠地を置くこととなった。愛称は1901年の球団創立当初はアメリカンズ、1902年からの2年がソマーセッツ、1904年からの3年間がピルグリムスと変わったとされ、他にもピューリタンズやプリモスロックスなどの愛称があったとされるが、これらの議論には意味が無い。実際には1901年からの7シーズンは単にホームタウンのボストン、もしくはナショナルリーグの「ボストン・ビーンイーターズ」(現:アトランタ・ブレーブス)に対し、「アメリカンリーグのボストン」を示すボストン・アメリカンズで通っており、その他の愛称はその時々で書き手が自由につけたものだからである。1908年シーズンから現在のレッドソックスが正式な愛称となった。1901年、リーグ加盟と同時にセントルイス・カージナルスからサイ・ヤングを獲得。サイ・ヤングや選手兼監督のジミー・コリンズを中心に1903年には91勝47敗という成績でリーグ初優勝を遂げた。この年には第1回となるワールドシリーズが開催され、ピッツバーグ・パイレーツと対戦、5勝3敗で初代ワールドチャンピオンに輝く。翌1904年もリーグ優勝を果たすが、対戦相手であるはずだったニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)が対戦を拒否し、ワールドシリーズは開催されなかった。1912年にはフェンウェイ・パークが開場。この頃のレッドソックスでは、スライディングキャッチを得意としたハリー・フーパー、抜群の打球の読みで極端な前進守備をひき、いくつもの「センターゴロ」を捌いたというトリス・スピーカー、当時レフト後方にあった10フィート(約3メートル)の高さの土手を自由に上り下りしたというダフィー・ルイスの3人からなる、『100万ドルの外野陣』が知られていた。ニューヨーク・ジャイアンツとの対戦となったワールドシリーズでは、4勝3敗1分という僅差でこれを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝く。1914年にベーブ・ルースを獲得。ルースは1915年に投手として18勝、打っては打率.314、4本塁打という活躍でチームのワールドシリーズ制覇に貢献。1916年も変わらぬ活躍で23勝、防御率1.75で最優秀防御率を獲得し、チームも2年連続でワールドシリーズ制覇を成し遂げる。1917年はシカゴ・ホワイトソックスにリーグ優勝を奪われるが、1918年に5度目のワールドシリーズ制覇を果たす。ベーブ・ルースもこの頃から打者に専念するようになり、この年には11本塁打、翌1919年にはそれまでの本塁打記録を大幅に塗り替える29本塁打を放ち、本塁打王に輝いている。1920年1月3日、当時経営難にあえいでいたレッドソックスは、12万5千ドルの金銭と30万ドル以上の負債の肩代わりをすることを条件に、ベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースにトレードした。当時のヤンキースは最下位が定位置の弱小球団だったが、彼のヤンキース移籍を期にヤンキースの成績が伸び始め、ベーブ・ルースが在籍した1920年代から1930年代にかけて8回のワールドシリーズ優勝、11回のリーグ優勝を成し遂げた。そしてそれに反比例するかのようにレッドソックスの成績は伸び悩み、1925年から6年連続最下位を記録するなど、優勝から大きく遠のいたシーズンが続いた。1933年、トム・ヨーキーが球団を買収しオーナーとなると、ヨーキーは球団の建て直しに着手し、かつての名内野手だったエディ・コリンズをゼネラルマネージャーとして招聘する。ヨーキーがオーナーとなって以降、レッドソックスはリック・フェレル、レフティ・グローブ、ジミー・フォックスらの有力選手を獲得、一方のコリンズはボビー・ドーアやテッド・ウィリアムズを発掘するなど、チームは徐々に力をつけていく。