日本共産党(にほんきょうさんとう、)は、日本の政党。略称は共産党、共産、JCP。1字表記の際は、共と表記される。所属国会議員数で民進党に次ぐ野党第2党。科学的社会主義を党是とする。当面は対米従属と大企業の支配に対する民主主義革命を、将来的には社会主義的変革を目指すとする。日本共産党の国会議員数は、衆議院議員21名、参議院議員11名で民進党に次ぐ野党第2党である。また、7人の党員地方自治体首長や約2800人の地方議員を抱える。正式な党名は日本共産党。略称は共産党、共産。英語名は Japanese Communist Party。英語略称は JCP。「日共」との呼称は批判的立場から使用される場合が多い。また党本部の住所は千駄ヶ谷だが最寄り駅が代々木駅のため、暗示的に「代々木」と呼ばれる場合もあるが、これは日本共産党(の現執行部)を日本の正統な共産党と認めない新左翼などの他の共産主義者から使用される場合に多い。同様に、数多く存在した「日本共産党」を自称する他の党派と区別するため、特に「日本共産党(志位派)」「日本共産党(代々木派)」などと表記することもある。更には日本共産党の正統性を否定する立場から「日「共」」のように鉤括弧を付けた記載例もある。党章は、一つに合わせられた、民主主義革命・民主統一戦線・国際統一戦線・日本共産党建設をそれぞれ表す4枚の赤旗の上に、農民と労働者を表す、稲穂を通した歯車。2004年に改定された現在の日本共産党綱領(以下、綱領とよぶ)では、現在の日本を「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」と現状認識し、現在、日本で必要な変革は社会主義革命ではなく「民主主義革命」であり、その次の段階で「社会主義的変革」をめざすとしている。これは、いわゆる二段階革命論の一種で、1961年の綱領から続いている。戦前のコミンテルン日本支部として位置づけられた時代に、コミンテルンが日本の君主制廃止を決定した27年テーゼや、「絶対主義的天皇制廃止のためのブルジョア革命を起こし、次いで社会主義革命を起せ(2段階革命論)」と提起した 32年テーゼ、研究によって32年テーゼと同様の認識にいたった日本資本主義論争における講座派の流れを汲んでいるということもできる。批判的な立場からの言及としては、1970年代に1961年綱領をもとに現在の主張と最終的な目標が異なる(反対する政党の幹部は、〈熱海にいくつもりで「こだま」号に乗ったら「ひかり」号で名古屋まで連れていかれる〉というたとえを使った)とする説が提起された。その後、2004年の綱領改定後も依然として二段階革命論は生きており、場合によっては暴力もありうるため警戒すべきだと主張する意見がある。2004年1月の第23回党大会改定の綱領において、日本社会が必要としている変革は社会主義革命ではないとし、「民主主義革命と民主連合政府」が目標として掲げられた。大企業・財界と対米従属の勢力から、日本国民の利益を代表する勢力への権力の移譲を民主主義社会での革命と位置づけ、資本主義の枠内で可能な民主的改革と位置づけている。日本共産党は、現在の日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、以下の民主主義革命であるとしている。以上の民主主義革命によって、日本はアメリカの事実上の従属国の地位から抜け出し、真の主権を回復するとともに、国内的にも国民が初めて国の主人公になる。また、日本は軍事的緊張の根源であることをやめ、平和の強固な礎に変わる。この民主主義革命は、1961年綱領では、「日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――2つの敵に反対するあたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命である」とされ、1994年の綱領までほぼ同一の表現であった。2004年の綱領改定時には「多数者革命」や「議会の多数を得ての革命の路線」との説明がなされた。日本共産党は、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。」として、単独政権ではなく統一戦線にもとづく連合政権をめざしている。また「国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。」としている。この「統一戦線」は歴史的には、1945年の綱領では「いっさいの民主主義勢力の結集による人民戦線の結成」や「正しき実践的目標の下に協同しうるいっさいの団体および勢力と統一戦線をつくり」とされ、1947年の綱領では「広範な民主戦線」、1961年から2004年までは「民族民主統一戦線」と表現されていた。この「民族民主統一戦線政府」は「革命の政府」へ移行するとしていたが、2004年の綱領改定でこの規定は削除された。日本共産党は、当面の民主主義革命の後に、社会主義を支持する国民の合意を前提に、国会の安定した過半数を得て社会主義をめざす権力をつくり、以下の社会主義的変革をめざすとしている。社会主義・共産主義の社会では、「さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。」とし、一党独裁制や指導政党制は採らないとしている。また、ソ連型社会主義の官僚主義・専制の誤りは繰り返さないと強調している。これらは「自由と民主主義の宣言」に より詳しく記載されている。ただし、これらは主に理念的な内容であり、社会主義・共産主義の社会での、憲法、政府、軍備、議会、私有財産制の範囲などの具体的な詳細は記載されていない。日本共産党は、これらは将来の世代が創造的に取り組む課題であり、いまから固定的に決められないとしている。社会主義社会が高度に発展すると、搾取や抑圧を知らない将来の世代では「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」への展望が開かれるとしている。なお、この「社会主義的変革」は、1961年の綱領では「社会主義革命」との表現であったもので、1994年に「社会主義的変革」という表現に変更された。また、「社会主義社会は共産主義社会の低い段階である」とする二段階発展論がマルクス・レーニン主義の定説であったが、マルクス、エンゲルス自身はそういう区別をしていなかったとして二段階発展論をやめ、2004年の綱領改定で「社会主義・共産主義の社会」という表現に変更された。綱領では、日本国憲法を「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた」と評価し、当面の「民主主義革命」では「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」としている。