両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 - 1960年8月10日)は、秋田県仙北郡(現:秋田県大仙市)出身の元大相撲力士。本名は伊藤 勇治郎(いとう ゆうじろう)(旧姓:西村)。まだ肌寒い1892年3月18日に秋田県仙北郡で生まれた。出身地である秋田県に入間川清藏一行が巡業に訪れた際に見出されてそのまま入門、両国国技館が開館した1909年6月場所で初土俵を踏んだ。小兵だが色白で均整のとれた筋肉質な体格は人気があり、さらに足腰の強さから稽古場では大錦卯一郎が相手でも勝てないほどだったという。この恵まれた体質と土俵度胸を生かして順調に出世すると、新入幕を果たした1914年5月場所ではいきなり9勝1休の好成績で幕内最高優勝を果たした。この1休は対戦相手だった寒玉子爲治郎の休場(当時は不戦勝制度が無く、対戦相手が休場すれば自身も休場)だが、この休場は寒玉子爲治郎の負傷や疾病のためではなく、同場所で優勝を争っていた太刀山峯右エ門の対戦相手である出羽海部屋の力士が休場したために太刀山も休場となり、それとバランスを取るためにやむを得ず寒玉子爲治郎も休場としたもので、当時はこれを「土つかず」と言った。1915年1月場所から下の名を由緒ある「梶之助」と改める。名に恥じぬ活躍をと気合を入れて臨んだこの場所は7勝2敗1分の好成績を挙げ、同年6月場所には自己最高位である東関脇に昇進する。この場所は負け越したために一場所で平幕へ降格したが、その後も幕内上位から三役で活躍し、その間に優勝旗手を2回務めた。1924年1月場所を最後に現役を引退し、年寄・武隈を襲名した。引退後は後に横綱へ昇進する武藏山武をスカウトしたが、出羽海と確執が生じたために独立して武隈部屋を設立し、同時に立浪一門へ移籍した。そのために所属力士は出羽海部屋の力士と対戦するという、系統別総当たり制の時代には珍しい状況になった。1960年8月10日に死去、。小兵で色白、さらに怪力で足腰が強く、均整の取れた筋肉質の体格で人気があった。土俵態度を生かして大技を繰り出す豪快かつ派手な相撲を見せ、その取り口は天才肌とも称された。しかし、大技に拘り過ぎで思わぬ敗戦を喫することもあったという。田村俊子も両國にほれ込んでおり、「両國という角力恋して春残し」「両國を 思えばうつら うつらかな」という句を詠んでいる。最大の後援者は、秋田県仙北郡飯詰村の村長江畑新之助であった。
出典:wikipedia
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