そしてついに1946年、チームは約30年ぶりのリーグ優勝を飾るまでに再建される。それ以降、1940年代から1950年代には「打撃の神様」・「最後の4割打者」、テッド・ウィリアムズ、1960年代から1980年代には「最後の三冠王」、カール・ヤストレムスキーといった球史に名を残す大選手が在籍し、ワールドシリーズにも4回(1946年・1967年・1975年・1986年)進出する強豪となった。しかしレッドソックスは、何故かあと一歩のところで優勝に手が届かないという悲劇を繰り返すこととなる。1946年のワールドシリーズは第7戦で敗退、1948年には最終戦でクリーブランド・インディアンスとワンゲームプレイオフを行うが、敗れてしまい優勝はならなかった。1949年も残り2試合の時点で首位に立つも、最終2戦のヤンキース戦に連敗して優勝を逃している。1959年に球団初の黒人選手パンプシー・グリーンがメジャーデビューを果たした。これは、MLB球団の中で最も遅かった。1945年4月16日にニグロリーガー(ジャッキー・ロビンソン、マービン・ウィリアムズ、サム・ジェスロー)入団テストを受けたが、契約の意思はなかった。1949年にウィリー・メイズの獲得の機会があったが、これを逃している。1967年・1975年のワールドシリーズも第7戦で敗退。1972年は開幕直後のストライキとデトロイト・タイガースの最終直接対決に敗れたことが響いて0.5ゲーム差で地区優勝を逃してしまった。1978年は一時2位ヤンキースに14ゲームもの大差をつけたが、故障者続出等で9月の直接対決4連戦に全敗したことも響いて、シーズン最終日に追いつかれ、ワンゲーム・プレーオフに敗れて地区優勝を逃してしまった。1984年に「ロケット」、ロジャー・クレメンスがメジャーデビューを果たし、1986年4月29日にMLB新記録となる1試合20奪三振を達成した。この年(1986年)、クレメンスはサイヤング賞とMVPを同時受賞し、11年ぶりにリーグ優勝となり、ニューヨーク・メッツとのシリーズでは、3勝2敗で迎えた第6戦を延長10回に2点リードのままランナーなしであと1アウトで優勝という場面まで来たものの、3連打と暴投で同点に追いつかれ、さらにビル・バックナー一塁手の「史上最悪のトンネル」とも呼ばれるエラーでまさかのサヨナラ負けを喫してしまう。第7戦も逆転負けで、手に届くところまで来ていたワールドチャンピオンを逃してしまった。その後、1988年・1990年・1995年に地区優勝を果たしたが、ワールドシリーズに進出できなかった。2002年にセオ・エプスタインが史上最年少となる28歳でGMに就任し、2003年のアメリカンリーグチャンピオンシップ敗退後、積極的な戦力補強を進めた。ヤンキースとのチャンピオンシップ第7戦における継投ミスを問われ、グレイディ・リトル監督が解雇され、元フィラデルフィア・フィリーズ監督のテリー・フランコーナ監督が就任する。アリゾナ・ダイヤモンドバックスからトレードでカート・シリング投手を獲得し、フリーエージェントでオークランド・アスレチックスのクローザーだったキース・フォーク投手を獲得する。また、マニー・ラミレス外野手を放出し、テキサス・レンジャーズのアレックス・ロドリゲス遊撃手を獲得する計画も進んでいたが、このトレードは選手会の反発を受け、不成立に終わる(その後ヤンキースがロドリゲスをアルフォンソ・ソリアーノ二塁手らとの交換で獲得した。)。2004年のペナントレースは4月はヤンキースとの直接対決を6勝1敗で乗り切り、アリーグ東地区を4ゲーム差をつけて首位に立つ。しかしその後チーム全体が低調となり、7月末の時点でヤンキースに10ゲーム差をつけられていた。7月末に長年チームの顔であったが、シーズン後にFAによってチームを去ることを確実視されていたノマー・ガルシアパーラ遊撃手をシカゴ・カブスに放出し、モントリオール・エクスポズからオーランド・カブレラ遊撃手、ミネソタ・ツインズからダグ・ミントケイビッチ一塁手、ロサンゼルス・ドジャースからデーブ・ロバーツ外野手らを獲得する。