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カンザスシティ・ロイヤルズ

カンザスシティ・ロイヤルズ(、略称:"KC")は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。ミズーリ州カンザスシティにあるカウフマン・スタジアムを本拠地として使用している。1969年から拡張球団としてシアトル・パイロッツ(現:ミルウォーキー・ブルワーズ)とともにアメリカンリーグに参入。1年目は地区4位(6チーム中)に沈んだが、3年目となる1971年には勝率5割を達成。8年目の1976年には初の地区優勝を達成。その後、1980年代までは強豪チームの一角としての地位を確保。1976年からの10年間に7回プレーオフに出場、プレーオフを逃した年も全て地区2位か3位(7チーム中)、とほぼ毎年優勝争いに加わった。その間、1981年に来日し、ジョージ・ブレットの強打で日本のファンにも強い印象を残した。1985年には、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズで1勝3敗から逆転し、初のワールドチャンピオンに輝いた。パイロッツが1年目から大きくつまずき、1年でミルウォーキーに移転、その後も低迷を続けたのとは対照的に、安定した強さを誇り続けたため「拡張球団の理想」とされた。ところが、1990年代以降はチームの象徴的存在であったブレットの引退に足並みを合わせるようにチームは下降線を辿っていった。かつての栄光は見る影もなく、1996年に球団史上初の最下位に沈み2002年から2006年までの5年間で4度シーズン100敗を記録した。1986年以降2013年までの28年連続でポストシーズン進出を逃していたが、これは(MLBだけでなく)北米プロスポーツ史上2位の不名誉な記録だった(なお1位はモントリオール・エクスポズ/ワシントン・ナショナルズの30年(1982年-2011年))。しかし、こうしたチーム事情を逆手にとってドラフト等で有望な若手選手を獲得・育成し、積極的に起用してきた。ジョニー・デイモン、ジャーメイン・ダイ、カルロス・ベルトラン、ザック・グレインキーら数々の有名選手がこの球団で飛躍のきっかけを掴み、他球団へと巣立っていった。こうした若手選手の育成と積極的なトレード補強が実り、2013年には10年ぶりの勝率5割を達成し2014年には29年ぶりにワイルドカードでポストシーズンへ進み、リーグ優勝を果たす。2015年には30年ぶりの地区優勝を果たすと、ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズも4勝1敗で制し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。1955年から1967年までカンザスシティにはカンザスシティ・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)が本拠地を構えていたが、1967年のシーズン限りでアスレチックスはオークランドに移転する。1年を挟んだ1969年、MLBの球団拡張に伴ってカンザスシティに新たなチームが創設されることとなった。初代オーナーにはユーイング・カウフマンが就任し、球団名はカンザスシティ・ロイヤルズに決定。本拠地球場はアスレチックスが使用していたのに引き続きミュニシパル・スタジアムとなった。また同年には東西2地区制が導入され、ロイヤルズはアメリカンリーグ西地区に所属することとなった。チームの初試合は4月8日、ミネソタ・ツインズを本拠地に迎え、延長12回の末に4対3でサヨナラ勝ちを収めた。なおこの試合では新人のルー・ピネラが5打数4安打の固め打ちの活躍をみせている。また翌4月9日も延長17回までもつれ込み、最終的に4対3で2試合連続のサヨナラ勝ちとなった。しかし、その後は負けが込むようになり、最終的に69勝93敗で地区4位で1年目のシーズンを終えた(逆に開幕2連敗を喫したツインズはこの年に地区優勝を果たしている)。また開幕戦で大活躍だったピネラはシーズンでは打率.282を記録し、新人王に輝いている。1970年は65勝97敗と前年を下回る成績となり、シーズン途中にはボブ・レモンが監督に就任する。翌1971年にはレモン監督の下で85勝76敗と初めて勝ち越してシーズンを終えた。