将来の社会主義的変革における憲法に関する記述はない。歴史的には、敗戦直後の大日本帝国憲法下で「天下り憲法廃止と人民による民主憲法の設定」を掲げた(1945年の行動綱領)。現憲法制定時(1946年11月3日)には政党として唯一反対し、日本国憲法公布記念式典に誰一人参加しなかった。国の独立には自衛権と軍事力が必要と表明し、第9条について「われわれは、このような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとって相応しい、また実質的な態度をとるべきであると考える…それゆえに我が党は民族独立の為にこの憲法に反対しなければならない(野坂参三)」と述べている。1961年の綱領では「憲法改悪に反対し、憲法に保障された平和的民主的諸条項の完全実施を要求してたたかう」とした。綱領では、日本国憲法の天皇条項について、「民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」との批判と、「天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された」との評価が併記されている。また、共産党は、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」としている。同時に、「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」と、日本国憲法第1条後段(天皇の地位は主権がある日本国民の総意に基づき決せられる)に遵うとしている。歴史的にみると、日本共産党は敗戦直後の、天皇が日本を統治していた大日本帝国憲法下で「天皇制の打倒、人民共和政府の樹立」を掲げた(1945年の行動綱領)。1961年の綱領では、現行憲法について天皇条項など「反動的なものをのこしている」として、民主主義革命のなかで「君主制を廃止」するとしていた。2004年の綱領改定で現在の方針となった。現在の日本について、日本共産党は、君主制にも共和制にも属さない過渡的な状態との認識を示している。こうした立場から、日本共産党はいわゆる「皇室外交」について「憲法違反」として認めておらず、中止を要求している。また、帝国議会の開会式の形式をそのまま引き継いでいるとして日本共産党の国会議員団は天皇の出席する国会開会式に欠席してきたが、2016年の通常国会(第190回国会)で初めて開会式に出席した。綱領では、「民主主義革命」後に「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とする段階的解消論である。歴史的にみると、1946年には日本国憲法第2章は自衛権の放棄で民族の独立を危うくすると反対していたが、1961年の綱領では自衛隊は「事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの極東戦略の一翼としての役割をおわされている」とし、1961年から1994年までは「自衛隊の解散を要求する」と明記していた。1980年代ごろまでは、対米従属の自衛隊は解消し、その後に改憲を視野に入れて自衛のための組織を持つという武装中立政策であり、非武装論や護憲論ではなかった。その後、日本共産党は1994年の第20回党大会で、現行の日本国憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持)は将来にわたって継承・発展させるべきものであり、社会主義・共産主義の理想と合致したものであると表明した。さらに2000年の第22回大会で、同党の自衛隊政策を、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という「段階的解消論」に転換した。なお、第22回大会では、(1)または(2)の段階で万が一、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定した。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た。2001年12月22日の九州南西海域工作船事件では当初は態度を表明しなかったが、委員長志位和夫は「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である海上保安庁だ。その機能を充実させることは必要だ」と発言し、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。2007年6月には陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し公表した(詳細は"情報保全隊の市民活動監視問題"を参照)。2015年12月18日、埼玉県上尾市の平田通子市議は、陸上自衛隊高等工科学校について、「工科学校は人を殺す練習をする学校」と発言している。日本共産党は綱領で、当面の「民主主義革命」において「議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する」としている。将来の「社会主義的変革」においても、「民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる」としている。なお、日本共産党は1976年に「自由と民主主義の宣言」を発表し、3つの自由として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由、を将来にわたって守ることを公約している。特に、市民的政治的自由については、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展・言論・出版の自由やその他一切の表現の自由・信教の自由・学問の自由・団結権・人身の自由・文化の自由・芸術の自由の擁護と発展・国定哲学の否定・少数民族・個人生活の自由の擁護を宣言している。歴史的にみると、1945年の綱領には「いっさいの反民主主義団体の解散」や「民主主義の敵たる天皇主義御用政党の排撃」とあり、1961年の綱領には社会主義建設の一環として「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」が挙げられていた。1973年に共産党は「ディクタツーラ」の訳語を「独裁」から「執権」に変更し、1976年には「プロレタリアート執権」も削除して、上述の「自由と民主主義の宣言」を発表した。