ピッツバーグ・パイレーツ(、略称:"PIT")は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はペンシルベニア州ピッツバーグにあるPNCパーク。"Bucs"とも呼ばれるが、これはパイレーツ同様、海賊を意味する"buccaneer"からきている。ワールドシリーズ制覇5回を誇る名門チームであり、第1回のワールドシリーズにも出場している。チームの黄金時代は1970年代、ロベルト・クレメンテやウィリー・スタージェルといった名選手が揃い、地区優勝6回を果たすなど、圧倒的な強さを誇った。1990年から1992年にはジム・リーランド監督の下、バリー・ボンズらの活躍で地区3連覇を果たしている。しかし近年は長い低迷が続いており、1993年から2012年まで、20シーズン連続負け越しを記録した(それまでの連続負け越しの記録はフィラデルフィア・フィリーズが1933年から1948年にかけて記録した16年)。これは北米4大プロスポーツリーグにおいて最長記録となっている。また、近年の下位低迷と相まって、観客動員数の低迷に悩まされている。現在の本拠地であるPNCパークが開場した2001年は年間約240万人に達した観客動員数も、以降はMLBでもワーストクラスの年間約180万人程度で推移している。年俸総額も2007年はMLB30球団中27位の約3800万ドルにとどまり、緊縮財政を強いられている。1921年8月5日、フォーブス・フィールドで行われたパイレーツ対フィリーズ戦で、MLB初のラジオ中継が行われている。これを行ったのが地元ピッツバーグに世界最初のラジオ局として創設されたKDKAであり、1ヵ月前の7月2日にはジャック・デンプシー対ジョルジュ・カルパンチェの世界戦の中継や、翌8月6日に全米オープンテニスの中継も行っている。長い低迷期から脱却し、2013年からワイルドカードで3年連続ポストシーズン進出。2014年には観客動員数が240万台に戻るなど往年の人気を取り戻しつつある。1882年にナショナルリーグに対抗するリーグとしてアメリカン・アソシエーションが設立される際、リーグ設立メンバーの一人デニー・マックナイトが、このリーグに参加するため1881年10月に創設した「アレゲニー・ベースボール・クラブ」が球団の始まりである。球団名はピッツバーグ近郊に流れる河川(アレゲニー川)からとったものだった。創設者のマックナイトは当初アメリカン・アソシエーションの代表を務めていたが、他球団の契約を無視した強引な選手の引き抜きなどが理由で1886年にリーグから追放処分を受けた。チームはオーナーの交代を機に1887年にナショナルリーグに鞍替えし、1891年には「パイレーツ」と改名する。これは1890年のプレイヤーズ・リーグの創設と解散の混乱に乗じ、当時のフィラデルフィア・アスレチックスの二塁手だったルー・バイアーバウアーと、ワシントン・ナショナルズの捕手だったコニー・マックをこっそり引き抜いたことで、相手側から「盗人行為」と批判を受け、それを当時のオーナーウィリアム・A・ニミックが開き直って、自らをパイレーツ(=海賊行為者・略奪者という意味)と名乗ったのが始まりで、今日に至るという。創設以降、優勝とは縁がなかったが、1900年にルイビル・カーネルズのオーナーだったバーニー・ドレイファスがパイレーツを買収した際、ホーナス・ワグナーを含む14人の選手をカーネルズから獲得して、チーム力を強化。翌1901年にアメリカンリーグが創立され2リーグ制になると、圧倒的な強さでナショナルリーグ3連覇を果たす。1903年、初開催となったワールドシリーズではボストン・アメリカンズ(現:ボストン・レッドソックス)に敗れたが、再びリーグ優勝した1909年にはタイ・カッブを擁するデトロイト・タイガースを下して初のワールドチャンピオンに輝いた。1925年に久々のリーグ優勝を果たすと、ワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)と対戦、1勝3敗と追い込まれながら、そこから3連勝し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。この頃後に野球殿堂入りする「ビッグ・ポイズン」ことポール・ウェイナーと、「リトル・ポイズン」ことロイド・ウェイナーの兄弟が入団。