1973年にはジャック・マキーオンが監督に就任(マキーオンは2003年に74歳というMLB史上3番目の高齢でフロリダ・マーリンズの監督を務め、チームをワールドシリーズ制覇に導いている)。また本拠地球場もロイヤルズ・スタジアムに移した。ロイヤルズ・スタジアムは広い外野と人工芝を持つ球場で、ロイヤルズの選手達はここで持ち前の機動力野球を存分に発揮した。この頃にはジョージ・ブレット、フランク・ホワイトといった若手選手も台頭し始め、チームも安定した戦いぶりをみせる。しかし、当時の西地区はアスレチックスが全盛期を誇っており、ロイヤルズはアスレチックスに次ぐ2番手という位置づけだった。1975年のシーズン途中でマッケオンに代わりホワイティ・ハーゾグが監督に就任。ハーゾグの下でチームの機動力や守備力は更に昇華し、ロイヤルズにはブレットやホワイトに加え、ウィリー・ウィルソン、エイモス・オーティス、アル・コーウェンズ、ハル・マクレーといった機動力と守備力を兼ね備えた選手達が名を連ねた。1976年には2位アスレチックスを振り切って初の地区優勝。同年にはブレットが打率.333で首位打者に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではニューヨーク・ヤンキースと対戦したが、2勝2敗で迎えた最終戦でサヨナラ負けを喫してしまった。1977年には102勝60敗という圧倒的な成績で地区2連覇、翌1978年もカリフォルニア・エンゼルス、テキサス・レンジャーズを振り切り、地区3連覇を果たした。しかし、続くリーグチャンピオンシップシリーズではいずれの年もヤンキースに敗れ、三度ヤンキースにリーグ優勝を阻まれることとなった。1979年は地区2位に終わり、翌1980年には新たにジム・フライが監督に就任する。同年にはブレットがシーズン終盤まで打率4割を維持し、最終的に打率.390という高打率を記録(戦後ではアメリカンリーグ最高)、またウィルソンも球団記録となる133得点、230安打を記録した。彼らの活躍もありチームも4度目の地区優勝を果たし、リーグチャンピオンシップシリーズでは再びヤンキースと相まみえた。そしてヤンキースに2連勝し王手をかけた第3戦、ヤンキースのクローザーだったリッチ・ゴセージからブレットが逆転の3ランを放ち、初のリーグ優勝を決めた。しかし、ワールドシリーズではマイク・シュミット擁するフィラデルフィア・フィリーズに2勝4敗で敗れ、ワールドチャンピオンはならなかった。1981年には50日間に及ぶストライキによってシーズンが前後期制となり、前期は20勝30敗と不調が続いた。そのため後期にはフレイに代わり、前年までヤンキースの監督を務めたディック・ハウザーが監督に就任する。その後チームも盛り返して後期優勝を果たすものの、前期優勝したアスレチックスとのディビジョン・シリーズでは3連敗で敗れ去った。1982年、1983年と2年連続で地区2位だったが、1983年のシーズン途中には有名なパインタール事件が起きている。またシーズン後にはウィルソン、バイダ・ブルー、ウィリー・エイキンズ、ジェリー・マーティンの4選手によるコカインの使用が発覚し、ブルーを除いた3選手に対してMLBコミッショナーのボウイ・キューンが1年間の出場停止処分を科したが、その後に見直されて1984年5月に処分が解除された。1984年、ブレット・セイバーヘイゲンが19歳でメジャーデビュー。この年は防御率3.48、10勝11敗という成績を残し、その才能を見せ付けた。またチームも3年ぶりに地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでデトロイト・タイガースに3連敗を喫した。翌1985年にはセイバーヘイゲンが防御率2.87、20勝6敗でサイ・ヤング賞を獲得すると、ブレットも打率.335・30本塁打・112打点と素晴らしい成績を残す。チームもシーズン終盤までエンゼルスと激しい首位争いを演じたが、最終的に1ゲーム差で逃げ切って6度目の地区優勝を決めた。リーグチャンピオンシップシリーズではトロント・ブルージェイズと対戦し、1勝3敗と追い込まれたが、その後は3連勝でリーグ優勝を決めた。2度目の挑戦となったワールドシリーズではセントルイス・カージナルスと対戦。このシリーズでも1勝3敗と追い込まれたが、第6戦での誤審(世紀の誤審を参照)も味方し、ロイヤルズが2連勝。最終戦ではセイバーヘイゲンが完封勝利を収め、創設17年目にして初のワールドチャンピオンに輝いた。1986年のシーズン途中にはハウザーが体調不良によって監督を辞任。