日本共産党は、以下の歳入と歳出の改革によって7兆円〜12兆円程度の財源をつくることができ、さらに日本経済が家計・内需主導の成長の軌道にのれば安定的な税収増が見込めるので、消費税に頼らなくても安心できる社会保障の財源をつくることができると主張している。(1)歳出(2)歳入(1)非正規雇用(2)賃金(3)労働条件(4)就職難の打開(5)失業者への支援社会保障を削減から充実へと抜本的に転換するとしている。(1)医療(2)年金(3)介護(4)障害者(5)貧困対策・生活保護(1)子育てと仕事が両立できる社会(2)子どもの医療費(3)教育費(4)子どもの貧困(1)「間接差別」を全面的に禁止する(2)女性も男性も利用できる育児休業制度の推進(3)労働者への残業規制、長時間労働の是正(4)女性の貧困問題の解決をはかる(5) 選択的夫婦別姓制度の実現(6) 女性の登用日本共産党は、教育格差、競争や管理などのゆがみをただし、子どもたちが「わかった!」と目を輝かす授業、子どもの声をじっくり聞いてあたたかく接する先生-そんな教育が全国どこでもおこなわれるようにするとしている。(1)教育費の負担軽減(2)教育条件(3) 教育の自由と自主性、子どもの豊かな成長(4)競争・ふるいわけ教育(5)教育の制度と法律(1)農業における価格保障と所得補償(2)後継者確保(3)貿易ルール(4)予算(5)食の安全(1)二酸化炭素の削減(2)自然エネルギーの活用(3)原子力発電(1)選挙制度(2)議員定数(3)「国会改革」日本共産党は永住外国人に対する外国人参政権付与問題について、選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきであると、地方参政権を付与すべきとの積極的な立場を表明している。在日本大韓民国民団の新年会に出席し志位和夫委員長は緒方靖夫副委員長(国際局長)、小池晃参院議員(政策委員長)、井上哲士参院議員と共に「歴史の真実を日韓での共有が友好の基礎であり、日本共産党はそうした立場で活動しています」と述べ、地方参政権については、「日本共産党は永住外国人に選挙権だけでなく被選挙権も付与する立場でがんばっています」と述べ、一日も早い立法のために努力すると約束した。あいさつ最初と最後を韓国語で締めた。永住外国人には(地方参政権において)選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきと在日本大韓民国民団の新年会に出席した際に述べた。。但し、国政についての参政権付与については「国家主権に反する」として反対している。日本共産党は「千島問題」(北方領土問題)では、北方4島だけではなく、得撫島や占守島を含む千島列島全島の返還をロシア連邦に求めている。理由は、南千島(北方領土)に関しては、1855年に結ばれた日魯通好条約により、北千島に関しては1875年に結ばれた樺太・千島交換条約によって「平和的な領土交渉」が行われた結果、千島列島全島が日本に帰属したと同党は認識しているからである。また日本国との平和条約の第2条(c)にもとづいて日本国政府が千島列島の権利を放棄したことに対しては、戦後処理に問題があったとして、誤りを正すべきだとしている。一方樺太(サハリン)は南北ともにロシア領であると主張している。なお千島列島全島の領土権を主張しているのは日本の主要政党では日本共産党のみである。佐藤優による次の主張を産経新聞が報じている。日本共産党の領土に関する主張とは、サンフランシスコ平和条約2条c項の破棄による千島列島返還を実現すべきという意味であり、つまり、千島列島は樺太・千島交換条約で合法的に日本領となったが、南樺太は日露戦争によって日本が獲得したのでロシア領であるとする歴史観に基づくものである。共産党の主張は非現実であり、「22島返還要求でナショナリズムを煽(あお)りながら、実現性のない主張で国民を惑わそうとしている。」。日本共産党は、竹島問題では、日本に竹島の領有権があるという政府の主張は根拠のある正当なものだとしている。その上で「韓国は竹島の一方的占拠を中止せよ」と唱え、日本と韓国の話し合いを主張している。ただ、1905年の大日本帝国の領有宣言に関して、当時の大韓帝国が大日本帝国により事実上外交権を奪われており、日本による領有に反対を唱えることができなかったことは考慮すべきであると主張している。日本共産党は尖閣諸島問題では、1972年に尖閣諸島は「日本の領土であることは明らかである」との党見解を発表し、現在まで一貫してその立場を変えていない。理由は、日本が占有する前の尖閣諸島は国際法上でいう「無主の地」であったために日本政府が1895年1月14日の閣議決定で日本による尖閣諸島の日本領への編入行為を行ったことは、「日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった」と認識しているからである。また中国と台湾の領土権主張に関しては、1969年に国連アジア極東経済委員会の報告で尖閣諸島に莫大な地下資源が眠っていることが明らかになってから、初めて領土権を主張しているのは明らかであるために、中国及び台湾の主張には正当性がないという見解である。2010年9月4日の尖閣漁船衝突事件では直後に、尖閣諸島は日本固有の領土であるという従来の党見解を改めて発表した。中国政府に対しては、「今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうこと」を求めた。10月4日には日本政府に対し「日本の領有は歴史的にも国際法上も正当だ。政府は堂々とその大義を主張すべきだ」とする提言書を志位委員長が官邸で仙谷由人官房長官に手渡した。またその提言書を英訳して各国の在京大使館に配布することを表明するなど積極的な活動を行っている。パチンコ店内にATMが設置されていることについて警察が黙認し規制措置をとっていないことやパチンコに負けた客がパチンコ店内で現金を引き出して被害を受けている問題を追及している。パチンコ店内にATM設置を推し進めてきた農林中央金庫は日本共産党の強い批判を受けて設置を取りやめるようになった。パチンコ・チェーンストア協会の顧問を務める国会議員達がパチンコを合法化しようとする動きに対して強く批判している。また、カジノ合法化や地方自治体のカジノ誘致の動きに対しては、かねてから強く反対している。人権侵害救済機関設置法案に批判的な立場をとっている。また、同和問題の解決のために税金から部落解放同盟への補助金や海外旅行費用などがなされている問題について、共産党が有力な自治体などでは職員に代わり交渉の前面に立つなどして予算廃止を打ち出すなど強い姿勢で臨んでいる。