人気者のガルシアパーラを放出したことに非難が集中したが、のちにこれらの選手が重要な役割を果たすことになる。8月に入るとチームは投打がかみ合い好調を維持する。結果8月は21勝7敗の好成績をあげ首位ヤンキースとのゲーム差を縮めることとなった。9月に入ってもヤンキースに追いつくことはなかったが、アメリカンリーグのワイルドカードを獲得する。ディビジョンシリーズではアナハイム・エンゼルスを3連勝で下し、リーグチャンピオンシップシリーズは前年と同じヤンキースとレッドソックスの組み合わせとなる。カート・シリングが先発した第1戦を落とし、その上、シリングは足首の腱を断裂する怪我のため降板し、もはやシリングの再登板は絶望的とみられた。第2戦はペドロ・マルティネスが先発するが、1-3で2連敗を喫する。第3戦も落とし、0勝3敗と追い詰められる。しかし第4戦、9回裏に3-4と負けていながら、代走のデーブ・ロバーツの盗塁をきっかけにヤンキースの守護神であるマリアノ・リベラからビル・ミラーが同点打を放ち、延長戦の末にデビッド・オルティーズのサヨナラ本塁打でヤンキースを降す。第5戦も8回裏にリベラからジェイソン・バリテックの犠牲フライで同点に追いつくと、延長14回にまたもデビッド・オルティーズがサヨナラ安打。第6戦では負傷したかかとを応急手術で縫い合わせたカート・シリングが復帰し、「レッドソックス」の名前通り靴下を血で赤く染めながらの投球でヤンキース打線を封じ、最終的にレッドソックスは、MLB史上初となる3連敗から4連勝の大逆転を達成する。3連敗から4連勝しての勝ち上がりは、北米の他のプロスポーツ史上でも1942年のトロント・メープルリーフスと1975年のニューヨーク・アイランダーズと2010年のフィラデルフィア・フライヤーズ(いずれもNHL)の3例のみである。プレーオフ後、ヤンキースの監督であるジョー・トーリは、「第5戦の6回2死満塁の場面で守備がそれほど評価されていない選手(トロット・ニクソン)に好捕されたのがシリーズ(敗退)のポイントだった」と振り返った。この年のワールドシリーズではセントルイス・カージナルスと対戦。緻密な野球を標榜するカージナルスと、細かい野球が苦手な自分達を『イディオッツ (idiots)』と呼んでいたレッドソックスとの好対照の顔合わせだったが、結果は4勝0敗でレッドソックスが1918年以来のシリーズ制覇を達成した。ポストシーズン8連勝はMLB史上初、4勝0敗でのシリーズ制覇は球団史上初であった。その後ヤンキースタジアムで開幕を迎えた2005年はヤンキースやオリオールズと優勝争いを繰り広げた。オリオールズはオールスター明け後脱落(最終的には負け越しの4位に終わった。)、ヤンキースとの争いに絞られたが、終盤に追いつかれてしまい、勝率は同じだったが、前年2位だったためにワイルドカード扱いとなる。プレーオフはシカゴ・ホワイトソックスの前に敗退した。2006年も前半は貯金20で折り返したが、その後は失速、8月上旬にヤンキースに首位を奪われると、同月18日からの本拠地での直接対決5連戦に全敗して脱落し、終盤にはトロント・ブルージェイズにも抜かれて11ゲーム差の3位だった。オフにはポスティングシステムを利用して、松坂大輔投手に対して5,111万1,111ドル11セントを提示(かつてレッドソックスにも在籍した大投手サイ・ヤングの通算勝利数511にちなむ)。独占交渉権を獲得し、松坂の入団が決まった。2007年は、シーズン当初から首位を独走し、一時は同地区との差を10ゲーム以上引き離していた。その背景には、 抑えとなったジョナサン・パペルボンやこの年の新人王を受賞する二塁手ダスティン・ペドロイアなどの生え抜きが台頭してきたことや長年の懸念材料であったブルペンが岡島秀樹の獲得やマニー・デルカーメンなどの活躍によってMLB屈指のブルペンになったこと、三塁手マイク・ローウェルや一塁手ケビン・ユーキリスなど守備も強化されたことが挙げられる。