マイク・フェラーロが代行監督を務めたが、この年は76勝86敗と負け越してしまう。翌1987年6月17日にはハウザーが51歳という若さで亡くなり、同年にはハウザーの背番号である10番が永久欠番に指定された。この間1986年にはボー・ジャクソンがメジャーデビュー。マルチアスリートとして同時期にNFLのロサンゼルス・レイダースでもプレーし話題を呼んだ。また1990年にはブレットが打率.329で首位打者を獲得し、3つの年代(1976年、1980年、1990年)で首位打者を獲得した唯一の選手となった。しかし、この年には地区6位(7チーム中)に沈み、翌1991年も地区6位となった。1993年限りでブレットが引退、それ以外の選手も次々と退団し、チームの黄金時代は幕を閉じることとなる。1994年、3地区制導入によりアメリカンリーグ中地区に移動。この年はシカゴ・ホワイトソックスやクリーブランド・インディアンスと首位争いを演じていたが、232日間に及ぶ長期ストライキによってシーズンが中断されてしまう。1995年は地区2位でシーズンを終えたが、首位インディアンスとは30ゲーム差という大差がついてしまった。にはついに球団創設以来初めて地区最下位に沈んだ。も64勝97敗と大きく負け越し、2年連続で最下位となった。1998年にはタンパベイ・デビルレイズとアリゾナ・ダイヤモンドバックスが新加盟することに伴い、アメリカンリーグ中地区所属の球団をナショナルリーグに移籍することになった際(試合のない球団が極力発生しないように、両リーグとも球団数を偶数にする必要があったため。ただし2013年から両リーグ15球団ずつになった)、ロイヤルズはナショナルリーグ移動球団の第一候補とされた。しかし、ロイヤルズはアメリカンリーグ残留を表明し、これは回避された(その代わり、ミルウォーキー・ブルワーズがナショナルリーグへ移動した)。2000年以降、チーム状況はより深刻なものとなる。2002年には初めてシーズン100敗(62勝)を記録し、シーズン中に監督が2人も交代する事態となった。2003年こそ勝率5割を上回ったが、2004年から2006年にも3年連続でシーズン100敗を記録し、いずれも最下位でシーズンを終えた。2007年はアレックス・ゴードン、ビリー・バトラーといった若手選手の奮起もあり、4年連続のシーズン100敗こそ回避したものの、69勝93敗で4年連続の最下位となった。2008年からは北海道日本ハムファイターズで監督経験のあるトレイ・ヒルマンが指揮を執った。また千葉ロッテマリーンズからフリーエージェントとなった薮田安彦を2年600万ドルの契約で獲得した。最終的にチームは地区4位となり、劇的な回復には至らなかったものの、5年連続の最下位は免れた。2009年はクリーブランド・インディアンスと同率最下位(4位)に終わった。2010年は序盤より最下位に沈み、5月13日にはヒルマン監督は成績不振のため解任され、後任には元ブルワーズ監督のネッド・ヨストが就任した。2011年シーズン前にエースのザック・グレインキーとショートのユニエスキー・ベタンコートをブルワーズに放出し、有望株アルシデス・エスコバーを軸に4人を得た。最初は若い選手の活躍もあり一時は2位まで上がる快進撃を見せたが、4位に終わった。しかし、メルキー・カブレラ、ジェフ・フランコーアなどが復活または自己最高の成績を残した。サードからレフトに転向したアレックス・ゴードンはゴールド・グラブ賞を獲得するなどブレークした。2012年からオフにかけてはグレインキー放出後の課題であった先発投手としてジェレミー・ガスリー、アービン・サンタナ、ジェームズ・シールズを獲得。は、投手陣がリーグトップのチーム防御率(3.45)を記録するなど奮闘し、シーズン終盤までワイルドカード出場権を争い、勝率は10年ぶりに5割に達するなど飛躍のシーズンとなった。は、6月に20年ぶりの10連勝を達成する等、アメリカンリーグ中部地区の覇者デトロイト・タイガースとシーズン終盤まで優勝争いをし長い低迷期に終止符を打つことになる。最終的にはタイガースに中部地区4連覇を許すが、9月26日には29年ぶりにワイルドカードでポストシーズンへ進出が決定。