同和団体への法令に基づかない公金支出についても調査から裁判にいたる活動を行っている。18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認め、なおかつ規定の入党費を納めた人が党員となることができる。戦前のコミンテルン時代は一国一共産党の原則により台湾や朝鮮も活動範囲としたこともあり、阪神教育事件でも分かるように戦後しばらくまで在日韓国・朝鮮人や中国大陸系華僑・台湾系華僑の党員も多数在籍していた。このうち、中国大陸系華僑は中国共産党に取り込まれ、朝鮮系は1955年(昭和30年)の朝鮮総聯結成と同時に多くが事実上移籍する形で離党。残った者も1966年(昭和41年)の第10回党大会で規約に「日本人であることが党員の資格」と明記されたのを受け、日本への帰化を選択した者以外は離党に追い込まれた。党員は、党の組織に加わって活動し、規定(収入の1パーセント)の党費を納める(規約第4条)。2010年(平成22年)の第25回党大会時は約40万6千人の党員がいたが、、2012年(平成24年)5月までに実態のない党員約9万人に離党措置をとった結果、同年5月1日現在で約31万8千人となっている(第4回全国活動者会議幹部会報告)。党費納入者は政治資金収支報告書から、およそ25万4000人と推定される。党員の権利と義務として、党規約第5条は以下の10項目を列記している(抜粋)。中央機関紙(「しんぶん赤旗」)を「読む」(「買う」ではない)ことは2000年(平成12年)以前の旧規約では重要な義務だった。現在は規約上の義務ではないが、党費納付・支部会議への参加・学習努力と活動参加に加えた「4つの大切」の一つとして重視される努力目標である。入党希望者は、党員2名の推薦をうけ、入党費(2014年10月現在は300円)をそえて申し込む。入党手続きは、支部で個別に審議したうえで決定し、地区委員会の承認を受けて完了する。ただし、地区委員会以上の指導機関も直接入党を決定することができる。なお1966年(昭和41年)の第10回党大会から1980年(昭和55年)の第15回党大会までは、入党費納付後最低5か月間の党員候補期間を経た上で、支部での審査と地区委員会の承認手続きが行われることになっていた。審査の際に、「著しく反社会的で、党への信頼をそこなう人」とみなされた場合、上記の年齢、国籍および規約・綱領の承認という要件を満たしていても入党できない(第6条)。これは上の第5条に定められた、市民道徳と社会的道義をまもるという党員の義務に対応した規定であり、党員2名の推薦にはそのような人物の入党を防止するという狙いがある。他党に所属しつつ日本共産党員になること(重党籍)はできない(第7条)。他党の元党員が入党することは可能であるが、その場合、都道府県委員会または中央委員会の承認が必要となる。2000年以前の旧規約では「推薦人となる党員2名のうちどちらか1人が党歴3年以上で都道府県委員会、移籍する本人が前の所属政党で幹部だった場合は1人が党歴5年以上で中央委員会の承認」(第13条)が必要とされ、現在より厳格であった。他党出身の共産党員としては、日本社会党から移籍した深沢義守などがいる。党籍長期継続者には「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)といった表彰制度がある。党歴の計算には、日本共産党に合流する前の沖縄人民党の在籍期間も通算するが、あくまでもこの間の党費を完納、なおかつ党の活動に参加し続けていることが前提となる。途中で党費の減免を受けていたり、10条該当党員となった期間がある者は、入党以来所定の期間を満たしても永年党員になれないことがある。著名な長期党歴者には、俳優の花沢徳衛(50年党員)、教育評論家・労働運動家の三上満(50年党員)らがいる。中央委員を20年以上務めた党員については、中央委員会から名誉役員に選出されることがある。また、都道府県委員会・地区委員会でも、名誉都道府県委員・名誉地区委員・顧問など、各組織が独自に名誉役員を選出することがある。党組織は、規約第4条に定める党員の資格を明白に失った党員、あるいは著しく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員は、調査・審査のうえで、除籍することができる(第11条)。除籍にあたっては、本人と協議することが原則だが、党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、行わなくてもよいとされる。伊里一智は東京大学大学院在学時、日本共産党中央委員会議長を務めていた宮本顕治の辞任を要求したが志位和夫の働きによって第11条によって除名された。なお後述の「10条該当党員」になった者は、支部からの離党勧告に応じない場合、除籍措置を行うことがある。1994年(平成6年)の第20回党大会で規約が改正される前は、10条該当党員の整理は一律除籍となっていた。また1980年(昭和55年)以前は、活動に参加しなくなってから6ヶ月が経過した時点で協議なしに除籍することも可能だった。除籍は、基本的に一級上の指導機関の承認を受ける。なお、除籍された人が再入党を希望するときは、支部・地区委員会で審議し、都道府県委員会が決定する。ただし、中央委員会や党大会をもってしても覆せないこともある。除籍は単なる党員資格喪失者の党籍を抹消することであって、規律違反者を対象とした「処分」とは別の措置である。しかしながら除籍は、最も重い処分である「除名」と、党員を党から除くという点で同じ効果をもつ。また、除籍は規約と綱領を明白に否定する立場に立った党員も射程に入れることもあり、両者は混同されやすい。この問題は理論部門担当の副委員長浜野忠夫も指摘しており、実際に論文の中で両者を区別して使うように注意を促したことがある。「処分」の場合は、中央委員会および党大会にまで上訴することができる(後述)が、除籍の場合はそれが認められていない。中央委員会が党大会で決定するまでもないとの理由で事実上除名に準じる形の除籍措置を行った場合は、党大会で執行部側の提案により新たな決定をしなければ覆すことができない。党員はいつでも、本人の意思により離党することができる。離党するときは、支部または党の機関に、その事情を述べ承認を求める。支部または党の機関は、その事情を検討し、会議にはかり、離党を認め、一級上の指導機関に報告する。ただし、党規律違反行為を行っている場合は、それにたいする処分の決定が先行する(第10条)。また、1年以上党活動に加わらず、かつ党費を納めない党員で、その後も党組織が努力を尽くしたにもかかわらず、党員として活動する意思がない場合は、本人と協議した上で、離党の手続きを取ることができる(同条後段)。