国道(こくどう)とは、日本に於ける道路のうち、国が建設・管理するものの総称である。一般的には、国道が全国的な幹線道路網を構成し、下位の道路がそれを補完する。全国的な幹線道路網を構成する道路として道路法に基づき国が政令で指定するもので、現在は一般国道と高速自動車国道との総称となっている。単に「国道」と言った場合には一般国道のことを指していることが多い。一般国道は、により、高速自動車国道は高速自動車国道の路線を指定する政令により指定されている。路線の正式名称は、各政令の別表の路線名に「一般国道」又は「高速自動車国道」を冠したものとなり、例えば、「一般国道1号」、「高速自動車国道北海道縦貫自動車道函館名寄線」などと言う。国道に指定される道路は、主な都市と都市を結ぶ道路や、高速道路と連絡する機能を持つ道路、主要港湾や空港をつなぐ道路など、これらの連係により国の産業経済の発展に欠かすことができないもの、あるいは国の産業発展に貢献するであろうことが将来期待されるものとして重要視された道路である。国が管理する道路であると思いがちであるが、国道の種類、又は政令()によって特別に指定されているかどうかにより、道路管理者(法律上認められた特殊な包括的権能を持つもの)は異なる。国道の種類を大きく分けると、高速自動車国道(高速道路)と一般国道の2つがあり、さらに一般国道は、指定区間と指定区間外に分けられる。高速自動車国道では、道路構造令によって道路の幅や設計速度などが細部にわたり定められているが、一般国道では必ずしも道路構造令による規定に準じて供用がなされている訳ではなく、道幅や歩道の有無など道路の整備の度合いに関する決まり事がないという大きな相違点があげられる。日本の国道の標識は『道路標識、区画線及び道路標示に関する命令』(以下、本節では「命令」と呼ぶ)で定められている。この標識の正式名称は「国道番号」であり、命令では「118-A」の分類番号が与えられている。形状は丸みを帯びた下向きの三角形で、国道の愛好家は標識の形状から「おにぎり」と呼ぶことがある。「国道番号」標識は命令が施行された1960年(昭和35年)当時から設置が開始された標識である。かつて字体は様々存在したが、現在では数字がヘルベティカ、国道の文字が丸ゴシック体にほぼ統一されている。他の標識に合わせた色・文字体変更がなされたが、施行当時の「おにぎり」の形状はそのまま保たれている。国道番号の標識は、すべての一般国道路線上に設置されているとは限らず、首都圏中央連絡自動車道(国道468号)、東海環状自動車道(国道475号)、西九州自動車道(国道497号)のような一般国道の自動車専用道路の一部の路線に設置されていない場合もある。地方により標識の形態や大きさも様々な特色あるものが見られ、東京都心部ではバックライトが埋め込まれ夜間に発光する字光式、政令指定都市である静岡市や仙台市の一部や、福島県などで四角いプレートに描かれたもの、広島市では大きさ1mを越えるもの、三重県ではステッカー式のものなどがある。近代の日本における国道は、1876年(明治9年)太政官達第60号で、県道、里道とともに定められたのを起源とする。このときの国道は全てが東京日本橋を起点として江戸時代の五街道をの伝統を引き継ぐ形となった。さらに、一等国道、二等国道、三等国道の3種に分けられ、幅員はそれぞれ七間(約12.7m)、六間(約10.8m)、五間(約9m)と定められた。一等国道は東京日本橋から各開港場までを結び、二等国道は東京と伊勢神宮および、東京、大阪、京都の各府と陸軍の司令部であった各鎮台(東京・大阪・名古屋・仙台・広島・熊本)とを結んでいた。三等国道は東京と各県庁所在地ならびに、各府と各鎮台同士を結ぶものであった。国道の等級が廃止されたのは1885年(明治18年)のことである。これに代わり、この時初めて1から44までの番号が振られ、いわゆる明治国道の路線が認定された。一号は「東京ヨリ横浜ニ達スル路線」、二号は「同大阪港ニ達スル路線」から、四十四号「東京ヨリ沖縄県ニ達スル路線」までの44路線である。同時に全ての国道の幅員を七間と改められた。44ある路線のうち、一号から八号までが日本橋を起点に開港場まで結ぶ路線であった。これらの国道では、他の路線と重複する部分がかなり多かった。日本では鉄道優先の政策が採られていたため、道路整備は諸外国に比べ後れを取った。