また、クレイ・バックホルツがデビュー2戦目でノーヒットノーランを達成したという明るい話題もあった。その結果、ニューヨーク・ヤンキースの地区10連覇を阻止し、チームとしても12年ぶりの地区優勝を成し遂げ、この年のMLB最高勝率(96勝66敗)も記録した。ポストシーズンも勝負強さを発揮し、クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズを1勝3敗からの3連勝で逆転勝利すると、ワンゲーム・プレーオフからポストシーズンを全勝で勝ち抜いてきたコロラド・ロッキーズを4連勝で下し、3年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げた。2008年も地区優勝は確実と見られていたが、エースのジョシュ・ベケットや主砲のデビッド・オルティーズら主力選手の相次ぐ故障が響き、この年大躍進を遂げたタンパベイ・レイズにかわされ、地区2位となった。シーズン途中には癌(悪性リンパ腫)を克服したジョン・レスターがノーヒットノーランを達成し、大きな称賛を浴びている。結局ワイルドカードは獲得したものの、続くプレーオフでもレイズに破れてこのシーズンを終えた。なお、同年末のストーブリーグでは、12月4日に田沢純一がメジャー契約を果たしている。この契約は、日本プロ野球への所属も経ず、さらにマイナー契約も経ずにメジャー契約となった日本人選手初のケースとなった。2009年は大補強を施したヤンキース、前年リーグ優勝のレイズとの三つ巴の争いとなった。7月頃には一時首位を保持していたものの、オールスター明けにヤンキースに首位を奪われるとそのままヤンキースの独走を許し、2年連続でワイルドカード獲得の地区2位となった。プレーオフでは前年勝利したロサンゼルス・エンゼルスと再び対戦したが、0勝3敗で破れてしまった。2010年は、ジャコビー・エルズベリーをはじめ怪我人の続出で、地区3位に終わった。この年限りでマイク・ローウェルは引退した。2011年は、オフシーズンにサンディエゴ・パドレスの主砲一塁手エイドリアン・ゴンザレス及びレイズの外野手カール・クロフォードを獲得し、打線がより一層強化され、前年とは大きく異なって、開幕から絶好調であり、単独地区1位になっていた。そして、オールスター後はヤンキースと地区1位を争い、更に、8月にオークランド・アスレチックスからトレードで外野手コナー・ジャクソンを獲得し、地区優勝に勢いをかけた。また、先発投手陣の不振を補うため、ヤンキースの黒田博樹をトレードで獲得しようと交渉していたが、当時の黒田の契約にはノートレード条項あったために果たせなかった。9月以降に大失速し、ヤンキースに地区1位を奪われ、ワイルドカードもレイズに奪われ、最終的には、前年同様地区3位でシーズンを終えた。9月30日には、テリー・フランコーナ監督が辞任した。更に10月にはセオ・エプスタインGMの辞任も発表され、86年ぶりの世界一をもたらした体制が一新されることになった。なおエプスタインの後任に彼の腹心だったベン・チェリントンが就任した。またジョナサン・パペルボンがFAとなって去った為、アスレチックスの抑えアンドリュー・ベイリーを獲得した。2012年、ボビー・バレンタインが監督を招聘。しかしチームは低迷、バレンタインと主力選手の間にも軋轢が生じ、6月24日にケビン・ユーキリス、8月25日にジョシュ・ベケット、エイドリアン・ゴンザレス、外野手カール・クロフォード、内(外)野手ニック・プントがトレードで放出された。また前半戦は、ジャコビー・エルズベリー、ダスティン・ペドロイア、アンドリュー・ベイリー、後半戦はデビッド・オルティーズがDL入りするなど怪我人も多かった。