このような実態のない党員は「10条該当党員」と呼ばれている。党員が規約とその精神に反し、党と国民の利益を著しく損なうときは規律違反として処分される(第48条)。処分は軽い順に、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、除名の4段階に分かれている(第49条)。権利停止の期間は1年を超えてはならない。一般に党員の処分は、その党員の所属する支部の党会議、総会の決定によるとともに、地区委員会の承認を得て確定される(第50条)。中央、都道府県、地区委員会の委員、准委員に対する権利停止以上の処分は、その委員会が3分の2以上の多数決によって決定し、地区・都道府県は1級上の指導機関の承認をうける。この処分は、次の党会議(党大会)で承認を受けなくてはならない(第51条、第52条)。規律違反の処分は、事実に基づいて慎重におこなわなくてはならない(第49条)。また規約は、党機関が処分を適正に下せるよう、処分を受ける党員に、その手続きに参加する権利を保障している。すなわち、処分の審査・決定のさいは、原則、所属組織は処分をうける党員に十分意見表明の機会を与えなければならず、処分が確定されたならば、処分の理由を、処分された党員に通知する(第55条)。処分を受けた党員は、その処分に不服であるならば、処分を決定した党組織に再審査をもとめ、また、上級の機関に訴えることができる(同条)。以上は規律違反の処分の事前手続きおよび再審についての一般規定であるが、最高の処分である除名は、もっとも慎重におこなわなくてはならない(第54条)ため、特別に規定がある。党員の除名を決定し、または承認する場合には、関係資料を公平に調査し、本人の訴えをききとらなくてはならない(同条)。また、被除名者が処分に不服な場合は、中央委員会および党大会に再審査を求めることができる(第55条)。事実関係の調査から処分の確定にいたるまでに、被処分者から事情聴取と弁明が、指導機関との面談による質疑応答の形でおこなわれる場合、それを党内では「査問」と呼ぶこともあった。党員の権利と義務の中に「党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる」(第7項)とあるように、共産党は党員の教育・学習を重視している。党員教育システムは大きく、講義や学習会などの「集団学習」と個人で自習する「独習」に分かれ、前者の中心となる党員講師の理論的力量を確保するために講師資格試験が1967年(昭和42年)より実施されている。講師は教育を行う党組織の級に対応して4段階に分かれている。独習については、かつては効率よく科学的社会主義や日本共産党の理論を学ぶために、党中央が指定した文献のリストである独習指定文献が設けられた。文献は難易度に応じてランク付けされており、党綱領や規約、党史など党関連文献およびカール・マルクス『資本論』やウラジーミル・レーニン『帝国主義論』などマルクス主義の古典が採用された。こちらは党勢拡大が本格化する1962年(昭和37年)にはじまり、時代の趨勢に応じて文献も差し替えられたが、2001年、固定的な独習指定文献制度は流動的な現在に合わなくなったとして廃止された。現在は各機関紙誌などで随時文献を紹介し、学習を呼びかけている。中央委員会は党員教育・学習を司る部署として学習・教育局と中央党学校を党建設委員会の下に常置し、理論学習専門の機関誌『月刊学習』(1961年創刊)を発行している。講師資格試験の試験問題もこれに掲載される。日本共産党は職場、地域、学園につくられる支部を基礎とし、基本的には、支部――地区――都道府県――中央という形で組織される(規約第12条)。基本的には個々の党員が所属し、日常的な党生活を送る組織は支部であるので、支部は党の基礎組織と位置づけられている(第38条)。その上で、国会議員団、地方議員団および党外組織の常任役員でつくる「党グループ」等、支部以外の特殊な基礎的組織が、組織体系を補完している。これらは相応する指導機関の直接指導下にある。地区以上の指導機関の役員や何らかの特殊事情のある党員など、例外的に上級組織に直属する党員もいる。各級組織におかれている機関には、組織の最終的な意志を決定する機関(議決機関)たる「最高機関」と、その決定の実行に責任をおう機関(執行機関)である「指導機関」の2種類があり、これらを総称して党機関という。最高機関として、中央では党大会、都道府県では都道府県党会議、地区では地区党会議、支部では支部総会がおかれ、地区以上の各最高機関を構成する代議員は1級下の最高機関より選出される。支部総会は支部に属する党員が出席する。指導機関には上記の最高機関に照応して、中央委員会、都道府県委員会、地区委員会および支部委員会または支部長がある。地区委員会および都道府県委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、必要に応じて、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。その任務は、自治体活動やその地域・経営・学園での共同の任務に対応することにあり、指導機関(地区、都道府県委員会)にかわって基本指導をになうことではない。補助指導機関を設置するさいには、1級上の指導機関の承認を必要とし、構成は、対応する諸地区委員会および諸支部からの選出による。指導機関の構成員(役員)は当該級の最高機関が選挙によって選出する。役員に選出される資格として2年以上の党歴が必要である。役員候補者は最高機関の選挙人が自薦を含めて自由に推薦できるほか、指導機関が次期委員として推薦する(第13条)。選挙方式には大選挙区完全連記制が採用されている。党組織には、上級の党機関の決定を実行する責任がある。その決定が実情にあわないと認めた場合には、上級の機関にたいして、決定の変更をもとめることができる。上級の機関がさらにその決定の実行をもとめたときには、意見を保留して、その実行にあたる(第16条)。たとえば、都道府県委員会の決定に対し、指導下にある地区組織および支部は、それに反対している場合でも、都道府県委員会が認めなければ、実行にあたらなければならない。また、全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない(第17条)とされ、行動のみならず意見の公表にも制限が加えられている。このように上級の決定が下級の言論活動を含む実践一般を強く拘束する一方で、党規約は党機関が決定にさいして、党組織と党員の意見をよくきき、その経験を集約、研究することを要求する(第15条)。