蘂取郡(しべとろぐん)は、北海道(千島国)根室振興局の郡。 以下の1村を含む。当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を参照のこと。択捉島の北東端に位置し、東は得撫郡、西は紗那郡に接している。中心集落の蘂取には村役場のほか、病院や小学校、寺社が建てられ、南岸のトルシリ地区には缶詰工場もあったが、人口は択捉島3郡中で最も少なく、さらに昭和初期に最多を数えた後、減少傾向となった。江戸時代中期、蘂取郡域は東蝦夷地に属し宝暦4年(1754年)松前藩によって開かれた国後場所に含まれた。天明6年と寛政3年には最上徳内が択捉島と得撫島を探検、寛政11年には高田屋嘉兵衛によって択捉航路が運営されるようになる。江戸時代後期にさしかかった、寛政12年には国後場所から分立した択捉場所に属するようになり、漁場が設けられ、同年、幕府の松前蝦夷地御用取扱近藤重蔵が、カモイワッカ岬近くの丘に2本目の「大日本恵登呂府」の標柱を建てた事が知られている。近藤によると、寛政12年には7郷中3郷6村(シベトル4村、マクマヨイ1村、トウロ1村)が蘂取郡域にあり、人口も300人程を数え、また11年後の文化8年にはオトイマウシにも集落ができている。この間、継右衛門ら6名の慶祥丸乗組員たちが、漂着した北千島方面(幌筵島・羅処和島)から得撫郡域を経て文化3年6月28日に択捉島の北端に到着し、7月2日に幕府の蘂取番所に到着した。その後、紗那郡域の会所に向かっている。文化11年ころには高田屋によって蘂取神社が創立されている。また、当時ロシアが南下政策を強力に推し進めており、その脅威に備えるため寛政11年蘂取郡域は天領とされ南部藩と津軽藩が警固をおこなっていたが、文政4年に松前藩領に戻った。その後、安政2年再び天領(今度は仙台藩警固地)となり、同6年の6藩分領以降、蘂取郡域は仙台藩領となっていた。このとき、「大日本恵登呂府」の標柱の痛みが激しくなっていたため、仙台藩士によって「大日本地名アトイヤ」と書き改めた標柱が立てられている。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して蘂取郡が置かれた。国勢調査の結果のうち、大正14年 - 昭和10年のデータは、昭和10年の国勢調査報告より。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。