9月30日のワイルドカードゲームでは9-8でオークランド・アスレチックスに勝利しプレーオフへと勝ち進むと、勢いは止まらず、アメリカンリーグディビジョンシリーズ(ALDS)でアスレチックスの地区3連覇を阻止し、リーグ最高勝率で5年ぶりに西部地区を制覇したロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムもスウィープ(無敗での3連勝)しアメリカンリーグ優勝決定シリーズ(ALCS)に進出すると、メジャーで唯一200を越えるホームラン数(211本)にものを言わせる圧倒的な破壊力で17年ぶりに東部地区を制覇したボルチモア・オリオールズとのALCSでもスウィープ(無敗での4連勝)し、ワールドチャンピオンになった1985年以来3度目となるアメリカンリーグ優勝を果たした。2012年にワイルドカードが2枠になって、ワイルドカードゲームを制したチームがディビジョンシリーズ(LDS)を制したのは、アメリカンリーグでは史上初のチームだが、リーグ優勝決定シリーズ(LCS)を制したのは史上初だった。更に1995年にワイルドカード制度が導入されてからLDSとLCSをいずれもスウィープ(無敗で突破)したのも、ワイルドカードでのポストシーズン進出チームが1枠になった時代も合わせてアメリカンリーグでは史上初だった。特にワイルドカードゲームからALDS第2戦まで、ポストシーズンで史上初めて3試合連続で延長戦を制しての勝利となった。またそのシーズンのポストシリーズ初戦(アスレチックスとのワイルドカードゲーム)から8連勝したのも史上初だった。12年ぶりにワイルドカード同士の対決となったWS(ワールドシリーズ)では、ナショナルリーグ最多20回目のリーグ優勝を成し遂げたサンフランシスコ・ジャイアンツと対戦。カンザスシティでの初戦に敗れた事で、ポストシーズンの連勝が8でストップ。WS前のポストシーズン8試合で13盗塁を誇った機動力を封じられたのと、シリーズを通して本来は先発ピッチャーのマディソン・バンガーナーに抑えられ、最終的にはジャイアンツに世界一を攫われるが、3勝4敗で最終戦も2-3の敗戦と過去4年で2度の世界一を誇るジャイアンツを相手に土俵際まで追い詰める充実のシーズンとなった。オフには、打撃陣はテキサス・レンジャーズからアレックス・リオスを、シアトル・マリナーズからケンドリス・モラレスを、ピッツバーグ・パイレーツからエディンソン・ボルケスを、アトランタ・ブレーブスからクリス・メドレン等をそれぞれ獲得した。一方で、ビリー・バトラーがオークランド・アスレチックスに、ジェームズ・シールズがサンディエゴ・パドレスに、青木宣親がサンフランシスコジャイアンツに移籍した。は、開幕6連勝を飾った。また、組織票によりシンシナティ・レッズのホーム・グレート・アメリカン・ボール・パークで行われる同年のMLBオールスターゲームのファン投票第3回中間発表で、セカンドを守るヒューストン・アストロズのホセ・アルトゥーベと、外野手部門の一角(センターを守り、外野手部門で2位だったエンゼルスのマイク・トラウト)以外の全ポジションに自チームの7人(キャッチャーのサルバドール・ペレス、ファーストのエリック・ホズマー、サードのマイク・ムスタカス、ショートのアルシデス・エスコバー、レフトのロレンゾ・ケイン、ライトのアレックス・ゴードン、指名打者のモラレス)が入り、その1週間後に発表された第4回中間発表でセカンドのアルトゥーベを逆転してオマー・インファンテが入り、当時外野手部門2位だったトラウト以外の8人が入るといった行為があり物議を醸した。同年もホームランは139本とアメリカンリーグでは2番目に少ないながらも、リーグ2位の104盗塁とリーグ最少の973三振と長打の少なさを機動力やバットに当てる技術で補う野球は健在で30年振りの地区優勝を果たしただけでなく、5割8分6厘と最高勝率で2年連続のポストシーズン進出となった。2年連続のポストシーズンとなったALDSで、ヤンキースとのワイルドカード進出決定戦を制したアストロズとの第4戦では敵地で7回裏までに2-6でビハインド。だが諦めずに8回に先頭で9番のリオスからエスコバー、この年の夏にレイズから移籍した2番のベン・ゾブリスト、ケイン、ホズマーと怒涛の5連打で2点差まで追い上げると、その次のモラレスの打球がアストロズのショート・カルロス・コレアのタイムリーエラーを誘い2人が生還し同点。更にゴードンのセカンドゴロ(セカンド・アルトゥーベのファインプレー)の間に逆転し一挙5点。地元ミニッツメイドパークでのALCS進出決定を確信したアストロズファンを黙らせただけでなく、第4戦は1勝2敗で迎えていたので、メジャー史上2回目となるポストシーズンで負ければ敗退の試合で8回以降4点差以上を逆転し、リーグ最高勝率で中部地区を制したチームの意地を見せた。