また、党員と党組織の側にも、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映させることを求めている。以上、第15〜17条は党規約第3条に組織原則として示された民主集中制の内容を組織運営一般の次元で明らかにしたものである。都道府県機関と地区機関は地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、自治的に処理する(第17条)。ただし、中央委員会は地方党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる(第21条第7項)。また、都道府県委員会も同様にして、地区党組織に必要な助言をおこなうことができる(第31条第5項)。このような権限・権利を地方党の「自治権」と呼ぶこともある。党大会は党(中央組織)の最高機関である("詳細は「日本共産党大会」を参照")。原則として2年から3年に1回開くが、特別な事情のもとでは、中央委員会の決定によって、党大会の招集を延期することができる。また、中央委員会の決議や3分の1以上の都道府県党組織の要求によって臨時党大会をひらくこともできる(第19条)。党大会は都道府県党会議の選出する代議員と党大会を召集した中央委員会構成員(前回大会が選出)からなる。党規約第20条は党大会のおこなうことを、(1)中央委員会報告の確認、(2)中央委員会の提案議案の審議・決定、(3)綱領・規約の改正、(4)中央委員の選出、の4項目に定式化している(要旨)。中央委員会は、党大会からつぎの党大会までの党の指導機関である("詳細は「日本共産党中央委員会」を参照")。党大会決定の実行に責任をおい、対外的に党を代表し、全党を指導する。現在は計200名弱の中央委員と准中央委員から構成されている。任務は規約第21条が、(1)対外代表と全党指導、(2)中央機関紙、(3)国際・全国的問題、(4)方針と政策の徹底と実践、(5)理論活動(科学的社会主義)、(6)幹部政策、(7)地方党組織への助言、(8)財政の8カ条に定式化している(要旨)。中央委員と准中央委員はどちらも党大会で選挙によって選出される。その際、中央委員会は候補者を推薦する。代議員(選挙人)も自由に候補者を自薦も含めて推薦することができるが、前例は少ない。2010年1月の第25回党大会では、中央委員会が候補者として中央委員162人、准中央委員35人を推薦し、投票の結果、163人の中央委員と35人の准中央委員が選出された。内部には権限の大きさと任務の内容にしたがって中央委員会総会、幹部会、常任幹部会(他の共産主義政党・団体における政治局に相当)等の合議制機関が階層的に配置されている。中央委員会総会(年2回以上開催)を最高決議機関とし、常任幹部会や書記局、中央機関紙編集委員会などが日常的な指導や事務をつかさどる。書記局は政策委員会や国民運動委員会、中央委員会付属社会科学研究所(所長:不破哲三)、出版局など、さまざまな部署に分かれた中央委員会の内部機構を統括している。総会から総会のあいだ中央委員会の職務をおこなうのは幹部会で、幹部会の職務を日常的に遂行するのは常任幹部会である。したがって、中央委員会の日常的任務をになう機関は常任幹部会ということになる。常任幹部会は毎週開かれる。党規約は最高職を明記していないが、一般的には中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役として、とくに幹部会委員長は党首として扱われている(現在の具体的人事は#現在の執行体制を参照)。都道府県組織の最高機関は都道府県党会議、指導機関は都道府県委員会である。都道府県委員会は、都道府県党会議決定の実行に責任をおう。党規約第31条は党委員会の任務として以下の6項目を列記している(抜粋)。都道府県委員会の最高決議機関は都道府県委員会総会で、すべての都道府県委員と准委員から構成される。都道府県委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、都道府県委員会総会からつぎの総会までのあいだ、都道府県委員会の職務をおこなう(第32条)。都道府県委員会は、大都市など、いくつかの地区にわたる広い地域での活動を推進するために、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。また、経営や地域(区・市・町村)、学園にいくつかの支部がある場合も補助的な指導機関をもうけることもできる。これら補助指導機関の設置には中央委員会の承認が必要である。東京都23区では特別区を単位に細かくおかれている一方で、人口・党員の少ない都道府県では、県土を2 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3つにわけた程度の広範囲を管轄する地区組織もある。たとえば、島根県は、東部、西部、中部の3地区に分轄されている。地区組織の最高機関は地区党会議、指導機関は地区委員会である。地区委員会は、地区党会議決定の実行に責任をおう。党規約第36条は党委員会の任務を都道府県委員会に準じた内容の6項目に整理している。地区委員会の最高決議機関は地区委員会総会で、すべての地区委員と准委員から構成される。地区委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、地区委員会総会からつぎの総会までのあいだ、地区委員会の職務をおこなう(第37条)。地区委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、補助的な指導機関をもうけることもできる(第18条)。設置には都道府県委員会の承認が必要である。職場、地域、学園などに、3人以上の党員がいるところでは、支部をつくる。支部は党の基礎組織であり、それぞれの職場、地域、学園で党を代表して活動する(第38条)。かつては「細胞」と呼ばれていた。1人の党員が複数の支部に重複して所属することはない。支部の数は2010年現在、およそ2万2000おかれている。2006年1月の第24回大会の2万4000からおよそ2000支部減少した。この間党員数は微増している。職場にもとづいてつくられる支部は「職場支部」、地域で結集する支部は「居住支部」ないし「地域支部」、大学など学園の学生で組織されるものは「学園支部」などと呼ばれる。共産党支部は、他の日本の政党には見られないほど多く組織され、都市部の居住支部はとくに身近に存在し、このことが同党を大衆政党(組織政党)として特徴づけている。支部の最高機関は支部総会、指導機関は支部委員会である。ただし、党員の少ない支部は支部長を指導機関とする。