しかし、日清戦争・日露戦争以降は軍事的な目的もあって、道路事業費の増加が見られ、いわゆる明治国道の路線は、1887年(明治20年)指定の四十五号「東京ヨリ横須賀鎮守府ニ達スル路線」から、1915年(大正4年)の最終改定での、六十一号「東京ヨリ第十五師團ニ達スル路線」まで17路線が追加された。1919年(大正8年)に、戦前の道路整備の基本法となった道路法(大正8年4月11日法律第58号、旧道路法とも呼ばれる)が公布された。これにより、従来の道路路線は廃止され、いわゆる大正国道が新たに定められた。この大正国道は、の二種類からなり、東京市から各地方へ達する前者の路線については以下の38路線が、後者の軍事路線については26路線がそれぞれ定められ、国道は計64路線となった。さらに太平洋戦争終結時までに最終的には計82路線が認定された。明治国道に比べて軍港や軍事基地に達する路線が多く、軍事色がかなり強くなったことを特徴とする。国道1号となった路線の行先は、国家神道の中心である伊勢神宮であった。「軍事国道」と称される比較的距離の短い軍事路線には、特○号のナンバーが振られ、軍事国道一号である特一号は、1614年(慶長19年)に徳川家康が五街道の整備に先立ち造成した御成街道(現在の千葉県道69号長沼船橋線)であった。現在国道の無い小笠原諸島も軍事的要衝とみなされ、軍事国道が設置された。大正国道では、建設費および改修費は全額国が負担することになっており、依然として軍事優先主義が貫かれた。当時の通過市町村名は右記ウィキソース参照のこと。
以降、政府は1920年(大正9年)から「第一次道路改良計画」を実施し、道路改良政策を施していったが、1923年(大正12年)の関東大震災発生により予算が大幅に縮小された。1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけて追加された路線。1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)にかけて大幅な区間変更および経由地変更があった路線。1934年(昭和9年)から、先の道路改良計画を改定した「第二次道路改良計画」が実施された。これにより国道6903km及び軍事国道275kmを国が直轄で改良する計画が実行に移されたものの、長引く不況による財政難及び戦時体制への移行に伴い、予算的裏付けが十分になされず、これも頓挫するに至った。一方、ドイツのアウトバーンの影響を受け、内務省は全国的な自動車道路網、いわゆる「弾丸道路」の整備計画策定を開始している。1943年(昭和18年)には東京神戸間の自動車国道建設のための測量、設計などが実施された。しかし、戦時下を理由として、翌1944年(昭和19年)には中止となった。終戦後、焦土となっていた日本に進駐した連合国軍最高司令官総司令部は、軍事的に重要な道路路線を整備することを要求した。連合国軍総司令部は1948年(昭和23年)には、「道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の覚書を出した。これにより、日本政府は道路の維持修繕の五箇年計画を作成し、連合国軍の援助を受けながら、荒廃した道路の路面補修や橋梁修繕などを行った。財政的な制約や、講和条約に伴い1951年(昭和26年)に覚書が失効されたことにより、この計画は完全には実施されなかったが、その後の道路整備事業に大きな影響を与えている。戦後の国道の整備は、1952年(昭和27年)に道路法が全面改正されたことにより、大きく前進することとなった。この新しい道路法では、道路は一級国道、二級国道、都道府県道及び市町村道に分けられ、国道は一級国道と二級国道に分けられることとなった。一級国道は、国土を縦貫し、横断し、又は循環して全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、かつ、都道府県庁所在地などを連絡する道路(第5条)とされ、政令で指定される。なお、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、これは第5条第1号に相当する。