そして地元・カンザスシティに戻っての第5戦も2回に先制されるもシーズン途中にシンシナティ・レッズから移籍し、レッズ時代からポストシーズンでまだ勝ちがないながらも、アメリカンリーグのポストシーズンでは1956年のワールドシリーズでパーフェクトゲームを達成したドン・ラーセン以来となる19人連続アウトを奪ったジョニー・クエトの頑張りもあり、打線が4回からの2イニングで逆転し7-2で勝利。3戦全てで逆転勝ちを収めて、2番のジョシュ・ドナルドソンが41本塁打でリーグ最多の123打点、3番のホセ・ボティースタが40本塁打で114打点、4番のエドウィン・エンカルナシオンが39本塁打で111打点と打点だけでもアメリカンリーグのベスト5にこの3人が占める程の圧倒的な破壊力で22年ぶりに東部地区を制覇したトロント・ブルージェイズとのALCSに2年連続で進出すると、カンザスシティでの2戦を連勝。敵地ロジャーズ・センターで2敗は喫したものの、1勝2敗で凌ぎ先に王手をかけた状態でコウフマン・スタジアムに戻っての第6戦を4-3で競り勝ち、2年連続4回目のリーグ優勝。シカゴ・カブスとのNLCSをスウィープして15年ぶりにナショナルリーグを制覇したニューヨーク・メッツとのWSに進出した。コウフマン・スタジアムで開幕したWSでは1番のエスコバーがメッツの先発マット・ハービーから、史上2人目の初球先頭打者による走塁本塁打から始まり、ワールドシリーズ史上最長タイの14回まで縺れた末にサヨナラ勝ちを収めると、続く2戦目も4回に先制されるも5回に4点を奪って逆転し7-1で大勝を飾りカンザスシティで連勝。舞台をシティ・フィールドに移しての3戦目こそ29年ぶりのワールドチャンピオンを目指すメッツに3-9と意地を見せられたものの、4戦目は5回までに1-3とビハインドながら6回に1点を奪い、2-3で迎えた8回にこの回先頭のゾブリスト、ケインが立て続けにフォアボールを選び、4番・ホズマーのセカンドゴロをロサンゼルス・ドジャースとのナショナルリーグディビジョンシリーズ(NLDS)第4戦からメジャー新記録の6試合連続ホームランを記録したダニエル・マーフィーがエラーを犯し同点。更にムスタカスとペレスが続けてタイムリーヒットを放って、この回3点を奪って逆転勝ち。圧巻は30年ぶりのワールドチャンピオンに王手をかけた第5戦。第1戦で先発したメッツのハービーに9回まで0-2と完全に抑え込まれた状況下でハービーが続投。この回先頭のケインがフォアボールを選び、続くホズマーの時に初球スチール。これが成功し2塁に進むと、ホズマーがレフトオーバーのタイムリー2塁打を放ち1点差。続くムスタカスが進塁打を放ち1死3塁で6番・ペレスの打球はサードを守るキャプテン・デビッド・ライトの正面。ライトが1塁に送球したのを見てホズマーがギャンブルスタートで本塁に突っ込むと、これがファースト・ルーカス・ドゥーダの悪送球を誘い2試合続けて終盤にビハインドの状況から同点に追いつくと、延長12回表にメッツの5人目アディソン・リードから、クリスチャン・コローンがレフト前ヒットで勝ち越すとそこからあと4点追加。結局7-2で制して、最後まで諦めなかった結果4試合全てで逆転勝ちを収め、前年あと一歩の所で逃した1985年以来2度目の世界一を30年ぶりに勝ち取った。ワールドチャンピオン連覇を目指す2016年は2015年の9月に発表されたというMLB史上初のワールドシリーズ対戦チーム同士の開幕戦を制し、最高のスタートを切ったものの、4月25日のエンジェルス戦から5連敗を喫し、ホームでは8勝3敗だったものの、敵地だと5勝8敗とやや内弁慶ぶりを露呈し4月は最後の10試合で3勝7敗と調子を落とし3位で終える。Royalとは「国王、王立の」といった意味だが、このロイヤルズのroyalは直接は地元カンザスシティで1899年から毎年行われている家畜祭(品評展示会に娯楽要素も含めたイベント)「 (アメリカン・ロイヤル)」に由来して命名されている(なおアメリカン・ロイヤルの名称は、企画にあたり参考としたイギリスの王立農業学会が主催する品評展示会に由来する)。後に誕生するNFLのチーフスやNBAのキングス(現サクラメント)はこのroyalというニュアンスを参考にしている。1986年に設立され、25人が殿堂入りを果たしている。

出典:wikipedia

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