支部総会はすべての党員から構成され、支部委会員ないし(指導機関としての)支部長を選出する。支部委員会はその内部機関として、支部長を選出する。支部には必要に応じて、副支部長をおいたり、下部組織としての班をもうけたりできる。班には班長をおく。例外だが、状況によっては、社会生活・社会活動の共通性(階層)にもとづいて支部をつくることができる。現在は青年という年齢層にもとづいて組織される「青年支部」、複数の学校にまたがる「学生支部」(学園支部は同じ学校で組織されるので区別される)がある。党員が3人にみたない地域・職場・学園では、党員は付近の支部にはいるか、または支部準備会をつくる。議員や候補者個人の後援会はつくらない方針をとっており、すべて党後援会となっている。党後援会員は380万人以上である。党支部に対応する「単位後援会」と、各階層・大衆運動ごとにつくられるものの2種類に大別される。「日本共産党後援会全国連絡会」「日本共産党・全国業者後援会」「日本共産党全国女性後援会」「日本共産党全国農業・農民後援会」の4つの全国組織がある。個人名(候補者名)を冠した個人後援会を組織した時期もあったが、1980年の第15回大会が「後援会を日常不断に活動する恒常的な組織として大きく発展させ、「特定の候補者だけの支持活動でなく、各種の選挙で共産党の議員候補者を支持して連続的にたたかえる、共産党後援会的な機動性をもった組織」として確立することを」決議し、以後、個人後援会は党後援会に再編にされた。日本共産党は党規約で政治資金を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定している(規約第45条)。日本共産党規約の第45条から第47条よりなる第10章(資金)が党財政の通則にあたる。内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入である。企業・団体献金と政党助成金は受取りを拒否している。支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめる。このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達している。一般に、日本の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いが、日本共産党の議員は党が政治資金を支えている。産経新聞は、神奈川県逗子市、川崎市、座間市、福岡県行橋市といった自治体で日本共産党の議員らが「しんぶん赤旗」の勧誘・配布・集金を行っている、と報道している。また、橋下徹大阪市長は日本共産党が政党助成金に反対していることを「きれい事」「全国の役所が購入してすさまじい額のお金を払っている。政党助成金そのものだ」と述べている。政治資金収支報告書(2011年3月28日宣誓)によると、2010年の収入(前年からの繰入を除く)は約237億4600万円、支出(翌年への繰越を除く)は232億4200万円であった。収入の内訳は、党費が約8億2100万円(約3.46%)、寄付が4億4400万円(1.87%)、事業収入が208億6700万円(87.88%)、借入金が100万円(0.00%)、「本部又は支部から供与された交付金に係る収入」が13億2200万円(5.57%)、利息や地代・家賃など「その他の収入」が2億9100万円(1.23%)であった。寄付は全額が個人から。事業収入のうち、機関紙誌は205億3600万円で、全収入比でおよそ86%を占める。支出(翌年への繰越を含む)の内訳は、経常経費が約37億8400万円、政治活動費が205億2200万円(うち、「本部又は支部に対して供与した交付金に係る支出の内訳」が76億6300万円)となっている。機関紙誌の発行事業費は政治活動費に含まれ、148億8100万円と支出全体の64%を占める。なお、政治資金パーティー開催事業費は支出していない。このように、機関紙活動を中核とし、企業・団体献金や交付金を排除した財務構造について、共産党は「国民と草の根で結びついて活動していることの反映であり、他の政党とまったく異なるわが党の財政の健全さをしめすもの」であると肯定的に評価している。党費は、実収入の1パーセントとし、月別、または一定期間分の前納で納入する。失業している党員、高齢または病気によって扶養をうけている党員など生活の困窮している党員は、党費を減免できる(第46条)。日本民主青年同盟の同盟員として活動している党員は、納入する党費から同盟費(550円)を差し引いた額を納める。2010年は延べ数で約300万人が党費を納めた。中央委員会、都道府県委員会、地区委員会は、それぞれの資金と資産を管理する(第47条)。規約第47条に対応し、各級組織の「財政活動の処理と指導」が、当該級指導機関の任務のひとつに規定されている(第21条第8号、第31条第6号、第36号第6号)。なお、支部には党費を集める任務がある(第40条第3号)。中央委員会には財務部門として、書記局のもとに「財務・業務委員会」が設けられている。同委員会は一般的な意味での財務のみならず、赤旗など機関誌紙発行事業の総務も所掌している。委員会の前身は第24回大会(2006年)期までは「財務・業務局」という独任制の部署であった。第25回大会時(2010年)に常任幹部会は、財務・業務委員会の責任者に、財務・業務局長の上田均(常任幹部会委員)を引き続き任命した。委員会には事務局と財政部、機関紙誌業務部、管理部、厚生部、赤旗まつり実行委員会がある。上田は政治資金収支報告書に記載される会計責任者を兼ねる。会計監査は中央委員会監査委員会が行っている。企業献金については、「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。ただし、企業経営者からの個人献金は受け取っている。政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、日本共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられるはずの政党交付金は他党に配分されている。日本共産党は機関紙活動を党活動の中心に据えており、「しんぶん赤旗」を筆頭にさまざまな機関紙誌を発行している。それらは誰でも購読する事ができる。中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。非党員の支持者の読者も多い。第25回大会(2010年1月)で中央委員会は購読者数の現勢を日刊紙、日曜版あわせて145万4千人と報告している。うち、日刊紙は2011年7月に24万部であると第3回中央委員会総会で明らかにされた。