その結果、69勝93敗で地区最下位に沈み、バレンタイン監督も解任された。松坂もこの年限りで自由契約となった。シーズンオフは、10月20日に新監督ジョン・ファレルをトレードで獲得した。戦力補強においては、レンジャーズからFAとなった一塁手マイク・ナポリ、ドジャースから外野手シェーン・ビクトリーノ、アスレチックスから遊撃手スティーブン・ドリューと外野手ジョニー・ゴームス、マリナーズからも外野手マイク・カープを獲得した。投手については、松坂と入れ替える形で黒田の獲得を再度試みるが、黒田がヤンキースと再契約したためにまたしても果たせなかった。しかし、ピッツバーグ・パイレーツのクローザージョエル・ハンラハンや、レンジャーズからFAとなったライアン・デンプスターと上原浩治を獲得し、投手陣を揃えた。2013年、開幕直後の2013年4月15日、ボストンマラソン爆弾テロ事件が起き、ボストンに暗い影を落とした。しかしながら、チームは「Boston Strong」を掲げ、上述の新加入組に加え、オルティーズ、外野手エルズベリーおよびダニエル・ナバ、二塁手ペドロイア、捕手ジャロッド・サルタラマッキアらの連綿と続く打線の爆発、投手陣もクレイ・バックホルツ、ジョン・レスターに加え、前年に手術でシーズンを棒に振ったジョン・ラッキーも再生し、開幕前の最下位予想を覆して、東地区1位を快走した。5月から6月にかけては、無敗のバックホルツおよびクローザーのハンラハン、ベイリーが相次いで怪我により長期離脱、投手陣が崩壊の危機に晒されたが、ブルペンの田澤純一、5月にチームに合流した左腕クレイグ・ブレスロウ、そして6月27日以降クローザーとして圧倒的な成績(防御率1.09、WHIP0.565、連続アウト37人、連続27試合無失点)を残した上原浩治らの活躍により危機を脱出、更に7月30日、絶好調であった新人遊撃手ホセ・イグレシアスを三角トレードで放出、ホワイトソックスのエース、ジェイク・ピービーを獲得し投手陣を整えた。また後半戦は投手フェリックス・ドゥブロン、三塁手ウィル・ミドルブルックス、遊撃手ザンダー・ボガーツらの若手も活躍、7月末・8月末と、何度も首位に迫ったタンパベイ・レイズを9月には9.5ゲーム差まで突き放し、6年ぶりの東地区優勝をリーグ最多勝利(97勝65敗)で飾った。ポストシーズンも粘り強い打線と強力なリリーフ陣で相手チームを圧倒、ワンゲームプレイオフとワイルドカードゲームを勝ち抜いたタンパベイ・レイズを3勝1敗、中地区王者デトロイト・タイガースを4勝2敗で破りアメリカンリーグ優勝、そしてア・リーグとナ・リーグの最高勝率同士の戦いとなったカージナルスとのワールドシリーズを第6戦で制し、95年ぶりに本拠地フェンウェイ・パークでのワールドシリーズ優勝を果たした(2004年、2007年は敵地で世界一)。前年地区最下位からのワールドシリーズ制覇は1991年ミネソタ・ツインズ以来、22年ぶり2チーム目であった。3度目の戴冠となったデビッド・オルティーズは、2013年のチームについて「2004年・2007年ほどの爆発力や才能を持つチームでは無かったけれど、ハートの強いやつらばかりだった。自分が出場した中で最も特別なワールドシリーズだったかもしれない。」と述べた。連覇を目指した2014年は、ジャロッド・サルタラマッキアがマーリンズへ、ジャコビー・エルズベリーが縁りによって伝統の一戦のライバルであるヤンキースへそれぞれ移籍。ワールドチャンピオンを支えた主力の移籍や既存の戦力(ナポリやペドロイア)の怪我や不振で、リーグ最多の145通りのバッティングオーダーを組まなければならない程、得点力が低下しリーグ最下位の2割3分2厘にまで低下し5月の16日から26日にかけて1994年以来の10連敗も経験した。シーズン途中にトレードなどでジョン・レスター、ジョニー・ゴームス、ジェイク・ピービー、ジョン・ラッキー、スティーブン・ドリュー、フェリックス・ドゥブロン、マイク・カープを放出した。