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択捉郡

択捉郡(えとろふぐん)は、北海道(千島国)根室振興局の郡。 以下の1村を含む。当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を参照のこと。択捉島西南端に位置し、東で振別郡に接していた。中心集落は内保地区で、他に入里節、神居古丹には捕鯨場や製紙工場が建設され人口が増えたが、漁村ばかりの丹根萌村は11世帯60人と寂れている(郡全体では、169世帯885人)。人口はその後、合併により面積が拡大して択捉島最多を数えたのち、他郡とは違い増加傾向を保っている。江戸時代中期、択捉郡域は宝暦4年(1754年)松前藩によって開かれた国後場所に属し、蝦夷(アイヌ)の人々と交易が行われるようになった。天明6年(1786年)と寛政3年(1791年)には最上徳内が択捉島と得撫島を探検、徳内が初めて択捉島に渡った先は郡内の丹根萌と見られる。寛政10年(1798年)には近藤重蔵が最上徳内を案内役として訪れ丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の(裏には寛政十年戌午七月の日付と、同行者十五人の記名)と記した木標を建てている。寛政12年(1800年)には国後場所から分立した択捉場所に属した。寛政12年の人口は、ママイ郷と東岸あわせて200人ほどとなっている。江戸時代後期、択捉郡域は東蝦夷地に属していた。寛政11年、幕府はロシア帝国を警戒し、択捉場所を分立して天領として南部藩と津軽藩に警固を命じた。文化4年7月(1807年)の露米会社による襲撃事件(文化露寇、フヴォストフ事件)後の文政4年に松前藩領に復したが、安政2年再び天領(仙台藩警固地)とされ、同6年の6藩分領以降、択捉郡域は仙台藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して択捉郡が置かれた。北海道二級町村制施行前北海道二級町村制施行後国勢調査の結果のうち、大正14年 - 昭和10年のデータは、昭和10年の国勢調査報告より。

出典:wikipedia

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