二級国道は、一級国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ以下に上げる要件のいずれか(第6条)を満たし、政令で指定される道路とされた。なお、後に第6条は削除されており、二級国道の要件は、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、第5条第1号から第4号に相当する。一級国道は、1952年(昭和27年)12月に40路線(1-40号)が指定された(昭和27年12月政令第477号)。また、二級国道については翌1953年(昭和28年)5月に144路線(101-244号)が指定されている(昭和28年5月政令第96号)。これまでのように東京のみを起点とせず、大正国道の軍事路線のように各都市をそれぞれ起点・終点として直接結ぶ機能的な路線設定となっている。路線番号は、二級国道は3桁とされ、基本的に北の路線から南へ行くに従って数字が大きくなるように採番された(なお、事情が特殊な北海道については最後に回されたため、正確には本州東北地方-中国地方、四国、九州、北海道の順に採番された)。一級国道は1桁乃至2桁とされ、全体的には二級国道同様に北から採番しているが、国の骨格を形成する最重要路線として、東京日本橋を起点に東海道に相当する路線が国道1号、山陽道に相当する路線が国道2号、九州中部を南北に縦貫する路線が国道3号といった具合に採番がなされた。1956年(昭和31年)7月に7路線(245-251号)と1963年(昭和38年)4月には20路線(252-271号)の二級国道の追加指定がそれぞれ施行された。ちょうど同じ時期、二級国道のいくつかの路線が、その重要性が認められて一級国道に昇格し、国道番号も3桁から2桁に改める国道の再編も行われ、1959年(昭和34年)4月とに3路線(41-43号)、1963年(昭和38年)4月には14路線(44-57号)の一級国道の追加指定が施行された。この昇格で空き番号となった二級国道は、国道に指定された新たな道路が当てはめられたが、一部の番号は当てはめられることもなく、そのまま欠番になっている。ところが、昭和40年代にはモータリゼーションの到来で、交通事情の時代の変化にともなって道路の様相が一変し、一級と二級のランク分けをすることが困難かつ無意味になってきたため、1965年(昭和40年)4月には一級、二級国道が統合され、一般国道になった。特に重要な区間は指定区間として国が直轄し、その他の区間は、都府県または政令指定都市が管理を受け持つよう制度も同時変更された。旧二級国道でも、北海道内や高速自動車国道の補助となる国道171号(京阪神)や国道246号(首都圏及び静岡県)などが旧一級国道と同じ直轄指定区間になった。1970年(昭和45年)4月には一般国道となってから初めての追加指定が行われ、57路線(272-328号)が指定された(昭和44年12月政令第280号)が、この時からは北海道、本州、四国、九州の順に採番されるようになった。沖縄県が本土復帰した1972年(昭和47年)5月には沖縄県初の国道指定で、国道58号と国道329-332号が指定された(昭和47年4月政令第116号)。その後は1975年(昭和50年)4月、1982年(昭和57年)4月、平成となってからの1993年(平成5年)4月にも一般国道の追加指定が施行されて、最終的に507番まで採番され現在に至る。(一般国道#路線指定の沿革も参照)なお、1970年(昭和45年)以降に指定された国道は北海道を除き、大半が都府県及び政令指定都市の管理する指定区間外(補助国道)の道路である。1970年以降に指定または経路変更、路線延長された路線ではいわゆる酷道が今なお多数存在する。中国における国道は3桁の番号が振られており、上一桁が異なる4類に分けられる。第一類は「1」から始まる放射状の国道、第二類は「2」から始まる南北方向の国道、第三類は「3」から始まる東西方向の国道、第四類は「0」から始まる「五縦七横」の主幹線である。ロシア連邦には、M1幹線道路(スモレンスク~モスクワ)、M2幹線道路 (ロシア)、M5幹線道路 (ロシア)、M10幹線道路(モスクワ~サンクトペテルブルク)、M60幹線道路(ハバロフスク~ウラジオストク)などの連邦道路(国道)がある。、
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