ここ3年間で2度目の地区最下位に終わった。2015年も低迷し、シーズン途中にトレードなどでエドワード・ムヒカ、ダニエル・ナバ、シェーン・ビクトリーノ、マイク・ナポリを放出した。2016年は前回世界一の2013年以来、3年ぶりの東地区優勝を飾ったものの、ディビジョンシリーズでインディアンスに3連敗を喫して敗退した。長年主砲として活躍したデビッド・オルティーズが引退し、背番号34が2017年より永久欠番となることが発表された。レッドソックスとヤンキースは長年のライバル関係にあり、数々の名勝負が繰り広げられてきた。どちらのチームもMLB屈指の人気を誇り、贅潤な資金で数々のスター選手を揃える。2007年シーズンのヤンキースとレッドソックスの年俸総額はそれぞれ2億770万ドルと1億6310万ドルで、MLB1位と2位である。コミッショナーに収めるぜいたく税(課徴金)はヤンキースが2388万ドル、レッドソックスが606万ドルにのぼる。日本ではヤンキースが最も人気のあるチームと報道されることが多い。確かに観客動員数ではヤンキースが上回っているが、それはヤンキースの本拠地ヤンキー・スタジアムの収容人数57,545人に対して、レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークは38,805人しか収容できないためである(客席を増やすための改築が現在進行中)。フェンウェイ・パークは入場券の平均価格が2006年春現在、46.46ドル(約5,500円)と9年連続30球団最高であるにもかかわらず456試合連続満員札止め状態(2008年9月8日時点、2003年5月15日から完売が続いている)が続き、またビジターゲームでの観客動員はレッドソックスが1位である。そのため、アメリカではMLBで最も人気のある球団はレッドソックスだといわれている。ファンは全米一熱狂的といわれ、2004年のワールドシリーズでは、女子学生が死亡するという事態にまで発展した。ベーブ・ルースの移籍以来、両チーム間の選手の移籍は禁忌とされ、特にレッドソックスからヤンキースへの移籍はファンから激しい非難を受ける。近年ではジョニー・デイモンがヤンキースに移籍した際に、フェンウェイ・パークで激しいブーイングを浴びた(他にはウェイド・ボッグス、ブルージェイズを経由したロジャー・クレメンスなど)。また両チームとも資金豊富なことから、選手の争奪戦も激しいものがある。「悪の帝国」発言の発端となったホセ・コントレラスや松坂大輔のように、毎年選手の争奪戦が繰り広げられる。レッドソックスには永久欠番に関する規定が存在する。以前は、「レッドソックスでキャリアを終結した」および「アメリカ野球殿堂入り」という条件も存在していたが、2000年、シカゴ・ホワイトソックスでキャリアを終え、同年殿堂入りを果たしたカールトン・フィスクの背番号『27』が永久欠番に指定され、キャリア終結条件が廃止された。また、2008年、殿堂入りしていないジョニー・ペスキーの背番号『6』が永久欠番に指定されたことにより、殿堂入り条件も廃止された。ボストン・レッドソックス殿堂 (Boston Red Sox Hall of Fame) は少なくとも3シーズンをレッドソックスで過ごし、引退してから3年以上が経過している選手が対象となる。ユニフォームを着用しない球団職員経験者に関しては満場一致が殿堂入りの条件となる。ボストン・レッドソックス殿堂はに設立され、2014年度の選考が終わった時点で84人が選出されている。1995年の選出メンバーのうち16人は殿堂が出来る前にアメリカ野球殿堂で表彰を受けており、自動的に殿堂入りが認められた。太字はアメリカ野球殿堂入りも果たした人物。

出典:wikipedia

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