1927年のワールドシリーズに進出するが、相手はベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグら、野球史上に残る「マーダーズ・ロウ(殺人打線)」を擁するニューヨーク・ヤンキースだった。当時パイレーツの選手達がヤンキースの打撃練習を見た時点で敗退を確信したというのは有名な話である。パイレーツは4連敗でシリーズを終えたが、ウェイナー兄弟は以後数年にわたってパイレーツを牽引、兄弟二人で計5611本もの安打を放った。これは今なお兄弟の合計安打数のMLB記録である。戦後、7年連続本塁打王に輝いたラルフ・カイナーが現れたものの、チームは下位に低迷することが多くなった。しかし1955年にロベルト・クレメンテ、1956年にはビル・マゼロスキーがメジャーデビューするなど若手選手が充実。迎えた1960年にはダニー・マートーの指揮の元で33年ぶりのリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズ第7戦をマゼロスキーのサヨナラ本塁打で制するという、劇的な幕切れで3度目のワールドチャンピオンに輝いた。その後チームは低迷、マートーも健康上の問題から監督を退いていたが、1969年に復帰するとチームは再び快進撃を始める。マートーが指揮したパイレーツは、アフリカ系アメリカ人や中南米出身の選手が多く在籍して「ザ・ファミリー」と称される強い結束を誇り、地区優勝6回など黄金時代を築いた。1970年代にはウィリー・スタージェルが登場、1971年にはクレメンテの活躍により4度目のワールドシリーズ制覇を成し遂げるが、翌1972年に飛行機事故でクレメンテを失う悲劇に見舞われた。その後地区優勝は果たすもプレーオフで敗退を重ね、ワールドシリーズからは遠のいていたが、1975年にクレメンテの後継としてデーブ・パーカーがメジャーに定着。1979年にスタージェルとパーカーらの活躍により5度目のワールドチャンピオンに輝いた。1980年代に入るとチームの勢いも衰え、優勝から遠のいた。にピッツバーグ薬物裁判に関連して主にパイレーツの選手がコカインの密売に関与したとされる疑惑が発覚した。1986年に名将ジム・リーランドが監督に就任すると、同年には超大型ルーキーであるバリー・ボンズが入団。ボンズとボビー・ボニーヤの「B-Bキャノン」、アンディ・バンスライクら外野陣トリオの活躍で1990年から1992年にかけて地区3連覇を達成した。1992年限りでボンズが地元サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍すると、再びチームも低迷。その後2012年まで、20シーズン連続で負け越しが続いた。は、7月には一時的ながらナショナルリーグ中地区首位に立ったが、7月26日から8月8日にかけて喫した10連敗が響き、9月14日のセントルイス・カージナルス戦に負けた事で、19年連続のシーズン負け越しが決まった。は、ニューヨーク・ヤンキースからA.J.バーネットを獲得。他にもエリック・ベダードなどFA選手を獲得して戦力アップを図り、さらにシーズン途中の8月24日にはロサンゼルス・エンゼルスより高橋尚成を獲得。しかしチームは9月に7勝21敗と大失速して、アメリカプロスポーツ史上初となる20年連続シーズン負け越しとなった。は、弱点だった捕手にニューヨーク・ヤンキースからFAでラッセル・マーティンを獲得するなど効果的な補強を行い、シーズン途中の8月27日にはニューヨーク・メッツからマーロン・バードを、8月31日にはミネソタ・ツインズからジャスティン・モーノーをそれぞれフラッグシップ・ディールで獲得。9月9日のテキサス・レンジャーズ戦に勝利しシーズン82勝目を挙げ、連続シーズン負け越しのワースト記録を20年でストップさせると、9月23日のシカゴ・カブス戦に勝利し、ワイルドカードで21年ぶりのポストシーズン進出を決めた。2015年は3年連続でポストシーズンに進出しワイルドカード進出決定戦に同じ中部地区で3位、107年ぶりのワールドチャンピオンを目指すカブスと対戦。19勝でエースのコールで落とし0-4で完封負け。2014年も同じワイルドカード進出決定戦でワイルドカード争いを2位で滑り込み、西部地区のジャイアンツにも相手のエース・バムガーナーに完封されているので2年連続で完封負けを喫した事になる。
出典:wikipedia
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