中長期的な購読者数の趨勢は第15回党大会(1980年)時の355万部をピークに一貫して、減少傾向を示している。1980年代のうちは300万部以上を維持していたものの、1990年(第19回大会)に1987年より30万部近く減らして286万部と報告された。さらに10年後の2000年には199万余に後退し、2006年1月(第24回大会)の164万部を経て、2013年10月末時点では前述の123万部にいたった。この23年間で通算すると、ほぼ半減の163万減となる。雑誌には『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』の4つの月刊誌があり、日本国内ではいずれも一般の雑誌書籍の流通ルートから手に入る。かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあった。1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」している。都道府県委員会など地方組織の指導機関が編集・発行する地方機関紙もある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が多い。京都民報社の『京都民報』や大阪民主新報社の『大阪民主新報』など、他大衆団体との共同機関紙というコンセプトから、党外団体を発行主体とする場合もある。その他、地方議会議員(団)の広報紙がある。新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及・宣伝に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。かつては同様の普及協力誌に、総合月刊雑誌の『文化評論』や『あすの農村』、『労働運動』、『科学と思想』(年2回刊)があったが現在は休刊・廃刊している。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』(月2刊)の購読の仲介もしている。過去には民青同盟の『われら高校生』、学生新聞社(所在地は新日本出版社とおなじ)の『学生新聞』や、小中学生向けの『少年少女新聞』(少年少女新聞社)も普及していたが、現在は休刊・廃刊した。日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。中央委員会の入居する日本共産党本部ビルは東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目26-7にある。正面入口の反対側を東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線、東側を明治通りが通る。最寄り駅としては、原宿駅、代々木駅、北参道駅の3駅であり、代々木駅前には東京都委員会事務所がある。地上11階、地下1階の「1期棟」(北西側)と地上8階、地下2階の「2期棟」(南東側)から成り、両棟を地上3階建ての低層基壇が連結し、これを通じて行き来できる。延べ床面積は約1万6500m²で、日本の政党本部ビルとしては自民党をしのぎ最大である。2000年から着工し、2005年に竣工した。総工費は85億円、うち45億円を党の積立基金が負担し、残り40億円を寄付や無利子借入金とし、順調に集まった。設計・監理責任者は地域建築空間研究所所長の小林良雄。なお、中央委員会の機関でも「しんぶん赤旗編集局」は明治通りを挟んで東側の「ASビル」に、あかつき印刷とともに入居している。戦後の合法化により、現在と同じ場所にはじめて公然本部を構えた。1960年の党勢拡大に伴い、増築と周辺不動産の買取りを進め、1970年には8棟の建物が林立する複雑な形態を完成させた。耐震性に不安が生じたことから1998年に中央委員会は現行の本部ビルへ全面建て替えすることを決定した。党最大の施設で、静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2km(徒歩30分)の山頂付近()にある。1963年着工。面積約4万5千平方メートル。東京ドーム(約4万7千平方メートル)に匹敵する敷地に学習施設など8棟。科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党中央学校」(2014年時点で、党中央学校の「卒業生」は志位和夫委員長はじめ1万人を超える)などが開かれる他、党大会(1977年10月の第14回から)が付属大講堂で開催される。それまでの党大会では目黒公会堂など都内の公共施設を借りて会場にしていた。現在は大講堂の床下にある25メートル6コースのプールで、水を抜いたプールの上に板を敷き、イスを並べて行う。プール自体は数年前から維持管理コスト削減のために利用されていない。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。不破哲三によれば開設当時は「建物はできていたが、庭などはまだ完成しておらず、“労働しながら学習する”を合言葉に池を掘ったり樹を植えたり、庭づくりを学生がみんなでやったのです。岩や樹とかも各県の名産を寄せてもらったりしました」という。温泉はひかれていない。約150人収容の宿泊施設には党大会開催中、幹部団と事務局員が3連泊する。一般党員は2段ベッド式の4人部屋を利用するが、志位ら最高幹部には個室が用意される。ただし、食堂のメニューは「平等」と説明されている。都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。都道府県委員会の事務所は都道府県庁所在地にあるのが一般的だが、山口県委員会の事務所だけは山口市ではなく、吉敷郡小郡町にあった(現在は編入合併により山口市となっている)。1922年7月15日、堺利彦・山川均・荒畑寒村らを中心に日本共産党が設立(9月創立説もある)され、一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。11月にはコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結・出版・集会・ストライキの自由、当時の軍隊・警察・憲兵・秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮・中国・台湾・樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転
出典:wikipedia
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